オレは、 「欠落者」 という意味の名前を
持ってる。
歪んだ月
乾いた横風が強く、頬を凪いだ。里外れの高い陸橋の上。
眼下には一面、深く墨を纏った森が広がり、振り返れば、逆の地平線には小さく木の葉の町の灯が見える。
ここは、里の辺境を守る、小さな砦だ。海の様な木々のにおいと入り混じる、冷たく乾いたコンクリートのにおい。
目の前に広がる闇と、背中を圧迫する里の柔らかな明かり。
凍てついた心に吹き込むは、無理矢理喚起した里への感傷。
―――そう、「里のため」。そう思い込むことが、オレを突き動かしているたった一つの原動力だった。
そうしてオレは、また獣の仮面を身につける。
生まれた時からオレは、里の一つの歯車だ。感情などは元から持ち合わせがなかった。
ただ、黙々と里から与えられる命令をこなすのみ。
そうしてオレが動くことで、この大きな組織が音を立てて軋み、機能してゆく。
そのための一つの歯車。スペアのたくさんある、凍った小さな歯車だ。
同じ仮面をつけた、異形の装束の忍びたちが、橋の上に静かに会する。
年嵩の猿面の男が作戦の段取りを 巧みに暗号を織り込んだ忍び言葉で伝えた。
一通りの詳細が伝えられた所で、オレはするりと跳び、橋の欄干へと上る。もうそれ以上は、いらなかった。これから暗殺しようとしている者の情報など。
歯車には、動くために必要な最低限の情報で、充分だ。
「・・・はやるなよ、カカシ!」
背後から鋭い声が掛けられる。それを耳の端で受けると、オレは手摺を蹴りつけ、足下の深い闇へと身を躍らせた。
耳の横を夜風が切り裂く。質量を無くした大気になりきり、幹を薄い靴底で捕らえて、蒼い枝葉の中をぐん、と大きく跳躍する。
折りしも満月の夜。
忍びの目に 闇で閉ざされるはずの森の中は、昼間のようにその隠された姿をさらけ出していた。
オレは大気に溶け込む気配を探ると、ふいに軌道を変える。即座に体積をもった身体に戻り、幹を掴んで速度を殺す。と、そのまま 頭から地上へ向けて落下した。
眼前に突然、音もなく落ちてきた暗部を見て、男は一体何を思っただろう。ひゅ、とか、ひ、とか 空気を押しつぶしたような声が、彼の喉から発されたことは覚えている。
彼は今回の標的であり、木の葉からの抜け忍だった。
実力は上忍に位置付けられるが、長い逃亡で体力は残り少なく、チャクラも殆ど底を尽いている。暗器は長刀とクナイに、飛び道具を幾つか。オレの持っている情報はそれだけだったが充分だった。
男が懐のクナイを握るより早く、手に馴染んだ白銀の刃が横一線に大気を切り裂いた。勢いを削がず、身体を傾がせたまま上段へと刀を振り抜いたオレの頭上で弾ける、獣のような血のにおい。
腕に引っ掛かる、硬い骨と筋肉をぶつり、と断ち切る感触。
赤い飛沫が間欠泉のように、闇の中でしぶいた。頭上を越えゆくそれを目の端で確認し、男の躯と切り離された首が落下してくる前に 軽く地面を蹴って飛びのく。
勝負は一瞬だった。
オレはすぐさま いつものように、闇の中では骨のように見える自分の剥き出しの細い腕や、少々身体には大きすぎる装束に残骸を浴びていないか視線を巡らせる。
と、崩れ落ちる首のない男の影から、転がるように何かが零れた。
「!」
―――事務的に。それは殆ど反射だった。
目の端でそれを捕らえた瞬間、オレの鉤爪が宙を舞い、零れた「なにか」を引き裂く。
それは酷く、肉の感触に似ていたが、慣れ親しんだ殺戮の感覚とは全く異なるものだった。
筋肉ではない、もっとぐにゃりと柔らかくて甘い、何か。
優しく懐かしい匂いを、瞬間嗅いだ気がした。
腕に引き続いて流した視線が「なにか」を捕らえ、オレは目を見開く。
"あ"
認識した時にはもう既に、毒を塗りつけた鉤爪は そのちいさな頭を首ごと毟り取っていた。横薙ぎに振り抜いた腕が、血飛沫を上げるその信じられないほどに軽い塊を、遥か彼方へと弾き飛ばす。
飛んだのはまだ生まれたばかりの、小さな小さな赤ん坊の首だった。
こんな状況で、それでも心底それを慈しみ、必死で守り抜こうとしていたのか。赤ん坊を幾重にも包んでいたごわごわの古びた布が、鉤爪の先に引っ掛かって旗のようにたなびいた。
撒き散らされる、死の匂い。
ごとり、と二つの躯が地面に叩きつけられる。
溢れんばかりの血臭を残し、辺りにはまた痛いほどの静寂が訪れる。
首のない男の手が、赤ん坊の布を握り締めたまま地面に垂れていた。
半ば癖のように周囲の気配を探りながら、オレはぼんやりと、指先に食い込んだ木の葉色の布を見遣る。
じわりと仲間の暗部が闇から現れ、「もう済んだのか、」と声をかけてくるのには返答せず、オレは特殊な術式を組んでふたつの躯に火をつけた。
何の感慨も沸かなかった。
本当にひとかけらの感情の揺れも、起こらなかったのだ。
いつも通り。これがオレの日常。
欠落したオレの姿。
淡々と手順を踏んで遺体を処理してゆくオレを見て、距離を置いて脇に立つ暗部が鋭く舌打ちした。
「お前は、本当に優秀な忍びだよ」
何故だか、僅かにささくれ立った気配を向けてくるその暗部の方には視線を遣らず、代わりに空を振り仰ぐ。
木の葉の切れ目から大きな銀色の月が顔を覗かせている。
「・・優秀だが、俺はごめんだな」
吐き捨てるように呟かれたその言葉を 冷えた頭で聞きながら。
頭上で回る銀の歯車の事を、オレは思った。
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