突っ立っていたって、どうしようもないということくらい よく分かっていたのだけれど。
きっと、いや恐らく、最悪の印象を植え付けてしまったのだろうけど。



為す術もなく、真新しい匂いを放つ白い扉の前で立ち竦む。

人気のない体育館はそう頻繁に人が出入りすることもないようで、受付は冷え切ったコンクリートの中にぽつんと切り取られて存在していた。微動だにしないエントランスの自動ドア。人の気配すらない、動きのない空間のせいで、時間の感覚がおかしくなる。


・・・だからと言って、"じゃ、諦めようか"という気には 到底なれなかった。おかしなことに、これだけきっぱりと振られたにも拘らず、目の前で閉められた白い扉を見つめているうちに、逆にオレの腹の中では一つの決意がじわりじわりと固められていった。



諦められる訳がないだろう。あんな凄いものを見せつけられておいて。



自分の何が悪かったのか。もしかしたら態度が気に食わなかったのかもしれないが、それなら、謝る。何度だって謝る。
彼の傷に驚かなかったかと言えば、嘘になる。それに彼は気を悪くしたのかもしれない。もし、そんな風に、自分の態度や慣れない物言いが彼を傷つけてしまったのなら、謝りたい。そして、もう一度頼み込む。それでも駄目なら、土下座する。泣き落としをかけたっていい。それくらいしても惜しくない。描きたいんだ。どうしても。

オレがいい加減な気持ちや興味本位ではないこと、何とかして彼にわかってもらいたい。
彼がいいと言うまで、何度でも、何度でも。


だってオレはもう、こんな所で終われない。




固まった腹を抱え、オレはおそらく今日はもう開かないであろう目の前の扉をじっと見据えた。物音一つしないが、恐らく、彼はこの扉の奥で息を潜めているのだろう。そう思うと、自然に大きな声が出た。




「また、明日来ますから!」






だってそんな大きな傷を持っていても、アナタはオレの"海"そのものだったから。

















――――さぁ、その日から。オレと彼の長い根競べが始まった。



オレは大学へ行くのと同じ時間に家を出て、雑然と混み合ったホームへと上り、がらんと身軽な 都心とは逆方向の列車に乗り込む。海の匂いを嗅いで、終着駅まで。海沿いの道を小走りに急ぎ、海辺のプールへと駆け込む。

そうして、作り物の海で泳ぐ彼を、じっと眺め続けるのだ。

とんでもなく迷惑で短絡的な事をしているというのは、重々承知していた。さぞかし、気味の悪い男だと思われているに違いない。


だが、オレはもう 引き下がることができなかった。
冷たいグラスになみなみと注がれた水を前に、それを我慢できる砂漠の遭難者がいるだろうか?真っ暗闇のトンネルで、僅かに見えた灯りに手を伸ばさずにいられる者は?
オレにとって、彼の存在は、そういうものになりつつあった。自分の望んだもの全てを抱えて目の前に晒されているのに、それを我慢できる人間がいるわけがない。「彼を諦める」という選択は、酷い言い方をすればオレ自身をその場で断ち終えてしまうのと同義だった。

それくらい、オレは思い詰めていた。後には引けなかった。





青い世界で息づく彼を前にする度、オレの指先はいつでも彼を捕らえたがって空を掴み、オレの目は全力を以って彼を記憶しようと瞬きを忘れる。誰もいない、美しいプールで自在に水を手懐ける彼は、その小さな空間から広がる全ての世界を支配していた。


オレはいつしか、彼を絵にする、ということはどれほどの悦楽だろう、と考え始めた。
彼を絵に繋ぎとめる。それは、果てしない海を手に入れること。


――――彼を、オレのものにすること。


あの自由な魂を、枠で縁取られた小さな世界に縛ってしまう。その甘美な想像は、オレの背を震え上がらせた。




彼を、オレの世界に閉じ込める。

その為には、彼が オレが彼を描く事を承諾してくれなくてはならない。

例えどれだけ良い絵が描けたとしても、それが彼の同意なしに描かれたものであるならば、それはあくまで只の"絵"だ。独り善がりの、虚しい線だ。そこに「彼」を繋ぎとめるには、彼がオレを受け入れて、オレに全てを許してくれなくてはならない。彼の同意無しに、彼を描くということは、オレにとって限りなく無意味なことだ、と あるときオレは理解した。

だから、オレは彼にYesと言ってもらえるまで、絵を描かないと決めた。
どの道、幾ら完璧に彼を記憶したつもりでも、スケッチブックを広げたときには既に、オレの頭の中のイメージはどこか欠落していて、それに怯えるオレはデッサンすらできないのだ。「彼」自身を目の前にして。描かなければ。





海を、彼を、繋ぎとめる。



・・・それが叶わないならば、せめて、一言だけでも。謝らせてほしい。




「関係」とも呼べないかもしれないが、彼との間に確かにできた細い細いつながりを こんな所で断ち切ってしまうのは嫌だった。

その強い思いがオレの身体を突き動かし、今日もオレは、海辺のプールへと駆ける。












一日目。
「彼」はやはり、プールの波間を縫うように、そのペールブルーの世界でたゆたっていた。水中で自在に回転し、するりと向きを変え、便宜的に引かれたラインなど縦横無尽に飛び越えて。清流のいさなが捕らえようとした指の間から、しゅる、と抜け出すイメージ。あの艶めかしい感触、水の匂い、あのしなやかさだ。
彼はとても自由で、オレはしばらく、何もかも忘れて彼の泳ぎに見入った。


だが、そのうち。彼は、オレに気付いた。
ゆるやかに、水へと向けられていた慕わしげな微笑が彼の顔から消え失せる。
彼がこちらに視線を寄越したのはほんの一瞬で、すぐに彼はふい、と顔を背け、何事もなかったかのように泳ぎを再開した。

けれど、それは長くは続かなかった。彼は、ぎこちなく腕を挙げて髪を掬い上げると、意を決したようにプールサイドへと跳び上がる。そしてそのまま、奥の部屋へと消えた。こちらには一瞥もくれなかった。




オレは、待った。また彼は左手奥の扉を開けて、こちらの廊下へ戻ってくるのではないかと。ひょっとしたら、再びプールサイドへと現れて、泳ぎ始めるのではないかと。

奥の、プールへと続く扉・・・それをこちらから開けてしまうこと。それは恐らく容易かったが、無遠慮に彼の内部に立ち入ってしまうようで、オレにはできなかった。
だからオレは、ただ待った。驚くほど長い時間、オレはそうして、日差しのふんだんに差し込む廊下で一人、佇んでいた。



オレは待った。・・・けれども、それっきりだった。幾ら待っても、彼は現れなかった。

太陽が傾き始めた。廊下のリノリウムがオレンジ色に染まる頃になって、ようやくオレは、諦めた。






二日目。
オレはまた同じ列車に乗り、同じ時間にプールへと駆け込んだ。息を切らしながら、プールの見渡せる廊下のガラス窓へと走り寄る。今度は、彼はすぐにオレに気付いた。なぜなら、彼はまだ水の中へ入ってもいなかったからだ。オレの顔を見るなり彼は眉を跳ね上げ、腹立たしそうに 僅かに唇を噛んだ。そのまま身体を翻すと、銀の梯子に掛けてあったタオルを掴み、彼は出て行った。

その日もオレは待った。奥の扉を睨みつけて、気が遠くなるほど。けれども、やっぱり彼は出てこなかった。

やがて空を緋色に染めた太陽が、誰もいないプールに暖かな橙を落として煌かせるのを見、オレは深い溜息をついてプールを後にした。


一人暮らしのマンションに帰ると、フローリングの床に落としていた電話に、メッセージが吹き込まれていた。大学からだった。
学校に来ていないオレの身体を気遣う事務的な内容から、足りない単位のこと、休んだ授業の振替のことが、聞いた事のあるのかないのかわからないような講師の声で、訥々と録音されていた。
最後に、長ったらしい名前のコンクールの話に差し掛かったところで、オレはうんざりしてテープを止めた。

なんにせよ、しばらく学校へは行けそうもなかった。





三日目。事故があったらしく、列車が遅れていた。
都心へと向かう忙しいサラリーマンたちは携帯電話を片手に忙しなく連絡を取り合っている。遅れる電車に悪態を吐き、いつもの倍の煙草を吸う人だかり。不機嫌に歪んだ醜悪な顔たち。
そのせいで、いつもの灰色の塊は、更に膨張してオレの目に映った。
オレの左側に入ったそれらは、もっと惨めな有様だった。

オレはそれに眉を顰め、そういえば「彼」はオレの左側に入っても色を失わなかった、とふと思い出す。
そして、未だ自分が「彼」の名前すら知らないことに思い至り、何故だか酷い焦りが生まれた。


先走る気持ちに、大気に潰されて重たい身体を引き摺られながら。事故の影響を十ニ分に受けて遅れた列車でオレが海辺の駅に着いたときには、いつもの時間よりたっぷり1時間は遅刻していた。
最も、勝手に自分が設定した時間なので、誰に咎められる事もないのだが。
寧ろ、「彼」にとっては願ったり叶ったりだろう。


事実その日は、彼はのびのびとプールの中を泳いでいた。思わず見ているこっちが嬉しくなってしまうほど、自由気侭に、誇り高い獣として。しなやかに伸ばされた腕はいっぱいに水を孕み、それを柔らかに後方へと押し出す。見えない水の隙間に差し入れられ、飛沫を跳ね上げる足。光を纏った、滑らかな身体。


彼は恐らく、油断していたに違いない。いつもの時刻にオレが現れなかったせいで。

彼はオレに気付いた。それは、彼の片腕が美しいストロークで水を掻こうと大きく頭の横に回された時だ。
息継ぎの合間の彼は、その瞬間オレを捉え、驚きで大きく喘いだ。彼の身体は、突然人間のそれに戻り、彼は水面を大きく波打たせて、気管に入った水に噎せた。
相当驚いたのだろう。オレは彼がそんな風に水を飲んでしまうのを、初めて見た。


そのときの、彼の目。彼は昨日とは比べ物にならないほど、はっきりと敵意を込めてオレを睨み付けた。
唇を歪め、心底憎々しげに、頬の内側を噛む。
何かオレに対して言っていたのかもしれなかった。けれども、それはガラスの壁に阻まれて オレの耳には届かなかった。


そしてまた、彼ははっきりとオレを拒絶しながら、プールを後にする。扉が閉められる瞬間、彼はこちらを振り返って、オレを強く睨み付けた。

漆黒の、凄まじい瞳だった。



そしてその日も、彼は奥の扉から出てくることはなかった。オレは彼の見せた激しい表情に動揺しながらも、一方で、彼の内面に触れたような感覚に酷く興奮もしていた。閉ざされた無機質な扉を見ながら、あぁ、どうして客が一人も来ないんだろう。利用者が訪れれば、彼も出てこざるを得なくなるのに、とぼんやりと考えていた。



いつものように、茜に染まった帰路を辿ると、留守番電話に2件のメッセージが入っていた。頭出しして、両方ともが学校からの伝言だということに気付くと、オレは聞きもせずにそれらを消した。

先の見えない生活に、少し溜息が出た。






四日目。やはりいつものようにプールへと。いつものように左側へと続く廊下に駆け込んだとき、オレは驚きで呼吸を忘れそうになった。


プールに面した、大きな窓。



――――その前に、彼が立っていた。



腕を組んで、その背をガラスへと凭せ掛けた彼は、今日はスウェットにパーカー、というきちんとした服を着ていた。
灰色のパーカーに流した漆黒の髪。揃いの漆黒の、くっきりとした瞳が、オレに鋭く注がれる。


「・・・どういう、つもりですか」


彼はそのままの姿勢を崩さず、強い語調でオレに言った。明らかに、彼はオレを待っていた。きちんと着込まれた服が、今日は絶対に泳いでやるものか、という彼の意思を代弁していた。

「先日の件なら、お断りしたはずです。もうお話しすることも無いと思いますけど。それなのに毎日毎日・・・何なんですか!?
俺が承知していないのに勝手にかいてるんなら、いい迷惑だ。警察を呼びますよ!」

「ち、違う!!」

慌ててオレは弁解する。それは、オレの中で固く誓ったことだ。どうしても彼に誤解していて欲しくなかった。

「違います!描いてなんかいない!!アナタに承知して貰えるまで、絵は描かないと決めたんです!
もう一度オレの話を聞いてもらいたい・・・それでも駄目なら、せめて一言、謝りたくて・・・」

必死のオレの言葉に、彼は僅かに眉を上げる。雄弁な黒い瞳の動きに、オレは目を奪われる。


「謝る・・・?あなた、俺に何かしたんですか。俺には覚えがありませんけど」

「いえ、そうじゃなくて―――



・・・ここで、止めておけばよかった。けれども、彼との会話に動揺していたオレは、彼の言葉に含まれた少しの警戒に気付かず、それを純粋な疑問として受けてしまったのだ。




―――傷の、こと。オレ、不躾な事をして アナタを不快にさせてしまったかもしれません。
それを、謝りたくて・・・」





オレの口から核心を突く言葉が出た瞬間、彼の表情が凍りつく。漆黒の瞳が動きを止め、オレの顔をぴたりと凝視した。


――――別に。謝って頂くようなことでは。」


凍った表情で抑揚無く放たれた彼の言葉。けれども、その変化に 舞い上がってしまっていたオレは気付けなかったのだ。







「けど、でも・・・痛かったでしょう?」







会話を繋げなければ、との一心でオレがそう言った刹那。彼の表情が一変した。



見る間に彼の顔に血が上るのが解った。

怒りでカッと頬を火照らせた彼は、真っ赤な瞳でオレを睨みつける。


「・・何 勝手な・・・―――知ったような事を言うな!!」


背を預けていた窓から跳ね起き、拳を固く握り締めて。彼はゆっくりとオレに向き直った。
凄い気迫だった。実際オレは胸倉に掴みかかられるかと思って、思わず身構えてしまったほどだ。
身体中を猫のように逆立てて、こちらを強く睨みつける瞳。オレはその、夜のような深い目が持つ力に心臓を囚われ、じっとそれを凝視してしまう。


「退いてくれ!もう二度と来るな!!」

彼はオレの横を乱暴に通り過ぎざま、吐き捨てるように言った。


しまった、また・・・!
自分の進歩のなさに気付いたオレは、慌てて彼を追って手を伸ばす。が、彼の腕を掴もうとした腕は、強く叩き落された。
もう何も話すことはない、という強い拒絶の背中。ここで行かせたら、全てが終わりだ。行かせる訳にはいかなかった。オレは必死に、声を張り上げる。


「それでも・・・それでも、オレはアンタでないと駄目なんです!!」


搾り出すように叫んだ言葉。それに、僅か、彼の灰色の背中が揺れた。

・・・だが、それっきりだった。足早に受付へと歩き去る彼のしなやかな後ろ姿。オレは今度は、形振り構わず後を追った。


「待って・・・!待ってください!!」

「帰れ!!」


縋るように肩を掴んだオレを突き飛ばして。彼は、大きな音を立てて受付横の扉を閉めた。







「・・・ッ!」


オレはまた、その白い扉の前で唇を噛む。掌に残った柔らかなパーカーの布地の感触。その下の、しなやかに削ぎ落とされた身体の隆起。

「ち・・・くしょ・・!」

ダン!と白い扉を殴り付け、オレは壁に項垂れた。

――――つくづく、自分の学習能力のなさに腹が立った。これでは、この前と何にも変わっちゃいないじゃないか!


白い扉につけた拳に、自分の額を置く。ひやりと冷たい、握りすぎて白くなった拳。
オレはそのまま、じっと扉を睨みつける。目のすぐ近くに扉があるせいで、その表面のカンバス地のような細かな凹凸がはっきりと見えた。




―――まだ、だめだ。まだこの扉を開けることはできない。

・・・けれど、絶対に諦めない。



やはり、オレの中で渦巻く感情の行き着く先は、そこだった。オレは強く瞑目して、がばりと身体を起こす。

真正面から扉を見詰める。




――――絶対、明日も来てやるからな



今のオレにはもう、それしかできることがなかった。

一つ頭を振るって、プールを後にしようとする。そのとき、オレは初めて、入り口横の「受付」と書かれたブースに人が居ることに気付いた。



それは、小柄な老人だった。一体いつからそこにいたのだろう。もしかしたら、昨日や一昨日も、そこに座っていたのかもしれない。オレは全く気がつかなかった。小さな顔には深い皺が刻まれていて、白髪に、長い白髭を蓄えた気難しそうな老爺だった。片手には、今時珍しい大きなパイプ煙草を持ち、そこからゆるやかに煙が立ち昇っている。
彼の思慮深そうな鳶色の双眸が、じっとオレを見詰めていた。

「あ・・・」

どきりとした。オレは、今更ながらにこの建物が有料の公共施設だったことを思い出す。

「すいません・・・オレ、金を・・・」





―――見学だけなら、無料じゃ」




ぷかり、と大きなパイプから幅広の紫煙を吐き出して。受付のカウンターに骨張った肘をつき、その老人は低い、けれどもよく通る声でそう答えた。

「あんた、毎日来とるの。」

下の方から、探るように見詰められ、オレはとぎまぎしてしまい居心地が悪くなる。やっぱり、ずっと見られていたのか。さぞかしおかしな人間だと思われていることだろう。
どう答えるべきかオレは迷いながら、その受付にすっぽりと収まってしまう小さな老人の顔を見返した。
彼のトレーナーの胸に小さな名札が下がっており、そこに「猿飛」と書かれている。

オレははっとする。そういえば、「彼」の名前は・・・



「のう」


静かなコンクリートの空間に、老人の声が余韻の尾を引いて響く。自動ドア脇から、独特の、ポーンという電子音が数秒置きに流れ、オレの鼻先を掠めていった。

「もう、あの子に・・・構わんでやってくれ」

カウンター越しに視線を遠くに落とした老人は、呟くようにそう言った。

オレは思わず、目を見張る。"あの子"・・・それが「彼」を指していると気が付くのに、随分時間が要った。


「どうして・・・」


呆然と、彼の顔を見返して尋ねる。老人は静かにパイプを咥え直し、また静かに煙を吐き出す。
耳の端を掠める、コンクリートに反響する電子音。真新しい壁の匂い。
そこに混じる、柔らかな紫煙。



「・・・あの子のことは、そっとしておいてやって欲しいんじゃ。あの子には、時間が必要じゃから」


静かな声でそう告げ、彼は、突っ立ったままのオレに視線を戻す。



「納得いかんか?・・・あの子のことを、聞きたいか?」





――――それは、突然の言葉だった。パイプを加える老爺の瞳が、鋭くオレを射竦める。


・・・この人は、「彼」の全てを知っている。多分、オレが疑問に思っている事の殆どを。
それは、今のオレにとって、酷く甘美な誘惑だった。彼の事を、知ることができる。


恐らく、オレの想像も及ばない何か・・・深い事情を。



―――いいえ・・・」



しかし、オレの口から漏れたのは、全く逆の言葉だった。

「・・・いいえ。いつか、彼から聞きます」

オレは一つ息を吸って、老人の目を見返す。


きっとこんなやり方は、フェアではない。

いつか。それは、いつになるのか解らない。もしかしたらそんな日は来ないのかもしれないが、それでも、きっといつか。
彼のことは、彼自身の口から、聞きたかった。




「そうか・・・」




ふ、と溜息のように紫煙を吐き、老人は深く沈黙した。肘を突き、組んだ手の上で目を伏せる。


「また、明日も・・・来ます」


オレは彼に深く一礼して、踵を返す。老人は、沈黙したままだった。






この静かな、真新しいコンクリートの空間は、まるで凝り固まった深い海のようだ。
時間も、言葉も、感情も・・・何もかもがそれぞれの胸の内にひっそりと隠れ、空気と同化して停滞している。




帰り際に、オレが目にした、受付の壁に掛けられた二つきりのネームプレート。白い長方形のそれには「猿飛」「海野」と、朱で書かれていた。








「海野」・・・それが、「彼」の名前に違いなかった。










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