酷い肺炎だという。

 

半時間も雨の中を走り続け、やっとの思いでオレが駆け込んだ大病院で、診察を受けた猿飛老人はすぐさま集中治療室へ移された。

 

あと少し遅ければ手遅れになっていた、といわれた。

かなり前から無理をしていたのだろう、気弱になったことで身体にガタが来たのではないか、と。

 

雨を身体中から滴らせながら、オレはぼんやりと、立ち竦む。見開いた目が瞬きを忘れ、軋んでいた。

小さな部屋に運び込まれていく目の前の現実に、背筋が凍った。握り締めた自分の拳が、小さく震えている。

 

 

 

オレは身を翻らせた。エンジンをかける間ももどかしくその車体に縋り付き、走ってきた道を駆け戻る。

 

戻ってきたのは、いつものプール。バイクを乗り捨て、オレはエントランスに体当たりをするように雪崩れ込んだ。

受付奥の、古びたスチール棚―――いつか猿飛老人が語ってくれた、海野の雑誌が納められているその棚のファイルを、オレは片っ端から引きずり出した。

その中の一つ。“職員名簿”と書かれた淡い色のファイルを必死の思いで捲る。たった二枚の紙しかはさまれていないそのファイルには、「海野」の履歴と住所が記されていた。

 

引きちぎり、オレはバイクへ走る。雨の中でもがく様に車輪を空回していた車体を抱え起こし、雨に滲むその履歴書の住所目掛けてオレはバイクを駆けさせた。

 

 

 

海野の住むアパートは、施設からはかなり離れた、繁華街に近いうらぶれた住宅地の中にあった。

雨に煙るその小さな建物を駆け上がり、表札の出された角部屋のドアノブを 壊すくらいの勢いで回した。当然開かない。たった数秒間がもどかしかった。すぐさま呼び鈴をけたたましく鳴らし、何度もドアを叩き付ける。

 

「―――ンだよ、うるっせぇ・・・!」

 

だから、海野が半裸にシャツ一枚羽織った姿で不機嫌にドアを開けたとき、その後ろに また見たこともない赤毛の女がいるのを見たとき、オレはもう迷わなかった。

 

渾身のストレートが、海野の左頬に入る。

不意を突かれた彼の身体は大きく飛び、そのまま雨の降る廊下へと叩き付けられた。

 

「お前・・・・!!」

 

「猿飛さんが倒れた」

 

ずぶ濡れのオレを認識し、黒い瞳に怒りを上らせた海野を見つめて、オレは告げた。自分でもびっくりするくらいに淡々とした声だった。今にもこちらへ殴りかかろうとしていた海野の体が、びくりと強張る。

 

「え・・・?」

 

「酷い肺炎だ。あと少しで手遅れだったといわれた。老体に無理が祟ったんだと。

意識もないのに、アンタの名前をずっと呼んでた。ずっと・・・なのに・・・」

 

「うそ・・だろ・・・?」

 

海野の目がみるみる透き通っていくのがわかった。子供みたいにまっさらな目だった。

雨が世界の輪郭をぼやかせて、ただひたすらに地面を打ちつけている。

 

「中央病院に入院した。集中治療室にいる」

 

一拍の空白の後、海野は這うように立ち上がり、雨の中を駆け出した。不安定なサンダル履きのままの足元が階段を飛ぶように駆け下り、ぬかるみを跳ね上げる。

「イルカ!?なんなの!?」

慌てて飛び出してきた女性の声に脇目もふらず、海野は駆けて行く。

 

すぐさまオレも階段を走り、バイクに跨る。

「―――海野!」

走る海野の横を走りぬき、振り向きざまメットを投げた。

 

「こっちだ、乗れ!」

 

途方に暮れた 迷子のような顔の海野が、背中に縋り付いてきた。泣いていたのかもしれない。バイクを転回させ、オレは地面を蹴る。

 

出すことのできる限界のスピードで、オレは病院へとバイクを走らせた。曇天の空が唸り、黒い雨雲の隙間に稲妻をちらつかせている。

通り過ぎざま、変わった信号が 雨に濡れそぼった二人を赤く染め上げる。腹に回された海野の熱い腕が、かすかに震えていた。

 

畜生・・・!

 

オレは唇を噛み、雨で曇る視界を睨みつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

病院へ縺れるように駆け込んだのは、夕刻になってからだった。身体中ぬかるみ、雨に打たれた雑巾のようなオレたちはICUへの入室を許されず、分厚い窓を通じて猿飛老人の小さな寝顔を見た。

状態は落ち着いてきたが、しばらくは集中管理になる、とのことだった。身体中から管を伸ばされた老人の、それでも先ほどより規則正しくなった胸の上下を見て、オレは深いため息をついた。

 

優しい看護師からタオルを差し出され、オレたちは人のいなくなった待合室で、ぼんやりと身体を温める。

海野はずっと下を向いて項垂れたまま動かない。

向かいのソファに弛緩した身体を預け、オレは大きなガラス張りの壁を通して空を見上げていた。雨と夕日の残滓を交え、薄桃に染まった雲が、同じサーモンピンクを待合室の椅子に落としている。

地獄のような色だ、とオレは意識の隅で思う。

ぼろぼろに疲れていた。投げ出した指先をたたむのも億劫で、オレは呆けたように空の向こうを見つめ続ける。

 

 

「・・・俺には、両親がいない」

 

小さく掠れた声が、閑散とした待合室に落ちる。俯いたままの海野が、足元に話しかけていた。

 

「―――俺が殺した」

 

膿んだ独白に、オレは思わず彼を見遣る。相変わらず下を向く海野の顔は、雨で纏わりつく長い髪に阻まれ、見えない。

「猿飛の爺さんは、俺の親代わりになってくれた人だった。たった一人の、肉親なんだ・・」

 

膝の間で握り締めた彼の手に、力が入る。

小さな雨が窓を濡らしているが、ここまでは音が届かない。ただ、頼りない水滴が少しずつガラスを埋めてゆく。

 

また、二人の間に沈黙が満ちた。

 

 

 

「・・・あんた、どうして・・・」

気だるくぬるい壁を破って、海野が独り言のように言葉を零した。

「どうしてそこまで、俺なんかにこだわるんだ―――」

 

 

海野がふらりと頭を上げる。一筋の色も混ざらない、ただ純粋な漆黒の瞳に真っ向から見つめられ、心臓が跳ねた。傷ついた獣のようなしずけさで、海野はただ、オレを見つめる。

 

 

「見ただろう?俺は最低の人間だ・・あんたが追いかけていたような高尚な人間じゃない」

 

 

は、と笑おうとして失敗したのか、息を詰まらせた海野は頭を抱え、長い髪を掻き乱す。また俯いた彼の唇から、押し潰された嗚咽が聞こえた。

 

「―――作りたかったんだ・・・」

 

嗚咽の合間、あえぐように海野がつぶやく。

 

「俺にはもう、何にも残ってなかったから・・ だから、早く、作りたかった。俺の“家族”を」

 

 

――――俺は、両親を殺した。

 

再び絞り出された言葉は、今度ははっきりとした形を取ってオレの首を絞めた。

 

「俺はさ、一時は将来有望な水泳選手だったんだ。

むかしから泳ぐことが好きで、泳ぎなら誰にも負けなくて。

泳ぎなんて何にも知らない、父と母も、俺が大会で一番をとるたび褒めてくれたんだ。

それが、嬉しくてさ―――」

夢中で泳いでたら、自然と選手になっていた。

 

 

殆ど独り言のような呟きが、病院の白い床に落ちてゆく。

 

けどな、ある日 旅先で乗っていた船が転覆したんだ。大潮で、嵐の晩だった。海は荒れ狂って、ちっぽけな船なんて粉々に砕いてみせた。

初めての家族旅行だった。五輪候補に選ばれた俺を祝って、ゆっくり過ごすはずだったんだ。

父と母が、木の葉みたいに波に飲まれていったこと、よく覚えてる。波は高くて、太刀打ちできる領域を超えていた。鼻に喉に、容赦なく海水が流れ込んで、息をしたくても海底に引っ張られるんだ。水を吸った普通の服があんなに重いなんて、知らなかったよ。船は裂けて、たくさんの槍みたいに身体中を刺した。俺は夢中で船の破片を掻き分け、ふたりに手を伸ばした。けどな、荒れ狂う海の前で、俺の手なんて 一本の糸みたいなもんだったんだ・・・

 

こぶしを血が出るほど強く握りこみ、海野は歯を食いしばる。血の気を失った彼の頬が、小さく震えていた。

 

「俺は両親を救えなかった。溺れる人も助けられないで、なにが水泳選手だ。

父と母は、オレが殺したんだ・・」

 

最後の言葉は、ほとんど叫びに近かった。猿飛老人が悲しい目で語った、彼の過去を思い出す。

マスコミの鎖に絡め取られ、それを受け入れることしかできず。今 目の前にいるのは美しい魚ではなく、雨に濡れそぼった人間の男だった。手のひらで顔を覆った彼は、髪を解れさせ、架せられた呪縛に打ち震えていた。

 

なにひとつ、声をかけることができなかった。突然、俯いた彼が狂いのように笑い出す。

 

「神様は、情けない俺から水泳を奪ってくれたよ。船の欠片が脚を裂いて、その傷がもとで、競技を続けられなくなったんだ。

―――もう俺には何もなかった。だから、だから早く、俺だけの家族を作りたかった・・・」

 

俯いたまま、手のひらをほどき、視線をこちらに寄越す。もうこれ以上、傷つく箇所すらないほどにずたずたになった瞳が、こちらを見て嗤っていた。

 

「ほら、最低だろう。そんな理由で、手当たり次第 女を物色しては、家族を作ろうとしたんだよ。

 

・・けどなぁ、そんなの、巧くいくはずがないんだ。結局みんなに逃げられて、あっという間にまた一人。

挙句の果てに、たった一人の家族さえ、なくしてしまうところだった・・・」

 

海野の頬を 涙が伝う。

 

「最低だ・・・」

 

 

「・・・でも、それでも。」

オレは震える声で、海野に向かい合う。あの日、初めて彼が話しかけてくれたとき、プールの前で伝えられなかった思いが。ずっと胸に蟠らせて、それでも捨てられなかった 自分の中の海が、溢れた。

 

「それでも、オレにはアンタしかいないんだ・・・!」

 

オレは海野に叫ぶ。ありったけの思いをこめて。

 

「アンタを見たとき、人生が開けた気がした。アンタはどん底だったオレを救ったんです。アンタの泳ぎで、少なくともオレは、生きる道を見出したよ?アンタに出会って初めて、オレは進む道を見つけた。人生なんてちっぽけで、生きる意味なんて全然ないと思ってた。それでも・・!

ここまで、アンタに執着して執着して、生きることができたんだ・・・!」

 

真っ直ぐに彼を見る。色の見えない左側でも、彼を体全部で受け止めたくて。

真っ向から向かい合った彼は、ぼろぼろで、それでもやはり、美しく。彼だけの色彩で満ちていた。

 

「自分がいらない人間みたいな、そんな言い方をするな・・!」

 

多分オレは泣いていただろう。のどを痞えさせる塊を吐き捨てるように、オレは魂を絞って叫んだ。

 

 

「オレには、アンタしかいない・・!」

 

 

 

 

 

「・・ありがとう・・・」

 

 

乱れたオレの呼吸の間、しずかに落とされた声は、海野のものだった。

 

 

 

 












NEXT