世界が密閉されたタッパーのようだ、と感じるのは例えばこんな時だ。



――――自分の家の扉を開き、暗く静まり返った空気の中に足を踏み入れるとき。





自ら鉄製のタッパ―の蓋を閉めると、途端に白い腕が絡みついてくる。柔らかく、細く、しなやかな女の腕。

それはまるで蛇のようにオレの首に絡み付いて髪を掻き回し、そのまま強く、頭を引き寄せる。

重なる、艶やかに光る唇。長い睫毛。黒い瞳。

―――黒い髪。

瞬間、鼻先を甘い女の匂いが翳めた。それに、オレは強く瞼を閉じる。

あぁもう、全てが消え去ってくれないだろうか。まるで最初から何もなかったように。

そう考えながら、目の前の柔らかな身体を掻き抱いた。

 

 

 

「彼」が女と歩いているのを見て。たったそれだけで頭の中身がすぱん、とどこかに飛んでしまったように感じた。

まだ夏までには間があるのに、酷いアスファルトの照り返しの中、彼の長い黒髪が、しなやかな背が、白いシャツが。その光の中に消え去るのを、呆然と見ていた。

酷い気持ちで自宅に帰ると、マンションのエントランス前に人が座り込んでいた。高い位置で結んだ黒髪。既視感に、オレは一瞬ぎょっとして立ち止まる。

 

「や、はたけ。」

――――アンコ・・」

 

オレに気付くなり、吸っていたタバコを投げ捨ててなんの衒いもなく歩み寄ってくる。身体のラインがくっきり出る派手なタンクトップに、細身のジーンズ。高い胸と締まった腰を見せびらかすようなその格好に、オレはぼんやりした頭で 女だ、と当たり前の事を思った。女だ。「彼」なわけがないだろう。ずかずかと大股で歩み寄ってくると、目尻の少し上がった、大きな瞳が オレの目の前で挑発的に笑いかけた。

「バイクもメットも置きっぱなしだったからさ。きっとすぐ帰ってくるかな、と思って」

「・・・なに、何か用」

「あぁ?せっかく待ってたのにその態度なによ?」

感情が昂ぶりやすく、すぐ表情に出る。彼女――アンコ(本当は杏子とかいうらしい)は、目の前で早速目を吊り上げて見せた。

「・・アンタ最近、学校全然来てないじゃない。センセーたち相当怒ってんのよ。今が大事な時期だってわかってる?ま、アンタは看板生徒な訳だからみんな強くも言えずにヤキモキしてるだけだけどさ。・・・んなわけで、はい、コレ」

そう言うと、紙袋に入ったプリント類を押し付けられる。色もとりどり、大きさも大小様々なそれらは恐らく各科で出された課題なのだろう。結構な厚みがある紙袋に溜息を吐きつつ、『あぁ』とも『どうも』ともつかない曖昧な声を発してオレはエントランスの鍵を取り出した。

―――ちょっとアンタ、それだけなの?!」

ヒステリックな声を出す彼女に、オレはうんざりしてしまう。もういい加減今日はこのもやついた気持ちをどうにかしたい。誰とも話さず、何もせず、早く眠って忘れてしまいたかった。

「・・・悪いけどさ、今日はその気になんないの。帰って」

 

「いやよ」

オレが閉めようとしたガラス扉を ばしん、と拳で止め、目を眇めて自信に溢れた顔で彼女は笑った。

 

「上がらせて。」

 

派手なアートプリントのネックから、大きな胸が覗く。さっきから脳裏に焼きついて離れない光景に、苛立つ気持ちを引き摺ったままオレは目を細めた。

 

 

 

 

 

 

 

あまり使われないキッチンのシンクが、薄暗がりの中鈍く光っている。この部屋に来た女の中で、気の向いたやつが「オレのため」と称して使う程度の 何も置かれないキッチン。別に自分で飯を作らなくたってそうやってオレに そこそこのものを食わせてくれる人間がいるんだし、それが無いときは近所のコンビニにでも行けばいい。それらの恩恵に与りながら生きていくことにも、もう慣れてしまった。

男と女、家の中で二人きりになってしまえば やることは一つだ。縺れ合う様に、半ばなし崩し的にセックスをして。

・・こういう状況も、別に珍しいことではない。オレと彼女―――アンコは、いわゆる「そういう」友人だった。

どこか薄暗く、冷たい印象を周りに与えるらしいオレとは違い、おそらく太陽のふんだんに射し込む国の血が混じっているのであろう、彼女は、大造りで開けっ広げな風貌をしていた。
すらりと伸びた長い手足に、少し日焼けした肌が似合う。漆黒の髪をひとつに結い上げ、細身の服で包んだグラマラスな身体を惜しげもなくさらして大股でキャンパスを闊歩する彼女の姿は、男女問わずかなり目を引く存在だった。
彼女をモデルにかかれた絵も、大学の展示会ではよく見られたので、アンコはキャンパスではちょっとした有名人だった。

饒舌な大きな黒い目はくるくるとその表情を変え、オレはその感情を押し殺しもしない瞳によく圧倒された。

・・・ただ、陽気なくせに、その目には時折寂しげな影が過ぎる。

海に面した地域のため、数は多いが、決して大多数(マジョリティ)にはなり得ないオレたち「余所者」・・・異国の血を引く者にとって、どう馴染もうとしてもどこか肌に合わないこの地の気候や、小さな子の縄張り争いに似た 周囲からの敵意ある視線から逃れるように

 

同属の寄り添いと言おうか。異国の血を引く者の持つ、ふとした淋しげな雰囲気は 空気を伝わるのか。

気が付けばオレたちは、自然に繋がりを求め、寂しいときにはお互いの温もりを分け合う仲になっていた。

 

 

緩やかな煙が、オレの脇から立ち上っている。オレの鼻先で揺れる黒い髪。長い脚を持て余すように組み、煙草を玩ぶアンコは、裸身を隠すこともなくベッドサイドのライトの下に投げ出している。

オレは無意識の癖で、その輪郭をトレースする。そういえば、オレも何度か彼女をデッサンモデルにしたな。彼女を描く時の、紙の上を鷹揚にすべる鉛筆の感覚は悪くなかったが、今は・・・

ふ、と 視線が彼女の印象的な黒い目で止まる。フラッシュバックのように過ぎる黒髪の男のイメージ。

そのイメージを胸の下で押しつぶすように、動き出した指を握り締めた。

―――まるで、水を抱いているようだ。

清廉な彼のイメージは身を切る冷たさを持った水のように、オレの体の下で弾けた。

だがそれは、内部に生き物の熱さを持っていた。生物の鼓動が混ざりこんだ、肉感的な水・・・まるで、生命そのもののような。胸の奥を滑り降りていく、その透明感と甘やかさにうっかりと身を委ねたオレは、再び湧き上がった体の熱さにまた歯噛みする。

皮膚の下を、興奮とも感動もつかない感覚が駆けずり、アンコに気づかれないよう、オレは小さく体を丸めた。

熱が収まらない。

瞼の裏で彼が笑う。小さな彼の生徒たちに混じって、楽しそうに、子供のように。その腕が突然妖艶な曲線を描き、腰がひれの様に撓る。青にひらめく白い身体。彼の瞳がオレの体を撫でて、海の中へと戻ってゆく。女のように柔らかではないが、さらりと皮膚になじみ、やんわり全てを抱き込む水。

 

そう、違うんだ。オレが求めているのは・・・

 

ふ、と自分の想像に現実に引き戻され、オレは喉の奥で苦く笑った。腹の奥から、抗えない獣の様な生温い熱が再び頭を擡げてくるのを感じる。

なんだ、この感情は。

 

 

まるで、恋じゃないか。

 

 

オレは頭を深くシーツに擦り付けた。何度も、なんども。

たのむよ、本当に、このまま全て消え去ってくれないだろうか。この感情も、記憶も。

どう考えても不毛な結末しか見えてこないその感情に流されまいと、オレは強く唇を噛んだ。

 

 

 

曖昧な感情を引き摺って、久方振りに学校へ足を運んだ。

海の方へと向かいそうになる気持ちを、無理矢理に都心の方向へ投げる。考えまいとしても、腹の中にはまだ晴れない思いがある。そのもやついた気持ちのせいで、人混みのグレイは凄まじい圧迫感を持ってオレを襲った。埃の様な人の塊が、ここはオレの居場所ではないと言うかのように オレをはじきにかかる。窒息して、死んでしまいそうだ。オレは、久方振りに見る人の群れの中を、息を詰めながら走った。

キャンパスに足を踏み入れても、それは変わらなかった。見渡す限り一様にグレイの、人、人、ひと。

――――ここはこんなに面白くない場所だっただろうか。

皆、久しぶりに現れたオレの姿を見、一辺倒に驚きの表情を浮かべた後、無理にそれを取り繕おうとした。クラスメイトであったかどうかも曖昧な生徒たちは、引きつった笑顔で平静を装ってオレを遠巻きに眺め、教師はまるで腫れ物にでも触るように、作り物の態度でオレを気遣って見せた。

いや、ある意味拍子抜けしてしまった。半月も無断で休んだにも拘らず、敢えてそこには触れず、オレの顔色を窺いながら物事を進めようとする大学のあり方に。

―――おかしいだろう。普通、無断欠席が続けば、相当の咎めがあるはずだろう。それでなくても、こんなに気味悪く壊れ物のように扱われる所以はないはずだ。

『アンタは看板生徒だから』

アンコの言葉が、頭の隅で痛みとなる。通り一遍の労い、休み中の体調などを訳知り顔で聞いた後、どの教師も言う台詞は決まっていた。

遠まわしに「それでね、はたけ君。次のコンクールの期限なんだが・・・」

 

結局、オレもコンクールのためだけの人間か。

それをはっきりと認識したとたん、項の毛が逆立つような嫌悪感を覚えた。

 

周りに、ではない。

――――絵を描く事にだ。

 

機嫌を取ろうとしているのが丸判りな態度で様子を窺ってくる教師や、相変わらず馴染めないクラスメイトに辟易し、オレは周囲の静止を一睨して、早々に学校を後にした。

半月ぶりの、大学を。

無理にでも日常生活に没頭することができれば。彼に会う前のように、苦しみながらでもいい、カンバスに向かいのめり込むことができたら―――との淡い願いは、呆気なく散ってしまった。

 

だが、オレには他に、どこへも行く場所がなかった。

彼に・・・海野には、会いたくなかった。こんな気持ちを引き摺って、会えるわけもなかった。

海辺の町がオレを捨てると、オレにはもう、絵を描くための場所―――このキャンパスしか、残っていないのだった。

 

仕方が、なかった。

動かない脚に爪を立て、必死の思いで大学へ体を運んだ。蟠った塊を飲み下すようにして、必死で今までこなしてきた筈の生活を 辿る。

だが、変わらない。何も。

この感情も、この想いも。大学には、まるで熱い衝動の抜け落ちた、オレの残骸しか残っていなかった。

それでも、その日から、与えられた課題をこなそうとした。今までと同じように。

――――けれど。

オレの腕は全く動かなくなっていた。あれだけ溺れるのが楽しくて仕方なかった白いカンバスの海原は、巨大な壁となり、無言の圧力を持ってオレの前に立ちふさがった。初めて敵意を持って前を阻んだその壁を前にして、オレは途方に暮れた。

・・・踏み込めないのだ。その中に。右手に持った慣れ親しんだ細筆、左手に乗ったささくれが目立つ木製のパレット。
顔料の鼻を擦る匂いも、腕に乗った色のたっぷりとした重たさも、何もかもが同じなのに。

オレの右手は、動くのを忘れてしまったかのように、ひとつの点も、その壁に生み出すことはできなかった。

いつもは何かと干渉してくる教師らも、描かないのではなく、描けなくなったオレを前にしては、どうすることもできなかった。


立ち止まったオレの頬に、冷たい雫が降りかかる。見上げた空は梅雨のはしりの雲に覆われ、太陽の欠片すら 窺い知ることができなかった。



無理に日常生活に埋没すれば、何かが変わるかと思った。変えられるかと、忘れられるかと思った。

 

でも―――

 

 

1週間。そのオレにとって気の遠くなるような長い間、無理に脚を学校へと向けてみた。
周りの声に耳を塞いで、オレだけのために、自分の絵を描くために。だが、オレの中には何も浮かんでこなかった。全く絵の描けなくなったオレを、何とか復帰させようと、周りだけが忙しなく動いている中で、オレは静寂の白い海原に、一人佇んでいた。

 

白いカンバスとじっと対峙すると、周りの音が消え、自分の中の音が溢れ出す。

それは、小さな海のざわめきだった。その海鳴りに 静まり返った気持ちで、耳を澄ます。けれど、右腕を動かす事のできるイメージは、何一つとして浮かんでこない。

 

・・・いや、浮かんでこなかった、というのは、うそだ。たった一つ、今でもオレの中を侵食し続ける影がある。

その影が大きくて、まぶしすぎて。他のイメージの入り込む余地がないのだった。

 

忘れようと努力した。

だが、苛立ちを紛らわすため闇雲に向かった繁華街で、オレは数回 海野の姿を見た。

もともと狭い地域だ。遊ぶ場所など高が知れている。おかしなことではない。だが、オレの飢えた目はどんな人ごみの中でも、違わず彼の姿を見出した。

嬌声や怒声に塗れたネオンの中、浮かび上がる漆黒の髪。凛とした背中。

初めて彼をそこで見た時と変わらず、慣れた手付きで女を抱き寄せる。

 

隣にいたのは、全部違う相手だった。

 

 

――――どうして・・・

 


彼を目の端で捉えるたび、意識しまいとしても、全神経がその黒い影に集中してしまう。そんな時、オレは無意識に彼との記憶を辿っていた。
初めてオレの前に現れた彼。水をまるで手懐けるように泳ぎ、無邪気に泳ぐことを愛していた彼。オレに初めて話しかけたときの、あの屈託のない笑顔。こども達を真剣な目で指導し、一緒になって笑い合っていた、あの無垢な姿―――

 

それら全部が、今目の前にいる男とは全く違う残像でもって、オレのまなうらに呼びかける。今お前が見ている男は、ちがう。彼ではないのだ、と。

 

じゃあ、彼は一体

目の前にいるのは一体、なんなんだ。

 

頭が混乱する。太陽の揺らめかせる陽炎に相まって、オレの脳もぐらぐらと実体のない影に翻弄されるのがわかった。

 

“気持ち悪い・・・”

 

そんな、全く意味のない時間を過ごす日々、ふと思い出した彼の姿に、酷い吐き気が込み上げた。

嫌な汗が滲み、干乾びた喉に込み上げる悪心に抗いながら、水を求め、近くのスーパーへと転がり込んだ。

 

 

 

 

――――あぁ。オレは

相当に運が悪いのだろう

 

飛び込んだ店でミネラルウォーターを掴み、レジへ踵を返したその、瞬間。オレの視界の端をざわめかせる黒い影。

反射的に視線が動く。

 

 

「海野」がいた。

顔の横に滑り落ちてくる艶のある黒髪を、指先で掻きあげて、少し身を屈めている彼。こなれた淡い色のジーンズに、緩いシャツ。冷えたスチームを吐き出している生鮮食品のコーナーから、彼は小さなレタスを掴みだした。裏返して、その瑞々しい玉を検分するかのように葉をつまむ。

脇から、明るい笑い声が聞こえた。彼もそちらへ微笑みかけ、レタスを手渡す。

延ばされた、その腕の先・・・彼の手が抱いたのは、やはり違う女だった。二人は、まるで新婚の夫婦のように、楽しげに笑う。
その二人の間に流れる空気に、オレは戦慄した。
今までオレが目にした繁華街の女たちとは違う、気取らない、緩やかな普段着の二人。化粧っ気のない彼女の押すカートには、およそ取り繕うことのない、生活感の漂う消耗品ばかりが詰められていた。恐らく昨日今日ではない、もっと長い時間が、二人の間に流れているのが判る。

その女が、愛おしそうに自分の腹の膨らみを撫でたのを見た 途端

 

自然に体が動いた。無意識に突き動かされたオレの掌は、女の腰を抱く「海野」の手を強く押さえ込んだ。

 

「な――――っ!?」

 

 

激しく振り返り、海野が瞠目する。頬に降りかかる長い黒髪に、間から覗く墨溜りの様な瞳。

驚きと混乱のまざったその瞳がオレを捉えた途端、彼の眦が赤く燃え上がる。オレの顔を見た傍らの女が、小さく悲鳴を上げた。

オレは必死だった。何故だか涙が瞼のすぐ下まで競り上がってきているのがわかった。振り払われそうになる掌に、彼の目に必死で喰らいつき、縋り付いた。

―――ち、違う、・・・今までの女と、違う・・・」

「っ!」

海野が咄嗟に、傍らにいる彼女を見遣る。酷く狼狽した彼を見てもしかし、オレの喉からは言葉が漏れ続けた。

「アンタ、一体なにしてんだ?今までの女は・・・なんだったんだよ・・・」

「!な・・・に言って・・!あんた、何なんだよ!!」

 

「こんなヒトが、いるのに・・アンタ、何やってるんだ・・」

目の前に熱が競りあがり、彼の顔が滲んだ。既視感に、初めて出会った時も、こうして彼の腕を掴んでいたのを思い出す。

そして、記憶の隅に引っかかる、彼の笑顔。彼の周りを囲んでいた、小さなこどもたち。



―――子供。

脳裏に小さくフラッシュバックする、泣いてばかりだった小さい銀髪の子供。

 

 

―――なら、こんなに美しい銀髪になるわけがないだろう!?目の色だって、こんなに青く、なるわけがない!!”

 

“誰の子なんだ、こいつは!”

 

 

――――そこに振り上げられた、銀色の刃物。

 

 

 

「なぁ、違うだろう?アンタ、なんなんだ。本当はそんなヒトじゃないんだろう・・!?」

掠れた声は、涙に滲んだ。否定が欲しかった。彼は、そんな人間ではないと安心させて欲しかった。

彼を掴む掌が震える。

数え切れないほどの違和感と疑問符が 浮かんでは消えていく。

「ちがうって、言ってくれよ・・・」

 

急に頬を張られ、オレは野菜のかたまりの中へ突っ込んだ。一拍おいて、焼け付くような痛みが左頬に広がる。眦を真っ赤に染めて、海野がオレを睨み付けていた。こぶしががたがたと震えている。

 

――――どういうつもりなんだ、あんた!!」

 

側で眦に涙をため、唇を手で押さえて震えていた彼女が、堪りかねて走り去る。

 

「ちょ・・!」

弾かれたように振り返り、後を追おうとした彼の手に、オレの指が絡みついて阻んだ。引き剥がそうと腕を振り回す彼に、それでも離すまいと、渾身の力で喰らいつく。

また、彼の容赦ない拳が頬に入った。勢いで仰け反り、オレはまた野菜の山へとバランスを崩して雪崩れ込む。

 

「どういう・・・どういうつもりなんだよ!!」

 

彼が髪を振り乱し、真っ赤な顔でオレを睨みつけ 叫んだ。それでも離れないオレの手を、乱暴に爪を立てて引き毟る。

「なんて・・ことしてくれたんだ、あんた・・・!」

怒りで彼のしなやかな背が、腕が、がくがくと震えていた。噛まれた唇が、色を失って真っ白になっている。

オレはレタスやらキャベツやらの中に半身を埋め、訳のわからない衝動に突き動かされて それでも彼の手を掴もうとした。目の前の風景は滲み、自分がまるで小さい子供のようだった。塊がのどに痞えて、声が出なかった。ただただ、彼を行かせてはいけない、行かせたくない、その想いで、彼の腕にむしゃぶりついた。

暫く渾身の攻防が続いた。殴っても殴っても、手を離そうとしないオレに、彼の怒れる目に 困惑が滲む。

3度目のストレートは、きれいにオレの頤に入った。そこでオレの指からようやく、力が抜けた。

 

そのまま、青臭い冷気の中へと倒れこむ。

息が、上がって。顔がめちゃくちゃに腫れているのか、あちこち焼け付くようだった。鉄くさい臭気が、鼻を抜ける。

 

 

「・・・どうしてなんだよ・・・」

肩で息をし、オレを見下ろす海野が、掌を押さえながら震えている。相変わらず怒りの刷かれた瞳に混じる、疑問と動揺。

レタスに埋もれて動かないオレを見ると、彼はくしゃり、と顔を歪めた。

弱くて、途方に暮れて。それはまるで、小さい子供のような顔だった。

 

 

――――俺にはもう、なにもないから・・・早く、作らなくちゃいけないから・・」

 

それは、うっかりと落としてしまった言葉のように。

呟くように、小さく言葉を零した彼は、身を翻して女の後を追って駆けていった。

 

その、言葉を頭の中で反芻しながら。

オレは、騒がしくなってきた周囲の気配にひとつため息をつき、またレタスの中へと倒れこんだ。












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