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対向車線とは打って変わってがらんとした電車は、カタコトと薄っぺらい音を立てながら海へと着いた。 終着駅のそこで、オレは電車から降りた。 ――――あぁ、久しいな。 海なんて。 潮の匂いが、胸一杯に満ちる。 この町に移り住んできてからまだ一度も足を運んでいない駅で、オレは眩い気持ちで辺りを見回した。
静かだった。 この湾の中央には、最近出来た大きな飛行場がある。もっとも、地図で見るとすぐ近くに見えるそれも本当はずっと向こうにあって、目を凝らしたって耳を澄ましたって分からない。 はずだった。 私営地下鉄団体との衝突や、土地の買収問題など、色々ややこしいことがあったようだ。オレはがちゃがちゃした問題事に興味が無く、途中で耳に蓋をしてしまったクチなので詳しいことは分からないが、すったもんだで結局モノレールの駅ができたのは、この海岸の“対岸”で。 この町は、建設途中のビル群を残し、すっかり忘れ去られた街になってしまったのだ。 海岸にそってぽつぽつと並ぶ、太陽に輝く工事半ばの美しいガラス細工。至る所の窓には未だ「割物注意」のシールがべたべた貼ってある。まだ普通のビルの3分の一も無いだろうその頭からは、沢山のクレーンや鉄骨類が生えていて、そのくせ しん、と静まり返った街だった。 海が陽を受けてさんざめく。この動きの無い町で、波だけが饒舌だった。 海はいい。 内に数え切れない命を内包して。だからあんなに複雑な色を持っている。 光を受けて瞬間煌いた波は、もう別の波にとって変わられ、それが永遠の連鎖を生み出す。 その無限大の一致を想像して、世界の大きさに圧倒される。 海の色は、自分が探している色にとても似ている。 きっと海は、自分の探しているものを持っているのだと思う。 たまにそれをちらりと見せ、ほらほら、と自慢する。なんて綺麗だ。留める事などできない、それ。 海沿いのビルの間に、同じ様に作りかけられて捨てられてしまった小さな遊園地があった。 アイボリーのメリーゴーラウンドが海風に錆付いてぎしぎし鳴る。小さな屋根に繋がれてしまった白い馬たちは、何処かへ抜け出そうと懸命にもがいている様に見えた。そのインディゴの目に、海が映る。 オレは、その馬たちに寄り添って 暫く何も考えずに海を眺めた。馬たちは静かに自分たちの背を貸してくれた。仲間にするように。 あぁ、そっか、オレもお前たちと一緒かもしれないなぁ。 オレは白い馬の首筋に頬を押し付けて海を見た。オレの左半分にはいっても、海は、その果てしなさを失わずに揺ぎ無く海として存在していた。 海のような揺ぎ無い、完璧な色が欲しい。オレの無くした左半分に満ちるような。 そうすれば、きっと何かが見えると思うんだ。自由になりたいんだ。 誰にも乗られること無く朽ちてゆく塗料の匂いの隙間に、胸のすく海風が香った。 どれくらいそうしていただろう。 海のささやきに呑まれて、少し眠っていたのかもしれない。 ふと、馬の背の硬さが気になって体を起こすと、押し付けていた頬や肩がじんと痺れていた。 ぼんやりと頭を巡らせる。太陽と反対側、寸足らずのビルたちの上で、なにかがちかちかと光っていた。何か、尖ったもの。 ・・・なんだ? 特にすることも無し、確かめにでも行ってみるかな、と 好奇心に満ちた子供のような気持ちで立ち上がる。軽い白砂と埃を払って 馬の背を軽く撫でるとそれを見ながらまた歩き出した。 「それ」は、ビルの向こう側にある建物の屋根の先っぽだった。 左右非対称に鋭角に尖った屋根が特徴的な、公共施設のようだ。尖った屋根は、菱形のガラスが沢山はめ込まれた構造になっていて、今は青空を映してきらめいていた。ちょっと面白い意匠の建物だ。 が、それ以上に気になったのは、その建物が完成されたものだったことだ。 「へぇ・・・」 この忘れられたビルの中で。 珍しい。 感嘆のような思わず漏れた声に後押しされ、何の建物だか気になって歩み寄ってみる。ぼんやりした頭で半ば夢見心地でいたため、その看板が見えたとき、オレは素っ頓狂な声を上げてしまった。 “市営体育館・プール” 「―――――プ、プールゥ!??」 プール!!こんな海の隣に、プールだって!? これを計画した奴ってのは、一体どんな馬鹿なんだ!? 確かに、冬場なんかは温水のプールでなければ泳げないことは明白だし、塩水が苦手な人にとっても、また、雨の日のように 海よりプールの方がいい場合だってあるだろう。 だが、何だってこんな所にプールを!?他に幾らだって作る場所があるだろうに。 まぁ、深く考えればそんなに違和感のあるものじゃないかもしれない。だが、そのときオレには単純に、海の前にわざわざ作られたプールがとんでもなく無駄で滑稽なものの様に思えた。 ふ、と脚が動く。 まだ新しい匂いのするその建物に、好奇心のまま近付いた。青い影を落とす建物の入り口はひんやりとしている。中を覗こうと、大きなガラスの自動ドアになっている入り口に寄ると、予想外にドアは感度良く 軽い音を立てて開いた。 少し躊躇した後、意を決して二重になっているドアの、奥をくぐる。 建物の中は しん、としていた。冷えた真新しいリノリウムの匂いが鼻先を掠める。 誰か近場の住人でも、体育館を使っているのだろうか。時折ピンポン玉の弾む軽い音と、小さな笑い声が奥の空間から漏れている。建物に入ってすぐ右手には「受付」と掲げられたブースがあったが、どこにも係員らしき人物は見当たらなかった。 咎められないのをいいことに、オレはそのまま足を踏み入れる。 不思議な建物だった。右奥へと伸びる廊下の先には、小さな体育館があるらしい。楽しげな声はそこから漏れていた。 ガラス張りの明るい廊下に面した 左側の廊下は、なだらかなカーブを描いて奥へと続いている。二つの廊下に挟まれた丁度中央に、「大体育館A」と掲げられた空間があり、覗いてみると小奇麗なバスケットのゴールが見えた。 オレは人気を避けて、また、左側の廊下に「←プール」と表示されているのをぼんやりと見、迷わず左の道へと歩みを進めた。 左側の通路は、とても静かだった。ガラス張りの窓は大きな斜面になっていて、たっぷりと陽光を取り入れきらめいている。 プールから海が見えるのか。 目を細めてそれを眺めながら、洒落た建物だなぁと思う。公共施設か、だとしたらデザイナーの設計だろうか。 猫背を丸めてふぅ、と溜息。他の授業と振替はきくだろうか・・・。 不意に、たん と音がした。 驚いてオレは振り向く。廊下には誰もいない。音がしたのは、右前方 その中にプールがあると思しき、ガラス張りの場所。 一度きりのそれは、何かを叩いた音のようだった。それっきり、何の音も聞こえない。オレは目を丸くする。まさか、プールに入っているヤツもいたのか。 ・・・それにしても、静かだ。どうして今まで気がつかなかったんだろう。プールの音は反響しやすい。何らかの音が聞こえてもよさそうなものなのに。 リノリウムの床を鳴らしながら、プールへと近付く。窓と反対側、ガラス張りのそこは、一段高くなっていて、中央に据えられた大きなプールを見渡せるような具合になっていた。 ―――――だが、そこには誰もいなかった。 (え・・・?) オレは思わず、ガラス越しにプールを覗き込むように視線を彷徨わせた。そんなはずはない。確かに、聞こえた。 あの独特の、空間に響くような水の音。 しかし、眼下一面の水は、細かな光の粒を浮かべながら沈黙したままだった。広めに取られた美しいタイル張りの空間も、揺れる光の影を落としたまま 暖かな澱みの中で凍り付いている。 まぶしい。光が。 水面に張られた、コースを区切るカラフルなプラスチックが 水の揺らぎに合わせてゆらゆらと動いている。動きがあるのはそこだけの、静謐な空間。光に満ち溢れたその場所で、ターコイズやラピスの影を沈殿させるプールの揺らめきは、まるで小さな海のようだった。 まぶしい。まぶしい。 過ぎた光は、胸を詰まらせる。 まっとうな感覚の残っている右目が、零れんばかりに与えられる光を受け止めきれずに瞼の裏へ逃げる。 その、刹那。 オレの背筋が、ざわりと総毛だった。 (なにか、いる――――?) プールの底に沈殿する 蒼の澱みから抜け出して、水面へ向かって盛り上がる、なにか。 それが、一直線に天へと向かって進み、アクアブルーの被膜を纏って 大気の中へ姿を現そうと。 何、が 息が止まった。 最初に水面に現れたのは、手だ。陽光を纏って、白く光る二本の腕が まるで水の隙間を縫うようになめらかに肘から水面へと抜け出す。肘に続いて すべらかな二の腕から肩のラインが露になる。肩から背に回る羽の名残の骨が、撓る背筋と共に水飛沫を跳ね上げ。 肘先に続いて現れたてのひら、その先に開く ひれの様な長い指が水を跳ねたのと同時だった。 (・・・・・・ッ!) ―――――青い青い水の中から、漆黒の鬣を持つ獣が姿を現した。 薄い水の被膜を纏って水面へと踊り出た、波に散る長い髪を纏わりつかせる 白い顔。光を跳ね上げる首筋に、眩しそうに見開かれる、漆黒の 夜のような瞳が。 赤く濡れた唇が、まるで羊水から引き上げられた生まれたての赤ん坊のように、大きく喘いで大気を吸った。 両の腕が、完璧な軌道を描いて指先から水中へと沈められる。水滴を撒きながら黒い鬣が吸い込まれるように水中へと消える。背筋が鞭の如くしなって、しなやかな身体が露になり。 大きな尾びれのような両足が、光の飛沫を弾き飛ばして。 そして、獣はまた水底へと消えた。 ―――――音が、しない 音が・・・ うそ・・・だろ? オレはガラスに噛り付いて、食い入るように水中を凝視した。まるで上等な白昼夢でも見せられているような、そんな気分だった。揺らめく水面に、光が入り混じって 頭が朦朧とする。嘘だ、嘘だろう? ――――あんなきれいなものが、いるはずがない 夢中で水面を見詰め続ける。幻想なのか、現実なのか、目の前で起こったことが信じられなくて。 プールは、先ほどの幻影を覆い隠してしまうように、眩い光で満ちていた。透き通ったブルーの水面は相変わらず穏やかに風に凪いで、余韻など微塵も感じさせない。 風が、ふらりとオレの髪を揺らした。 長い、長い時間だった。数分、五分はくだらないんじゃないかと思う。 信じられないような長い時間をかけて、その獣は、再び水面へと姿を現した。息を詰めて見守るオレの目の前に。 音がしない。 水と一体になった身体は、今度は優美な泳ぎを見せた。濡れて白く光る腕は正確無比なストロークで水を掻き、水を孕む。背骨が奇麗に波打ち、爪先まで伝わった撓りは 本当にそこに水があるのかと疑いたくなるほど抵抗無く するりと水中へと舞い戻る。薄い薄い水を一層だけその身に纏ったまま、その美しい獣は魚のように白い身体を撓らせ、水の中を踊った。 凄い速さだった。50mはあろうかという大きなプールの殆どを、たった数回水を掻いただけで泳ぎ切る。それでも耳には殆ど音が聞こえてこない。水の中に目に見えない微細な隙間があって、そこに身体を差し入れているかのような、そんな抵抗を感じさせない泳ぎだった。 水が、懐いてる。 思わず浮かんだ考えに、息を詰めていた喉が、ヒュっと鳴る。 目の前にいるのは、確かに人間なのに。無駄なく筋肉の付いたしなやかな身体も、黒髪の映える、端正な顔立ちも 確かに人間の男のものなのに。 まるでそこに、美しい一匹の魚が居るような錯覚に、オレは囚われた。その男は流線型の、優美な哺乳動物によく似ていた。 息つく間も無く端へと泳ぎ着くと、彼は目にも留まらぬ速さで身体を回転させ、壁を蹴った。 ―――――その瞬間、プールが海に変わった。 幾何学的に真っ直ぐ境界を形成していた縁が、跡形も無く消え去る。 そこに残ったのは、眩い太陽に照らし出される、さんざめく海。 男が水を掻くごとに、建物の壁が消え、果てしない水平線まで海は広がった。無機質なプールの水が、どくり、と息づく。複雑なきらめきと共に、内部には無限大の命が内包される。 そこに広がっていたのは、オレの焦がれた“海”そのままだった。水の中に無数の命が溶け、鉱物が溶け、紛れもない 海をオレに見せる。その世界で、男は空であり風であり、海だった。 潜ったままで三分の一を泳ぎ切り、水面へと現れた彼は、また流れるようなストロークを再開させる。途中で軌道を変えると、プールの隅に生えている銀色の梯子に向かって身体を転回させた。 梯子に、男の白い手が絡みつく。彼の身体から水の剥がれ落ちる ざぁ、という音が、初めて音らしくオレの耳に届いた。 心臓が跳ねた。 (――――笑った・・・) 無邪気に水面を見詰めると、そのままの姿勢から彼は身体を翻し、水中へと踊りこんだ。真っ直ぐ伸びた指先から爪先までが、一本の矢の様に水に突き立っていく。 たん、と たった一つだけ、音がした。 瞬きも忘れていたんじゃないかと思う。 気が付くと、オレは夢中で虚空にデッサンしていた。右の人差し指が箍が外れた機械のように、淀みなく凄まじい速さで藻掻く。オレは必死だった。息をしている暇さえないように思えた。今目の前で起こっていることを、何としても繋ぎ止めなければ。 彼を。 喉が詰まった。こんなに苦しいデッサンは初めてだった。媒体も何もない。空中に指を滑らせながら、同時に脳裏に今の光景を強く焼き付けてゆく。しかし、掴んだ、と思った次の瞬間、彼はもう流動体にでもなったかのようにするりとオレの描いた枠の中から逃れてしまう。 早く早く、もっと早く。 夢中で喘いだ口内が、からからに干乾びる。焦燥は、初めて海を描こうとしたときに似ていた。 頬を伝って、汗が一滴、リノリウムの床へと落ちた。 それにオレははっとして、顔を上げる。忘れていた呼吸に肺が悲鳴を上げ、オレは大きく噎せながら長距離走者のように肩で息をした。いつの間にか酷く汗をかいている。尋常ではない緊張からの解放で、一気に身体が弛緩し、ガラスへとしな垂れかかった。右手が痺れている。 何だ・・・なんだ。これは。 オレは目を見張りながら、しばらく淡い緑の床をじっと眺めた。右手が震え、それでもまだ、描き足りない描き足りない、と プールのほうへ向かおうとする視線を必死で押しとどめる。 ―――――冗談じゃない。全部、持っていかれてしまう・・・ 掌に伝わる、ガラスの硬質な冷たさにオレはじっと神経を集めた。 水音がやんでいた。 いつからか判らない。オレはそれに気付いたと同時に、顔を跳ね上げた。 彼が、こちらを見ていた。 肩まで届く漆黒の髪を波にたゆたわせ、青い海に喉下まで浸かったまま、動きを止めた獣は ガラス越しにきょとんとこちらを見ていた。 心臓を握られたような気がした。オレはガラス越しに、その瞳に縫いとめられた。
瞬間、オレは逃げ出した。脇目も振らず、真っ直ぐ入り口へと駆け込んで、体当たりするようにドアにぶつかると、そのまま元来た道を走った。震え出す身体を抱き締める。
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