白い砂浜に照りつける真夏の太陽は、ふいに思い出したように雨を降らせる。それも、軽く肌を湿らせるようなのではなくて、大きな水槽を丸ごとひっくり返したようなのをだ。

数度、気まぐれな夏の嵐の襲来に遭い、ある日 施設裏手のドアが吹っ飛んだ。恐らく、最後に戸締りをすべきところを、俺が開け放したままでいたからだ。

朝一番でその惨状を目にした俺は、愕然とした。人の少ない地域のため、泥棒などの心配はなかったが、それでも飛んだドアにつながる、プールの更衣室は、巨人にひっかきまわされたみたいに目茶苦茶になっていた。

とりあえず、掻き集めた道具で何とか修復したが、真っ白に塗装されていた木製のドアは、一部が木っ端みじんに吹っ飛び、なんとか木材を宛がって打ちつけてはみたものの、明らかに継ぎはぎだらけの見目の悪いものになってしまった。

なんだこりゃ、と ぼろを纏ったようなドアを見上げて溜息をつく。嵐はまた夏の太陽を連れ戻していて、眩い陽光の射しこむ駐車場に佇み、俺は途方に暮れた。

 

「おはようございます・・・って、うわ!壊れたの?扉?」

やがて、いつものように施設を訪ねてきた畑も、開口一番 変わり果てた扉に絶句する。

「あー・・・とりあえずやってみたけど、だめだわ、これ。専門の業者よばねぇと・・」

 

また大きな溜息をつきながら、俺は鼻の頭を引っ掻いた。とりあえず閉めることはできるし、扉としての役目は果たせそうだが、如何せん見た目が悪すぎる。駐車場からの通用口ではあるし、表通りから見えないにしても、それでもこの美しい施設に傷をつけてしまったことを、俺は深く後悔していた。猿飛の爺さんが帰ってくるまで、大切に預かる気持ちだったのに。

「白木の板を打ったんだね・・。元が均一な白だから、塗り直すのも難しそう、かな」

と、上半分に打ち付けられた剥き出しの木板を指でなぞる畑を見て、急に俺はぴんとくる。

 

「そうだ―――あんた、美大生だろ?ここになんか絵、描いてよ」

え、とこちらを見遣った畑に、俺は少し目を細めて笑ってみる。そういえば、彼が絵を描いているところも一度も見たことがない。正直に言えば、まだ少し、自分の中で彼を疑う気持ちが残っていることも否めない。

「何でもいいからさ、描いてくれよ」

「け・・ど、オレは―――」

「・・ほんと言うと、まだ少しあんたのこと疑ってんだ、俺。美大生って証拠、見せて」

「―――――・・」

畑が言葉を飲み込んだ。自分で言いながら、なんて高慢な物言いだろうかと思う。けれど、彼の素性を疑う気持ちは確かにあった。どの道、しばらくすれば何とか工面して業者に直してもらう予定の扉、一時だけの絵だ。絵に期待しているわけではなく、彼が絵を描けるということを知りたかった。

 

「・・・なにか、描けるものってあるの、ここ」

静かに俺の目を見返した畑が、押し殺した声で呟いた。いつもと違う声色に、俺は今更ながらぎくりとする。

彼の目の色が、変わっていた。

「あ、あぁ、そうか―――絵具とか、だよな。絵具はないけど・・・確か、プール用の青い塗料が数缶と、壁を修復するのに使う白いペンキがあった。あとは、でかい刷毛なら」

 

「・・いいよ、やろう」

 

畑がす、と目を眇める。彼が急に首筋に纏った、殺気に近い迫力に、俺は一瞬立ちすくんだ。

 

「その代わり、今日は一日 他の仕事をナシにして」

 

珍しく、畑が強く意志の通った言葉を口にする。塗料の場所を教えて、と踵をかえす彼が、まるで別の人間のように見えた。俺はしばらく呆気にとられた後、慌てて後ろを追いかけた。

 

 

 

更衣室の中を掃除して、プールと体育館の整備を終えると、既に日が傾きだしていた。廊下に張り出した 大きな斜面のガラス窓が夕日を湛えてうるんでいるのを見、しまった、いつの間にこんなに時間が、と俺は驚く。

畑のことが急に気になった。ひとりにしておいた方が落ちつけるだろうかと思い、何か簡単な食事だけ差し入れるつもりでいたが、仕事に追われているうちに自分の昼飯さえ忘れていたのだ。

急いで掃除用具を片付け、メインエントランスから外に出る。西日に焼かれながら下へ向かってスロープを作る駐車場に回り込み、扉のある場所へと。

 

―――畑はそこにいた。恐るべき集中力をもって、一心不乱に壊れた扉に向かい合っていた。

広げた新聞紙の上にペンキの缶を乗せ、更衣室から引っ張り出したスツールの上に胡坐をかいて、瞬きもせずに扉を見つめている。彼の白い左腕が、ペンキに塗れていた。腕をパレット代わりにしているのか、肘の上のあたりまでひどい有様だった。

吹き抜けの駐車場の向こうで、波がざわめいている。

長い前髪が 今は額の上で留めつけてあり、整った輪郭が露わになっていた。夕日に染まる銀色の髪、滑らかなしろい頬。顔にも青い塗料が刷毛ではいた様に流れていて、汚れているはずなのに、その佇まいは何かの宗教画のように美しかった。

長い睫毛に縁取られた 澄んだ眼が、人形のように瞬きを忘れ、目の前の大きなキャンバスに挑みかかっている。鼻をつく きつい色彩の匂いが、海風に混じって充満していた。

俺はそんな彼の様子に目を奪われながら、そっと彼のうしろに回り込む。

 

そして、凍りついた。

 

彼が向かい合っていたのは、ドアではない。その周りの壁 

すべてだった。

 

ちいさな扉を飲み込んで、壁一面が大きな絵画となり、真っ青に染まっている。

畑の手が、目にもとまらぬ速さで動いていた。大きな刷毛の先から生み出されているのは、息をのむほど精緻な幾何学模様だ。まるでレース細工を幾重にも重ねているかのような。屋根や壁を塗るための大ぶりなブラシの、僅か先、ほんの数本の毛束だけを使い、彼は一面の白壁へと美しいドレープを広げていた。いっそ病的なほどの神経質さと、緻密さで。

ごく薄い上等な生地を重ねるようにして描かれているその絵―――いや、むしろ「色」は、ある場所では重なりあい、ある箇所では はかなく擦れて、ひと所として同じ表情の部分がなかった。5メートルは優にあるその壁、全部だ。

たった2色しかない塗料は混ぜ合わされ、ある部分では色を引かれ、無限の色彩のうねりを作りだしていた。精巧な機械が盛り上がるように、また、細いほそい繊維が引きちぎれるように。信じられない技術の連鎖で紡ぎだされたその絵は、途方もなく美しいのに、恐ろしい。幾千もの「青」のレースで彩られたその壁に、俺は飲み込まれた。

喉から悲鳴が滑り落ちるのを、咄嗟に手のひらで口を塞いで耐える。俺は目を大きく見開き、その壁から襲い来る津波のような迫力に、目を軋ませて抗った。冷たい汗が、背中を滑り落ちる。

知っている―――――

その、恐怖に似た感情には覚えがあった。絵を見ているだけで、身体中が震えだして止まらなくなる、この感情。

 

俺、こいつの絵を、知っている

 

かたく押さえた手の下で、唇が冷たくなって震えている。悲鳴を洩らしながら俺は、数年前を思い出していた。

 

 

あれは、この町に流れ着いてすぐの頃だ。避けて通れない用事で、都心に出て行ったとき。

中心街には、大きな美術館がある。ちょうど何か、大きな賞を受けた絵描きがいるらしく、その石造りの建物の前には報道のカメラと人間が溢れかえっていた。

「最年少で」とか「史上初の」とかいう文句の踊るビラがやけに目についた。長い間染み付いた癖で、キャップのつばを目深に引き下ろす。今頃、あのマスコミの中でインタビューを受けているのであろう、絵描きのことを思って少し、ぞっとした。見るともなしに経歴を見れば、自分と1つしか年の離れていない青年だ。

なぜだかそれが、ずっと胸の片隅に引っ掛かっていた。

 

ほとぼりが冷めた頃、俺はまたその美術館を訪ねた。ピークを越えて少し落ち着いた館内、それでも目的の賞を受けた絵画の前には数名の客が集まっており、思い思いに議論している。その絵を見た途端、俺はその場に縫いとめられた。

 

真っ暗な絵だった。救いもないような、ぽっかりとその場に口を開けた漆黒。

いや、黒い絵だが、黒じゃない。吸い寄せられるように近づいて、絶句した。

 

その、僅か1メートル足らずの正方形の中に閉じ込められていたのは、途方もない数の色だった。細かい細かい、髪ほどの細さで積み重ねられた赤や青、黄に夕日の燈色、とろけるような濃い桃、新緑の蒼―――――ありとあらゆる色が織物のように絡み合い、臓物のようにぬめりながらひとつの「黒」を紡ぎだしているのだ。

目の前に飛び出すほどに重ねられた絵具が、画布に複雑な陰影を落としている。左上に唯一、色の乗せられないキャンバスそのままの空間が残されており、その隙間に向かってあらゆる色がもがき、手を伸ばしていた。

キャンバスのこちら側にさえ、救いを求めて溢れだそうとする色たち。

 

耳に悲鳴が聞こえた。瞼の裏によみがえる、大潮の怪物のようなうねり。身体中に絡みついて鎖のように海へと引き込む、漆黒に沈んだ悪魔の手。稲妻が空を切り裂き、沈む船の残骸が叫びながら砕け散ってゆく。声すら上げられず、海底へ飲み込まれていった愛しい人たちの、こちらへ向けて伸ばされた 糸のような腕。

 

叫んでいるのは自分だった。ちいさな絵画に完全に取り込まれ、俺は恐れおののいて叫んだ。

 

これは、海だ。あのときの、大潮の晩の。

救いのない、あの恐ろしい海だ―――

 

 

 

「あんたの絵・・・俺、知っている―――――」

戦慄きながらもらした言葉に、反応した畑がようやく瞬き、こちらを振り向いた。

 

「――海野サン・・?」

夢から覚めた子供のような顔で、彼は俺を見つめ返した。たった今、こちらの世界に戻ってきたような。すこし掠れた声で、眩しそうに瞼を下ろしながら。

 

「美術館の、真っ暗な海の絵・・・あれ、あんただろ・・」

 

しばらく茫洋としていた畑は、俺の言葉をゆるゆると理解すると、顔色を変えた。畑の瞳が大きくなる。

「・・・アンタ、あの絵を知って―――」

 

「俺、ずっと言おうと思ってたんだ。もし、あの絵を描いた奴に会ったら・・、」

震える言葉が、喉でつかえた。畑の背中に、目の前一面に広がる、真っ青な色彩。夕日の橙に照らされたそれは、生き物のように とくとくと心音をもって揺らめいている。

 

まるで、海だった。

喉でわだかまる言葉が、唇を震わせる。

 

涙が滑り落ちた。

 

「―――なんでこんな恐ろしい絵を描いたんだって。なんでこんな、すげぇ絵を描けるのに、こんな 世の中に何一つ救いなんてないような、恐ろしい海を描くんだって―――首根っこ掴んで、怒鳴り散らしてやろうって、ずっと」

俺は顔を覆った。嵐のような感情が駆け抜け、海風とまじりあって水平線へと吸い込まれてゆく。

 

ずっと思ってたんだ。

 

 

 

「・・・いいよ、描けよ」

夕日の欠片を身に受けながら、俺は畑の顔を真っ向から睨みつけた。同じように、太陽の残滓を身体に纏わせた畑は、身じろぎもせずに、じっとこちらを見つめている。俺は唇をゆっくりと開いた。はっきりと輪郭を持った言葉で、畑に告げる。

 

「俺を描きたいなら、描けよ。」

 

かもめが鳴きながら、海の向こうへ消えていった。甲高い声も夕日と一緒に水平線の向こうへと吸い込まれてゆく。

 

「・・・ただし、もう二度と、あんな恐ろしい絵を描くんじゃねぇ。あんな絵描いたら、俺が許さない・・・!」

 

 

 

「―――わかった」

畑が真摯な声で、小さくつぶやく。

「誓うよ」

 

ざん・・と波が打ち寄せる音がコンクリートの空間に響いた。潮の音が膨らんでいる。満潮が近い。

真っ青の海を湛えた駐車場の壁から その音が漏れてきているような、そんな錯覚に俺は陥った。

 

壁の海の絵は、たとえようもなく美しかった。澄みきったブルーが、壁の中で揺らめいている。

彼の生み出したどこまでも広がる青い海に、俺は静かに溺れた。

 






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