じりじりと、夏が世界を焦がしている。

俺は一つに束ねた黒髪を、きつく縛りなおした。

 

窓の外は恐ろしく暑かった。作りたてのコンクリートで固められた 蝉のいない静かな町だが、敷きつめられた真新しいアスファルトだけは馬鹿みたいに太陽を吸収し、熱を放出し続け、そのせいでただっぴろい舗装道路は常に陽炎を揺らめかせている。

きらきら、ゆらゆらと揺れる、密度の濃い夏の空気。その中に佇む、作りかけの街。本当は全部 蜃気楼なのかもしれない。ばかなことをぼんやりと考えながら、俺はしたたる汗をぬぐうのも忘れ、ただその中に立ち続けた。

 

車でも通ればいいのに。多くの人や車を通すはずだったアスファルトの上に、夢のままで消えてしまったにぎやかな街の幻影を見る。

半分裸の肩に胸に、背中に、じゅわ と照りつける太陽。肉が焦げる匂いがしそうだ。俺はそっと、右足を引きつらせる隆起に触れた。ケロイドになった傷が火照って痛んでいる。皮膚から滲み、玉になった汗が、結い上げた髪やら指先やらから滴って、地面へと吸い込まれていく。

―――あぁ、暑い。視界がかすむ。

もう限界かもしれない。思ったところで腹をくくり、俺は、体育館へと踵を返した。

 

プールへ続く扉をあけると、水分をたっぷり含んで温度を下げた空気が、火照る皮膚を心地よく宥めた。

枯れた喉に、湿度の高い空気がしみこむ。慣れ親しんだ塩素の匂いが、ふわりと鼻孔に広がる。

久しぶりだ、と思った。この空気も、天井の高いこの空間も、足の裏を濡らす、水の感覚も。

 

うみのサン、と慌てた声がし、視界の端で銀の影がざわめいた。

「――――ひょっとしたら、あのまんま逃げられたんじゃないか って思ってた」

光を反射して、銀髪が揺れている。瞬きながらそちらへ目をやると、プールサイドに座り込んでいた畑が、少し腰を浮かせながら笑顔を見せていた。

硬そうな素材のハーフパンツとTシャツの裾が、プールから溢れる水で濡れている。彼の脇には大ぶりなスケッチブックと、黒いカバンが置かれており、縁からこぼれる水にぎりぎり触られそうな位置で 所在なさげにしていた。

「どこいってたの」

「・・・ちょっと、頭冷やしてた」

言いながら近寄ると、太陽の熱気のこもった俺の顔を見て、「外で?」と畑が笑った。

 

 

“とにかく、デッサンをさせてほしい”

畑の申し出を受け、俺は彼のモデルを引き受けた。・・なんて言うほど大したもんじゃあないんだが。大体、モデルなんて言葉はきれいな人間か、彫像になりそうなすらりとした奴に対して使うもんだろ。こんなごつごつして日に焼けた男を捕まえて、何がモデルか。そぐわないったらない。

気恥ずかしいこともあり、「好きにすれば。」顔をしかめてそう言うと、畑はすぐに「じゃあ、泳いでるアナタが描きたい」と目を輝かせた。いつも通り、普通に泳いでいてくれさえすればいいという。自分はそれを勝手に描かせてもらうから、と。

 

 

 

全くプールから離れてしまっていた自分が また水の中へと足を踏み入れるのには、少しの躊躇いが要った。

幼いころから馴染んだ場所であるにもかかわらず、少し足が遠のいただけで 水の中を思い出すことは次第に困難になっていて。あれだけ身近だった所なのに、よそよそしい顔をしたプールに拒絶される妄想さえ抱くことができた。

 

すこし、怖くなる。

 

ずっと、自分は水から離れては生きていけないと思っていた。それほどに泳ぐことは昔から自分の身体に馴染み、人生の一部であり、呼吸するように自然なことだと思っていたからだ。

―――だが、どうだ。泳ぐことを生活から排除してもなお、こうして自分は生きているじゃないか。

自分と水泳との間には深い結びつきがあって、お互いに切り離せないものだと思っていたのに、それが勝手な思いあがりだったことをぼんやり悟り、俺は改めて、自分が何も持っていないことを感じた。

自分には何のとりえもない、泳ぐのが好きなだけの ただの人間だ。

 

そんななんでもない俺にずっとこだわって 追いかけてきた美大生―――「畑 カカシ」に対し、俺は申し訳のない思いを抱きはじめている。彼の扉の絵を見たときから、その思いはずっと強くなった。 

 

こいつは、ただの学生じゃない。美術関係にはおよそ疎い俺にすら、彼の絵から伝わる尋常ではないエネルギーは理解できる。学生の身分で、報道にあれだけ騒がれていた彼だ。恐らく、俺の前で小さく縮こまり、困ったように笑っているこの男は、無名にもかかわらずマスコミがあれだけの人数を投じた才能の持ち主。将来の業界を背負って立つような人材であるに違いない。

俺が昔、そう勘違いされていたように。

 

 

***

 

 

銀の梯子に腕をからませ、一つ、大きく深呼吸する。息をつめて、冷たい壁を蹴り離した。

身体が水のひずみに吸い込まれ、とぉん、と清んだ音。それっきりプールの中は静まり返った。

細かな泡が裸の胸をくすぐり、上へと逃げていく。耳の横ではじける真っ白いあぶく。青い水がさざなみを作り、髪の間を腕を腹を、指の間を通り抜けて、くぐもった笑い声を上げる。

目の前によく見知った、まろい青の世界が現れる。

一面の、薄いミルクで溶いたようなペールブルー。魚ではない人の目は、水中ではぼんやりと風景をぼやけさせる。それでも俺には、向こうへまっすぐと伸びるコースレーンと、ゴールへ収束するラインがはっきりと見えた。

“―――ひさしぶり”

小さく口にすると、唇からあふれた泡が耳たぶに触れ、上空へと溶けていった。

 

俺は静かに、プールの底を撫でた。つるつると指を滑らせながら、青い水の中をそっと進んでいく。夜の大理石の回廊を抜けて行くような感覚だ。なめらかな床はぬるみもなく磨きあげられており、畑が掃除してくれたという爺さんの言葉を思い出した。

太陽に焼かれた体に、しっとりと水がしみ込んでゆく。ぐるりと身体を回転させながら、その感触を確かめた。

 

自分と水とを隔てていた壁がふやけ、境界線が、次第に曖昧になっていく。

いたわるような、優しい手の感触にも似た水温に、思わず胸が熱くなった。

 

 

競技用のプールは、中央が3メートル超の深さになっている。泳ぎやすいように、水の力で極力、波を抑えるためだ。静けさを湛えた、海のような世界を真中へ向かって進み、ふと見上げると、遥か高い位置に水面があった。薄いブルーがちかちかと、照明を乱反射させている。

“・・・こんなに高かったっけか・・”

ぼんやりと思いながら、俺は水色の床に膝立ちになった。

 

―――そういえば昔、海の中で太陽を見上げた時もこんな感じだったなぁ。

 

 

茫洋と横切る記憶を、そっと手繰っていくと、小さな入り江で手を振る年若い両親の姿が蘇った。

そうだ、あれはまだ、自分も小さく、両親が一緒に海で泳いでいてくれたころだ。泳ぎが得意で、やんちゃだった俺は、波に洗われる浅瀬からどんどん泳いで行って、頼りなげな細いロープを跳び越えてさらに沖へと出た。

 

そこから先が、海水浴には向かない深場だということは知っていた。両親の声をよそにさらに先を目指し、腕がだるくなってきたあたりで、身体を翻し、俺はまっすぐ海の中へ突き刺さる。

一瞬で世界が反転した。視界に入ってきたのは、見たこともないような深い群青色。プールにはない色彩に息をのんだ俺の目の前を、白く輝く小魚が群れをなして横切ってゆく。

と、不意に鼻先に焼けつくような痛みを感じた。視界にぱっと、鈍色の赤が散る。打ち寄せる波に揺られ、岩壁に打ち付けられたのだ、と気付いたのは、一瞬後。

そこはまだ、水深2、3メートルほどの場所だったのだが、明らかに異質な世界に俺は圧倒された。しっかり閉じていても、唇の隙間からむりやりに割り入ってくる、潮の匂い。しずんだつま先がざらりと岩礁に触れ、慌てて足を引っこめる。そっと砂地に降り立ち、海底からぼんやりと空を見上げた。

 

ぐおん、と空気を揺るがして、真っ黒い魚影が頭の上を飛んでいく。カーテンの様に広がっていた銀の小魚がぱっと散っては、また元通り大きな一枚布になって、海の中を漂っている。ぴりぴりと肌を刺すのは、目に見えないくらい小さなプランクトンたちだ。

皮膚の裂けた鼻っ柱が、じくじく熱をもっている。海が静かに、身体に浸みていた。

あふれるような生き物の気配を感じた。大きな海に抱かれて、俺は魚の気分だった。

ふと思い出したのは、教科書に載っていた、黒い小さな魚のはなし。あの、大きな海でひとりきりの魚だ。何にもない、ただひたすらに広い広い、青い世界。そこにぽつんと落とされた、ちっぽけな俺。

・・・けれども、不思議と淋しくなんかなかった。海に抱かれた無数の生物の気配が、肌をざわめかせ、優しい腕で俺を包んでくれていたから。

 

―――あのあと、両親にこっぴどく叱られた俺だったが、初めて目の当たりにした世界は俺の心にしっかりと食い込んで離れなかった。鼻先の傷はずっと大人になっても消えず、オレの勲章になった。

 

そんなことを、ふっと思い出した。

 

 

プールに横たわり、俺は目を緩める。小さな生き物なら押しつぶされてしまうくらいの量の、柔らかくたわんだ水が、俺の身体をすっぽりくるんで肌に心地よい圧力をかけていた。

“ここにいるぞ”、という、見えない水の自己主張に、俺は少し笑う。

 

 

本当は、今だって海で泳ぎたい。生命の塊のような、活き活きと脈打つ海は、自分を大きく変えてくれたものだ。けれど、実際は、両親を海で亡くした満月の晩から、俺は海に入ることができないでいる。

 

―――怖いのだ。海が。

 

あの大時化の夜、自分の力をはるかに超えたこぶしで、やすやすと船の背骨をへし折ってみせた化け物。真っ黒な腕は、父の、母の、そして他の人々の息の根を、たった一ひねりで止めてしまった。

あの夜から、海は俺にとって憎しみの対象になった。海に向けて罵声を浴びせ、泣き叫び、いっそのこと俺も、と、ずたずたになった脚で、松葉杖を引きずりながら何度入水しようとしたか。

だが、できなかった。海に一歩足を踏み入れようとした途端、たとえようもない恐怖が体中を駆け巡り、海水に爪先をつけることすらできなかったのだ。

 

俺は海を憎み、そんなみじめな自分を憎んだ。けれど、どれだけ嫌いになろうとしても、自分の中に根付いたうつくしい海の記憶は薄れることがなかった。どれだけ逃げても、いつも気がつけば、海の見える場所に戻ってきていた。

猿飛の爺さんが借り受けてくれた、このプール。きっと爺さんは知っていたんだろう。(あの人はいつも、なんでも知っている。)逃れようとしても、俺が泳ぎから逃れられないこと。俺の心は、海に囚われたままだということ。

俺がいつも、このつくり物の世界から、はるかガラス窓の外に広がる海を眺めていること。

 

 

 

俺は、プールの底でそっと横たわる。身体の空洞に入り込んだ空気が圧力を変え、鼻の奥がぎゅう、と絞られたようになる。

耳の奥に入り込んだ水は、そこに溶け込んだ無数の音を身体の内部へ届けてきた。

 

水の中から、生徒たちの声がよみがえる。小さなこども。俺のふとももくらいの高さしかない、ちいさな体。けれどいつも俺にやさしく寄り添って、俺を信じて、ついてきてくれる子供たち。

爺さんの声も聞こえた。何度も自殺を図った俺に、ばかもん、とゲンコツと共に落とされた優しい声。

 

俺は目を閉じて、じっと耳を澄ます。

背中から響くかすかなモーター音は、ここの水を引くための機械の音だ。内臓をそっと震わせるそれすら、懐かしかった。

 

目を閉じていると、瞼の裏で、無数の小魚の群れが走る。太陽の光できらきら反射する、細かな鱗が裏側から目を焦がす。

それは大きなうつくしい布。かがやく魚の群れだ。ひとり、真っ黒な俺は、それを羨ましく見やりながら、ぼうっとする。

ひかる白銀の群れの中には、両親の面影もあった。あの日、海でなくした二人の命。あぁ、ふたりはこんなにきれいな魚になったのか。

魚にもなれなくて、人としても中途半端で。どこにも属することができない俺は、ただじっと、自由で美しい群れを目で追う。うらやましい。いいな。きれいだ。

 

・・・俺も、そこに行きたかった。

 

と、鼻先でひらり、と身を翻した、銀色の美しい魚が俺に囁いた。

 

 

“――――自分が要らない人間みたいな、そんな言い方をするなよ”

 

 

俺は薄く眼を開いた。プールの波紋を散らす光が、上空で花弁のように舞い踊っている。病院で心配そうに俺を覗き込んでいた、銀髪の男が 目の前のイメージに重なった。

 

“―――――オレには、あんたしかいない”

 

ふと、唇が笑みの形に歪んだ。さけた口の端から、ちいさなあぶくが吐き出される。

 

なんて言い方。・・・まるで

 

(プロポーズみたいだったなぁ、あいつ)

 

思い出すと、可笑しくて腹がよじれた。おもわずかぱりと大きな空気を吹き出してしまい、慌てて口を押さえる。あんな男前なのにさぁ、あんなにきれいなのにさ。

(ずっと俺なんかに必死なんだよ、おかしいなぁ)

なんで。こんな何にもない奴なんかに。

 

(おかしいなぁ)

 

考えていると、なぜだかぶわりと涙があふれた。鼻の奥に鈍い痛みがはしる。水とまじりあった涙は、すぐにプールの中へと溶けてゆく。視界一面が俺の涙で埋め尽くされたようにみえた。口を押さえていた手をずらし、目を覆う。

 

水の揺らめきが、髪をやわく梳いてゆく。海の中にも風は吹くのだと、揺れる珊瑚を見ながら いつか考えていたことを思い出した。

 

(なんでだろ・・俺はプールの中にいるのに)

 

俺は茫洋と前を見る。焦点を結ばない目から、濃度の高い水滴がわき出す。

 

(ひとりでいるのに)

 

ここにあるのは、大きな水槽のはずなのに。四方を壁に囲まれた、ただのプールのはずなのに。

 

(―――思い出すのは、海のことなんだよ。昔泳いだ、広い広い海のことなんだ。

俺はひとりなのに、考えるのは皆のこと。自分勝手に生きようとして、望んで孤独を手に入れたのに、たったひとりになって思い出すのはみんなのことなんだよ。おかしいなぁ)

 

 

水の底でうずくまっていると、プールに溶けた数々の記憶が膨らみ、俺の頬を打った。周りに渦巻く気配。水の中にうつしこまれた言葉や風景や、たくさんの人たち。感情。そういったものが数えきれないくらいの生き物となり、さんざめき、笑いながら俺の横を駆け抜けて水面へと昇ってゆく。

 

幻の中から、するりと差し出された手があった。しろい、透き通った手だった。

その先で、美しい銀髪が波に舞い、通った鼻筋の男がわらっている。左目をまたぐ、大きな傷跡。

 

「―――――ツ!」

 

思わずその手をつかもうと腕を伸ばす。圧力が変わり、身体がすごいスピードで押し上げられ、気がつけば俺は、水面に踊りでていた。大きく喘ぐ。肺の中に、甘い空気がなだれ込み、手足隅々の細胞にまで一気にしみわたるのを感じた。

そのまま、おおきく水を掻く。腕いっぱいに水をはらみ、またひと掻き。身体の横を風のように、風景が流れてゆく。はためかせた爪先から水流がうまれ、それが勢いよく後ろへと流れ去っていくのがわかった。

瞬間、目の前にぶわりと一面の壁が広がる。それを目で捉えるよりも前に、肌がプールの端を感じ、自然と肩から上の筋肉が撓って身体が半回転した。

プールの中の光がぶれ、身体の周りで生まれた竜巻が、心地よく体中に絡みつく。撓めた足が壁をとらえ、それを大きく蹴りだして 重力のかかった体ごと、広いプールの中へとなげだす。

途端に体中を包んだ、とてつもない解放感に、俺は身震いした。

 

―――やばい、とびそう・・・

 

水の中を、身体が突っ切ってゆく感覚。重力すらも操り、何もかもから自由になったような心地に、唇が思わずうすく開く。目を細め、俺はプールの中に視線を流した。青白い自分の肌の上を、光の波紋が金のマーブルを描き、頭の先から胸、腰へとたどってゆく。柔らかな模様は、長く伸ばした足の先、つま先から抜けてゆく。

 

ターンの勢いで、解けた髪が指に触れた。水の中で、長くなびく黒髪を生え際から梳きあげると、ぐっと強く結い直す。

何度も瞬き、顔を上げて目の前を真っすぐに射抜く。

――――ここに戻れるだろうか。もう一度

強い思いと、身体の底から湧きあがった衝動と共に、俺は水を蹴った。

 

 

 






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