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最初は、一体どんな馬鹿なんだろうと思った。言葉を知らないんだろうかこいつ。 ・・・単刀直入にもほどがあるだろ。 三流雑誌の記者にしろカメラマンにしろ(いや、「書きたい」といっていたから記者の方か)、マスコミならもっと交渉術に長けていてしかるべきだろうに。 今までも美辞麗句をならべたて、数年前の「悲劇」を記事にしようと近づいてくるマスコミはごまんといた。皆が皆、言葉巧みに俺に同情し、優しい言葉を投げかけ、俺から弱さに溢れた、涙交じりのひとことを引き出そうと画策しながら。 ・・だから、姿を隠すように身を寄せている この辺鄙な街のプールで彼に出会ったとき、あまりの口下手さに、呆気にとられてしまった。 背が高くて、手足が長く、均整の取れた身体。色白の肌に、彫りの深い見栄えのする顔。ぞっとするほどの男前、とはこういうことを言うのだろう。顔の造作がとんでもなく整っていて、少し厚めの二重瞼と下がった目尻、それと対照的にきついアーチで跳ね上がる眉が 絶妙なバランスで日本人離れした骨格に花を添えていた。 完全に、この地域に多い外国の移住者だと思った俺は、何の疑いもなく彼に駆け寄る。 ―――そして、彼がつっかえながら発した言葉に凍りついた。 (報道、だ―――・・・) もうここにも長くはいられない、と思った。何をするにも都心にまで出なければいけない不便な街。困ることも多かったが、海が美しいのと、子供たちが素直なところが好きだった。うっかりつきかけていた里心に唇を歪め、早く次の町へ、と茫洋と考えながら踵を返す。瞼の裏に、俺を慕ってくれ、いつも優しい手のひらで傷だらけの足を撫でてくれた子供たちの無邪気な笑顔が、フィルムのように蘇り、俺は苦しさに叫び出しそうになった。せっかく、せっかく友達になれたのに。 と、突然腕を掴まれた。子供さながらの衝動と無邪気さで。目の前で揺れるのは、先ほど俺に深く頭を下げた白皙の男の、強張った頬。銀髪が舞い上がった拍子に、左目に縦に走る大きな傷跡があらわになった。 咄嗟に手が出たのか、途方に暮れた顔で俺を強く引きとめる その手が熱くて、蒼い瞳があんまりまっすぐで。俺は思わず凍りついた。 彼の傷にではない。彼のその 目。 子供の目だった。 ―――感じたのは、「恐怖」 そんな純粋な目で、なんで俺を見られる。なんでそんなにまっすぐに、俺に向き合おうとするんだ。 今まで関わり、そして逃げてきた報道関係の人間とは全く違う、無垢な感情をむき出しにして俺を追ってくる彼。 もうほおっておいてくれ、と何度叫び出しそうになったかわからない。もうわかったから。俺はどこまで逃げても、自分の犯した罪を忘れたことなんて一時もないんだ。全部失って、これから一生かけてそれを償っていくのだから。だからもう、あの地獄を思い起こさせないでくれ――― だが、彼は俺を追ってくるのに、全く俺を糾弾しない。ひそかにレコーダーを向けて、胸を抉る言葉を連ね、それに対する俺の反応を事細かに拾うこともない。ただ、俺をかきたい、と。その気持ちだけをぶつけて追ってくる。 心底恐ろしかった。今までのように、俺を落としめてなじって踏みつけてくれたら、いっそ楽だったのに。 そんな、子供のような目で見つめられたら、俺はどうしたらいいかわからない。 彼に対して俺が抱いたのは、苛立ち、恐怖、怒り、戸惑い。そしてまた、苛立ち。 ・・・あぁ、そうだ。けれど その前に。初対面の時に感じたことがあるじゃないか。 プールから見上げたガラス窓、そこに立っていた、光に反射するプラチナ・ブロンド。 太陽を背負って、まるで神様みたいに輝いていた。 ―――なんてきれいだ、と そう思ったんだ。 Born To Be Blue 「海野サン、そっち持って!」 「お・・おう!」 慌てて 硬い網を指に絡ませ、水槽から引き上げると、海風にぶわりとネットが膨らんだ。濡れた臙脂色のバレーネットが風をはらんで、ばたばたとたなびく。体育館わきの空き地に簡易で作った物干しに 男二人で苦労して留めつけると、水をたっぷり吸った太い繊維が、嬉しそうにしぶきを上げながら風にはためいた。 う、わー・・ 風にあおられるネット越しに、真っ白に色を飛ばした太陽が見える。隣には使われているのを見たこともない、色とりどりのビブスたちが、行儀よく整列して海風に揺れていた。倉庫の奥で埃だらけだったやつらも、石鹸のにおいを広げながら、真新しく生まれ変わったのを喜んでいるようだ。 白い砂浜に、青い影が落ちている。薄く浮かんだ汗を拭い、目を細めてその光景を眺める。 気持ちいいな―・・・ 夏の空気を胸一杯に吸いこみ、濃い潮風を身体中に沁み込ませる。この風景を切り取ったら、自分にでもお粗末なポストカードくらい作れそうだ。100円くらいの安いやつ。横に視線をやると、同じく眩しそうに鼻にしわを寄せた彼が、微笑んでこちらを見ていた。 う・・わ 無防備でいたところに 不意打ちの笑顔をくらい、俺は思わず目を泳がせた。目の端で銀糸が風に踊り、痛いくらいに、きらきら光っている。白いシャツが彼の身体の陰影を浮かびあがらせながら、汗を吸って身体に絡んでいた。 「・・風で飛んでいかね―かな、ネット」 「大丈夫でしょ。飛んでも、誰にも迷惑かけないよ」 額に手をかざして太陽を仰ぎ見ながら、彼が笑う。あぁなるほど。それもそうだ、と妙に納得しながら 俺ものんびり洗濯物たちを見遣った。 ぽつりぽつりと建つ 工事途中のビル群を背景に、まっすぐ伸びた水平線。潮風に真新しいコンクリートの匂いがまじる、誰もいない海辺の町。風にのびのび煽がれるネットに合わせ、大きく背伸びをしたくなる。 そんな自分に、舌打ちが出た。 (―――勝手なもんだな、俺) あれほど疎ましく遠ざけていた男が、こんなにも普通に傍らにいるというのに。緊張するというよりむしろ、無意識に気を抜いてさえいる自分に気付き、そんな己の身勝手さにやたらと腹が立った。 猿飛の爺さんを病院の冷たい窓越しに見た、あの日を嵐だとするならば、今は何だろう。最近はそんな自問自答に日を費やしていることが多い。悪夢のようなあの日を越えて今、自分の傍らにはごく自然にこの銀髪の男、“畑カカシ”、が居つくようになった。 爺さんが倒れ、しばらくの入院生活を余儀なくされると知ったとき、畑から出た言葉は 「なら、その間はこのままオレが手伝います。プール」 ―――だった。 何言ってる、とぎょっとして彼を見遣った俺を真っ向から見つめ返し、「だってあの仕事量。ひとりじゃ無理でしょ?代理にしても、すぐ見つかるかどうか・・。オレなら、仕事は一通りわかる。給料もいらない。・・・構いませんよね?」と言い切った彼に、まだ呼吸器の外れない爺さんは穏やかな笑みを浮かべた。それを見てしまった俺は、もう何も言えなくなってしまったのだ。 畑が、実は報道関係者ではなく ただの学生だ、と知ったのは、本当は随分前だった。まだプールから足が遠のく前、猿飛の爺さんがぽつりと 「ありゃ、違うじゃろ・・上手く言えんが、全く臭わん。あの青年は、マスコミじゃなかろう」 と言い出したのがきっかけだった。 よく考えてみれば、おかしな点はいくつもあった。今までマスコミに嗅ぎつけられる前には必ず予兆があったが、彼は何の前触れもなくこの施設に現れたこと。彼の取材らしい行為を見たことがないこと。フリーランスの記者にしても、時間に制約がなさすぎること。(たとえばそれが、一獲千金の記事に化けるようなネタならまだしも、俺をつついたって出てくるものはたかが知れてる。世間からも風化しつつある出来事を掘り返したって、ゴシップ雑誌の隅を埋める記事にしかならないのは明白だ。)それになにより、彼の口から「マスコミだ」と聞いたわけではない、ということ。 後になって、畑からはっきりと 「違う」 と告げられた時、俺は呆れかえって笑いだしたい気分だった。 「違います。だから、ただの美学生なんだって・・。最初からオレはずっと アナタを『描きたい』って言っていたのに」 そうなのだ。彼は最初から何一つ間違ったことは言っていなかったのだ。ただそれを勝手な思い違いでねじれさせ、強く彼を拒絶したのは、全部俺自身。笑いたかったのは、くだらない自分の馬鹿さ加減だった。 家族を失って、水泳も失って、早く何かすがるものを見つけなければ、壊れてしまうと思っていた。なくした家族をもう一度手に入れたくて、手当たり次第に女を作った。すでに腹の中に子供のいる女に、手を出したこともある。 これですぐにでも家族が出来る、と俺は有頂天だったが、彼女は「それで、あなたは何がしたいの?」と静かに俺を糾弾した。 「あなたは素敵だわ。子供がいる私にセックスも望まず無理もさせず、ただ結婚してくれ、なんて言う。自分の子ではない、父親か誰かわからない子供を そのまま産んでくれ、なんていう。それはとても素晴らしい言葉よ。 ・・・けれどね、ずっと前から知り合いだったのならまだしも、出会って数日の人間にそんなこと 言えるものかしら。あなたはまだ若いわ。信じていないわけではないけれど、私の裸もみたことがない、お金も目当てじゃない、そんな若者が私の何を見て『結婚しよう』なんて言うのか。信じていないわけではないけれど、信じられないの」 あなたが欲しいのは、私ではないんじゃない? 凶暴な太陽が肌をひりつかせ、砂浜も剥き出しの足首を骨ごと溶かすように焼いてくる。目の奥がじんと痺れるのを感じ、洗濯物を眺めながら随分ぼんやりしていたことに気付く。瞬いて、思い出される苦い断片を振り落とした。―――そういえば、彼女と一緒の時、こいつに邪魔をされたんだ。 傍らを見ると、空を振り仰いでいる畑が目に入る。 俺はこいつを、全力で殴ったんだった。 「・・そろそろ、戻るか」と声をかけると、「ん」と小さく頷いた彼は、足の砂をはらいながらおとなしく後ろについてくる。日は少し傾きかけていた。小さな施設だが、まだまだ仕事は山のようにあるのだ。 畑は、ほんとうに施設の仕事を熟知していた。受付をはじめとして、プールの監視や体育館の整備、備品の管理や経理、掃除に至るまで。俺でも知らないようなことまで把握し、ここ数日のスケジュールを的確に組みあげたのは、実際には彼だった。猿飛さんがいないうちに 力仕事を出来るだけ、と言いながら コピー用紙にさらさらと予定を書き出した彼に、俺は戸惑いを隠せなかった。 驚くほどたくさんの項目が並ぶその白い紙を前に、俺は改めて自分がどれほど爺さんに甘えていたかを知る。 「・・海野サン?」 歯噛みする俺を覗き込み、畑が怪訝そうに声をかけてくる。 俺は何やってるんだろうか。こんな、なにも関係ない人間に助けられて、今まで知らなかったような仕事まで教え込まれて、挙句の果てに大切な人の命まで救われて。 もう何もなくなった俺に、唯一残った身内。あの人だけは失うまい、と思っていたのに、馬鹿な自分は己から手を放してしまったのだ。しかもこの施設で、爺さんの役には立っている自信があったのに、こんな―――― 冷えた書類の匂いのする事務室で、俺は静かに凍りつく。 俺は、施設の維持にこれだけ金がかかっているなんて、知らなかった。なんだこの、備品の管理項目って。俺はもっぱらプールの方ばかりを任されていて、体育館のメインテナンスにこんなに莫大な金が必要だなんて聞いたことがない。給料は、市営の施設だから上の方から多少降っては来ていたが、それでも、こんなに少なくはなかったはずだ。畑が横に広げた、見覚えのない帳簿の数字を見て愕然とする。 ・・・給料、俺はもっともらっていた そんな金を出す隙、この施設には全くないはずなのに。それに、この経理。ここを訪ねる人数は、ここに記録されている入場者数よりずっと少なかった。こんなに収益金が出るわけがないんだ。 ――――あぁ・・・ 俺は俯いた。 ・・・全部、爺さんだ。 帳尻を合わせてくれていたんだ。この施設、本来ならばもうとっくにつぶれているはずの施設を、経理のつじつまを合わせて、ここまで持たせてくれていたんじゃないか?金をひねり出して、それを収益を合わせるため施設に突っ込んで。 俺にも、なけなしの金を 給料だと言って回して・・・。 噛みしめた唇から、血が滲んでいる。 よく考えてみれば、あれもこれも、おかしなことばかりだった。よく考えていれば、俺がしっかり目を見開いていれば、気付いてしかるべきだったのに。 自分のことしか我儘に考えなかった その間に、こんなにも周りに迷惑をかけていた。 ―――俺、ここにいる意味はあるんだろうか。こんな何も持たない俺が、ここで、生きていく意味はあるんだろうか。 俺に、生きている価値なんて、あるんだろうか 自分の馬鹿さ加減に、また笑いが込み上げた。喉の奥で突如爆発した笑いは、今度は腹に落ちてゆかずに唇を破って がらんとした事務室に大きく響く。 俺ほんと、馬鹿だ・・。 がたん。安い事務椅子が蹴られる音がし、急に脇から声が降ってきた。 「海野サン、」 ず、と視界の中に伸びてきた長い腕が、掴んだ透明なペットボトルの水を差し出している。半ば強引に俺の手に握らせると、畑はしばらく逡巡してから、そっと手を離した。 「だめだ、そんな泣き方しちゃ―――アンタの中の海が、涸れてしまう」 慌てて頬を拭う。掌には乾いた感触しか伝わってこなかった。思わず取り乱した自分に、かっとなる。 ―――あんたなにを、適当なことを・・・! けれど、それでも覗きこまれる青灰色の目が あんまり心配そうに濡れていたので、俺は彼を怒鳴ろうとした声を呑みこんだ。 掌のペットボトルが、たっぷりまとった雫を俺の腕に伝わせている。 エントランスの電子音が鳴り響いている。空調の利いた館内には、利用者もおらず 静かだった。 「・・・あんたさ、畑さん。・・大学行かなくて、いいのかよ」 肘から滴り落ちる冷たい水滴を感じながら、俺はぼんやりと疑問を口にした。彼はずっとここにいるが、定時に現れ、定時に去ってゆく彼に学校に行く時間があるとは思えない。 畑は整った顔をゆがませ、苦く笑うと、だって、と小さく零す。何度も言いましたけれど。なんどでも繰り返しますけどね。 「―――だってさ、オレが描きたいのは『アンタ』なんだ。アンタでなきゃ、意味がない。海野サンが描くのを許してくれない限り、オレに絵を描く意味なんて、ないんですよ」 俺は目をしばたたかせた。彼はふ、と息を吐くと続ける。だから今のオレに、大学に行く必要はないんです。 「いいんです、オレは好きでここにいるから。オレがそうしたくて、毎日来てるんだから」 ぼぉん、と小さく、エントランスの振り子時計が鈍色の時を告げている。重く柔らかく、入り口の空間に広がるそれは、17時の合図だ。 「・・じゃ、オレはこれで。―――また明日」 笑顔で薄いウィンドブレーカを取り上げ、事務室から出ようとする畑の腕を、咄嗟につかんでいた。彼が驚いた目でこちらを見遣る。俺はびくりと指をこわばらせ、慌てて一度触れた手を離す。指先に残る冷えた彼の腕の感触に、無意識の自分の行動に ひどく戸惑っていた。 「―――わり・・ なんでも ない。――――またな・・」 視線を彷徨わせた俺を見て、彼は一瞬何か言いたげだったが、すぐに小さく笑顔を浮かべると 軽く会釈をして出ていった。 ―――描けよ、と言うつもりだった。描けばいいだろう、もうあんたを縛っているものが俺しかないんなら、描けばいいじゃないか、と。けれど、ずっと否定し続けていた彼に許しの言葉を吐くのは、思いの外困難だった。たとえそれが、自分の身勝手な感情で凝り固まったものであるとしても。 ぐい、と一気にあおったペットボトルの水は、するりと喉に滑り込み、甘く身体中に沁み渡った。目の前が揺れ、泣きたい気分になる。ほんとに俺は、何をやっているんだろう。
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