空には薄く霞がかかり、見上げた天はクリームの紗をかけたような柔らかな青色をしている。

オレンジ色に塗られた屋根が連なり、そこにたくさん絡まって走る電線が、きっかりと黒い境界線を引いていた。

至る所に満開の桜。風が吹くたびに自分の銀の髪を巻き上げて薄桃の小さな花弁が降りかかる。

雪のように。雨のように。

暖かな日だ。朝起きて、うぐいすが覚えたての歌をぎこちなく囀るのを耳にして、ああ、春がきた と思った。

ぬるい大気を揺らす風を受けて、窓の外に溢れるように咲いた桜越しに空を眺め、無性にイルカ先生に会いたくなった。

下半身がむずむずする。発情期って人様にも何らかの影響を及ぼす季節じゃないかとぼんやり思う。

そこら中で花開く桜の大木を見るたびに、自分のぼんやりとした頭がさらに桜色に染まって、訳もなくにやつきたくなるような、そんな浮ついた気分。こんなときは、走るのでもなく立ち止まるのでもなく、ただ、ゆっくり歩くのが一番相応しい。

桜の大人しい芳香が体いっぱいに満ちて、目からじんわりと桜が沁みて。


桜にやられたな、と笑う。



イルカセンセイに会いたい。

 



眼花







本能の赴くまま彼の家に来てみれば、玄関先にまで舞い込んだ沢山の桜の花弁。

近くの川縁に幾本も枝を垂れていた桜、恐らくアレだろう。

吹き溜まりでふわふわと渦を巻くそれを見て、でも数日後には汚いゴミになるんだろう、と頭の隅で考えている。

足を踏み出そうとすると、急に足元の花びらが風に舞って。桜に避けられた。

それに何故だか軽く腹が立ち、その花びらを追って足で踏みつける。サンダルの下で汚れた色の地面と同化した桜を見て、訳もなくむかつくような寂しいような申し訳ないような、そんな気分になって、

ああ、一刻も早くイルカセンセイに会わないといけない、と思った。

 

 

 

奥の部屋で、彼は独りでいた。

畳の上に座り込み、開け放した窓に軽く片腕をかけて、外を、見ていた。

桜を見ていた。

窓の外一面の桜。部屋の中に舞い込む花びら。やわい光に照らされて、イルカセンセイの輪郭が酷くぼやけて見える。



彼は、そこに確かに独りでいた。

けれど、彼は誰かと話していた。親しそうに、楽しそうに。



彼は、桜と話していた。

 

呟くように。

 

 

「イルカ、センセ・・・・」

 

 

小さく声をかけると、穏やかに「いらっしゃいカカシさん」と返された。

窓の縁にかけていた腕で頬杖をつくようにし、小さくこちらへ振り返る。

クリームの光と窓いっぱいの桜に照らされたその姿。口元には緩い笑みが浮かんでいた。柔らかに細められた瞳が少し潤んで、目元が桜を刷いた様に薄く染まっている。

その、無防備なくせに壮絶な色気。

 

「その・・・・玄関、勝手に入ってしまって・・・鍵・・・」

「あぁ、開いてましたか。・・・・構いませんよ 別に」

 

その、穏やか過ぎるイルカセンセイの表情がまた緩み、のったりとその瞳が桜の方に向けられる。

意思とは無関係な所で口が適当なことを喋っていた。

ぼんやりした頭で、上手い言葉が見つからない。掌に薄く汗をかいていた。訳の判らない焦りが生まれる。

 


そう、この部屋からは 酒の匂いなど全くしない。

 

感じられるのは、桜の匂い。意識しなければはっきりと認識することもない薄く柔らかなそれが、噎せ返るほどにこの部屋には充満している。

窓の方を向いた彼の結い髪が、吹き込む桜と絡まって揺れた。いつもはっきりと輪郭を持って見えるその漆黒の髪が、境界を失い、桜に溶けてゆくように見え。



あぁ、

連れて行かれる、この人が

と思った。

 

 

「・・・・カカシさ・・・」

「黙って」

畳を軋ませて一直線に彼の傍へと進み、突然掌で視界を覆われて 彼は何と思っただろうか。

「見ちゃだめだ」

掌に触れた彼の眼窩は見た目と裏腹にひやりと冷たく。オレはその冷たさを確かめるように指先でなぞって、彼の首に鼻を埋めた。

オレと同じ様に、彼もぼんやりと頭の中が染まっているのだろう。呆けたように抵抗するでもなく、オレの手に包まれている彼はぼんやりとオレの掌を見詰めていることだろう。オレの手が作った闇を。光が洩れないように、しっかりと瞳を塞ぐ。

掌に睫毛があたり、それがゆっくりと瞬くのを感じた。

つい先日オレがつけた匂いは、この部屋の中では完全に桜の匂いにとって替わられていて。ちくしょう、やりやがったな、と舌打ちが出た。

悔しいようなやるせないような、それでいて征服してやりたい、もっとこの人を自分のものにしてやりたいといった自分本位な気分になって、オレは思う様彼を引き寄せ、その唇に噛み付いた。

そのまま畳に倒れ込む。肩を畳に押し付け、彼の形良い頤の骨をなぞりながらその唇を執拗に奪った。

舌を絡め、吸い上げ、歯列をなぞる。柔らかくかさ付いた唇を吸い、犬がするようにそこを優しく舐めて、また口づける。


ふっと唇を離すと、僅かに上がった息の中、イルカ先生が初めて気付いたかのようにオレを見上げた。

「カカシさん・・・?」

「そう。オレ。」

その瞳に自分が映っているのを確認し、少し笑ってやる。そんな余裕はあまりなかったのだけど。

彼を桜から隠すように身体を使って彼の視界を覆う。天蓋のように。

まだ夢から覚めきれていないように理性を宿しながらもどこかを彷徨うような彼の頭の横で、畳に散った桜が滑った。

耐え切れず、また彼に口付ける。

今度は、彼の唇から艶がかった細い吐息が洩れた。唇の触れそうな位置で、彼に囁く。

「ね、イルカセンセイ。オレを見なさい」

指を首筋に滑らせて、

「桜なんかに持ってかれないで・・・」

彼の首を抱いた。

 

 

 

 








畳に散った彼の黒髪。それに纏わりつこうと畳を滑る幾枚もの花びら。

「・・・・・っあぁ!!!」

びくん、と彼の身体が痙攣する。苦しそうにぎゅっと閉じられた瞳、赤く濡れた唇から洩れる、灼熱の荒い息。

開かれた唇の間から、艶を持った白い歯や溶けそうな舌が見えた。

その顔に隠しようもなく滲む、快楽。彼が身動ぎするたびに長い髪が畳をうねる。桜の花びらを遠ざける。それを追いかけるかのように、また無数の花びらが風に舞い、彼に寄り添う。

まるで嫉妬しているかのようなその追いかけっこに、オレは彼を揺さぶりながら桜を振り仰ぐ。

開け放した窓、裸の腹を、背を撫でるぬるくて甘い風。惜しげもなく差し込むうららかな陽光の下で、カーテンも引かず、青い畳にまろい影を落として。こんな真っ昼間からオレ達は、酷く淫猥で健全だった。

窓を覆い尽くすかのように咲き乱れた桜に、挑発的に笑いかける。



――――お前には出来ないだろう。こんなこと。



勝ち誇った気持ちで軽く歪めた口元に、桜色の雲海のように揺れる花弁の一枚が つと触れて過ぎて行った。


雲海の向こうに霞がかった柔らかな青。視界を覆い尽くす窓一杯の桜色。

オレはもう、彼を救いたくて彼を抱いているのか、それともそんなものは只の言い訳に過ぎず、ただこの陽気に誘われて本能的に彼を抱いているのか分からなかった。

ただ、ひたすら彼を揺さぶる。突き上げるたびに彼が甘い声を上げた。腰を突き抜ける痺れるような疼き。

イルカ先生の腹に花びらが散る。桜の最後の抵抗とも見えたそれごと、オレは彼の肌に唇を落とす。強く吸い上げ、舐めて、歯を立てた。身体中に散る桜色の鬱血。生理的な涙の滲む眦に刷かれた桜色。


これは確かに自分が染めたものだという安堵の一方で、もしかして桜にやられたんじゃないか、とも思う。

芳香を孕んだ風が、オレ達の髪を揺らした。どこかでうぐいすが調子はずれな歌を歌う。

背中に感じるのは日差しではなく、桜の視線。なんだか馬鹿みたいに楽しくて可笑しくて、へらりと笑う。笑いながら彼を追い上げる。



「ひゃ・・・っ あああぁぁっ!!!!」

一瞬息を詰めて彼が達する。耳元で漏らされた嬌声の最後、掠れた吐息交じりの声が酷く甘くて。

腹に散った白い残滓が花びらに纏わっているのを見て、オレも我慢できず、息を詰めた。

 


気持ちよかった。


すごく感じた。

 

 

 

 

 

「何してるんですか・・・・」

あの後、際限なく思う様彼を貪って、気が付けばいつの間にか薄闇が空を覆っていた。

電気も点けずにいた室内は薄暗く、もう、桜の姿もはっきりとは見えない。うっすらと漂う芳香だけが、その存在を主張していた。

「さぁ?何してるんでしょうね」

温い中にも肌寒さを残した風が、開け放しの窓から入ってくる。裸でお互い抱き締めあうような格好で横たわったオレ達は、ぼんやりと畳に頬を押し付けていた。

ようやっと我に返った、というようなイルカセンセイの声が可笑しくて、オレはまた少し笑う。

疲れたな。桜にあてられた。

彼の匂いを確かめるように髪に顔を埋めると、少しの身動ぎの後、イルカセンセイの冷たい鼻がオレの首筋に当てられた。

部屋に充満していた、噎せ返らんばかりだった桜の香りは気付けば随分と薄まり、夜の匂いにとって替わられようとしていた。替わりに部屋に満ちる、オレ達の匂い。


「・・・いつの間にあんたに抱かれてたんだろ・・・・俺、夢でも見てたみたいだ」

疲れた・・・と欠伸をして、まどろむ様に言う彼の髪を梳く。

魔法は解けたようだ。

「アナタ、オレと桜に抱かれたんですよ。」

耳元でそう囁くと、訝しそうな視線が返って来た。

「でも、こんないい思いするのは今回だけですからね」

明日っからはまたちゃんと、オレに抱かれてください、と言うと、彼は眉を寄せてオレを見て、それから、また小さく欠伸をした。

「ね、分かってるんですか?イルカセンセイ」

彼の肩を拗ねたように小突くと、はい、とおざなりな返事が小さく返り、それはすぐに穏やかな寝息に変わる。

それに苦笑して、彼を抱きなおすと ぼんやり窓を見上げる。



闇の中で、淡く燐光を放つように浮かび上がる桜。薄いその花は、夜に溶けてしまい、その表情を知ることは叶わなかった。

 

 

どこかでラジオが小さく天気予報を流している。今夜にも雨が降るらしい。

 

今晩の内に桜は散ってしまうだろう。

 

 

そうしてまた、春が終わる。

 

 

 

   

 







<終>  眼花・・・中国語で“目が眩む”の意。