青い世界に、恐る恐る足を踏み入れた。はだしの足を、さらりとした水がくすぐって逃げてゆく。

くわんと耳に反響する、自分の足音。

肺いっぱいにカルキの匂う空気を吸い込み、オレは周りを見渡した。大きな大きな水槽の中、視界いちめんを覆う ペールブルーの高い壁。つるりとしたそれをつたう水が、幾筋もベールになって足元へと滴り落ちてゆく。まるで舞台へ降りる優しいカーテンのようだ。

 

すごい・・

 

素足をさらっていた水は、見る間に排水溝へと姿を消した。空になったプールの中、オレの背丈よりまだ高い四方の壁に囲まれ、まばゆい気持ちで上を見上げる。
きらきらと輝く照明が、天井の高い位置から光の粒を落としている。

すごい、何にもない

オレはもう一度、360度ぐるりと見回した。どこを見ても 優しいブルーの世界が広がるばかり。50メートルの大きなプールからは水が全て抜かれ、オレはその真ん中で 空洞の青い世界に圧倒された。

 

「はは・・・」

 

気持ちが浮き立ち、なんだか子供のように無性に笑いたくなる。漏らした声さえも この大きな楽器の中では反響し、うすいレイヤーとなって重なり合い、不思議な旋律となって空間に響いた。

 

きれいだ

 

オレは何度も、プールの空気を胸いっぱいに深呼吸した。肺を満たす、懐かしくて清涼な香り。

 

猿飛老人の好意で、オレはこの公共施設で海野を待たせてもらうことになった。毎朝定刻に家を出て、バイクで海辺の道を走り ここへ向かう。

ただ待たせてもらうわけにはいかず、オレはこの施設の仕事を手伝わせてほしいと申し出た。老爺は最初 渋っていたが、次第に色々な雑務について教えてくれるようになった。

小さな公共施設とはいえ、仕事の量は少なくない。大小ふたつの体育館とプールを持つここは、分類としては大きな施設と同等になり、管理の類も徹底したものが望まれるのだという。受付はもちろん、体育館の掃除・器具類のメインテナンス。バスケットゴールやボール・卓球台など逐一点検して、不具合が起こらないよう整備する。

それぞれの監視や、月数回行われる教室などのスケジュール調整に、細かな事務報告書のまとめ。

 

そして、あの大きなプールの掃除。

 

オレが施設に通いつめてしばらくたった頃、老爺は すまんがそろそろ、プールの水替えを手伝ってもらおうかの、と切り出した。 

「水を替えるんですか?」

「そう。ここは、病院もないような小さな町じゃ、客は少ないが、それでも水は少しずつ汚れる。客が多くなる夏に備えて、この時期に水替えをするのが常なんじゃがな」

 

ただ、と言って彼は顔をしかめる。

「風呂掃除と違って結構な重労働じゃから、2人は人手がいる。お前さん、申し訳ないが手伝ってもらえるか?」

 

「えぇ、そりゃ・・いくらでも手伝わせてもらいますが」

要はプールの水を抜いて、掃除をすればいいんだろう?

怪訝な顔をしたオレに、老人は掃除の要旨を大まかに説明した。大きく分けると、水を捨てて中を掃除し、また新しいものに替える、ということなのだが、考えていたよりずっと踏まれる手数が多い。

よくよく聞くと、水を抜くのに丸2日、満たすのにまた2日かかるという

 

2日も!?」

「そうじゃ。だから、風呂掃除のようなわけにはいかんといったじゃろ」

そういって猿飛老人は笑った。

 

 

流れ出る水の量は、プールに残った水量で大きく変わる。配水管に大きな負担がかからないようにするため、一人がプールで監視し、もう一人が出てゆく水量をチェックする。プール側の仕事を与えられたオレは、水のあふれる縁に座りこみ、生まれてはじめて、大きな水槽が涸れてゆく様をじっと見守った。

 

 

温度の調節された、水分をたっぷり含んだ空気が オレの頬を撫でる。

 

不思議な感覚だった。今まで身体のうちに溜まった澱のような想いが、水と一緒にゆっくりと流れ出していく。

水面は、殆ど目では捉えられないくらい穏やかに、けれども確実に その高さを減らしていった。

 

 

その途方もない時間、水が流れ出て徐々に低くなっていく水面を見ながら、オレは海野に対して多少の罪悪感を抱いていた。まるで、彼の居場所を根こそぎ奪ってしまっているかのような。

 

けれど、水位が半分を切る頃には、その思いは次第に 別の意思に取って代わられだした。

腹の底に居座りだした強い感覚に、オレは水面を睨みつける。

 

 

見ているか?海野。アンタのプール、もうここにはないぞ。

アンタはこれを見て、どう思う?

・・困るなら、ここに来たらいい。オレを睨んで罵って、殴ればいい。

逃げずに、真っ向から話そう

 

オレは、もう逃げないぞ。アンタが来るのを待ってる。

 

 

 

 

雨の切れ間の太陽が顔を覗かせているのか、ガラスが幾何学的に切り取る天井から、ちらちらと光が差し込んでくる。残り少なくなった水面にもそれは落ち、水の揺らめきを底にくっきりと映し出していた。

オレはレシーバーで猿飛老人に、終わりが近いことを告げる。ほどなくして水が吸い込まれる速度が上がり、やがて ごぽん、という軽い音を立てたあと プールは静寂に包まれた。

 

 

辺りを穏やかな光が満たしている。

 

オレはぼんやりと、組んでいた足を崩して立ち上がる。足が酷くしびれていた。

そのまま、用意していたバケツとデッキブラシを持ち、誘われるように空のプールに足を踏み入れた。

 

 

 

 

プールの中央で、まわりをぐるりと見回す。上から見ている間は気が付かなかったが、競技用に設えたものなのか かなりの深さがあるプールだ。オレの目線よりまだ上にそびえる 柔らかな青い壁。

 

オレは清々しい思いでジーンズの裾をたくし上げ、予定通り、バケツの洗剤をプールに放った。小学校以来、久しく手にすることもなかったデッキブラシを握り替え、力を込めてプールの床を擦りだす。

心地よくプールの底をすべるブラシが、軽い音を立てた。泡立つ中性洗剤の 胸のすくような匂い。

振り仰ぐと、高い位置から太陽の光が零れている。久しくなかった、梅雨の切れ間だ。ここからは見えないが、この天気なら、窓の向こうに横たわる海が見えるだろう。

自然に笑みが漏れた。勢いをつけ、プールの中を縦横無尽に駆け回る。ガキくさいな、と思いながらも、自然と浮き立つ気持ちを抑えられなかった。

 

プールサイドに置いたトランシーバーがざらざらと唸り、“水は抜けたかのぉ?”と猿飛老人の声がする。それに駆け寄り、弾む息のまま応答すると、“なんじゃ、楽しそうじゃなぁ”と笑い声で返された。

 

 

まだ新しいプールには殆ど汚れらしい汚れもついておらず、オレは好き勝手にプールの中を動き回りながら、床に泡の絨毯を敷き詰めることに夢中になっていた。50メートルプールは途方もなく大きく、少し駆けるとすぐにむき出しの腕に汗の粒が乗る。上がりだした息に足を止め、オレは髪から滴る汗を拭った。

 

ここに、海野はいたのか。

 

改めて周りを見回し、その大きさに驚く。こんな、走ってもなかなか辿り着けないような距離を、あんなスピードで。

 

初めて海野を見たときのことを思い返した。美しい獣のようだと思った。水面を盛り上がらせて現れた、彼の滑らかな姿を。無駄のない泳ぎを。近寄りがたい神々しさすら放っていた美しい魚は、子供に囲まれると突然 おおらかな笑顔の「先生」へと姿を変えた。子供のつぶらな眼差しを一身に受け、時に優しく時には厳しく 彼らを導く先生に。子供たち全てを抱きしめんばかりの笑顔と 大きく広げられた手に、何のためらいもなく飛び込んでいた子供たち。海野の幸せそうな顔。

それら全部が、あの夜の街で見かける彼とは全く相容れない姿でオレの中に存在していた。毎度違う女を抱き、オレを殴りつけ罵声を浴びせた「彼」は オレの抱く「海野」の印象と酷くかけ離れたものだった。

なんというか、ちぐはぐな。もともとの性ではないところに、無理矢理 別の人格を捩じ込んでいるような。

 

その違和感は、見ていてとても気持ちが悪かった。最後に出会った彼が見せた、泣き出しそうな顔を思い出す。―――あのとき、レタス越しに見た歪んだ顔は、まるで子供のようだった。

 

 

オレは思わず走り出していた。プールの端から端まで、全速力で。と、底に敷かれた洗剤に足を取られ、あっと思うまもなく床に倒れこむ。

 

「ふふ・・」

 

息を切らしながら、天井を仰ぎ見る。自分が笑っているのがわかった。洗剤の泡がシャツに、ジーンズにしみこみ、腕の下で、耳の横で弾けて小さな音を立てている。

 

海野はきっと、悪い奴じゃないな。

オレはガラス越しに見える空を眺めながら、ぼんやりそう思った。

 

 

身体の下から、低い唸り声のようなものを聞いたような気がして、オレはプールの底に耳をつけた。耳から体中の骨を伝い、響いてくる地響きのようなうなり。その唸りの中には、大小の泡が立てる ごぽごぽ、という微かな音も混じっている。海が身体の下にある、と思った。

目を閉じて、その旋律に聞き入る。耳の下で渦を巻く海は、たくさんの生き物をその身の中に包み、ゆったりと旋回している。真っ暗な、深海のようなイメージはオレの耳から体中に染み渡った。

 

「なんぞ聞こえるか?」

 

目を開けると、プールサイドからおかしそうに笑った猿飛老人が覗き込んでいた。手にはビニール袋が提げられており、そこからパンとペットボトルをいくつか取り出すと、「ほれ、そろそろ昼じゃ。お前さん、何にも食べてないじゃろう」と言ってオレの方に振って見せる。

 

「きれいにしてくれたな。・・なんぞ、新しい絵のイメージでも浮かんだかの」

 

老人は言って、プールサイドに胡坐をかいて座り込む。心地よい疲労と押し付けた頬に伝わる冷たい感触に、オレはぼんやりしながら微笑んだ。

 

 

「ここの水は、浄化されて海に戻る。海の水は蒸発して雲になり、また雨を川や湖に降らせて、それが水道管を通ってこのプールへくる。一部はこうして、わしらの身体の中に入る」

 

そういって、彼はペットボトルの一つを一気に煽る。オレは思わず笑った。

 

「・・思うに、この世に存在する水というのは、ずうっとおんなじ量での、それがめぐり巡って 海になり湖になり雲になり、雨になって、わしら人間になっているんじゃないか。

 

このプールも、海も、わしらも。きっと同じものでできている。

誰もの中に海があり、海の中には誰もが居る。海を見ると不思議と懐かしくなるのは、そういうことじゃないかの」

 

「オレの中にも、海が・・?」

 

驚いて思わず尋ねたオレに、老人はうなずき、

「きっと、お前さんにしかないきれいな海がある」

と 皺だらけの笑みを深くした。

 

オレの中に、海が。

彼の言葉が、身体にじんわりと染み入ってくる。オレはその言葉を反芻しながら またゆっくりと目を閉じた。

 

 

 

そして、まっさらになった気持ちのまま またプールに水を満たす頃には、今度は海野の居場所を整えてやっている気持ちになっていた。優しい寝床を用意して、迷子の子犬を誘っているように。

 

 

 

 

 

新しい水でいっぱいになったプールに、好奇心からオレは 入ってみたい、と申し出た。使用料を払おうとするオレを笑って止めながら、「お前さん、あんだけ働いといて。好きなだけ使うたらええよ」と老人に言われ、オレは初めて、そのプールの水に身体を浸すこととなった。

 

体温よりいくらか低く、さらりとした水がまとわりついてくる。銀のはしごを降り始めるとすぐに、体を埋めてくる圧倒的な量の水。端の比較的浅い位置から入ったにも拘らず、途端に鼻上まで上がった水位に驚いた。

(相当深いな・・)

端から見ると、プールは果てもないほど大きく見え、まっさらな日の光を受けて輝いている。

 

まだコースレーンも張っていない、自由なプール。足が付かないことを覚悟しながら、オレはプールの中央に向けて泳ぎだした。

圧倒的な量の水が、腹の下から体を押し上げてくるのが分かる。眼下で見る間に遠くなる、プールの底。

 

久々に泳いだ身体はすぐに音を上げ、オレは背中でプールに浮かぶ。自分は人間だな、と苦笑しながら また海野のことを思い描いた。

息を整えながら見上げると、まばゆい照明が水に馴染んだ目を焼いた。瞬くと涙が溢れる。

 

これを、彼は見ていたのか。

 

海野の見ていた風景を、同じ位置から眺めながら、オレはぼんやりと喉を鳴らす。感慨というよりは、もっと曖昧なものが胸のうちに広がっていった。

 

中央あたりまで来ると、オレは息を大きく吸って 思い切って水底目掛けて潜り込んだ。

 

目に飛び込んだ辺りの風景は、ただひたすらに青く、深く。その静けさに、しずかに心臓が跳ねる。

一度目は、脈打つ心臓の激しさに負け、プールの底に手を付くことすらできず、喘ぎながら浮上した。

深呼吸して、あせる心を宥める。大きく空気を食んで、もう一度。

でき得る限りの静けさで、オレはそっと、水中に頭を沈める。

自分のあげた泡飛沫が 体をくすぐって水面へ上がっていくのをぼんやり目で追った。気持ちを落ち着けながら、ゆっくりと力を抜き、身体が水底へ沈んでいくのに任せる。

 

 

そこにあったのは、圧倒的な静寂だった。透明な水なのに、端すら見えない 青い世界。はるか頭上に、弱い光をざわめかせる水面が揺れている。

 

そっと腰を屈め、プールの底に触れるように身体を横たえた。水の揺らめきで、ゆりかごにでも揺られているように身体がゆれる。プールにあやされているような気分になった。水に慣れた目を何度か瞬かせる。オレの涙も、この水の中に溶けてしまっただろう。

このプールも、海も、オレたちも。巡りめぐって、同じものでできている。

 

 

水面より、更に遠く上。ふと、視界の端を黒い魚が横切った気がした。慌てて水面へ飛び上がり、荒い息であたりを確認したが、そこにはすでに何もなかった。

 

 

 

結局、オレが待つようになってから、海野がプールに現れることはなかった。オレが施設の前に置いているバイクに気づき、避けられているのだろうことはなんとなく予想がついたが、それでもオレは エントランスのすぐ近くにバイクを停め続けた。ちゃんと「オレに」会って、話をしてほしかったから。

それに気づいているのだろう、猿飛老人も オレに何も言うことはなかった。

 

梅雨が更に深くなり、雨が視界を閉ざす日が続く。あまりにも毎日たくさんの雨が降るので、どこか遠くの海が干上がってしまうのではないかと思うくらいだ。

ふと、自分や彼の中の海は涸れてはいないだろうか、と心配になる。

太陽を見たのはもうずっと前で、日の当たる世界など幻であったのではないかと、そんな幻想を抱いてしまう。

 

その間、変わらずオレは施設を手伝い続けた。海野が居ない間、この量をどうやって一人で処理していたのか、と思うほど施設には力仕事が多い。オレは少しでも役に立つべく、老人に仕事を乞い できる限りの手助けをした。

オレが望まないので、彼は「海野」に関して話すことはなかったが、深い経験からくる彼の話はどれも愉しく、オレはいつしか この小柄な老爺に対して、肉親のような近しい気持ちを抱いていた。

 

けほ、けほ・・

 

雨が続きだした頃からだろうか。猿飛老人は、よく咳をする。その後すぐに、お決まりの煙管を吸おうとするものだから、

「猿飛さん、タバコはやめといたほうがいいよ・・咳、ひどくなってるじゃない」

と思わず止めにかかるが、

「なぁに、ただの梅雨風邪じゃ。煙で奴らも燻されるじゃろうて」

と笑い飛ばされれば、曖昧に笑って引き下がるしかなかった。

 

 

 

プールサイドを掃除しながら、オレはガラス越しの外を見遣る。これだけ雨が分厚く重なっていれば、すぐ向こうにあるはずの海の姿も判然としない。

幾何学的にカットされたガラスが嵌まり込む窓を撫でれば、水滴が拭き取られ、いくらか雨の粒がはっきりと見える。手のひらに伝わる冷たい温度。外は随分気温が下がっているらしい。

海野の受け持つ水泳教室は、残念ながら梅雨の間は休講であることを、スケジュールを見て知ったのはつい先日だ。

(そうだよなぁ・・こんな雨の中、わざわざプールまで来たくはならないよね)

そう思い、今日も使用者のいないプールを オレはため息をつきながら見下ろした。

 

 

 

その日も、細い雨がひっきりなしに降っていた。

何時ものように開館時間の少し前、バイクで施設を訪れたオレは、エントランスをくぐった辺りで異変に気づく。

濡れた頭を拭いながら、オレは毎朝 受付から声をかけてくれる猿飛老人の姿がないことに気づいた。

(便所 か・・?)

受付の中に入り、ウィンドブレーカーと荷物を肩から降ろしたが、何故だか嫌な予感が込み上げた。

 

すぐに館内を走り、彼の姿を探す。

 

便所から始まり、大小二つの体育館とその用具入れを覗く。彼の姿は見えない。

すぐさまプールの見える左側の通路へ駆ける。廊下から見えるプールには、やはり誰の姿もない。

(いや、でもエントランスは開いていた。絶対に中にはいるはずだ)

理由のわからない焦りに突き動かされながら、オレはもう一度体育館を見に戻る。施設の外を雨に打たれながら回り、地下駐車場から、プールの更衣室へ。

そこからプールサイドへ入ったオレは、プールの端に黒い塊を見つけた。

廊下からは、丁度死角になる場所―――プールの縁に引っかかるように、黒い作業着が揺れている。

 

嫌な汗が吹き出した。

 

「猿飛さん・・!!」

 

叫ぶと同時に駆け寄った。オーバーフローの水が、ざぶざぶと彼の服の裾を洗っている。プールに片足を浸すような格好で倒れていた彼は、身体中水浸しになっていた。

すぐに抱き上げ、息を確認する。弱々しく浅い呼吸が、乾いた唇から吐き出されていた。触れた頬がとんでもない熱を持っているのを感じ、オレは必死で彼の肩を揺すった。

「猿飛さん!聞こえますか!猿飛さんっ!!」

「・・・おぉ・・・」

揺すられ、彼は薄く目を開く。

 

「イルカか・・・?」

 

しかし、開かれた彼の目が焦点を結んでいないのを見て、オレは心臓が凍るような思いを味わった。

「おまえ・・・こんなときまで帰ってこんで・・心配しとったんじゃぞ・・・」

ふらりと力なく上げられた彼の指を、オレは必死で握り返す。

「みんなに心配、かけおって・・

―――あの銀髪の青年が、ずうっと手伝うてくれてたんじゃ・・掃除も、プールの水替えも・・・」

「猿飛さ・・」

「お前のことを心配しての、ずっとここにいてくれたんじゃよ・・・

・・・悪い奴じゃない。見た目はちいと怖いが、優しい、ええ子じゃぞ」

 

わしはずうっと、

お前たち二人がここにいてくれたら、と な

思っとった―――

 

 

 

 

言葉は小さくしぼみ、窓を打つ雨音にかき消された。

猿飛老人の指からすう、と力が抜ける。手のひらをすり抜けようとするそれを咄嗟に握り締めた。

 

プールに響く、雨の音。

 

心臓が早鐘のようだった。

 

ぼたり、と頬を伝った涙が老爺の頬に落ちる。ぶるぶると震える腕で老人を抱きしめなおし、オレはエントランスへ向かって駆けた。

足が情けないくらいに震え、崩れて散ってしまいそうだった。

 

胸に抱いた老人の息はとても弱い。オレはすがるような気持ちで受付の受話器を引っ手繰った。震えながら119番を押す。程なくして、落ち着いた女性の声が耳に届いた。

 

「―――はい、火事ですか、救急ですか」

「救急だ!年寄りが一人倒れた、すごい熱なんだ!意識もない・・!場所は―――」

 

・・・だが、オレがこの町の場所を告げると、電話口の相手が瞬間、口ごもる。

 

数秒の沈黙と、キーボードを打ち鳴らす音が忙しなく聞こえた後、電話口から告げられたのは 現在近くを走っている救急車はなく、高速道路も通っていないこの町へ車両が到着するのは早くて1時間後、との宣告だった。

 

忘れ去られた町。“この町には、病院すらない”といった老人の言葉が、今更ながら生々しく蘇る。

 

 

1時間、なんて。

死ねと言っているのも同然だ。

受話器が手から滑り落ちる。抱きしめた小さな体が、炎のように熱い。

 

―――死なせない、絶対に

 

迷っている暇はなかった。オレはすぐさま濡れた老人の上着を脱がせ、置いてあった厚手のパーカーを羽織らせた。夜間泊り込むための分厚い毛布をありったけ引っ張り出し、彼の身体を包む。更にその上から、雨よけに羽織ってきたウィンドブレーカーを着せ、深くフードを被らせる。

 

頼むから、もってくれ・・・!

 

そのまま、かかえた彼をバイクに座らせると、後ろから抱きしめるように飛び乗った。ぐぉん、と唸りを上げたエンジンの振動から守るように、痩せた小さな肩を掻き抱く。自分の身体でせめてもの屋根を作るよう 背を丸め彼を庇いながら、雨の中にバイクを蹴り出した。

 

オレの爺さんなんだ

助けてくれ、神様・・・!!

 

他の車とすれ違うこともない寂しい海辺の道を、オレは一番近い町を目指してひた走った。

 

 

 

 

 

 

 












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