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ポーンと長い余韻の尾を引いて、小さな電子音が反響する。 「―――もう、来んかと思っていたよ」 静かで冷たいエントランスに立ち尽くしていると、受付からしわがれた声がした。 茫洋とした頭で視線を向けると、ブースとひとつになったような佇まいで、小柄な老人がこちらを見ていた。 久方振りにバイクに跨り、当てもなく走らせた。梅雨を前にした空気は重く水分を含み、ぬるい風が速度を増して、まだ痣の残るオレの頬を打つ。ほとんど灰色に塗りつぶされた空を仰ぎながら がむしゃらに走り回り、いつの間にか、またこの町に来ていた。 大きなガラス張りの建物の前で、バイクを止める。エンジンを切ると、すぐさま身震いをやめたバイクから、身体の感覚が開放された。途端に耳に飛び込んでくる、波のざわめき。 メットを外すと、露になった目に海風がしみた。 その高い屋根と 厚い雲から見え隠れする弱った太陽を見上げる。相変わらず、忘れられたような静かな町に、そっと立ち尽くす海辺のプール。 少し見なかっただけで、その建物は懐かしい思い出のような顔でオレの目に映りこむ。長い間、家出をしていた実家に帰ってきたような、不意の心細さが胸を掠めた。 結局、戻ってきてしまった。 行く場所はここ以外、思いつかなかった。 「とうとう諦めたかと思っておったわ」 変わらず、長いパイプ煙草を燻らせながら老人は苦笑する。 久方振りに、この冷えたコンクリートの薄蒼い匂いを嗅いだオレは、ぼんやりする頭のまま、少し会釈した。オレの顔をまじまじと見つめた老爺が、ふむ、と眉を持ち上げる。 「・・お前さん、報道関係の人間じゃないな?」 ――――なにを言われているのか理解できなかったオレは、疑問をそのまま目にのせて彼を見返す。 「どうやら、わしらの間には、少し誤解があるようじゃな」 まぁ、入んなさい。 言って、皺だらけの手でちょいちょい、とオレに手招きをした。 老人に通された受付の奥は、そのまま小さな事務所になっていた。4つの簡素な机が付き合わせになっているが、上にはいくらか資料らしき紙が乗っているだけで、あまり使われないもののように真新しかった。 「すごい顔じゃな」 オレの紫に染まった頬を覗き込み、湯飲みのお茶を差し出しながら 老人がため息をつく。こじんまりとした事務所は、ものが少なく整然としており、その中でオレの存在は間抜けに浮いていた。 「・・なんぞ、あったかの」 それに答える言葉を見つけられず、オレはまた曖昧に俯く。 澄んだ電子音が、柔らかくエントランスの吹き抜けにこもり、コンクリートの壁に吸い込まれていく。 受付の小さな窓を通して見る建物は、少し視点が変わるだけで全くオレの知らない場所へと姿を変えていた。 あかるい部屋の中から、トンネルを通して覗く薄暗いエントランス。奥へと伸びる廊下の窓が、雲間の光をざわめかせている。 オレはここに来て、何をしたかったのだろうか。海野がここに居ないことは、なんとなくわかっていた。最後に会った彼との記憶が頭の端を掠め、腹に沈んだ冷たい思いに、また目を伏せる。 彼に会いたくて、ここに来たのではなかった。もやついた梅雨の空のような、釈然としないグレイの交錯する頭の中は、混乱しすぎて かえって凪いでいた。どんよりと重く、何故だかとても辛かった。 目の前の老爺に、オレの存在の意味を問われているようで、それに答える言葉を持たないオレは、俯くしかなかった。 「・・・あんたは、あの子のことは自分で聞くからなにもいうなと言うたが―――」 空気の隙間を縫うように密やかな声で、煙草の葉を指先でつぶしながら老人は呟く。 「だが、知っておかねばならんこともある。違うか?」 深みのある鳶色の瞳が、オレを見透かすように見つめてくる。皺の中に理知の光がともる瞳の在り方は、海野によく似ていた。その目に射竦められるようにして、オレは喉を鳴らす。 知っておかねばならないこと。 海野に、ついて・・? また、澄んだ電子音がオレたちの間を流れていった。 視線をふ、と緩め、老人は立ち上がる。そのまま、足早に近づいたスチール棚の引き戸を開け、中から数冊のファイルを取り出す。 この施設の事業内容や生徒・職員の名簿など、几帳面な文字で分類されているファイルたちを乱雑に机に積み上げ、更にその奥・・・まるで、隠されていたかのような厚いダンボール箱を、彼は引き摺る様に机の上へ置いた。 「今から言うことは、年寄りの独り言とでも思ってもらったらええ」 どさ、と。その中から、何冊もの雑誌が事務机の上に広げられた。 表紙を彩る、トラックを走る陸上選手や、光を背にジャンプするスノーボード、競技用の自転車を漕ぐ選手。 一番新しい日付は、2年前のもの。4年に1度の大きな祭事に、世界中が浮き足立っていた頃のものだ。 一番古いものは表紙も黄ばみ、今はもう廃刊となっているのか、全く知らない雑誌の名前が刻印されている。広げられたその本たちを見つめ、オレははっとする。表紙の中に、よく見知った顔がいくつかあった。 「―――これ・・・」 海野だ。 オレは息を呑み、本の山を漁った。 これも、これも・・ そこからは、10を優に越える、彼を表紙にした雑誌があった。 こちらに向け、満面の笑みを零している彼。少し幼い笑顔。十代半ばだろうか、今よりも短い 肩に触れるくらいの黒髪が、彼の紅潮した顔にまつわっている。 時折大人びた表情を見せる彼や、まさにプールに飛び込もうとしているしなやかな姿、伸び始めた髪を小さく結んだ彼など、数冊のその表紙写真の中で、彼は少しずつ成長しており、オレは彼がどれほど長く 泳ぎを生業とする世界に存在していたかを知った。 その殆どの写真で、彼に手に輝く、金色のトロフィー。 「・・あの子は、本当に優秀な水泳選手じゃった。昔から、海が好きでな。泳ぐことに夢中になってからは、一直線に水泳に没頭していった」 老人が昔を大切に振り返るように、言葉をつむぐ。 「才能があったんじゃろ、エスカレータとは言わんが、階段を駆け上がるようにな・・あの子は、出る大会ではほとんど、一番を取ったよ」 オレは雑誌を捲り、記事に目を通す。どの誌面もが、若い『海野』の溢れる才能に感嘆し、秘めた可能性をあらゆる言葉で賞賛していた。 皺だらけの指が、オレの読んでいる記事に添えられる。
「そうやってな、色んな記者が あの子について書き立てた。何度かはテレビの取材も来たようじゃが、あの子の両親が断っていた。まだ学生じゃったし、あまり大事になるのを避けたかったんじゃな。 報道側も、そこはしぶしぶながら受け入れ、それでも表には出さず、写真や映像は撮り溜めていたようじゃ。 いつかあの子が表舞台に立ったときに、ここぞとばかりに使う魂胆だったんじゃろう」 そこでふ、と言葉を区切り、皺を更に深くしながら、老人は煙を長く吐いた。 「・・・そこに、五輪の話が来た」 オレは驚いて彼の顔を見る。
「2年前の、五輪大会を覚えているか?あの子は、あれの候補選手じゃったんじゃよ」 まさか。 予想以上の大きな世界に息を呑み、絶句するオレを見つめ、誇らしそうに老爺は微笑む。だが、その笑みはすぐに翳った。彼の深い色の目が、一瞬ここではない、どこか遠いところへ注がれる。 「・・・じゃがな」 あんたも、あの子の脚を見たろう? 溜息みたいな声だった。密かに揺れた、木の葉の擦れる音のようにその言葉は空気に溶けた。 湯飲みから昇る煙の音が聞こえそうなくらい、張り詰めた静寂が小さな部屋を満たす。 「事故でな、あの子の右脚は、大事な腱が殆ど全部切れとる。まわりの筋肉を鍛えることで代償しているが、それでも、この世界は甘くない。あの脚では、もう 大きな競技は無理じゃ」 オレは、目の前で一つずつベールを脱いでいく海野の輪郭に、瞬きすら忘れて聞き入った。胸を抉る現実に、目が軋む。為す術もなく力を込めた雑誌が、指のしたで捩れて乾いた悲鳴を上げた。 静寂を破る、柔らかな電子音。 皺の一つ一つに苦渋を溜め込んだように澱んだ老人の顔は、苦しさで今にも潰れてしまいそうに見える。 「――――仕方が、なかろう。諦めたよ、あの子は。血を吐くほど苦しみ抜いて、何度も自分の命すら絶とうとしてまでもな」
―――だが。 「諦めすらしてくれない、奴らがおった。・・・そう、マスコミの人間じゃ」 向こうも必死じゃったんじゃ。自分の時間殆どを費やして追いかけてきた 格好の上昇株が、あっという間に紙切れ以下に変わってしまったんじゃからの。 奴らは、あの子がこれ以上競技のネタにできないとわかると、挙って悲劇の主人公に祭り上げた。 誇らしげに表彰台に立つあの子の写真に大きく添えられる、無神経な煽り文句。口先だけの、悔やみの言葉。 そこには、雑誌の利益しか考えない、冷たい人間の目があった。 まさか、こんな所で今まで撮られてきた写真が使われるとは、わしもあの子も、夢にも思わんかった。 「心臓が抉り出されるほど、寂しかったよ」
薄い瞼を伏せて、老人は小さく嗤った。 3方の壁を白いコンクリートで囲まれたこの事務所に、窓がないことにオレは意識の端で気づく。老人は続ける。
わしらは、逃げた。しつこく迫ってくるマスコミに怒声を吐きながら、あの子を庇って、どこまでも逃げた。 ・・・まぁ、ある程度予想はしていたが。そう簡単に、逃げ果せるようなものじゃなかった。常にどこかに染み付いた監視の目が、どこに行ってもわしらを見つけ、また三面記事のネタにしおったよ。 それでなぁ・・とうとうわしは、ブチ切れたんじゃ。酷い事故にあって、未来すら奪われかけている若者を、追い詰めるだけ追い詰めて、恥ずかしくないのか。お前たち、それでも人間か、とね。 追われる人間は、反抗しないのが鉄則じゃ。どれだけ理不尽で無神経な言葉にも、じっと息を潜めて嵐が去るのを待つ他ない。牙をむけばそれだけまた、新しいネタを提供することになってしまうからの。 じゃがな・・・わしは、どうしても許せんかった。 そのたった一つの反抗でな、報道は、一気にわしらを突き落とした。マスコミにとって、報道で人ひとり、叩き潰すことなんて造作もないからの。 信じられんじゃろうが、やつらはあの子を悪者に仕立てた。脚の事故の責任を、あろうことか、全部あの子に被せて報道したんじゃ。まだ心はおろか、体の傷すら癒えていない、あの子に。 為す術もなかった。わしらは逃げたよ。それしか、残されていなかったからな。 新聞や雑誌やテレビや。そういった無数の目から逃れるようにして。あちらこちらを転々として、様やっとたどり着いたのが、ここじゃった。 「・・・あんたが初めて来たとき、あぁ、また 追いつかれたのかと思ったよ」 そういって、老人はふふ、と小さく笑った。 こうして、何度も諦めたようにわらって住む場所を捨ててきたのだろうか、と オレは丸めた羊皮紙のような彼を見つめる。言葉が出なかった。 目の端が痙攣する。瞼に眼球が張り付いているようで、かさかさとした痛みが目の奥に広がった。 「・・おぉ、」 ふ、と息をついた老爺が、オレの肩越しに指をさす。 「見てみぃ・・・凄い雨になってきおったわ」 少し振り返ると、ブースを通して、廊下の窓ガラスを叩きつける大粒の水滴が見えた。いつの間にか、砂嵐のような音が、エントランスに満ちている。雨粒にけむる外は何一つ見えない。まるで周りを白い壁に覆いつくされたような気分だった。 「―――ここは、いい町じゃよ。住み着く人は少なく、見所もない。殆ど世界から見捨てられている。静かで、時間が止まってしまったような気分になる」
雨音に包まれた中、夢の続きのような目をして彼が言う。皺の刻まれた横顔からは何の感情も読み取ることはできなかったが、頬にほんの少し疲労が影を落としていた。 「ようやく手に入れた、平穏な生活なんじゃ。あの子もやっと、次の生き方を見つけようとしておる。今はできるだけ、そっとしておいてやりたいんじゃ」 もっとも。 最近、あの子は全くここには戻らんようになってしもうた・・。それはそれで、心配なんじゃがな。 「――――オレは・・・」 思わず零してしまった一言は、雨音の隙間を縫って部屋に落ちた。妙に輪郭を持った言葉に、オレは自分で驚く。 「・・・オレは、ただの学生です。オレはただ、絵 を―――・・」 ごくり、と唾を飲み込む。海野と初めてあの廊下で会ったときの、焦りや戸惑いが甦る。 あの時、説明し切れなかった思いを、目の前の老人に向かって懺悔しているような気分になった。 「―――あの人のことは、ここのプールで見かけて初めて、知りました。 ・・・うつくしくて。 泳ぐあの人から、目が離せなくなってしまって。オレは、あんなきれいなものを初めて見ました」 それは、今まで塞がっていた自分の人生が、急にひらけるような快感だった。 「どうしても・・・どうしても、あの人の絵を描かせてもらいたくて。 「・・あんたは、あの子の友達になろうとしているのか?」 老人が、言葉を挟む。それは、用意をする前に ついうっかり取り落としてしまったように響き、狭い部屋に奇妙な居心地悪さを残した。あまり感情の読めなかった彼から、抑えられない気持ちが滲んでいる。 彼は、驚いているようだった。 「・・・オレは―――」 ・・オレは。 自分の気持ちを説明しようとして、ふ と言葉に詰まる。 オレは、どうしたいんだ。 海野のことを考えてみる。意識しなくても、それは容易だった。いつも呼吸するように自然に、オレの中に侵入してくる、漆黒の残像。彼に初めて出会ったときの、あの胸の中に熱い塊が生まれたような、感情。 指が、目が焦がれて、片時も意識から離せなくなった彼の姿。 胸が躍るようだった、初めて見た彼の笑顔。 そのどれもが、巧く定義のできない感覚だった。モデルを頼んで、絵を描いて。確かにそれが一番の望みだ。だが、芯のところで、それは何か違わないか、という掠れた想いがあることに気づき、オレは瞠目する。 友達になりたい、というのとは違うと思う。かといって、絵を描くだけのただの知り合いで終わるのは、もっと嫌だ。 ・・オレは一体、なにを望んでいるんだ・・? 「――――少なくとも オレは、」
数秒の沈黙の後、混乱の中から浮かんだ、ただ一つの事実を告げる。 「・・・ マスコミではありません」 「そりゃあ、よかったわい」 子供が笑うように、老人が破顔した。暗い影を落としていた皺が、やわらかく解ける。 「わしもあの子も、マスコミは大嫌いじゃ」 肌寒かった空気が少し、人の温度に染まってきている。外はまだ雨が降り続いているようで、ガラス窓が小さく震えて鳴いているのが聞こえた。 つと目を上げた老人が、大事な秘密ごとでも打ち明けるかのような面持ちでオレに言う。 「――――お前さん、待つかい、ここで。」 一緒にあの子を。
頭がぼうっとした。白い大波の海に翻弄されているような感覚だった。雨の中、通りかかった船は大きく、けれども四方を壁に囲まれた方舟だった、そんな幻覚を見ていた。 だが、オレの船はとっくに沈んでしまっていて、それにしがみつき、いつか溺れ死ぬのを待っているだけだったオレは必死に手を伸ばす。 およげよ、と海野が吐き捨てた気がした。 自分の力で、泳げよ。自分の力で得たもの以外俺は認めない、と。 ――――無理だ・・・ けれど、この荒れた海の中 彼みたいに泳げるわけもないオレは、覚悟を決めると無我夢中でその壁によじ登った。 雨はまだ降り止まず、徐々に量を増す水位に、翻弄される船。 嵐が来る、とオレは思った。
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