花宿り






「それでね、もうすっごいんですよ!まるで桜の海!」

 

春の夜の気配がそっと二人を抱いている。夜中に転がり込んできた上忍は、嬉々として先ほど見てきたらしい絶景について語った。任務中に目の前いちめんに現れた桜の群生地がよほど素晴らしかったらしい。子供のように体を揺らしながら、視界を埋めた桜色の素晴らしさを、熱に浮かされたような唇がつむぐ。

「夜だからわからないかと思ったけど、桜の色って夜でも目立つんですねぇ。濃い藍色の空にぼうっと しろい花の房が浮かび上がってね、そりゃあきれいで。その中を走るもんだから、ほんとうに桜色の雲に飛び込んでるような気持ちになりました」

「そうですか」

「夜の桜ってね、もこもこしていてすごく柔らかそう。綿菓子みたいだなぁ、って。ぎゅってしたら気持ちよさそうだなぁと思ったら、見ほれちゃいましたよ」

 

カカシの言葉は尽きない。イルカは黙々と、半ば興奮状態でまくし立てるカカシの背の布を裂き、清潔な布で汚れを拭って手早く傷の範囲を確かめた。なんだこれは。予想以上に広い。そして深いじゃないか。自然とイルカの眉間に皺がよる。この人はまるでなんでもない顔をして現れるから いつも気づくのが遅れる。

 

イルカの前で背を丸め、おとなしく座り込んでいるカカシは血塗れだ。忍服は誰のものとも知れない血をすってぐっしょりと重い。
顔にも髪にもべったりと血糊が張り付き、まだ粘度を残してぬめるそれからは饐えた匂いが漂っている。噎せ返るような鉄錆の臭い。
それらを覆い尽くすように、カカシの身体に張り付く無数の桜。

 

桜の雲海の中で戦闘があったというのは本当らしい。半ば乾きかけたものや まだ鮮血を垂れ流しているもの、カカシの粘つく血液に、体中埋めてしまうのかと思うほどの おびただしい数の花弁が纏わりついていた。

 

家の前に姿を現したカカシを見たとき、その異様な風体にイルカは言葉を失った。体中に張り付く桜が、カカシの姿を夜目にもはっきりと浮かび上がらせている。
真夜中にも拘らず、輪郭すらはっきり辿れるほどのその桜の数。

 

 

同じように桜の舞い散る季節、この男は突然イルカに近づいてきた。確か昨年の春のおわりであったと思う。
花見酒の入った状態で、桜に浮かされた頭のまま、状況を巧く受け止められなかったイルカを無理やりにカカシは組み敷いた。
まるでなんでもない顔をして近づいてきたもんだから、そんな下心を抱かれているなんて、全く気づかなかった。
当然、翌朝理性の戻ったイルカは激怒し、それ以来カカシの一切を拒絶した。

それなのに。

ぼんやり家の前に立ち尽くしていた彼の姿に驚き、思わず中へ招き入れてしまったことに、イルカは今更ながら後悔していた。

 

子供のようなカカシの言葉と裏腹に、相当激しい任務だったのだろう、身体のそこかしこに酷い打ち身と折れた木々で傷ついたあとがあり、深く抉れる腹の傷の中には、鮮血に塗れた枝が残ったままになっていた。息を詰めて抉り出したその小枝の先に 真っ赤になった桜花がついているのを見、イルカはぞっとする。

 

「桜っていい匂いですよね。ひとつだけだと空気みたいにかすかなのに、いちめんに集まると、途端に色っぽい匂い。何度もほっぺたをあのふわふわした塊で撫でられて、きもちよくて。・・・ッ、せんせ、いたいよ・・・」

「そうですか」

「そうですか、って。・・せんせいのサド。」

優しくしてくれる気ナシ?と言ってカカシが笑う。カカシの傷口にも数え切れない花弁が食い込んでいるのを認め、イルカは思わず手を止めた。なんなんだこれは、と 小さく唇を噛む。

 

こんな、こんなやさしいものでさえ

このひとを殺そうとする

 

弾丸や鉄の礫と違い、害意を持たないものは除去しにくい。血を吸った柔らかな花弁はぴたりと肉に、内臓に寄り添い、身体に食い込み、カカシの傷口で禍々しく咲き誇っていた。指で取り除こうとするが、張り付いたうすい桜は刺青のように傷と同化し 容易に爪先をすり抜ける。

このままにしてはおけない。この花はいずれ朽ちて腐り、彼の身体を蝕むだろう。

「・・・っ、」

爪が体内の痛覚が鋭敏な箇所に触れるたび、小さく跳ね上がるカカシの肩を押さえ、イルカはその背に頬を押し付ける。あやすように後ろから抱き込み、彼の横腹の傷を探る。

だめだ、取れない。ぬめる指だけが無駄に傷口でうごめき、焦るほど無数の花弁は傷の奥へと逃げてゆく。痛みではねる彼の身体を抱え、イルカは唇を噛む。取れないとれない。

「・・あんた、桜に殺されるよ」

イルカは眉を寄せて、目を閉じた。手のひらを止め処なく 熱い血が濡らしていく。桜を諦め、止血に押し付けた布が途端に重みを増していく。



桜は怒ったのだろうか。美しく咲く彼らの聖域を血で汚したこの人のことを。

あんな、夜目にも目立つ姿に手負いの彼を彩って。傷口に深く柔らかな楔を打ち込んで。

疲労と痛みで意識を飛ばしかけているカカシの頬を軽く張り、イルカは肩をゆする。

「・・カカシさん、ダメです。もうちょっと頑張って。傷口が開きます」

「ん・・」

「もうじき救急部隊が到着するから。」

う・・ん と小さく返した彼の頭をイルカは撫でた。血塗れの指でそれは拙い動作になった。

「・・せんせ、ごめんね」

本当は、何時もみたいに追い返されるかな、と思ってました とカカシがつぶやく。ごめんね。でも、ありがとう。

開け放した家の窓から、ゆっくりと桜の香る風が吹き込んでいる。

 

またなんでもない顔をして、そんな寂しいことをいう。

いつも飄々としてるから、そんなくるしい気持ちを抱えてるなんて、気付けないじゃないか。

イルカはまた、こっそりと唇を噛む。頬についた彼の血が、しびれるように甘い。

 

だってこの人がいなければ。今頃みんな焼けていた。木の葉の里も、俺たちも。

この桜だって、焼け落ちてしまっていただろう。

もう、そろそろ許さないか。俺たちは、許さなくちゃいけない。この人のことを。

 

いいんですよ、とこぼした言葉は、水っぽく滲んで 春の夜へ溶けた。