風のしっぽを掴まえようと、がむしゃらに腕を振り回しているような毎日だ。




軽い音を立てながら海へと向かう列車の中で、固い座席に沈み込んで溜息をつく。



オレは相変わらず、彼に会うため 毎朝逆方向の電車に乗り込む。
日課なのだろうか、毎朝人気のないプールを占有し 気侭に泳いでいる彼はオレに気付くたび、目も合わせずにすらりとプールから飛び上がって去っていく。
そこにはもう、以前のような躊躇いも何もない。オレの視線すら煩わしい、というように些かの未練も残さずあっさりプールから立ち去ってゆく彼を見て、泣きたい気持ちになる。
無論、そのまま 更衣室からは一歩たりとも出てこない彼。ほとんど人が訪れる事のない静かな公共施設は、ぴん、と張り詰めたガラスの被膜を纏って、その中に閉じ込めた空気さえ凍らせているかのようだった。


静かだ。耳が痛いほどの静寂。
青いプールと、大きな窓や天井から射し込む 溢れんばかりの初夏の日差し。
動きのない、凝り固まった青い空気。
ゆっくりと床に垂れ落ちていく、何百回目かのオレの溜息。

爪先で弾いたら、澄んだ金属音を立てるかもしれない。


そして平行線のまま、また日が暮れる。
オレはまた溜息をついてプールを後にする。






――――そんないたちごっこが続いて数日後。


ある日、いつも通りガラス張りのエントランスを抜けてオレが建物に足を踏み入れると、そこには見たこともないような光景が広がっていた。





「イルカせんせぇ!!」





――――そこかしこに響き渡る子供の声。
太陽を吸った甘い肌の匂い。


静かな水槽のようだった建物の中は、色とりどりの水着やキャップを被った小さな塊たちで溢れていた。ふざけ合い、じゃれ合う幼い歓声。

オレは目をぱちくりさせた。足元を全力で転げ回っているのは、幼い子供たち。この建物は、こんなにも狭かっただろうか。あれほどがらんとして、ただっ広く感じられた空間が、急にその幅を縮める。
空気にカラフルな色がつき、甲高い鈴のような声がホールを満たす。

一瞬、オレはどこか別の場所に来てしまったのかと思った。思わず、自動ドアの手前で唖然と立ち尽くす。

と、建物の左側の通路、大きなガラス張りの廊下から、聞き慣れた声がした。


「ほら!お前たち!!始めるぞ。早く来いよ!」


笑みを含んだ、張りのあるその声。途端に、ホールの子供たちが一斉に声を上げて 我先にとプールへ駆けてゆく。




「イルカせんせい!!」

口々に叫びながら、顔を輝かせて走っていく小さな背中。





「・・いるか・・・?」




あっと言う間に波が引いていくようなその様に目を奪われ、オレは呆気に取られたまま 耳に残った明るい声を反芻する。





―――――海野、だ。

今の声。間違いない。「海野」の声だ。




けれど、いつもとは違う、一片の曇りもない明るい声にオレは面食らった。いつもオレと対峙している時、彼は固く凍った声しか発さなかったから。
そのせいで一瞬、記憶の中にある「彼」とうまく結びつかず、少し混乱する。

けれど、間違いない。初めて彼と言葉を交わしたとき、確かに彼はあんな声でオレに微笑みかけてくれていたじゃないか。


――――「イルカ」、「先生」・・・か)


イルカ。
それが彼の呼び名であるならば、恐らく彼を指すのに これほどまでにしっくりくる名前はないだろう。
突然与えられた、天啓のようなそれに、思わず唇が弧を描く。

しばらく立ち竦んだ後、子供たちの後を追ってプールの見渡せる場所へと小走りに急ぐ。





・・・やっぱり、彼だった。


プールサイドで跳ね回る子供たちを一列に並べて、彼ら一人一人の顔を覗き込むように何か言葉をかけている彼。
彼・・・「海野」は、今日は肩まで届く黒髪を一つに強く束ね、頭の上の方で結っていた。そのせいか、いつもとは全く違う彼の表情に、オレは息を呑んだ。

若々しい顔の輪郭や、きれいな額が露になり、子供たちを腰に纏わりつかせながら朗らかな笑い声を上げる彼は、まるでいつもの、あの暗い影を背負った「彼」とは別人に見えて。

そう言えば「彼」は、最初に会ったとき、ここの指導員をしている、と言っていた気がする。
オレは漸く、合点がいった。彼は恐らく、こうして定期的に 水泳教室の先生をしているに違いない。


伸びやかな身体を大きく使い、子供たちに体操を促している彼。小さな子供たちは、彼の一挙一動を見逃すまいと、必死でつぶらな瞳を彼にくっつけている。
全身を使って親愛の情を表す そんな幼い子たちの様子を見るだけで、彼がいい「先生」であるのだということが良く分かった。
体操が終わると、彼は小さな生徒たちに何事か指示を出し、子供たちの前で自らプールに入って実際に泳いで見せた。
・・・と言っても、彼が見せたのは初歩の初歩、プールの縁を掴んで 足で水を蹴る方法と、息継ぎのやり方。
しかし子供たちはじっと彼を見詰め、ひとことも聞き漏らすまいと夢中で耳を傾けているようだった。
その稚い様子に、自然と笑みが漏れる。

ガラスに阻まれているせいで、こちらからは彼がどんな話をしているのか、くぐもった音になってしまって解らない。
それを何だか惜しく思った。

ホイッスルが鳴り響き、彼の後に続いた子供たちが一斉に水中へ身を沈める。
広いプールの縁に一列に並んだ小さな足が跳ね上げる、白い飛沫。
彼の笑顔が光をはねる。




――――オレは久し振りに、そんな風に屈託なく笑う「彼」を見て、何だか胸が締め付けられるような気分になった。




そうだ。この人は、ちゃんと笑う人なんだ。
彼から笑顔を奪っているのは、オレ。

オレの 我侭だ。




・・・オレは、彼の事を何も知らないのに。






浅ましくも、また動き出しそうになる指を 戒める様に強く掴んで、オレは少し唇を噛む。







ふと、ひとりの少年と目が合った。つ、と顔を上げ、ガラス越しにプールを見ているオレの事を、不思議そうに見詰める少年。水に濡れた彼の明るい色の瞳が、くるり、と瞬く。
首を傾げて しばらくこちらを見遣った後、彼は「先生」の肘を引いて、オレの方を指さした。

少年の指に促され、「彼」がこちらへと視線を投じる。ガラス越しに、久し振りに、まともに視線が絡み合う。


その波紋が広がったように、他の子供たちの瞳もオレに注がれた。
皆一様に、不思議なものを見るような、好奇心の籠った目で。
子供たちが、口々に何か言い合っている。ガラスに遮られ、こちらには小鳥の囀りの様なまろい音しか届いて来なかったけれど。

・・・それでも、まるで品定めでもするように注がれる無垢な視線に、オレは面食らって身を引いた。
ちょっと居心地が悪いぞこれは。




すると、刹那、いつものように苦い顔になり、きっとオレを一瞥した「彼」は、重大な秘密ごとでも打ち明けるかのように声を潜めて、子供たちに何事か囁いた。







――――次の瞬間。子供たちの間から悲鳴とも喚声ともつかないような声が膨らみ、タイル張りの空間を満たす。

オレの目の前のガラスにもその振動は伝わって、透明な膜がぴりぴりと震えた。

子供たちはてんでに悲鳴を上げて、プールの中を逃げようとしたり、オレを指さして、明らかにさっきとは異なる、挑むような強い瞳を向けてくる。かと思うと、オレから身を隠すように、「彼」にぴったりとしがみ付く子供もいた。
そんな中にも、子供らしい、どこか楽しんでいるような表情が見え隠れする。

反響する子供たちの声で、プールは一時、騒然となった。





「海野」がこちらを見上げて、勝ち誇ったようにふん、と鼻を鳴らす。
まるで子供みたいなその表情に、オレは眉を跳ね上げた。


何が起こったかこちらからは解らないが。
なにか、とんでもなく不名誉な事を言われたのだということは良く解った。











彼の教室は、小一時間ほど続いた後、一度の休憩を挟み、また小一時間ほど泳ぐ、という二部形式で行われていた。

ふざけ合いながらも熱心に彼の言葉を吸収していた子供たちは、皆一様に目覚しい上達を見せ、教室が終わる頃には、プールの短い方を端から端まで、途中何度か立ち上がりながらも、一人で泳ぎ切ることができる様になっていたのだ。


「へぇ・・・」


オレは感嘆の声を漏らす。生徒達の吸収の早さにもだが、彼―――「海野」の教え方の巧みさに。

一人一人、見落すことなく視線を巡らせ、それぞれの子供の不得手な所をすぐに見抜く。そして、泳いでいる子供の傍へ寄り、さり気無く手を添えて 無理のない、きれいなフォームに正してやるのだ。
一度身体を使って覚えた心地良さを、子供たちは忘れない。そうして 上手に泳げるようになった子の頭を撫で、満面の笑みで褒め称えてやる彼。

そんな「先生」に向けられる、子供らの誇らしげな顔と言ったら!

次はもっとうまく、次はもっともっと、という向上心を上手に引き出し、子供たちを上達させてゆく彼の授業は 見ていてもとても気持ちのいいものだった。
子供たちも彼に全幅の信頼を置き、慕っているのだということが、彼らの仕草一つ一つから伝わってくる。


整理体操を終え、元気良く挨拶をしてプールから出てゆく子供たちに付き従い、彼もまた奥の扉へと姿を消した。





子供たちの楽しそうな声の余韻を残し、プールは柔らかな光を満たして輝いているように見える。


もしかしたら、今日こそは彼とちゃんと顔を合わせることができるかもしれない。
このままここで待っていれば、もしかしたら。

オレは満ち足りた気持ちで、窓へと身体を凭せ掛けた。

そうしたら、今日初めてアナタの授業を見て、感動しました、と言おう。本当にみんな楽しそうで。
生徒たちもみんな、アナタが大好きなんですね。オレもアナタになら、教わりたいなと思った、と言おう。


オレの知らなかった「海野」という人間に、また少し近付いた気持ちになり、妙に高揚した気分で微笑みを浮かべる。


あぁどうしよう。知るたびに、彼に惹かれていく。
もっと彼のことが知りたい。もっともっと。

初めて泳いでいる彼を見た、あの衝撃とはまた別の、柔らかく、あたたかい震えがオレの胸を駆け抜ける。
頭を預けたガラス窓の向こうに、海を感じる。顔を反らせて視線を上げると、眩く網膜を焼く太陽。


いい気分だった。





暫く経って、賑やかに騒ぎながら、着替え終わった子供たちが廊下へと出てくる。
まだうまく拭けていない髪から水を滴らせたまま、楽しそうにじゃれ合う小さな彼らは、しかし、窓際に佇んだオレを見た途端、きゃあっと悲鳴を上げて、散り散りに入り口へと向かって逃げ出した。

小さなつむじ風を鼻先に感じながら、オレは目を丸くする。


「な・・・何なんだ?」


水の匂いを撒き散らしながら、駆けてゆく腰ほどの高さの小さな背中。次いで更衣室から出てきた少女たちも、オレを見るなり 同じ様に声を上げながら逃げてゆく。
明らかにその目はオレを怖がっているように見える。まるで自分が極悪人にでもなった気分だ。


「・・なんなんだよ・・・」

面食らったオレが呆然と立っていると、突然、背中に声をかけられた。





「おまえ、ひとさらいなんだろ?」




まだ幼い、けれども芯の通ったその声に振り向くと、ひとりの少年が廊下の真ん中に仁王立ちしていた。

半袖から覗く 良く日に焼けた肌に、明るい色の跳ね髪。まだまろみのある頬に、口角のきゅっと引き締まった唇。
同じ様に明るい、青味がかって見える大きな瞳が、強い光を宿してオレを睨みつけている。

あ、とオレは声を漏らした。さっきの、オレに気付いた少年だ。


「イルカ先生がいってた。ひとさらいだから、絶対に近付くなって」

引き締まった頬が、僅かに緊張しているのが見える。
思わずぽかん、と口を開けたオレは、一瞬の空白の後、くぐもった呻き声を上げた。



・・・これか。さっき彼がオレに向けた視線の意味は。

人攫いってさ・・・まぁ酷い言われようなことで。



喉の奥で唸ったオレに驚いたのか、少し後ずさる少年に苦笑いしながら言う。


「・・ちが〜うよ。そんなんじゃ、ありません」

「うそだ!イルカ先生がそういってたってば!!」


一歩も引き下がらない頑なな子供に、困ってオレはまた苦笑する。


「あのね・・・じゃ、せんせいが間違ってるんだよ。」

「うそだっ!!先生はまちがったりなんかしない!・・・それに、ガイジンだろ?」


少年は、果敢にも小さな指をびしっとオレに突き出し、肩にかけた少し大きすぎるスポーツバッグの紐を握り締めた。



「しらないガイジンには近付いちゃダメだって、みんな言うってば!!」



今度こそオレは目を丸くした。

海に近いこの地域には、自然と他国から渡ってきた移住者が多く、その中には確かに、仕事での不平等などに怒れる荒くれ者も多い。それを慮って教えられたのだろうが。オレの髪から覗く顔の傷を見て、怖い人間と判断したのかも知れないが。
だがあんまりな言いように、自然と気が抜けたような大きな溜息が漏れた。


「ひっどいな・・・それにオレは、ガイジンじゃないよ。」

「うそだ!!」

「嘘じゃないって。父ちゃんも母ちゃんも日本人だ」


少年の大きな瞳が、更に大きく見開かれる。
まだ濡れたままの跳ね髪から滴り落ちるプールの残り水が、顔を濡らしている。


「そんなら、そんなにぴかぴかの髪に、なるわけないってば!目の色だって!」








――――なら、こんなに美しい銀髪になるわけがないだろう!?
目の色だって、こんなに青く、なるわけがない!!”







「・・・外国人だったのは、オレのじいさんだよ」


瞬間頭を過ぎった記憶を掻き消すように、オレは目を伏せ、苦く笑いながら言った。

まだ腑に落ちないといった顔をしている少年に目線を合わせ、顔を覗き込むようにして微笑んでやる。
真っ直ぐな目だ。少し青味がかった、きれいな亜麻色だ。この建物から見る、朝の空の色に似ている。
彼もまた、異国の親を持つのだろうか。


「それはもういいよ。・・・『先生』はまだ中にいるのか?」


屈んだオレにびくつき、自然と肩に力の入った少年だったが、突然の問いかけに、彼はまたきょとんと首を傾げる。



――――せんせいって・・・イルカ先生か?イルカ先生ならもう、帰ったってばよ」




「・・え・・・?」





予想外の答えに、オレは一瞬呆気に取られた。だって確かに、オレはここにずっと立っていた。目の前を通ったのなら、見落すわけがない。オレは彼を待っていたんだから。
驚くオレに、少年の瞳が訝しそうに顰められる。
日に焼けた健康そうな顔が む、と膨れ、細い足に履いたスニーカーを床に擦り付けて、彼は猫のように鋭くオレを睨んだ。

「中のドアから帰ったんだよ。・・・なんだよ!ひとさらいは大人もさらうのかよ!?
イルカ先生になんかしたら、オレがゆるさねェからな!!」


通り過ぎざま、べ、とオレに向かって舌を出すと、大きなバッグを揺らしながら 少年はあっという間にエントランスをくぐって出て行った。





まるで、一陣の小さな嵐が通り過ぎていったような感覚。

無意識に追っていた少年の背中が 自動ドアから外の眩い光に消えてゆくのを認識した途端、オレは走り出した。


逆方向へと。





バタン!と大きな音を立てて、更衣室とプールへ続く、左手奥の扉を開け放す。

初めて露になった、オレの知らない空間。



誰もいなかった。


噎せ返るほどカルキの匂いの充満する部屋に、明るい色のゴムで出来たすのこが引かれ、小振りなコインロッカーのかたまりが5つほど、身を寄せ合って並んでいる。更に奥にはシャワールームと、恐らくプールへと続くのだろう、緩やかな階段が右へと曲がって降りていた。

その、コインロッカーの、更に奥。オレはそこに、小さな扉があることに気が付いた。

立派なエントランスとは全く違う、ごくシンプルなアルミの取っ手の扉。
従業員が使うものらしい、簡素なつくりのそれにオレは駆け寄り、力一杯開け放した。







ザァ・・・と海風が鳴く。



左側から海の匂いがした。

頬に触れる、潮を含んだ風。


開け放したそこは、この施設の階下部分をくり抜いて作った、吹き抜けの広い駐車場になっていた。がらんとしたそこには、受付付近の扉へと繋がっているのだろうドアもついており、またエントランスのすぐ脇から車で乗り入れられるような、幅広のスロープがあって、地上からの眩い光を差し込ませていた。





―――――知らなかった。こんな所に繋がっていただなんて。

ここからならば、恐らく容易に、オレの目を掻い潜ってどこへなりと抜け出すことが、できただろう。







「なんだ・・・」


溜息みたいな声が漏れた。







海鳥の鳴き声が聞こえる。

シャツの裾を風に煽られながら、オレは呆然とその場に立ち尽くす。







なんだ。あの部屋で、オレが帰るのを伺っていたわけじゃ、なかったのか。
腹を立てながら、オレが立ち去るのをずっと待っていてくれたわけじゃ なかったのか。

・・・よく考えてみればおかしな話だ。どうしてわざわざ、自分の邪魔をする見も知らぬ男の為に、そこまでしなくちゃならない。理由がない。けれどオレは何の根拠もなく、彼はずっと奥の部屋にいるのだと、そうして息を殺して悪態でも吐きながら、オレが帰るのを今か今かと待っているものだと

そう、思っていた。




ぼんやりとスロープを上り、眩しい地上へと顔を出す。



――――あぁ、なんだ。こんなことだったのか。

さぞかし、何も知らずにぼんやりアンタを待ってたオレは、滑稽だったことだろう。



太陽に目を細めながら、オレは自嘲気味に笑った。そのまま苛立ちに任せ、きれいに整えられた植え込みを蹴りつける。

解っている。別に約束を違われた訳でもなんでもない。オレの一方的な思い込みだったのだから。

こんなのは八つ当たりだ。・・・けど、怒りでも憎しみでも、なんでも良かった。目を合わせる事がなくても、「海野」がオレを意識してくれているのなら。それが負の感情であるにしろ、オレに向けられている感情なら、何だってよかったんだ。
強い感情を向けられる相手として、彼の中に存在できたら。


けれど、これでは。



まるで、「オレ」なんて 彼に認識すらされていなかったような。
彼の心になんて、欠片も引っかかっていない存在みたいで。
















ファン!と突然鳴ったクラクションに、はっとして顔を上げる。



すぐ耳の横を通り過ぎてゆく、何台もの車。潮の匂いにとって変わる、嗅ぎなれた排気ガスの臭い。

いつの間にか、足の赴くまま歩いていたらしい。オレは驚いて、ふわりと頭を巡らせた。
うっかりはみ出していた車道から柵を乗り越えて歩道へと上がる。


・・・どこだ、ここ。


大きな車道に、賑やかな商店街のアーケードが連なる。海辺の、あの忘れられたような町とは180度違う、派手な装いの繁華街。周りを見渡しても、海なんて何処にも見えない。
気付かないうちに随分と歩いていたようだった。それでも、無意識ながらに電車の線路に沿って歩んでいたらしく、すぐ近くを走ってゆく、見慣れた色の列車がある。・・・となると、ここはあの駅から5、6駅目・・・・いや、もっとか。




まだ夕方に差しかかろうかという時刻であるにも拘らず、派手な色のネオンがちらつく。
人だらけだな・・・と思ったところでオレはふと、足を止めた。

およそ明るみには不似合いな、短いスカートの女たち。くっきりと化粧をし、ブランド物の香水を漂わせながら、明るい色の髪を掻き上げる。脚の長い女の背後で瞬く、紫色のネオン。
大きく開いた胸元を、掴まえた男の手に摺り寄せて 甘い声で囁き掛ける彼女たち。

よくよく見てみれば、そこいら中の看板に、時間当たりを一区切りとする、値段が書いてある。
ふ、と強い酒の臭いが漂った。



あぁなるほど。ここはそういう場所か。

もう1時間もすれば、丁度会社帰りの背広たちや、それに絡まる白い腕でごった返すのだろう、そういう街か。




まだ日もあるのに、もう結構な人通りができている。それにうんざりしながら踵を返そうとすると、腕にするりと柔らかな手が絡まった。


「きゃあ!すっごい美人!!ねね、さっきからずっと見てたの。今から暇かな?遊ばない?」


長い睫毛の、大きな茶色の瞳が、上目遣いにオレを見上げている。つるりとした小さな顔に、背中まで届く 綺麗に巻かれた長い髪。濃い目のラインを引いた眦は甘く、グロスの光る唇が笑いかけている。

細い足に絡まる、短いスカート。


「ちょっと、ずるいよぉ!!」
「手ェ早すぎ!!」


周りの、恐らく彼女の同僚だろう、店の女のブーイングを鼻で笑い飛ばし、彼女はオレの顔をまた覗き込む。


「ねェ、どうかな――――ココダケの話、おにいさんだったらうんと安くしちゃう。タバコ一箱で楽しませてあげるわよ」


ぎゅ、と腕に大きな胸が押し付けられる。甘いフレグランスが、挑戦的に香った。
黒いマスカラについたラメがネオンに反射する。
結構な美人だ。目元がシーレの描く女に似ている。被写体にしたら、映えるだろう。

拭い去れずに燻る投げやりな気持ちも手伝い、オレは彼女の誘いに半ば乗り気でいた。





けれど。



開きかけた口が、止まる。













・・・え?
なんだ?今の・・・






オレは、手を絡めてくる女に返答しようとしたまさにその姿勢のまま、何度か目を瞬かせた。

オレの表情に、てっきり良い返事が貰えるものだと期待していた彼女は、突然固まったオレに訝しそうな視線を寄越す。

「な・・・ナニ?なんなの?」






―――――何って。オレが聞きたいよ。

何かが視界を横切ったんだ。今。


そして、オレはそれが何か、とても良く知っている。







オレはもう一度、強く瞬く。
心臓が嫌な音を立てだす。じわりと滲む、冷たい汗。



そんな、まさか。そんな筈ない。
こんな所に居るような人じゃあない。







・・けど・・・

けど、今のは、確かに・・・・










「・・・オレ タバコ吸わないんだ。ゴメン」



思わずそう言っていた。絡み付いていた腕を振り解き、弾かれたようにオレは駆け出した。

えぇ!?ちょっと、何よォ!と 面食らった女の声が耳の後ろに流れていく。



高波のような人の群れを、オレは掻き分けて走った。至る所から臭い立つアルコール。胸に競りあがる甘い香水の臭い。嬌声、笑い声、怒鳴り声・・・それらを体の脇へと押しやり、オレは一所をひたと見据え、真っ直ぐに走った。見間違いならいい。そうであればいい。そう思いながらも拭い去れない疑問に、何故だか焦りが生まれる。





人の波が途切れた。視界が開ける。

無意識に巡らせた視線の先に、オレは凍りついた。



「海野」がいた。

つい数時間前に見た彼とは、全く違う雰囲気を纏って。


しなやかな背に、薄いシャツを羽織っている。色の薄い、緩めのジーンズ。さっきとは違う 背に流した髪が、恐ろしく色気を孕んで見える。
彼のすらりとした手が廻されているのは、女の細腰。長い髪を揺らしながら、楽しそうに彼の腕を握る長い指先。女の甘えた笑い声が響く。派手な香水がにおいたつ。


知らない人が見れば、何ということはない、ありふれた光景だろう。けれどオレは、その姿を目にして 硬直した。



女に顔を寄せ、目を細めて何かを囁き掛ける「彼」。

それに大仰に驚いて高い声で笑い、また彼の腕へとしなだれかかる女。



そこには、さっきまでオレが見ていた、「イルカ先生」は居なかった。
代わりに居るのは、この街に恐ろしいほど馴染んだ、荒んだ雰囲気の男。いかにも慣れた様子で女の腰を抱く「彼」に、オレは思わず立ち竦む。




喉が鳴る。









―――――なんだ・・・」




見る間に、人の陰に飲み込まれて消えてゆく、二人の後ろ姿。





「なんだよ・・・」











今度は、笑いは漏れなかった。溜息も出なかった。

代わりに生まれたのは、腹の底が、焦げ付くような感情。





その感覚がなんなのか、解らないまま。
オレは彼の飲み込まれた人の群れを、ただぼんやりと、見ていた。










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