雨天の都 3








驚くほど寒い日だった。


もう春を過ぎて随分経つというのに、吐く息が白い。
梅雨時特有の気紛れな天は、その日、氷の様な雨を降らせた。


(うわ、寒・・・)



イルカは、身を切る様な寒さの中、厚手のジャンパーを着込んで出勤した。
外に出ると、気道に入った冷たい空気に思わず噎せる。




けほ、けん けん、


――――――ここ数日、体調が思わしく無い。
理由は明らかだ。この雨の中、濡れた身体を碌に暖めもせず、水場で事に及んでしまったのだから。


・・・だが、自分は元来、そんなに柔ではない。
――――きっと、この沈んだ気持ちも関係しているのだろう。


はぁ、と漏れた溜息を、凍えた手に吹きかける。

(手袋、出しときゃよかった・・・)





まずいなぁ、

頬が僅かに 熱い気がする。





イルカは天を見上げた。
黒い傘に当たる雨が、常とは異なる音を立てている。


――――――霙、か・・・!


寒い筈だ。まさか初夏を目前にして、霙に会おうとは。

「参ったな・・・」

この分だと、今日予定していた水遁の実習は延期せざるを得ない。


イルカは、今後の算段を手早く頭の中で纏めた。
だが、心なしか頭がぼうっとし、気を抜くと考えが散漫になる。
ぶるぶると頭を振ると、あろう事か眩暈を覚えた。
同時に、脳裏に浮かんだのは、銀色の上忍。






―――――カカシさん・・・



彼が次に帰って来るのは、早くて三日後。
最近、目に見えて任務の数が増えている。
しかも、Aクラス以上の厄介なものが立て続けに舞い込んでいるのを、受付業務にも就くイルカは知っていた。
それが、他里の厄介な政治問題に絡んでいることも。


・・・彼は、この霙の中、苦心してはいないだろうか。


ふと浮かんだ考えに、思わず唇を噛んだ。


何を考えてるんだ・・・そんな感情、抱かないと決めただろう。



数日前の、カカシとの情交を思い出す。 彼の優しい態度や温かな言葉、それとは対照的に、酷く傷付いた寂しそうなあの瞳。
何度も何度も、愛していると囁かれた。
それが只の睦言だと判っていても
・・・溺れてしまいそうだった。彼の、優しさに全てを忘れて縋りついて、
一時でも良い。
まるで、彼が自分しか見ていない様な、甘やかな錯覚、その幻想に浸っていたかった。





振り切るように、ぐっと眼を閉じてイルカは歩き出す。

忘れろ、忘れろ。
そんな一時の夢に縋るのは、もう止めろ。
これ以上、傷つかない為に。




イルカは、今日の授業の内容を考えることに没頭し、アカデミーへと歩みを速めた。

















予定していた実習を急遽授業に変更し、午前中教壇に立ち続けたイルカは、 昼に掛かる頃になって漸く 自分の体調の悪さを実感した。
身体がふらついて、上手く平衡が保て無い。
同僚に引き摺られて保健室に寄ってみると、かなり熱がある様だった。
しかし猶、頑として午後の受付にも出られると言い張ったイルカに、

「お前はいつも頑張り過ぎなんだよ!たまには 他人の親切も甘んじて受けろっ!!」

・・・と同僚が一喝し、イルカは渋々ながらも午後の業務を友人に頼み 申し訳ない気持ちで早退させて貰う事となった。



同僚の気遣いは有難かった。帰る道すがら、いよいよ酷くなってきた眩暈に、熱い息を吐きながら帰路を急ぐ。
基本的に人出が足りず、交替などは難しいアカデミー業務に於いて 自分の時間を削って助けてくれた友人を思い、

(今度、何か奢らせて貰おう・・・)

そう、ぼんやりと考えていた時。







―――――どこかで、すすり泣く様な声が聞こえた。



「・・・?」

驚いて、神経を耳に集中させる。子供の声だ。
どうやら、道脇の森の中から聞こえているらしい。
こちらは、水遁の授業に使おうと思っていた「不忍池」という演習場がある場所だ。


不意に気になって、イルカは道を逸れて森へと踏み入った。
不忍池に近付くにつれ、鮮明になる泣き声。その声の主に、イルカは気付いた。


「――――お前・・・」

「イル・・・カセンセイ・・・?」



池の淵で泣いていたのは、イルカの受け持つクラスの悪戯っ子であった。
つんつん跳ねた焦げ茶の髪が、すっかり雨で濡れそぼっている。 しゃくり上げながら見上げてくるその子の体は、寒さで小刻みに震えていた。
イルカは慌てて歩み寄り、傘を差しかけてその子の傍にしゃがみ込む。

「いったいどうしたんだ!こんなにびしょ濡れになって・・・演習場の近くは危ないから、近寄るなって言ってあるだろう!?」

イルカは慌てて荷物を探り、持っていたタオルでその子を包んでやる。
いつも元気な鳶色の眼はぐっしょりと濡れ、顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。


「せん・・・っせ・・・おれ・・・」

ひっ・・・ひっ・・・としゃくりあげながら必死で言葉を紡ごうとするその子の頭を、イルカはタオルで優しく撫でた。

「ん・・・?どうした。何かあったのか。話してごらん」

優しい眼差しで、鳶色の目をじっと見つめて、イルカは言葉を待った。
その言葉と、タオルの温かさに安堵したのか、その子は漸く出た声で話した。

「お、おれ・・・落としちゃったんだ・・・とうちゃんの、か、かたみ だったのに・・・!!」



その子も、戦乱で父親を亡くしていた。
母親の手一つで育てられたその子は、確かに跳ねっ返りではあったが、心根は優しい子だった。
また、人一倍、負けん気の強い子でもあった。



――――水遁の術を、練習していたのだという。
頑張りは充分であるのに、いつも皆に遅れを取ってしまう彼。
今度こそは追いついてやろうと、一人でこっそり練習していたのだと。


しかし、不十分なチャクラは、術を かけた本人に跳ね返らせた。
幸い完成された術ではなかったため、命に別状は無かったが、そのとき襲った大量の水に、父親の形見を奪われてしまったらしい。

唯一の父親の写真の入った、首飾りを。



「どのへんに持ってかれたんだ?」

少年がイルカに縋りつきながら震える指で指差したのは、岸から5メートルほど離れた辺り、池から流木の枝が突き出している場所であった。


確か、この池は中央以外はそんなに深くなかった筈だ。
・・・あのくらいなら、いけるかもしれない


「―――――よし、先生が取ってやるよ」


イルカの言葉に、頭を上げた少年はパッと顔を輝かせる。

「――――ほんと?」

「あぁ。あの辺りなら、多分いけるだろ」


センセイ・・・!と抱きついてきたその子の背中をぽんぽんと叩き、イルカは微笑みながら溜息を吐いた。
自分に良く似た境遇のせいか、この子の思いは良く解る。
放って置けないのだ。

(帰ったら、ゆっくり風呂に浸かって温まろう・・・)

少年に傘を渡して、イルカは靴を脱ぎ、ズボンをたくし上げた。
池の端に立ち、そっと足先を浸ける。と、突き刺すような冷たさが脚を駆け上がった。



・・・!


池の水が、氷の様だ。顔を顰めてそれに耐え、息を詰めて更に脚を沈める。
池の水は、イルカの膝上少し上の所まで来て止まった。

池に浸かった足から痺れが伝わり、感覚が徐々に無くなって行く。
瞬間、襲った眩暈を、頭を振ってやり過ごすと、イルカは流木に向けてゆっくり歩を進めた。



――――あの人なら、きっと水だけを移動させたり、出来るんだろうけど


・・・自分には所詮そんな高等忍術など、無理な話だ。
この位の広さなら、足に当たる感覚で探し出せるかも知れない。そう思い、イルカは摺り足で池底を探りながら歩いた。


流木に辿り付いたとき、水はイルカの腰の辺りまで来ていた。
がちがちと、歯の根が合わなくなってきている。
震え出す体を叱咤しながら、イルカは慎重に歩を進める。


―――――と、右足先に、軽く当たる金属の感触があった。

そのまま足で掬い上げ、池から引き上げる。
少し錆付いた金色のそれ。間違い無かった。
イルカは、それを差し上げ、その少年に、『あったぞ!』と叫んだつもりだった。


しかし


(あ・・・れ?声が出な・・・)




そのまま、膝が崩れ、池の中に倒れ込む自分をまるでスローモーションの様に見た。
霞む視界。畔で叫んでいる教え子の姿がぼんやり見える。




視界を、銀色の風が横切った様な気がした。







そしてそれきり、イルカの記憶は途絶えた。



























・・・何だろう・・・


痺れて感覚が無かった脚が、身体が、温かい。


――――何かが、動いている・・・?


冷たい自分の身体で蠢くそれは、まるで氷を溶かしていく様に熱を与えながら移動してゆく。



なんて心地良い・・・





あぁ、手だ。





イルカは無意識に、傍らにある熱い塊に手を伸ばした。
ふわふわとした柔らかなものが頬を擽り、ぎゅう、と首筋に押し付けられる。
漂う密やかな匂い。その香りの主をイルカは知っていた。


「・・・カカシ、さん・・・」

意識が浮上する。
イルカが薄らと瞳を開けた。瞬間



パァン!




大きな音を立てて頬を張られた。


「・・・馬鹿かアンタ・・・!!」


驚いてすっかり覚醒したイルカが眼を見張ると、目の前で怒りも露にカカシがこちらを見据えているのが視界に入った。


「カカ・・・」

「死ぬつもりですか!!死ぬとこだったんだ!!アンタ、本当に解ってるのか!!!」

顔を歪め、酷く苦しそうな表情で、想いを搾り出す様にカカシは叫んだ。
こんなに感情を剥き出しにしたカカシを見るのは初めてのことだ。
瞳をぐっと閉じ、眉根を寄せて俯くカカシを見、イルカはどうしようも無い感覚が身の内から競り上がってくるのに耐えた。


嬉しい。嬉しい

こんなに心配してくれるなんて・・・

胸元に顔を埋めてくるカカシに、涙が溢れそうになった。




けれど




だめだ、だめだ・・・

何考えてるんだ
ここで甘んじては、いけない―――――


流されそうに大きく揺らぐ自分の心を、ぐっと押し留める様に イルカはきり、と唇を噛んだ。
縋り付きたい衝動を押さえ込み、カカシの肩に添えようとしていた手を握り込む。


「―――――ご心配かけて、すみませんでした・・・」


「違う・・・!!!」


がばりと顔を上げ、怒りの表情でカカシは怒鳴った。
赤い瞳が、まるで炎の様だ。



「何で謝ったんです、今?あなたは、『誰かが心配するから』『誰かが悲しむから』いつだってそうだ・・・!
その理由に、あなた自身の意思は全く含まれちゃいない!!」

オレは、オレは
あなたに自分自身をもっと見て、自分を大切にして、考えて欲しいんだ・・・!





強い力で抱き付いてくるカカシ。
今更ながらにイルカは、そこが自分の部屋であり、カカシが半裸で自らを温めてくれていた事を知った。

自分の身体は、きちんと乾かされ、温かな湯を含ませた布が其処彼処に掛けてある。


「オレが偶然、霙の所為で里に戻ってなかったら、アンタを見つけなかったら、アンタ、死んでたんですよ?
あいつ、生徒じゃなかったら、生かして帰さなかった・・・!」


カカシから漏らされたその言葉に、イルカはぞくりと身を震わせた。


「・・・なんですって・・・?」


「あいつ、あの生徒・・・!忍失格だ、こんな簡単なことも判らないなんて」

「あの子に何かしたんですかっ!?」

語気荒く、イルカがカカシの肩を掴むと、カカシは苛立ちを滲ませた目でイルカを見上げた。

「あなた、いつも生徒のことばかりですね・・・別に、命を取っちゃいませんよ。暫く立てなくなるかもしれませんがね。その位の事をしたとあいつは認識すべき」

「馬鹿言うんじゃない!!!!」


イルカは思い切り身体の上のカカシを突き飛ばした。
無論、カカシの身体は少し傾いだ程度で、逆に突き飛ばした方のイルカが激しい眩暈に襲われた。


熱が上がって来ているらしい。朦朧とする思考。
イルカは、もう 自分が何を言っているかはっきり認識できなかった。
ただ、感情のままに叫んだ。


「あなたに、あの子の何がわかるって言うんです!?あの子は、何も悪くない!!
いつも一生懸命なかわいい生徒なんだ!!さっきの事だって、俺が自分を過信したのがいけなかった!
なのに・・・なのに、なんて事をしたんですかあなたは!!最低だ!!!」



涙で視界が滲む。
ともすれば そこまで自分を思ってくれているカカシの熱い思いに不謹慎にも溺れそうになりながら、イルカはその気持ちに鉤を掛ける様に、必死で言葉を紡ぎ続けた。



「大体、どうしてあなたが勝手に俺のうちに入ってくるんです!?そうやって!土足で!!
いつもどうして俺のうちへ押し入ってこようとするんですかあなた・・・は・・・!!」


“うち”が「家」なのか「内」なのか、解らなかった。
自分でも解らないまま、激情に身を任せてイルカは、声を上げて泣いた。


「・・・もう、俺に構わないで下さい・・・!!俺に、関わらないで下さい・・・!」









窓を叩く雨の音が、耳に痛い。
外では季節外れの霙に打たれ、紫陽花がその色をくすませていた。












「・・・判りました―――――」



静かな声が、雨音に混じって響く。








「―――――もう、二度と。あなたの前には現れません」








衣擦れの音が、僅かに響いたかと思うと、ふっと部屋から気配が消えた。



――――――後に残ったものは、痛い程の 静寂。






イルカは毛布の端を握り締め、声を嗄らして泣いた。















BACK              
NEXT