たたかうおんな






桜が吹雪いていた。

窓の外に咲き乱れる桜たちは、華やかな少女たちのようだ。きらきら、かがやいて きゃあきゃあと甘いおしゃべりが
響いてきそう。

この窓から見える桜は、ほんとにむかしから変わらない。春野サクラは、アカデミーの教室の窓から見える桜の群れを
まぶしく振りあおぐ。大きく開け放した窓から花びらを巻き込んだ風が押し入り、教室のカーテンを孕ませる。

 

窓際の席。ここは、あたしのだった。

 

長机の一番端に頬をおしつけ、腕を伸ばして柔らかなカーテンに触れる。
緩んだ風が、絡まった髪と擦り傷だらけの皮膚を撫でた。

腕に、からだに、おそらく顔にも。こびりついた泥と、誰のものとも知れない血が静かに春の風に引き攣れている。


任務報告書を提出した帰り、不意の気まぐれでサクラはアカデミーを訪れた。長い、苦しい任務だった。
気づけば冬が過ぎ、里に春が訪れていた。むかしのままの教室の佇まいに、サクラはそっと笑みを深くする。

懐かしい思い出が、ほろほろと胸から溢れた。想像よりもずっと小さくなっていた机に頬を寄せ、サクラはじっと目を閉じる。

木漏れ日がまぶたの向こうで柔らかくほどけている。

(きれいだったわ、あの子)

サクラはまぶたの向こうで、先ほど見た風景を思い出していた。任務から帰還したサクラが偶然であったのは、初々しい若者の結婚式だった。
新婦はアカデミーで仲の良かったともだちの一人だった。好きなひとを打ち明けあって、学校帰りに買ったキャンディを分けっこして、授業中におしゃべりしては叱られた友達だった。

(きれいだった)

幸せそうな彼女の笑顔がよみがえる。真っ白のフリルがたくさんついた、裾の長いドレスをひいて、花のあしらわれた繊細なベールをまとっていた。彼女の隣にいたのはあの頃話した憧れの人ではなかったけれど、彼女はこれ以上ないほど幸せに見えた。世界で一番幸福なのよ、という自信に満ちた笑顔をしていた。

あの子は、しあわせを手に入れたのね。

サクラは、声をかけなかった。喜びの式を、血や泥で汚すことはできなかったからだ。


―――だけど、ほんとにそう?

あたし、ほんとはこんな自分を見られたくなかったんじゃない?


冷たい予感が首筋に落ち、薄く開いた瞳に、舞い踊る桃色の花びらが見える。声をかけなくてよくって、ほんとうはほっとしていたんじゃない?

「・・・なぁにやってんだろ、あたし・・・」

苦く顔をゆがめ、サクラはほうっと長いため息をついた。アカデミーの頃の記憶は遠いものなのに残酷なほど近しく、優しい風に乗ってすべてが鮮明に思い出されるようだった。

 

こどものころ、あたしはお姫様だったわ。世界は可能性で満ちていて、なんだって叶えることができた。想像だけで世界一の王子様を手に入れることもできたし、その横で微笑む姫になることもできた。白馬もお城も馬車も、目の前に山のようにつまれるお菓子も宝石のついたきれいなドレスだって、全部自分のもの。魔法一つで世界をひっくり返すこともできた。

あの頃は自分を可愛く見せるのに精一杯で、ピンクの可愛いスカートをはいて、髪をひとつの乱れもないくらいにつやつやにとかして、まつげをあげて。唇には淡い色の紅を引いていた。先生に見つからないくらい、こっそりと。

いい香りの口紅だった。とかした花びらのようなにおいで、舐めるとわずかに甘かった。あのころ舌に乗せた甘みを思いだし、サクラはそっと唇を辿る。かさついた唇はかたく、小さくささくれていた。



何時から自分の世界は小さく閉じていったのだろう。あの頃、世界は無限の可能性で満ちていたのに。

お姫様からただの街娘になってしまったのは、いつだったのか。

(・・けど、これじゃ街むすめどころか、奴隷の兵士ね)

傷だらけの手のひらを見て、サクラは笑う。桜色に染めていた丸い爪は、いつしか磨り減ってひび割れ、武器を握る形に固まっていた。

戦場では化粧もできない。顔にたくさん擦り傷を作り、屋根すら満足に確保できないような場所で寝泊りし、くしゃくしゃに絡まる髪のまま戦の中を駆けた。むかしは痣ができるのを酷くきらい、クリームを擦りこんで柔らかくもみほぐしていた手足も、今や雨風に晒されてがさがさだ。
力ばっかり強くなって、「馬鹿力」と恐れられるようになった。筋肉がついて、あちこち硬いしこりができた。

複雑な医療忍術を学ぶため、たまの休暇も古書と埃にまみれながら過ごした。いち早く取り入れないと気がすまなかった町の流行から どんどん遠ざかっていった。


あの頃、花を髪に挿して、つんとすましていた夢見がちな少女は どこにもいない。


(・・・それでも)

サクラは、手のひらに舞い落ちてきた薄い花びらを握る。目を強く瞑って、痛みにさらわれないように眉根を寄せる。

(それでも、あたしは大好きなひとを守ることができなかった)

焦がれに焦がれて、ついぞ手に入れることのできなかった黒髪の少年が、命がけで差し出した自分の腕を簡単にすり抜けてしまったことを、苦しみに溺れながら思い出す。


あたしは結局なにも、手に入れることはできなかったわ


くるしみは涙になり、頬を伝って古びた机をぬらした。かすかな桜の匂いとともに、春風がカーテンを大きくなびかせている。


不意にサクラは、手のひらを掠めるその柔らかな布を掴んだ。ふわふわと手の中で揺れるカーテンに惹かれるように顔を起こし、たなびく大きな布に頬を埋める。むせるほどの太陽が香った。

あぁ、そうだ

(むかしは、こんなドレスを着たお姫様に、なりたかったんだ)

授業中、風を孕む生成りのカーテン越しに桜を見ながら、自分と同じ髪色を持つ姫のことを想像していた。彼女のドレスは白でも、黄色でもダメで、「この色でなくちゃ」と子供心に決めていた。桜が映えるのは、このやわらかなクリーム色なの、と。

傷ついた手でゆっくりとカーテンを抱き寄せる。このやさしいものを、驚かせてしまわないように。からだに沿わせるようにそっとまとい、肩と腰の辺りでつまんで留めた。

風が長いドレスの裾を、ふうわりと巻き上げる。しっとりした生成りの生地は、今や自分だけのロングドレスだった。

(ふふ・・)

思わず幸せな笑みがあふれた。

「―――おひめさま」

目元を緩ませ、くるりとターンしてみる。からだにカーテンを巻きつかせ、またほどく。そっと優しい腕に抱かれて、舞踏会で踊っているような気分になった。桜の花びらが雪のように視界を覆っている。


と、流した視線の先・・・教室のドアに、男が立っているのが目に入った。サクラはぎょっとして動きを止める。

次の瞬間、ざあっと身体中の血が顔にのぼった。うそ。みられた。いつから?

入り口の長身な男は、がりがりとその銀髪を掻いた。きゅうくつそうに背中を猫背に丸めている。顔の半分を隠す、濃紺の覆面。

「・・・い つからいたの、カカシ先生」

つっかえる声は羞恥で震えた。慌ててカーテンを掴んでいた手を外す。体から離れた布は、何事もなかったようにまた風を孕み始める。

「ずっと。」

声掛けるタイミング、逃しちゃってね。と 男は瞳に弧を描かせる。

 

窓の外の桜が、その枝をざわめかせた。焦りと恥ずかしさとかなしさがごっちゃになった胸の中に、小さな嵐が吹きぬける。

やだわ、とサクラは食いしばった歯の隙間からもらした。

「・・お見苦しいところお見せしちゃったわ。先生とあうの、久しぶりなのに」

言ってサクラはうつむき、唇を噛んだ。

「なぜ?」

「だってこんな。バカみたい、あたし」

ほんとうは、今の自分にドレスなんて似合わないこと、しっている。こんな傷だらけのごつごつのからだで、茶番もいいところだ。

 

桜に混じって、あの頃の幼い少女たちが駆け抜けてゆく。うつくしいドレープのスカートをひるがえし、色とりどりのリボンを取り合いながら。ポケットにいっぱいキャンディをつめた、いい香りの少女たちが輝きながら駆けてゆく。あの頃夢見たきらびやかな姫は もうどこにもいないのだ。

 

「お誕生日おめでとう、サクラ」

春風にそっと乗せるように、カカシはつぶやいた。それが言いたくて、姿が見えたから追ってきたのだ、と。

サクラは目を丸め、すぐに皮肉な笑みを唇に乗せる。

「・・・いやだ。しってたの?」

「そりゃあ知ってるさ。おまえら可愛い教え子のことだもの」

 

「・・ありがと。おめでとうって言ってくれたの、先生がさいしょよ」

 

そう言って、サクラは少し視線を落とした。埃っぽい教室は差し込む木漏れ日を受け、光の粉を舞わせている。

でも、それでいいの。そうでなかったらあたし、なんて答えたらいいかわからなかったもの。

こんなたくさんの大好きな人が亡くなった後に、おめでとう、なんて。どんな顔してきいたらいいかわからなかったもの。

「だから、祝ってくれなくてよかったの」

傷ついた腕を撫でながら、サクラは目を伏せる。マスカラの重みなど、とうの昔に忘れてしまったまつげが 視界の端で揺れていた。

 

「・・サクラ、恥じることなんてない。お前のドレス、きれいだった」

突然のカカシの言葉に、サクラは顔を跳ね上げる。またこみ上げてきた恥ずかしさに、顔どころか首まで真っ赤に染まった。

「やだ!こんなぼろぼろの女に、なに言ってんのよ先生」

冗談だと判っていても、それをいつものように受け止める余裕がなかった。笑い飛ばすことすらできず、顔を見られたくなくて、腕でとっさに被いうつむく。アカデミーの教室は時間すら昔に巻き戻してしまうのか、少女のような自分の反応にサクラは驚いた。

音もなく近づいたカカシは、大きくはためくカーテンを指にからませる。生地を確かめるように指を滑らせ、そのまま、うつむくサクラの肩に そっとまとわせた。

「こういう、美しい布が似合うのは、女の人の特権だ。シンプルだけどその分まっさらな布は ごまかしが効かない。サクラ、お前にこそ相応しいよ」

髪が映えて、とてもきれいだ


 

風が桜の木を揺らしている。自分の髪も、さぞかしみっともなく絡まっているだろう、とサクラは頭の端で想像する。

「いやだ先生・・お化粧も何もしてないのに。あたし、どんな顔してきいたらいいかわかんないじゃない・・」

顔を覆った手の端からもれた言葉は、情けなく震えていた。

 

「お前はとてもきれいだよ。誇れ、サクラ」

 

「もう・・・やだ。先生のおんなったらし。

今そんな言葉きいたら、泣いちゃうよ・・・」

 

言葉が終わらないうちに、涙が珠になって吹き出した。突然の洪水は止められず、真っ赤な顔中ぐしゃぐしゃになり、サクラは声をあげて泣き出した。

 

「―――お前、今のほうがずっといい女だね」

 

満足げに微笑み、猫背の男はむかしの教え子を胸に抱きしめた。