Some folks were meant to live in clover

But they are such a chosen few

And clover, being green

Is something I’ve never seen

 

Cause I was born to be blue.

 

 

 









白み始める部屋の中で、オレは呆然と座り込んだまま、カーテンの隙間から差し込む朝日を見詰めていた。

 

フローリングの床に散乱する、スケッチブックから破り取られゴミとなった幾枚もの紙が じわじわと朝日を吸う。

ゆるやかに熱を吸い込みながら、紙の上に描かれ損ねた黒いイメージの塊が、ゆっくりと体温を帯びてゆくようで。
オレは辺り一面に撒かれた紙の断片にそっと指を這わせる。

木炭で真っ黒な指先が、紙の上にグレイの帯を刷いた。

 

――――気が付くと、夜は明けていた。昨日逃げ込むようにこの部屋へ駆け戻ってからの記憶が判然としない。


ただ、夢中で描き続けた。


記憶に強烈に焼き付いた、あの風景を。彼の残像を。

だが、煮え立つように頭の中を渦巻き、出口を求めて咆哮する残像とは裏腹に、白いスケッチブックに挑もうとするオレの腕は殆ど動かないのだった。


ほんの一本の線、彼の腕や髪がうねった軌跡、印象深い漆黒の瞳を構成する一本のラインを描こうとしただけで、それはもう既に“彼”ではない、別のものに成り代わってしまう。
無意味な線しか引かれていない白い海原を前に、オレは途方に暮れた。

頭ではなく右手に脳があるかのように、オレが迷っている隙にもオレの指は何かを生み出そうと、スケッチブックの上に多量の線を描きなぐる。しかし、描けば描くほど 捉えたはずのイメージは 開いた指で海水を掬うのに似て、どんどん記憶の外へと零れていってしまう。
次第に自分の中身が真っ白になってゆくのに、オレは焦った。
募る焦りと共に下腹が酷く痛んで、オレは時折冷えた風呂場に駆け込んで吐いた。朝から何も食べていない胃の中身は殆ど空同然で、オレはそれでもひっくり返ろうとする体内の臓腑に苦しみながら、冷たいタイルに蹲った。





夜のネオンに取って代わり、くたびれた部屋の中へと射し込む清涼な朝日。その光に露にされた、散乱する白い紙の真ん中で、くたびれきったオレは小さく笑った。

 



認めよう。オレはどうしようもなく、彼が描きたい。彼でなくてはダメだ。

一晩のたうち回って、出た答えがたったそれだけなことに、オレはまた笑った。

 


彼に会わないといけない。もう一度。

 

 

 

 

 

オレはまた、反対車線の列車に乗り込む。

何故だか、昨日と同じ様にしなければ、彼に会えないような気がした。
大体、昨日いた場所に同じ人間が今日もいるなんて都合の良いことが、そうそう起こる筈もない。
それ以前に、彼は実在するのだろうか。もしかしたら、本当に白昼夢だったのかもしれない。

時間がたつにつれてあやふやになっていく記憶の中の彼は酷くおぼろげで、その夢のような考えはとても現実的にオレに迫った。
変な縁起を担いで、またオレンジのジップアップを着込む。同じ音楽を聴いて、同じ駅に降りる。



・・・相変わらず、海は美しい姿でそこに横たわっていた。白い砂浜、作りかけのガラス細工。海沿いの道を、太陽に背中を押されながら歩く。

昨日と同じ様に輝く、尖った屋根、不思議な公共施設。

冷えたコンクリートの匂い。

 


――――果たして、彼はまたそこにいた。




まっさらな光の射し込む、海ではない海の中に。

殆ど音を立てない、正確無比なストローク。光を跳ね上げる滑らかな肌が、つるりと現れ、また水の中へと消える。
魚の尾びれの様に脚が撓り、アクアブルーの水を蹴りつける。

印象的な長い漆黒の髪が波間をたゆたい、水を纏わせてさんざめく。



(よかった、居た・・・)
 


―――――あぁ、彼があの広い海原を泳いだら、どんなにか美しいだろう。

そのとき一体オレは、何を見ることが出来るんだろう。

 

ぞくり、と体が震えた。安堵で全身の力が抜ける。

オレは背中を駆け抜ける快感とも感動ともつかない感覚に身を任せ、溜息を零した。昨日あれほど煽られた衝動が、再び右手に戻ってくるのがわかる。


しばらくぼんやりと見とれていると、不意に彼はオレに気付いた。

一瞬驚いたように、黒い目が大きく見開かれる。

 

・・・そのまま、彼はプールの端へと向かって泳ぎだした。オレと目を合わせたまま。

瞬く間に縁へと辿り着いた彼は、銀色の梯子に手を絡めるようにして勢いをつけてプールサイドへと飛び上がり、近くに掛けてあったタオルを掴みざま、振り返ってオレの方へ大きく開いた手のひらを突き出した。

唇が『まって』と音のない言葉を形作る。

そのまま彼は身体を翻し、プールサイドの奥へと消えた。

 

一瞬の出来事に呆然としていると、廊下の左奥から唐突に声がかかる。

 

「すみません!俺、気付かなくて・・・」

 

ぺたぺたと裸足にサンダルを引っ掛け、濡れた身体にシャツ一枚だけ羽織った姿でタオルを掴んだ「彼」は、文字通り転がるように 慌てて駆け寄ってきた。突然ガラスの壁を通り越して目前に現れた彼に、オレは心臓が止まるかと思った。

 

「昨日も来てましたよね?・・・・えぇと・・・キャンユースピークジャパニーズ?」

 

彼の長い髪から滴り落ちる水滴を呆然と見ていたオレは、彼が口ごもりながらこちらの反応を窺っているのに気付く。
・・・きゃんゆーすぴーく・・・?・・・あぁ、“日本語話せますか”か・・・

――――ひょっとして外人だと思われてる?オレ。

 

「・・・わかります・・・」

「よかった!」

少々つかえながら返した答えに、目の前の彼は弾けんばかりの笑顔で笑った。表情豊かな黒い瞳。太陽の光が降り注ぐ廊下で、彼のまだ濡れたままの髪や体がいやに扇情的で。

オレは思わず目が離せなくなる。

「俺、ここの指導員やってる者です。受付も・・・って、もう一人いるはずなんですけど・・・居ませんでした?

よくいなくなるからなぁ・・・ あ、プールご使用ですか?」

ひょい、と顔を覗き込まれて、オレははっとして顔を上げる。慌ててぶんぶんと首を振った。

「あ・・・えと、違いま・・・」

余裕のない自分が少し笑える。何やってるんだオレ。男相手にこんな・・・

 

高鳴る心臓を押さえようと、ふと下げた目線の先。言いさしの言葉を宙に浮かせたまま、オレは凍りついた。

 

すらりと伸びた彼の脚があった。

その脚。水滴の纏わりつく彼の右足。

 

―――――そこに、大きな傷跡が

 


酷い、なんてもんじゃなかった。右足のふくらはぎから太腿にかけて、大きな鎌でざっくり切り裂かれたように走る傷跡は、周りの皮膚を酷く引き攣らせ、生々しく薄桃色に盛り上がっている。それは多分、脚の大切な腱や神経を切断せんばかりの深さで。

す、とのびた白い脚に不釣合いなそれに絶句するオレに気付いたのか、彼は苦笑して、ほんの僅か右足を引いた。

隠したいという気持ちと、もういいじゃないか、という恐らく諦めにも似たような気持ちの葛藤が 彼のその行動に垣間見えたような気がした。


「・・・あぁ、これ・・・ね。すみません。

―――えっと、体育館の方ですか?それなら、受付横の機械で・・・」

「ち、違います!!」


言いながらオレの横を通り過ぎようとした彼の腕を、オレは咄嗟に掴んでいた。彼が驚いた顔でオレを見る。

「違います!すみません、そういうつもりじゃ・・・」


焦りが指先から溢れるようで、掌がじんわりと汗ばむ。こうして間近で見ると、意外にも彼の肌には細かな傷が多いことに
オレは気付いた。腕や身体に散る小さなそれとは異なり、くっきりとした一文字の傷が鼻筋を横切るように入っている。

オレの目線より少し下で、困惑した彼の瞳がオレを見ていた。



―――――アナタを・・・アナタを、描きたい」

 

乾いた唇を無理矢理動かすようにして、オレは言葉を搾り出す。
滅多に他人と干渉しあわない自分の、コミュニケーション能力のなさがつくづく厭になる。
ここで彼を逃してはならない、と妙な焦りと共に言葉を紡ごうとするが、上手くゆかず、自分で自分に歯噛みした。

何だこれは。
Yesと言ってもらわなきゃ何もかも始まらないのに、こんな言い分じゃデッサンモデルだってついて来るわけがない。


「・・・アナタが泳いでいるのを見て、アナタの向こうに 海が見えました。まるで魚みたいだと思った。

その、きれいで・・・どうしても描きたくなったんです。

アナタを、アナタを描かせて貰えませんか・・・」


一息に言いきって、がばりと頭を下げる。焦りで上手く口が回っていなかったかもしれない。
舌が乾いて、自分の息が馬鹿みたいに熱かった。

こんなに切羽詰ったのは何年ぶりだろう。凍り付いていた無感情な自分の中の衝動が、突き動かされ、露にされるのを感じる。高鳴る心臓をなだめるように、オレは強く目を閉じた。

彼の体から滴り落ちる水音が、静まり返る廊下で やけに大きく聞こえた。

 

 

―――――そのまま、どれくらいたったか。

彼がぽつりと、言葉を漏らした。

―――痛い・・」


まるで呟くような声に、オレは意味を上手く聞き取ることが出来ず、少し目を上げる。

「痛い、です・・・腕。放してもらえませんか」

「あ、あ!すみません!!」

気づかないうちに、かなりの馬鹿力で握り込んでしまっていたらしい。慌てて飛びのくと、彼は腕をさすりながら、ゆるゆると手を自分の方へと引き戻した。
オレの指の痕が、赤く残っている。しまった、最悪だ・・・。


「あ、あの、ほんとにすみませ・・」

 



――――申し訳ありませんが。」

 


それは突然の言葉だった。妙にはっきり響いた彼の言葉はオレの弱々しい謝罪を掻き消し、光の射し込むリノリウムの廊下にぽたりと落ちた。

 

「そういうことなら、ご期待には添えないです。すみません」

 

す、と軽く下げられた頭。水を含んだ漆黒の髪が、つるりと彼の頬の横に落ちかかる。

彼の瞳が酷く暗く、澱んでいる事にオレは気付いた。別に今の無礼を怒っているわけではないだろう。だがそれは、先ほどまでの明るい様子とはうって変わって、まるで何かを拒絶するような。

彼の簡潔な言葉はきっぱりとしていて、一切の追従を許さない響きを持っていた。

オレと目をあわさず、そのまま、彼はオレの横を通り過ぎて入り口の方へと足早に歩き出す。



ふられた、と気付くのにさほど時間はかからなかった。オレはどうしようもなく、慌てて彼の背を追う。
雫を滴らせ、リノリウムにプールの匂いを残しながら去ってゆくしなやかな背中。

僅かに右足を引き摺るように歩いているのが判った。

“受付”と掲げられたブース横の、係員用のドアに手を掛けながら、彼は振り返らずに言った。

――――体育館使用なら、横の券売機で券を買って、そこのプレートに名前を書き込んでください。プールも同じですんで」

 

ばたん、と拒絶の扉が閉められた。

 

それっきりだった。

もう何の言葉も届かないような厚い壁に、オレはしばらく呆然とその場に立ち尽くした。

 

 

 

 

 





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