雨の季節は瞬く間に過ぎ、緑が凶暴さを増して校舎に向かって大きな腕を広げるようになった。濃い7月の気配は、ふつふつと肌の上ではじけて水滴を作る。髪から滴り、首筋を、背中を流れる。

ぺたん、と塗りつぶされた青空にはびこる入道雲。ふと、甘そうに見えて、舌を差し出してみる。
舌に乗るのは太陽のにおいと、滴る汗の塩辛さ。

真っ白な太陽を連れて、夏が来た。






* * * *



 

 

―――・・みでー 君ーを・・・ればー・・

 

 

(・・・あ、また外れてんじゃん。ヘタクソ。)

 

どこからか素っ頓狂なピアノと歌声が、小さく響いてくる。はたけカカシは、踵のつぶれた上履きを投げ捨てるように脱ぎながら、下足室で校舎を見上げた。

夏の太陽は夕暮れ時もまだ高く、開け放された玄関からも埃っぽい陽の匂いを鼻に届けてくる。ぎらつく外とは裏腹に、整備された名門校の廊下から流れてくるクーラーの風は、清涼につめたい。7月も終わりにさしかかったこの時期、各々の教室からは、秋の文化祭に向けた合唱の練習がそこかしこに洩れて、小奇麗なコンクリートの建物を震わせていた。

 

―――ぃすることー・・ それがー・・ どんなーこーとーだかー

 

(わかーりかけーてきたー ・・だろが。なんでハモり外すかな、そこで)

 

秋の頭にある此葉の学園祭では、お決まりの模擬店などの出店に加え、クラス別の合唱コンクールが催される。対外に開かれた舞台ということもあり、普段は閉鎖的な名門校の生徒が歌う、という物珍しさからか 毎年多くの見物客が訪れるため、自然と生徒側にも気合が入るようで。毎年、夏休みを目前にしたこの時期には、自主的に練習するグループが出てくるのが常なのだが。

 

(けっど、ぜんぜんキョーミない奴もここにいるんだよねーぇ・・)

 

履き替えた靴の爪先を、無造作に床に叩きつけ、はたけは外に向かって伸びをした。教室で縮こまっていた、すらりと長い手足を、思う存分引っ張ってやる。どうせ今年も参加する気のない学園祭だ。こういう行事に学校が浮き立っている間は、寧ろこの堅苦しい牢獄から抜け出しやすくって助かる。

開け放した扉、グラウンドから、土埃交じりの風がゆるりと舞い込み、乾いた夏の匂いが玄関に充満している。眩しくぼやける昼下がりの靴箱。夏の緩さに溶けた頭で はたけは空中に舞う埃を見つめた。強い太陽の日差しを乗せて、光の破片がきらきらと漂う。

 

あつそーだねぇ、外・・

 

はたけは靴箱にもたれかかりながら、入口から吹き込んでくる熱い風に 早くも吹き出してきた汗を拭った。グラウンドには、部活に精を出す生徒たちが、声を出しながら走ってゆくのが陽炎越しに見える。空調のきいた建物のあちらこちらから、全く違うテンポ、メロディで 熱心な生徒たちの歌が流れてきていた。その中でも一番よく耳に入ってくるのは、今年の課題曲。ふるい歌謡曲の一節だ。

もちろん、はたけは音楽の授業など数えるほどしか出たこともないし、毎年の学園祭に参加したことだってない。大体、学校行事というものにはなから興味がない。だが、金に糸目をつけず習い事に熱心だった親のおかげで、自然と身についた音感と、なまじっか自分にも聞き覚えのあるメロディ。そのせいで、いやでも耳に飛び込んでくる曲に、はたけはいらいらと髪をかきむしった。ふわりとした銀髪が、目の前で空中の埃を散らす。

 

(あ・・また外した。・・って、今日ピアノ使ってるグループ、どこの組だってーの)

 

練習を始めて間もないのだから仕方ないにしても、もうちょっと纏まっててもいいだろ。みんなバラバラじゃん。下手すぎ。なにより、伴奏が外し過ぎ。

 

「は――――・・・」

 

埃っぽい空気の中、延々と続く だらけたピアノと歌に、思わず脱力してへたり込む。玄関からは外に出るのを拒むように、暑苦しい風が吹き込んでくるし。汗で粘った手のひらが気持ち悪いし。

 

そういえば、

 

(・・あいつ、どうしてるかな―――・・とか)

 

ぼんやりと扉の向こうを眺めながら、不意に黒髪のしっぽを思い出す。ここの生徒会長、長い黒髪を一つに結いあげた、すらりと首筋の伸びた男。

 

(考えちゃうんだよねぇ。なんか、急に思い出す、っていうか)

 

ふぅ、とひとつ溜息が洩れた。滲む汗を手の甲で拭いながら、はたけは夏服の襟をなんとなく弄ぶ。

 

(・・イルカちゃん、か・・)

 



あの涼しい目が自分を認めた瞬間、少し驚いたように見開かれるのが好きだった。




最初は模試やランキングで、常に自分の上位に割り込んでくるその男を、勉強だけが取り柄のつまらないヤツ、と小馬鹿にしていたのだが。それでも、謀ったようにいつも、自分の名の載る部分僅か上にその名前が書かれていると、嫌でも意識してしまう。

うみの いるか。

―――ウチの生徒会長。家は普通のサラリーマン家庭。器用なやつで、大概のことは卒なくこなしてみせる。くっきりとした黒い眼と、同じ色の長く伸ばした髪が印象的な、小柄な男だ。

気がつくと、自然と目が追っていた。

友達はまぁ・・多くもないが少なくもないといったところか。目が良くないのか、相手のことをやたらとガン見して話す。そこがいけないんだろう。みんな一歩引いちゃうんだよね。そりゃ、生徒会長に睨まれたら、ちょっとどきっとしちゃうもんな。・・笑うと、あいつ、すごい人懐っこい顔になるんだけど。

歩き方、結構投げやりだよね。そのせいか、けっこうよくつまづく。

先生からも、生徒からも人望は厚いくせに、それを何とも思っちゃいない。―――ほら、

 

いつも屋上に、一人佇んでいるうみのの姿を、はたけは夕日越しに見やる。立ち入り禁止の屋上、そこに堂々と出入りできるのは、生徒会長ならではの特権なのだろう。

夕暮れに赤く影になる、その姿。けれど、ある日その唇に不似合いなものが咥えられていることに気付き、はたけはおや、と目を見開いた。

―――タバコじゃん。

はぁ?何やってんの生徒会長。呆れて思わず口がだらんと開く。あいた口の端から、笑いが漏れた。ほんと、なんて自由なのよ!?自分の立場のことなんて、何とも思っちゃいないんだから!

 

ただのガリ勉野郎だとばかり思っていた、生真面目そうな男が、実はかなりくだけた性格をしていることを知り、俄然興味がわいた。自分から距離を詰め、話しかけて、ついでにちょっかいを出す。うるさそうに眉をしかめ、悪態をつきながらも彼が自分を拒まないことが嬉しかった。

いらついてばかりだった黒い瞳が、そのうち、自分をきちんと映してくれるようになった。
汗だくになって全力でバスケした。
久しぶりに、すごく楽しかった。

初めて笑ってくれた。もっと色々やろう、と、たまには授業に出て来い、と真摯に誘ってくれたことが、うれしかった。
一緒にいると、いつも胸の奥がふわりと揺れる。

―――だが、あのバスケの一件以来、急激にうみのの姿を見る機会が減った・・ように思う。いや、学校には生徒会長らしく、彼は毎日来ているし、教室の窓越しに 授業を受けている姿はほぼ毎日見るのだが。

廊下を歩いていても、前の様にばったり会うことは皆無。生徒会室の近くや、学内を頻繁にうろついてみるものの、彼の背中すら見かけることがない。揚句、教室まで訪ねてみたが、いつも「あ、うみのならさっき出て行ったところなんだけど・・」というクラスメイトの、おどおどした台詞しか返ってこない。こんな時に限って、合同授業もないし。

 

こんなにもナイスタイミングで会えないことって、あるか?

 

一度、渡り廊下を歩くうみのを、生徒たちの向こうに見かけたことがある。声をかけて手を振ったが、うみのは一瞬、ぎょっとして立ち止まり、慌てて踵を返した。成長期の小柄な背中は、途端に人波に飲まれて見えなくなる。・・・あのときは、何か用事でも思い出したのか、と呑気に思っていたが。

なんというか、わざと顔を会わせてくれていない、というか。

 

――――やっぱりこれは。

(避けられてる・・のかねぇ)

はたけはふぅ、と溜息をつき、自分の膝の上に顎をめり込ませた。

 

 

思い出す。保健室の薬品と、肌に馴染んだ汗の匂い。ごわごわの白いシーツ。

ぎゅう、と軋んだスチールベッド。

目をまん丸に見開き、真っ赤に染まったうみのの顔を、今でもはっきり思い出せる。

 

(まずったかなぁ、アレは。)

 

はたけはひとりごち、何となく唇に指を滑らせる。

 

―――でもさぁ、ほっぺにちゅ、なわけでショ?軽い挨拶じゃん?普通に流せよ、日本人はかたっくるしいなぁ・・

 

「―――って、無理か・・・」

あー、と、髪を掻きまわしながら天井を見上げる。半分海外の血がまじっているとはいえ、自分も育ちは完全に日本人だ。この国において、男同士でキスするシチュエーションがいかに尋常ならざることか、知らないわけではない。

 

(ってさ・・オレ、なんでこんなうだうだ悩んでんの?男相手に)

 

はた、と思い至り、はたけはその整った眉をひそめた。そうだよ、何でこんなに気にしちゃってんの。相手、男じゃん。オレも告白前の女の子じゃなし。女を口説き落とす時みたいに、別に疚しい気持ちでしたわけでもないし。

 

―――ない・・よな?

 

「うあぁ!もうやめ!やめやめ!」

 

なんだか怪しい方向に流れそうな自分の思考を慌てて中断し、頭の前で手をばたばたと振る。待て待て、何考えそうだったオレ?今?

・・・だってあのときのうみの、ぎくりとするくらい綺麗だった。足の痛みで、歪んだ顔。かつぎ上げると暴れたもんだから、長い黒髪が赤くなった顔周りにほつけて、汗といっしょに頬を流れていた。熱で少し、水分をふくんだ黒目がちの目。突然のことに小言を封じられてしまった薄い唇が、所在なさげに開いて・・・

 

(―――頬っぺた、熱かったな・・・)

 

唇をつ、と撫でると、あの時の熱がちりりと蘇るようだった。びっくりするほど熱く、そっと滑らかで

 

(・・・あまかった)

 

無意識で唇に触れていた指を泳がせ、はたけはぼんやりと汚れた足元を見やる。

乾いた砂がさらさらと押し寄せ、革靴の下で模様をつくっていた。

 

―――なんかオレ、今、とんでもなくうみのサンに会いたいみたい。

 

気だるい空気が、どんどん身体から汗と気力を奪っていく。不意に、ポケットからけたたましいロックががなり立てた。携帯を開くと、そこには馴染みの友達の名前が光っている。

 

『きょうもクラブ、7時からイベントあるってさ。カカシくるよね?』

 

派手な絵文字に彩られた文面をぼんやり見ながら、あぁ、そんなこともあったっけ。どうしようかなぁ、とぼんやり考える。そういえば、誰かに紹介したいとか言われて、しつこく誘われてたんだった。

学校をさぼっているときも、やることといえばクラブで遊ぶかゲームセンターで時間をつぶすか、喧嘩か女か。どれかしかない毎日だ。その中の一つを思い出したように突きつけられ、まるで気乗りしていない自分に気付く。

 

行っても、行かなくても・・・

 

長い前髪が、湿気た風にゆらりと揺れた。色素の薄い目を瞬かせ、眩しい外を見やる。熱でもやもやとゆがむ、陽炎のグラウンド。輪郭のぼやけた校門へと延びる道に、街路樹が濃い影を落としている。

 

―――なにをしても、無為だな・・ すごく、実がない。何も、変わらない

 

 

うみのの笑顔が脳裏にひらめく。あんなに全力で、ただボールを追いかけたのって、いったいどれくらいぶりだったろう。くだらない授業。けど、

 

楽しかったな―――

 

また、途切れ途切れに風に乗って歌が流れてくる。

 

(あいつも歌、歌うのかな・・とか)

 

立てたひざの上に肘をついて、はたけは目を細めた。きっと生徒会長だから、きっちり練習もして歌いこなすだろう。なんにでも手を抜かなさそうだから。それを聴くためだけに、今年は学園祭、冷やかしに行ってもいいかもしれないな。

唇の先から、無意識にメロディが漏れた。相変わらず音の外れるピアノに合わせ、小さく口ずさむ。こころのひとみで、きみをみつめれば――――――

 

 

ふと、陽炎の中に黒髪がゆれた。

 

「!」

 

反射的に、靴箱へ凭せ掛けていた身体が跳ねた。慌てて起こした上半身が、今にも玄関口まで転げて行きそうになる。

 

(――――あ、うみの・・)

 

光線で白く飛んだ景色の中、涼しげな目を伏せて すこし俯きがちに横切っていく男。凛とした首筋に纏わりつく髪をはらい、足早に蝉しぐれの中を通り抜けてゆく。

 

(さ―――・・・)

 

ぼやけた背景の中、そこだけ黒で縁取りをしたように、うみのの姿はくっきりと浮かび上がって見えた。ひとつに結いあげた黒髪をなびかせた背中は、あっという間に 玄関にはまった硝子戸の縁に消えていこうとする。

 

考える間もなく立ち上がると、制服の砂も払わずに はたけは校舎を駆け出した。