高校教師
「嘘だな」
「・・なにが。」
西日が眩しく網膜を焼く。型押しのように同じ形できっちり壁にはめ込まれた、飾り気のない窓枠が、安っぽく光を反射させる。
新任教師、海野は思わず今日何度目かという溜息を零した。それは、目の前で変わらず飄々と笑う、銀髪の少年の行く末を思ってのことなのかもしれないし、この型通りの風景に少なからず飽きてきてしまったからかもしれなかった。
上滑りする会話。御座なりの言葉を投げかける、自分。
もう、何度同じ質問を繰り返しただろう。海野はちら、と時計を窺う。そろそろ部活で残っていた生徒も帰ってしまった頃だろう。
がらんとした教室に、二人きり。
「――この成績表だ。お前・・これは、嘘だな。」
「何が嘘?オレが学年一の問題児だってことくらい、幾ら先生でも知ってるでしょ」
問題児、という所に妙なアクセントを置いて、からからと笑う。彼――畑は、もう既に着崩されている制服の胸元に、それでもまだ何かに締め付けられているかのように 顔を顰めて指を差し入れた。
厚ぼったいガラス窓を通り抜けてリノリウムの床に跳ね返る夕日が、彼の整った貌を照らしている。きつく弧を描く眉に少し下がった目尻が、彼に温和な印象ではなく、逆に獣のような危うさを与えていた。
畑はに、と目を細めて笑って見せた。
「至極真っ当な成績だと思うけど?」
「お前・・・自分でそれを言うかな・・・
じゃあ、これはなんだ」
こちらを上目遣いに覗き込んで来る美貌の少年に辟易しながら。
海野は、一枚の紙をケースから取り出して机の上に置いた。
静かに紙が鳴る。
夕刻を告げるチャイムが、聞こえた。
「――俺のテスト。覚えてるだろう?ちょっとやそっとの努力じゃ、この試験でこの点は取れない」
何せ、新任だからと甘く見られないように、最高学府の入試問題から引っ張ってきたものだ。
机の上に投げ出された紙の上に無造作に肘をついて。畑は長い睫毛を伏せ、興味なさそうに鼻で笑った。
「ふぅん・・・じゃ、何?満点に2点届かなかった事をオレはこれから怒られるわけ?」
「違うだろ―――」
海野はまた溜息をついた。この溜息を、畑が密かに愉しんでいるということは、下から悪戯そうな瞳で見上げてくる彼の様子を見れば容易に知れたが、海野はそれを咎めたりはしなかった。何のかんの言って、この生徒と軽口をたたき合うことは自分にとっても愉しいものだったし、彼の学校でも話題に上るほどの美貌を目の前にして、それにいつも軽い畏怖のような感情を抱きながらも、なぜか目が離せなくなる自分を誤魔化すにも都合のいいポーズだった。
海野は、頭を掻きながら窓の外に視線を投げる。紅く染まったグラウンドが陽炎の向こうにたゆたっており、ふと、自分はひょっとして ただのエゴでこの少年を引き止めたいのだろうか、との思いが胸を翳めて、海野はそっと身震いした。
だが今回は、事情が事情だ。海野は流した肩までの髪を手のひらで軽くまとめなおし、息を吸って、目の前の少年に向き直る。
「なぁ、畑。お前、本当は 勉強好きなんだろう?
勿体ないんだ。お前の才能、このまま埋もれさせるのは。お前なら、今のトップだって簡単に抜くことが出来る・・
・・と、俺は思うんだ。」
「なぁ、もう一年・・頑張ってみないか?畑」
言い終わるか終わらないかの内に、目の前に柔らかな闇が広がり、額を細い銀糸が撫でた。言いさしの言葉をさらった温かなものは、そっと海野の唇から離れると目の前で艶やかな笑みを形作ってみせる。
「―――判ってないね、アンタ」
立ち上がった畑が、被さるようにして海野の顔を覗き込んでいた。その長い指が、海野の胸の真ん中を指す。
「オレが好きなのは、勉強じゃなくてアンタなんだ」
わかる?ねぇアンタ、本当にわかってんの?
指先を強く押し当てられた胸のシャツがよじれ、歪な皺を刻んで行く。
呆気にとられる海野に、唇の端にほんの少しだけ笑みを染ませて。畑はそっと手を離して立ち上がった。
「それが判ったら、もう2度と、アンタによからぬ感情を抱いてるような生徒と、二人きりになろうなんて思わないこと。わかった?」
「さよなら、センセ」
ぴしゃ。
容赦のない音で、教室の扉が閉められる。
胸にいつまでも消えない畑の指の温度を感じながら。
海野は、夕日の中呆然と、閉じられたドアを、見ていた。