大きな水滴が、たしん、とプールの水面を叩いたのに、俺ははっとした。

 

気がつくと、二の腕がじんわりと痺れていた。久しぶりに動かし続けた足先も、柔らかな靴をまとったように ぼんやり感覚が鈍っている。ぱちりと瞬きをして、俺は周りを見渡した。手が水色に染まっている。水の中にいる。

(――――あ、れ・・・今、何時だ?)

しまった、夢中になってた。しばらくぶりのプールは羊水の様に心地よく、思わず時間を忘れていたことに驚く。

 

ひとかきして、重たい水の世界から水面へと浮上した。ブルーの境目を突き進んでいた身体が、ふっと動きを止める。

プールは急なそれに驚いたように、おとなしくなった身体を惰性で押し返した。

 

はぁ、はぁ、と熱い吐息が自分の頬を揺らしている。全力でグラウンドを走りまわった後みたいに、ひどく息が切れていた。

唇から筋になった ぬるい水がしたたる。火照った頬が、あつい。

どれくらい泳いでいたんだろう。時間はそう経っていないように感じるが、プールを何往復したのかさえ覚えていなかった。

 

水面で酸素を求めて喘いでいるうちに、ぼんやりしていた意識が すっと透明になる。ふと、プールサイドへと目をやった。そういえば、あいつは。

畑に絵を描きたい、と言われてこうしていたんじゃなかったか。

 

 

視線を泳がせると 広い空間の端で、窓から差し込む太陽と一緒くたになった銀髪が揺れていた。畑だ。俺は塩素を含んだ水をふるい落とし、何度も瞬いて、視界をクリアする。

 

―――彼は、じっと手元と向かい合っていた。整った貌が、瞬きも忘れて、焦がさんばかりにスケッチブックを覗き込んでいる。彫像のように固まった身体で、唯一鉛筆を握った彼の右手だけが、止まる時間すら惜しいと動き続けていた。

彼の周りに散乱する、やぶりとられた幾枚もの画用紙。カバンから同じ色の筆記具があふれ、そこいらじゅうに撒かれているのが、子供のおもちゃに見える。柔らかなプールサイドの光がそこに落ち、畑の白皙を際立たせていた。

とーん、と、どこからか落ちた大ぶりの水滴が、また湿った空間を響かせた。

 

(・・・凄い目だ。)

 

俺は静かに凍りつく。見開かれた畑の目。透明にしずむ、色素の薄い青灰色の瞳が、スケッチブック上を痙攣しながら、隈なくはしっている。彼の首筋から立ち上る鬼気が、声すら安易にかけられないバリケードになっていた。

 

しずかなプールに、さらに世界を塗り固めたような 静寂が満ちた。

 

波が肌を洗う軽やかな響きに、鉛筆のこすれ合う音。普段は聞こえるはずもない微かな音たちが、はっきり耳の奥に届く。ゆったりと長い脚を組んだ畑は、あぐらの中に抱き込んだ白い紙束をいとおしむように指先で辿った。上背のある体躯の、しなやかな筋肉の隆起がシャツを透かして見える。

彼の光に透けた瞳が、優しく細められるのを見て、俺は思わず息をのんだ。

 

―――なんて、優しくわらうんだろう・・・

 

初めて見る柔らかい畑の表情に、瞬きを忘れて見入る。踊るように揺れる、絵を描く彼の長い腕。右手の鉛筆は、スケッチブックの上を淀みなく飛びはねている。

と、畑の大きな手のひらが、すぃ、と止まった。一呼吸おいて、その爪先がそっと、スケッチブックに翳される。指先が、絵の輪郭をなぞる。出来栄えを見ているのだろう、優雅なその仕草に、俺は目を瞬かせた。人の手って、あんなに柔らかな動きをするものなのか。

彼は、いま描いていた絵の表面に、ていねいに指をすべらせた後、無意識だろう、

 

口づけるように そのまま少し開いた自分の唇を、撫でた。

 

 

不意に心臓が、どっ、と音をたてた。虚をつかれた俺は、激しく跳ねた胸をとっさに押さえる。

 

・・ぇ?なんだ、―――

 

俺は畑にくぎ付けになっていた目を、慌てて引きはがす。抱き寄せた自分の肩が、鼓動に合わせて揺れていた。

身体をなだめるように、そのままつめたい水に沈み、プールの底を蹴る。真っ青な視界が、頭の中を落ちつかせた。何故だか後ろめたい、背徳的な気持ちに、困惑する。

自然と眉が顰められた。どういうことだよ。

 

―――俺には別に、そっちの気はないぞ・・?

 

俺は水の回廊を抜け、プールの端へと辿り着く。大量の水の中を泳ぐうちに、きまぐれな胸のざわつきは消え去っていた。深く考えるのが性に合わない俺は、そのまま底のリノリウムを蹴って伸びあがり、勢いをつけて ざば、と畑の足元に顔を出す。

「――――はたけ、」

「っ、わ!」

完全に不意をつかれた畑が、驚いて仰け反った。彼の手からバサバサと紙の束がこぼれる。彼の慌てぶりが可笑しくて、俺はプールサイドに上半身を預けて笑った。

「う・・・海野サ、ン―――」

背中側に腕をついた畑は、夢から覚めたような顔でこちらを凝視した。なぜか、何か怖がるように、尻もちの体勢で上体をすこし引く。

「わ・・・」

彼の唇が何か言いだすのを一瞬待ったが、吐息まじりの声をこぼした後、畑は固まって動かなくなった。そんな様子に、俺は再び吹き出す。

「ははっ・・わりぃ!おどかしたか?随分集中してたよな。かけたかよ、お前の言ってた『デッサン』―――」

 

俺は、水際に舞い落ちた一枚を拾い上げ、ひょといとのぞきこんでみる。

 

「・・・え―――――?」

 

背筋がぞわり、と総毛だった。喉が鳴る。

 

「な、―――――これ・・・?」

 

宝石のような漆黒が、目を焼いた。つるりと光る、磨かれた石のような、輝く眸が画用紙の中からこちらを見ている。

白いスケッチブックの中央には、流線型の美しい生き物―――ひととも、魚ともつかない優美な生物が描かれていた。勢いのある鉛筆の線が何本もうねり、それが絡み合ってその絵の主線を形作っている。水の中からまっすぐ伸ばされた腕は、たしかに人間のものだが、しなやかな背中のラインから長くのばされた尾びれ―――そう、まさに“ひれ”だ。人にはない柔らかさをもって描かれた半身は、まるで波の隙間をとび上がる飛魚のようにしなり、ひかる水滴を白い画面にまき散らしていた。

“うまい”、なんてもんじゃない―――そんな陳腐な言葉は飛び越えて、ほんとうにイキモノが画布の中に閉じ込められているのかと思った。その絵の持つ引力に、俺は引き込まれた。外枠を描く力強い線とは裏腹に、繊細な織物のような、かぼそくやさしい線が、生物の体を彩り、滑らかな肌の様子を際立たせている。水中に沈められたその爪先は水に溶けあい、そのままとろけるように掠れて、スケッチブックの白い世界と一体になって消える。

 

(――――す、ごい)

 

無意識に息をつめていた唇が、ふ、とほころびた。胸が震え、長い溜息が洩れた。

 

きれいだ・・・

 

神話の押絵に描かれそうな、その生き物は、美しい黒髪をたずさえている。長いそれが、波間をうねり、複雑な模様のように画面をたゆたっていた。

しかし、何より俺が目を奪われたのは、その生き物の表情―――くっきりと濡れた、黒い瞳が物語る、幸せでたまらない、という 甘い表情だった。

見ているだけで胸が躍るような。

(え・・・?でも・・)

俺は慌てて、畑の足元に散った紙を拾い集める。一枚、また一枚・・・描かれているのは全てその優美な線で構成された生き物で、俺は思わず目を瞠る。

「お、まえ・・俺を描くんじゃなかったのか」

声が掠れた。茫然とスケッチブックを見つめる俺に不思議そうに瞳を瞬かせた後、畑はふ、と息をこぼす。

「何言ってるの―――アナタじゃない。」

「え」

「全部、アナタじゃない。ここにいるの、ぜんぶ、アンタ――オレは、海野サンを描くために、ここまで来たんだよ?」

 

畑が抱え込んでいたスケッチブックをはらはらと開いて見せる。全てのページが勢いのある鉛筆の線で埋め尽くされ、そのどこにも 先ほどの美しい生物の姿があった。流線型の、神話の中の人間のよう。長いたてがみをもつ、しなやかな生き物が。

「俺――――?これが・・?」

「そう。アナタ」

信じられない思いで、俺は差し出されたスケッチブックに見入った。タイルの上に、ひたひたと水が押し寄せ、俺の濡れた手に抱かれたスケッチブックは、静かに水を吸い込んだ。端のふやける柔らかな生成りの世界を、楽しそうに泳ぐけもの。

 

俺は顔を歪めた。とんでもない、と指先がふるえる。かぶりを振る。何度も、何度も。

「莫迦言うなよ・・・違う。 ―――俺、こんなにきれいじゃない」

俺の手に握られた白い画面の中で、けものは、こちらに向かってわらいかけているのか。水分の多い、真っ黒な瞳が、笑みの形に細められている。水面で、息をついでいる、それとも、うたでも歌っているのだろうか。この世には辛いものなんてなんにもない。幸せで仕方がない。柔らかなふくらみをもって描かれた唇が、そう囁きかけるようにうすく開いている。

嘘だ。こんな幸せな表情、俺にできるわけがないだろう。汚れて傷だらけで、欲に塗れた俺のする顔じゃない。

「おれじゃない・・」

見ているだけで心がふるえる、こんな美しい絵が俺、だなんて。

 

「なーにいってんの、海野サン」

畑が笑っていた。絵に向かい合っていた時と同じ、柔らかい光のような。すべて包みこむ微笑みだった。

「アナタだよ」

 

ほら、わかる?ためらいがちに俺の手首を取った畑は、その手を自分の胸へと導く。不意に熱い彼の胸元に触れさせられ、俺はびくりと指を竦ませた。

「・・アナタのこと見てるだけで、ほら。もう、オレこんな――――心臓がうるさくて、止まらない。海野サン、やっぱりアナタ、すごいよ」

俺の手を握る畑の指が、わずかに震えている。押しつけられた指先に伝わる彼の鼓動が、振り切れそうなほど速い。こちらを熱のこもった眼でじっと見つめる彼に、その真摯な瞳に、思わず自分の頬が染まるのを自覚した。

彼の秀麗な顔を、まじまじと見ることに耐えられず、ふと視線を外した先に、スケッチブック。プールの波に洗われるその中の「自分」と畑が言う、生き物と目が合う。心から泳ぐことを愉しみ、全身から嬉しさを溢れさせている、美しいけもの。

不意に、言葉に詰まった。

「――――俺、こんな顔してるのか・・・?」

呟かれた俺の言葉に、畑は嬉しそうに微笑むと もちろん、とすこし顎を引いた。

「・・・いつもだよ。アナタ、ホントに泳ぐのが好きなんだね。見てるこっちがうれしくなるくらい」

午後の光が、高いガラス張りの壁を通り抜けて、水の上に金色のマーブルを描いている。温かなひかりはスケッチブックの上にも落ち、その中の生き物に優しい体温を与えていた。

 

そう、か・・・

 

畑がしていたように、俺は分厚い画用紙に指を当てる。どくどくと心音が聞こえた。脈打つ白と黒の、美しい世界がゆらめく。響いているのは、自分の心臓の音なのかもしれなかった。

 

俺はまだ、こんな顔ができてるのか

 

 

「・・・すごいなぁ、お前」

洩らされた俺の言葉に、畑は不思議そうな顔をする。凄い、そうだろ。

だってお前は、一枚の絵で、一瞬でひとの心を全部、持って行ってしまうんだぞ。

 

「すごい・・・、すごい――――」

体の芯から、感情があふれた。それをきちんと、爪先から頭のてっぺんまで余すことなく満たして表現することのできる言葉なんて見つからず、壊れたレコーダーのように、同じ言葉ばかり滑り落ちた。すごい。何でこんな絵が描けるんだろう。こんな、見ているだけで心が焼き切れそうなものを生み出すことができるんだろう。ずっと胸の奥に押しつけて、凍らせていた感情が、堰を切って流れ出す。海の波に、背中から押し上げられるような感覚に、俺は身を震わせた。

「触れて、いい?海野サン・・・」

じっと俺の顔を見つめていた畑が、小さくつぶやいた。まだプールの半身をつけたままの俺に目線を合わせるように、そっと身を起して身体を乗り出す。

彼の長い指先が、遠慮がちに差し出され、俺の頬へとふれた。魔法にでもかかったように、俺は彼の瞳に縫いとめられる。

「アナタ、ほんとうは嫌なんでしょう。自分に嘘をつきながら、こうして生きていかなきゃいけないこと。

だってアナタの目の中、いつもありったけの悲鳴が詰まってる。」

いつも自分の前では、どこかおどおどしている彼の目が、あまりに真っ直ぐに自分のことを映してくるので。俺は全ての言葉を、その澄んだ目に奪われた。

「・・・でもね、悲鳴といっしょに、すごくあったかいものもたくさん詰まってるんだ。・・・だから、そんな風に心の中で泣いちゃいけない。外に出さずに、身体の中で溜まった悪い感情は、きっと人をおぼされせてしまうから」

苦しみに顔をゆがめながら(どうして。あんたがそんな顔をする必要はないのに)、目の前の美しい男はたどたどしく言葉を紡ぐ。

(なんでそんなにまっすぐに俺を見られるんだ。俺はあんたが思っているような、高尚な人間じゃなかっただろう)

話すことに慣れていないのだろう、たくさん逡巡して、言葉を探して、

(あんたのことを、たくさん失望させたはずだ)

それでも、その目は俺に必死で何かを訴えかけていた。



(なのに、あんたは)



「―――オレも、そう。外に出せなくて、いつも溺れかけてた。でも、オレには絵があった。絵を描くことで自分の中のもの、全部出すことができる。・・・感謝してるよ、アナタがこうしてオレを許してくれたことで、オレはまたひとつ、生きていくことができた」

だから、と畑は俺にひときわ強い視線をよこす。

「誰にも言えないんなら、オレがアンタの涙を聴くよ。ずっと聴いていてあげる」






耳の奥で、ずっと鳴り続けていたものが、ひとつの音の姿をとった。水の中からよみがえる、幾千もの人の声にとり替わり、身体の奥から鼓膜をそっと震わせる、優しい音楽だ。

身体中をすっぽり満たし、内側から温めるようなその音は、畑の声ととてもよく似ている。

 

「―――なぁ、俺、あんたの前で嫌んなるくらい泣いてるな」

生ぬるい滝が自分の頬をつたい続けるのを、俺は頭の隅で思った。手の甲で拭った頬はあたたかく、濃度の高い涙がひりひりと手のひらを濡らしてゆく。

「情けねぇ・・ほんと、いやんなる」

涙が雨のように流れていた。こんな泣き方が出来たのは、いったいいつ振りだろう。前後不覚になって、疲れて眠ってしまうまで泣けた、幼いころの記憶がよみがえる。あぁ、涙だ、涙。両親を失ってから、競技の世界から追われてから、ずっと押し止めていた涙が、ひといきに心を洗い流して、こぼれ落ちてゆくのが分かった。

 

「・・けど、ありがとな・・・畑」

甘いゆるしを俺に与えた男は、にじんだ視界の中、俺の頬を何度も撫でる。

「―――ごめんなさい」

小さく落とした俺の謝罪は聞こえないふりをして、「プールの休講通知、はがさなきゃね」と 畑は首を傾げて笑った。

 

 

 

 






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