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空調のきいた世界から飛び出すと、想像以上の熱気とぎらつく太陽が、肌を突き刺す。途端に蝉の大合唱に取り囲まれ、あっという間に生徒たちの声が遠くなった。太陽の靄の中に吸い込まれそうな黒髪を慌てて追いかける。 太陽がまぶしい。ひょこひょこと揺れる黒い尻尾は、注意して瞬きをしていないとすぐ見失ってしまいそうだ。結構な早足で歩いてゆくうみのの後を、手で庇を作りながらはたけはつけて行った。 (・・・あれ?けど、どこ行くの?うみのサン) その背中が、校舎でも校門でもなく、建物の脇に生い茂る森の方に向かっているのに気付き、はたけは首をかしげる。そっちに行ったって、何もないのに。生徒会の調査か何か?けど、プールも体育館も、此葉の建物は全部、真逆の方向にかたまって建っている。うみのの小脇に、彼の鞄が抱えられているのが見えた。学校指定の、濃い茶色の革カバン。それが分厚く膨らんでいることを見てとって、はたけは片眉を跳ね上げた。 (めずらし・・・このヒトって、あんまりモノ持ち歩かないイメージだったのに。というか、鞄持ってる、ってことは、もう帰る気だったんだ。) この時間だと、まだ6限が残ってるはずだけど。なんか学園祭の話し合いとか練習とかに当てられてるんじゃなかったっけ?うみのサン、そういうのは外さないヒトだと思ってたんだけどなー・・。 急に、うみのが立ち止まり、ぐるりと回りを見回した。 (あぶな・・・っ!) 咄嗟に物陰に隠れて、息を殺す。鋭く周りを確かめたうみのは、また踵を返し、森の中へと入って行った。 疑問符をたくさん浮かべながら、はたけは少し距離をとって小走りに追いかける。すぐに声をかけようと思っていたのだが、寸での所で「また、逃げられるかも」という予感がよぎり、思いとどまった。タイミングを見計らって、今度は逃げられないよう至近距離から肩でも叩いてやろうか、とも考えていたが、なんだか人目を忍ぶようなうみのの様子に、思わず声をかける機会を逃してしまう。 そうこうしている間にも、どんどんうみのは濃い緑の中に分け入ってゆく。校舎を取り巻くように森はその太い枝葉を伸ばし、草木の匂いを立ち上らせていた。 え・・・でも、ほんとにどこに? 下草が殆ど背の高さくらいまで生い茂っている場所に、躊躇なく飛びこんだうみのを見て、はたけはいよいよ目を丸くする。見るだけで身体がかゆくなってきそうな、青々とした雑草たちだ。上から屋根のように覆い被さる、葉をぎっしり携えた木々。蚊やうるさい羽虫や、得体のしれない毛虫など、いくらいるかわかったものではない。ワックスで整えた髪と、トワレを薄くつけてきた自分に、激しく後悔する。汗の染みた肌をこすり、すこし逡巡したが、好奇心が勝った。 (・・えぇい!どーにでもなれ!) 後に続いて、その緑の壁の中に身を躍らせる。身体中に纏わりつく、凶暴な草のいきれ。自分の頭すら埋めてしまうほどの緑が、剥き出しの肌に直接吐息を吹きかけているようだ。身体の横で擦れて音を立てる夏草と、頭上から降り注ぐ蝉の声にすっぽりくるまれ、校舎からの歌声は全く聞こえなくなった。焦りながら、とにかく前を目指す。うみのの姿は見えないが、前の方から枝を踏み分ける音が聞こえるので、恐らくそちらの方かと見当をつけた。 草が肌を切り、ちいさな枝が腕にうすい擦り傷を幾筋も作っていく。シャツがあちらこちらに引っ掛かり、進むのを阻もうとする。 「いて!・・ってこれ、茨かなんか!?」 棘の生えた蔓草が幾重にも絡まっているその藪に、はたけは思わず足を引っこめた。というか、無理だろこれは?自然のトラップのように、行く手を阻む棘に、気持ちが一気に萎えかける。けれど、先の方では、明らかに人が歩いてゆく衣擦れの音が聞こえている。 (くっそー!行ってやろうじゃない!) 半ば自棄気味に下草をへし折っていくと、突然、緑の壁越しに錆びたフェンスが見えた。その向こうに、朽ちて今にも崩れそうな、木造の建物が姿を現す。 (――――――あ・・これって・・) 二階建ての、大きな建物。周囲を「立入禁止」と書かれたフェンスと鉄条網で覆われているが、錆びや汚れで風化して、殆ど文字も見えなくなっている。 (確か、クラブハウス、だよね―――― 随分ふるい、だいぶ昔に、使われなくなった、っていう。) 息を整えながら、はたけは黒い塊を見上げた。ちょっとした体育館くらいの大きさがある。昔は様々なクラブの部室として活躍していたのだろう、しっかりとした柱が今でも大きな体を支えていた。しかし、至る所にひび割れや綻びがあり、木製の板がめくれあがっているのがわかる。 長年の雨風でぶよぶよと膨れ、不気味に佇むその建物は、森の中の要塞のように見えた。 ――――なんだっけ、たしか何かユーレイ出るとか、蛇だかでかい野犬だかが住みついてるとかなんとかって、色々噂になってたやつだよな・・・ こんなどろどろの建物でも、まだ壊されずに残ってんだ。 近づくと、鉄錆の匂いがきつく鼻をついた。息をひそめて見回すが、うみのの気配は周りからすっかり消えている。 ・・・というか、ひょっとしたこの中に入った? 「うっわ――――・・・こんな中に、入っちゃったのうみのサン?」 うそだろ?と顔をしかめ、はたけはもう一度、その建物を見やった。森が深い陰をつくっているせいで、まだ夕暮れには早いにもかかわらず、随分あたりは湿っぽく、うすら寒さすら感じる。 あぁ・・・確かになんか、出そう・・・ 眉を寄せながら、そろそろとフェンス周りの草をかき分けて行くと、鉄が朽ちて穴をあけている部分があった。腰をかがめれば、自分にも恐らく通り抜けできそうなくらいの穴。ということは、やっぱり・・ 「この中・・なのねー・・」 なんだろう、あのこそこそした感じは。エロ本隠してるとか、そういうたぐいのことだったりするんだろうか。それはそれで、かなり面白いけど・・。 むくむくと、押さえきれない感情が頭をもたげ、はたけはにやつきながらその穴をくぐった。クラブハウスは中央に大きな扉を持っていたが、案の定、泥と蜘蛛の巣にまみれたそれをいくら引っ張ってみても、軋むだけでびくともしなかった。カギがかかっているらしい。 (・・・となると、裏口か、窓か―――・・) 足場の悪い建物周りを、一周回るつもりで歩いてみる。長年雨風にさらされ、黒ずんだ木板の壁は、掌を突いただけで生き物の皮膚の様にたわんだ。砂のようにぼろりと崩れる部分もあり、にわかに不安な気持ちが押し寄せる。 ちょ・・大丈夫なの、これ・・ かなりの大きさがある2階建ての旧クラブハウス。横腹のあたりに、動物の足のようにいくつか非常口が並んでいる。それぞれの個室から外に出やすいように、工夫されていたのだろう。目の前に飛んできた羽虫を振り払ったとき、その中の一つが薄く開いていることに気付いた。 (―――!) はたけは足早に近づくと、隙間に手を差し入れて、ぐいと力を込めてみる。見た目の腐った木目とは裏腹に、蝶番はなめらかに動き、軽いきしみを上げただけで扉は開いた。 建物の中は、ひんやりと冷えて 膨らんだ木のにおいが充満していた。朽ちる寸前の、すえた生き物の匂い。 汚れて曇ったガラス窓で、木々で薄まった太陽はさらに弱くなり、うすぼんやりとした光を床に落としている。足を踏み出すと、ぶわりとやわらかな板が靴の下でたわんだ。そっと扉を閉めると、蝉の合唱も薄くなり、遠くなる。 と、別の歌声が、耳に飛び込んできた。 ―――――こころの ひとみ でー・・ きみを みつめれば―――――・・ ぐる、と首を軋むほど折り曲げ、咄嗟に声の聞こえる方向を見遣る。 (声・・・!これ、うみの、の・・・?) ちょっとした体育館ほどあるクラブハウスの中は、瓦礫や 置き忘れられた用具などで雑然としているが、それでも駆け出せるくらいの余地は十分にある。思わず声を辿って走り出していた。 表からはカギのかかっていた、中央の入口あたりへたどりつくと、ちょうど建物の真ん中あたりに、地下へと少し下る階段があった。あたりを忙しなく見回し、ちいさなハミングが階下から響いてくるのを確かめる。 (うみのサン・・だよな・・) 耳の奥で、鼓動がうるさい。人の秘密を覗き見する感覚に、はたけの心臓はいたいほど高鳴っていた。数段しかない階段を、その間ももどかしくすべり下りると、打ちっぱなしのコンクリートでつくられた一部屋が見える。建物のちょうど中央に位置しているその部屋は、入口からして他のものより大きい。同じコンクリートの引き戸の上には部室の名前が掲げられていたようだが、今は時間にさらされて掠れており、薄暗いこの場所では全く読めなかった。 扉の端が、僅かに開いている。 ――――――いつか わかさを なくしてもー こころだけは けして かわらないー きずなで・・・ 扉の割れ目から洩れる歌声に、はたけは思わず、小さく笑みをこぼした。なんだろ、悪くない。よく響く声じゃん。 結構イイ線いってると思うんだけど・・・けど、なんだって演歌調になるかなぁ! 風呂の中でうたっているみたいに、やたらとこぶしのきいたその合唱曲に苦笑しながら、はたけは隙間から、そっと中を覗く。そして、絶句した。 部屋の中は、大きくくりぬかれた空間になっていた。ちょうどクラブハウスの中心に当たる部分を、ごっそり削り取って、壁も天井も取り払ったような部屋だ。天井は高く、2階まで大きく抜かれている。上にはサンルームのように天窓がたくさんはまっており、そこからやわらかく太陽が光を落としていた。 いくつか開かれた窓から、鳥がたくさん舞い込み、あかるい部屋の中を自由に飛び回っている。 そして部屋の中央に、座り込むうみのの背中。 その背を守るように、部屋いっぱいにまで広がる大きな、おおきな――――真っ白い翼が広がっていた。 (え――――――!!鳥・・・) はたけは目をこぼれるくらいに見開き、部屋の中を凝視する。 (・・・ちがう、これ 飛行機、だ・・・!) うみのの上に覆い被さる、流線型の翼は 小型の飛行機―――それでも、その羽が 空間すべてに触れるくらいに大きい―――美しい機体のものだった。胴体には人を乗せられるふくらみを持ち、大きな翼の下からは、金属質の骨組みが覗いている。飛行機が不思議と生きているように見えたのは、その白い翼が2枚ではなく、4枚生えているからだ。大きく広げられた2枚の腕のうしろで、枝の上で身体をやすめる鳥の羽根のように、たたまれた別の翼が見える。その腹の下に座り込んだうみのは、脇に分厚い本を何冊も広げ、鞄から取り出した工具で翼の付け根を動かし、中を覗き込み、また手元に視線を戻して何か書きつけていた。 部屋の中を飛ぶ鳥も、彼に慣れているのか、しきりとうみのの傍に降りて来ては、本の上にとまったり、彼の肩をかすめて飛んだりしている。上空で戯れている鳥もいれば、飛行機の先端で小首を傾げ、あたりを見回しているものもいた。 うみのの鼻歌が聞こえる。すこし気が緩んで大きくなったそれは、吹き抜けの空間でよく通った。目だけはまっすぐに機体に注がれ、その翼の中に潜り込むようにして手を動かし続けている。 天窓のあいた部分から、ひときわ明るい光が筋になって降り注ぎ、白い機体の上を照らしていた。 それはまるで、傷ついた大きな鳥が手当てされているようにも見えて。 はたけは、ごくりと喉を鳴らした。ひび割れたのどに、唾が引っ掛かる。 あれだけうるさかった心臓の音も、いつの間にかなりを潜めてしまった。驚きすぎると心臓って止まるんだな、とぼんやり思う。 すごい、と唇から思わず言葉がもれた。 すごい・・・キレイ なんかの絵、みたいだ―――― 鳥たちが、色々な声を響かせて鳴いている。高く声を響かせるものも、短くスタッカートで鳴くものも。好き勝手な合唱なのに、それらがまどろむように混ざり合って、ひとつのハーモニーを作り出していた。うみのが笑っている。うみのの鼻歌が、そっと大きくなる。鳥たちを驚かせないように、やわらかい声が絡まって――― 突然。 場に似つかわしくない派手なロックが空間に響き渡った。鳥たちが一斉に大きな羽音を立てて飛び立つ。 (しまっ・・た・・・!!) 慌ててポケットに手を突っ込み、機械を押さえつけてみても、もうすでに遅い。引きちぎるように携帯を開け、がむしゃらにボタンを押す。 しん、と再び静寂の戻った空間に、去っていく鳥たちの羽ばたきだけが、小さく響いていた。 凪いでいた心臓が、口から飛び出しそうに暴れている。顔が火照って、息ができない。背中を冷たい汗が滝のように流れた。 「――――――誰だ」 有無を言わさぬような、低いうみのの声が部屋の中から響く。地を這うような声に射すくめられて、足がびくりと揺れた。 (・・う・・――――) 鼓動が耳の奥で、擦りきれるくらい早く脈打っている。いくつもの言い訳が頭の中に浮かぶが、どれもが全く意味を為さないことに気付く。 嫌われる・・・完全に 冷たくなった指先を握り、はたけは唇を咬んだ。どうする、逃げるか?階段を駆けあがってさっきの出口から飛び出せば、多分追いつかれる前に藪の中に飛びこめる。うまくいけば、校舎に身を隠すくらいのことはできそうだ。 ―――けど、逃げたらもっと事態は悪くなる (くそ・・!) 前をにらみ、はたけはコンクリートの扉に手をかけた。ぎしりと音を立てた隙間から、部屋へと身体を押しだす。 「はた・・け・・・?」 「―――ゴメン・・」 白い機体を背にし、立ち上がったうみのが目を丸くしている。完全に虚を突かれた顔だ。 「―――お前、なんで・・・」 「ゴメン!―――ごめんなさいっ!!」 沈黙に耐えられなくなり、はたけはうみのの足元に滑り込んで土下座した。ずざぁ、と急に地面にへばりついた男を見て、うみのはぎょっと後ずさる。 「ゴメンうみのサン・・!!つけるつもりはなかったの。ただ、前会ったときからなんか、避けられてるみたいだからさ、話したくて・・・したらアンタ、こんなとこまで来ちゃうしさ。覗いたら、こんなすごいことになってるしさ!ああぁもう!ごめんなさいごめんなさい・・・!!」 絶対言わない!秘密にするから、許して・・!と足元で縮こまるはたけを、呆気にとられて見ていたうみのは、複雑な表情を浮かべてひとつ、息を吸った。 「・・・お前、ひょっとしてあの雑草の中を突っ切ってきたの?」 「―――えぇ!?いやあの、うみのサンの後を追っかけて・・・っていうか、こっちかなぁと思いながら適当に・・・」 がばりと顔を上げたはたけを見ながら、うみのは眉をしかめて溜息をつき、しばらく沈黙した。頭を振っては難しい顔でうつむき、最後にまた盛大に溜息をつくと、ポケットに手を突っ込みながらはたけの方へ足を踏み出す。 「―――ま、いいや・・不法侵入は俺もおんなじだしな」 「え・・・何・・・」 「お前ね、顔じゅうボッロボロ。あっちこっち血だらけよ。ていうか、蚊に刺されまくりだし!ちょっとしたホラーみてぇ」 つい、と手を差し出したうみのに、思わずびくりと肩を竦ませると、頬にやわらかい感触。清潔なにおい。 おそるおそるはたけが目を見開くと、憮然とした表情で、うみのが頬にハンカチを当てていた。 茫然としているはたけをよそに、無造作に顔の上を這いまわるハンカチ。適当にはたけの顔を拭うと、目をまんまるにしているはたけを見て、うみのがぷっと吹き出した。 「でもってなんで、お前 そんな泣きそうな顔してんの。おっかしいなぁ!」 お前、喧嘩強えーんだろ?不良は不良らしく、もっと堂々としてろって―の! 耐えられない、といったように、ひぃひぃと身体を折り曲げて笑い転げるうみのを見て、床にへたり込んだはたけは完全に予想を裏切られた状況にぽかんと口をあける。え、なに、怒んないの?殴られて罵られるくらいは、覚悟してたんですけど・・? 「あーもう!その顔でこっち見んな!笑いがとまんね―!」 肩を震わせて笑ううみのを見ながら、はたけは頭の上に乗せられたハンカチ越しに、顔を撫でてみる。派手に膨らんでいる瞼の上、鼻の横、頬。ふと見ると、ほつけまくった制服に、剥き出しの腕は傷だらけ。滲んだ血に誘われたのか、蚊に刺された跡が、見る影もなく腕を膨らせている。 (うわー・・・オレ、ひっど・・・) 痒くて、情けなくてたまらないのに。はたけの目は、吸いよせられた様に、うみのから離れなくなった。 光がまるくなって、ふたりの背中を照らしている。何羽かの鳥が、こちらの様子を窺うように白い翼の上で羽ばたいていた。器械の油が刷かれたうみのの頬が、薄い耳たぶが、すこし赤く染まっている。黒い結い髪に、光の粒が踊る。 「あ、―――あの!」 気がつくと、うみのの手を握り込んでいた。突然至近距離で顔をのぞきこまれ、うみのが驚いた表情を見せる。 「あのですね!」 埃の舞う夏の空気と、ふやけた木造建築の匂い。はたけはごく、と唾を飲み込んだ。 「絶対言わない!秘密にするって約束するから、―――コレ、オレにも手伝わせて?」 「――――――――は、ァ?」 背中にそびえる、大きな白い機体に目をやりながらはたけが身を乗り出すと、目を瞬かせたうみのは壊れたおもちゃのような声をだした。 ばたばた・・と軽やかな音を立てて、鳥が空へと飛び去っていくのが見えた。
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