体育館を抜けると、新芽を巻き上げ吹いていた初夏の風が、ぶわりと頬を打った。心地よく青臭いそれに、思っていた以上に自分が汗をかいていることを知る。

 

やべ、一瞬逃避入った・・

 

甘い風に、うっかり目を細めて身を任せかけた俺は、がくりと揺れた体の下に、今自分が置かれている状況を再認識した。

「わり、段差」

「―――や!だから!!」

こともなげに自分を担いで、飄々と歩いてゆく腰の下の男を、俺はまた殴り付ける。

「話を聞けよ!大丈夫だって言ってんだろ!そして降ろせ!」

「・・・ってェ・・」

渾身の力で殴ったつもりが、揺られる不安定な体勢のせいで上っ面だけの拳骨になってしまう。そんな間にも、はたけはずかずかと舗装された小道を抜け、校舎の中へと入って行った。

授業中のため、静まり返った廊下に俺はぎょっとする。ちょっと待て!どこまで行く気なんだ、こいつ。誰かに見られでもしたら・・途端に焦りがこみ上げ、俺は息を殺して全力で体を捩った。

「おぉっと・・」

暴れる俺の腰を担ぎ直し、はたけはふぅ、と溜息をついた。

「ちょっと、ほんとにおとなしくして・・暴れるとオレ、うっかり大声出しちゃうかも」

アンタの悲鳴でもいいけど、と言って、はたけはまた俺の右足首に触れてきた。反射で体が震え、そんな自分に腹が立ち唇を咬む。胸の横で奴の笑う気配がする。

「アンタ、今 壮絶色っぽいカオしてるよ」

にやにやと笑われて、頭にまた血が上った。怒鳴りつけようとしたが、

「みんなに感づかれたくないなら、おとなしくしてよーね」

『イルカちゃん』、と背中を叩かれ、俺は思わず絶句した。

 

「―――相変わらず、いないねー・・」

はたけが辿りついたのは、一部の生徒を除いて滅多にお世話になることもない 校舎隅の小さな部屋。『保健室』と白い小さなプレートの出ている教室だった。ここの教員は、いつも何かしら理由をつけ外出していることで有名で、そのせいか常に鍵がかかっている。
別名開かずの保健室。

「よ、っと」

・・・のはずなのだが。

「ちょ・・!何でお前、鍵開けてんだよ・・!」

はたけが軽く蹴りを入れたドアが、苦もなく開いたのを見て、俺は呆気にとられた。

「え?ここ有名よ?ホラ、未だに内側から嵌めるタイプのカギだから。」

ねー、と指差された先には、確かに校舎に不似合いな 古めかしい錠がだらんとぶら下がっている。

 

これ、次の役員会議で議題にしてやる・・・

 

意外と自分の知らない所で隙だらけな学校にいらついていると、急に身体が大きく傾いだ。

「―――っわ!」

「ハイ、到着〜」

ぼす、と音を立てて降ろされたのは、真っ白いベッドの上。ぎぃ、と安物のスプリングがきしむ。
布団も薄いが、疲れた体にリネンの感触は案外心地よかった。運動直後なのと、はたけに担ぎ上げられ暴れていたのとでひどく呼吸が乱れ、心臓が波打っている。
身じろぐと、汗を吸ってずんと重くなったシャツが、肌に絡みつき、その感触に思わず身震いした。こんなびしょ濡れの身体でベッドに座られては、さぞかし保険教諭も迷惑だろう。

「んじゃま、勝手に失礼します」

慣れた手付きで、棚からざっと包帯や湿布、テーピングシールなどを掻き集めるはたけを見て、俺は慌てて身体を浮かせる。

「ちょっと待て!お前が手当てすんのか?」

「え?もちろんそのつもりだけど?」

「いやいや!遠慮するし!」

鋏を手にした彼に物騒なものを感じ、うっかり立ち上がってしまった。咄嗟に突いた右足から激痛が駆けあがり、俺はまた声なき悲鳴を上げてその場に蹲る。バランスを崩す直前、またはたけの腕に抱きとめられた。

「もうホラ・・言わんこっちゃない――――見た目わかんないけど、結構ひどく捻ってる。いいから見せて」

またベッドに押し戻され、はたけにジャージの裾を捲られた。脹脛に触れられた瞬間、殆ど反射のように、彼の手を突き飛ばす。冷たい彼の指と、押さえられた時の痛みの記憶が、俺に冷や汗を滲ませていた。

「――――大丈夫、うみのサン」

足元に膝をつきながら、そっとはたけが俺の脚を抱え込む。


「信じて」


膝に柔らかな感触を感じ、思わず俺は小さく声を上げた。


はたけが俺の足に口付けていた。


信じられない彼の行動に、そのまま石のように固まってしまう。あまりのことに頭が真っ白になり、突き飛ばす準備をしたままの手が使われないまま宙で揺れる。その隙にはたけは唇を緩め、ふ、と笑った。

「コレね、アイルランドのまじない。」

茶化すように言いながら、じっとこちらに注がれた静かな瞳に、俺は息を呑んだ。色素の薄い、何かの輝石にも似た涼しい双眸が、蛍光灯の下で真摯にこちらを見つめている。
足元から懇願してくるような態度に、常になく戸惑い、いつも明快だと自負している思考がぐらぐらに乱された。彼の真剣な眼差しに、喉がごくり、と鳴る。

「・・・けど・・」

「――――あぁもう!」

混乱の中、また拒絶の言葉を口にしようとした俺に、はたけはオーバーリアクションで俯き、がりがりとその銀髪を引っ掻いた。

「・・・オレ、柄になく反省してんのよ・・・。アンタに怪我させるつもり、なかった のに」

 

だから、お願い。

面倒みさせて?と 躊躇いがちに目を持ち上げた彼の顔は、情けなくて、なんだか、悪戯を叱られた子供のようで。

お前、ほんとにさっきの はたけカカシかよ?

長身を持て余しながら小さく足元で縮こまっているはたけを見て、俺は思わず吹き出してしまった。

 

 

じっとしてて、と言われ、なんとなくされるがままになっていると、冷たく濡れたタオルが露わになった脹脛に当てられた。
そのまま靴紐を解かれ、流石に手を出そうとした俺を目で制したはたけは、足首で蟠っていた靴下もそっと抜きとる。冷たい空気が爪先に触れ、俺はまたびくりと身体を竦ませた。

足の甲から爪先までを包んで冷やしながら、足首が曲がらないように自分の太腿の上で固定し、はたけは手際良くテーピングシールを巻いてゆく。彼の手付きは柔らかで、不思議と 危惧していたような衝撃や痛みが俺を襲うことはなかった。

「・・・慣れてんな・・」

呟くと、足元の銀髪がふふ、と揺れた。自然と膝に当たる柔らかい銀糸の先がくすぐったい。

「こんくらいはできないとね・・動けなくなったら死ぬかもしれないし。」

日常の延長線上で、「死」という言葉が軽く口にされたのに俺は驚いた。はたけを見遣ると、別に何の変化もなく、ゆっくりと俺の腱の伸びきった足を固定している。
そうか、と俺は呟く。そうだった。最近、やたらと纏わりついてくるので、なんとなく自分の生きているフィールドの中に当てはめて はたけを見てしまっていたことに気付かされる。

そうか、こいつは日常的にこういう怪我や、派手な喧嘩や それに恐らく死にも、近しい人間だった。そうだった。

俺とは違う。

―――自分とは相容れない人間。

思い浮かんだ考えに、ふと寂しさを覚える。それはほんとに微かな感情だったが。

「・・・なぁ、はたけ・・」

足元で揺れる銀髪を見つめ、つい零れた言葉に、はたけが ん?と色違いの瞳を上げる。

「お前さ、これからも たまには授業受けに来いよ。―――もっと、いろいろ、しようぜ」

呟いた言葉に、少しの沈黙の後 長い銀髪を伏せ、ん、とはたけは小さく声を出した。

 

「・・・正直言ってね、予想外だった。アンタにあそこまで点取られるなんて」

小さく笑みを唇に乗せながら、はたけはテープの上から包帯を巻いてゆく。

「―――それ自慢か?お前のチームの圧勝だろうが。15点差て、鬼か」

結局ロングシュートも一切決めることが出来なかった俺にいう台詞じゃないだろ、と憮然とすると、はたけはその薄い唇に弧を描かせる。

「違うね。スリーポイントだけがバスケじゃねぇよ。アンタのレイアップ、本気できれいだった。なんていうか・・基礎の所がしっかりしてる。あんなに丁寧にバスケする奴なんて初めて見たから、なんか・・・」

目を瞬かせて、ふふ、とはたけは笑った。


「―――うれしいんだ、オレ。多分。全力でやりあえる奴がいてくれて、こんなにうれしい」


包帯を巻き終えた俺の足を軽くさすり、はたけは満面の笑みを見せた。突然零された、見惚れるほど整った笑顔に、俺は不意を突かれる。

「ねぇ、『イルカ』って呼んでもイイ?」

俺の思考を停止させるのが上手いはたけは、虚を突いた隙にそう言って微笑んだ。いつの間にかきちんと手当てされている足のことをぼんやり考えながら、俺ははたけを目に茫洋と映す。

「・・調子に乗んな」

「ハハ・・・!」

突然はたけが吹き出し、身体を折り曲げて笑い出したのにぎょっとする。こいつの行動はいつも突飛だから、理解しようにも頭が追いつかない。思わずいつものように眉を顰めると、

「さっすが。けどさ、アンタ」

言いさし、足元で蟠っていた銀色が、目の前にぶわ、と広がった。頬に押しつけられる、柔らかな感触。


「顔まっか。」


頬っぺたあっちいのー、と言いながら唇を舐めるはたけに、今度こそ完全に不意を突かれた俺は、たっぷり数秒固まった。

 

ちょ・・・っとまて。今、コイツ・・・!

 

「ま、ちなみに今のはアイルランド式の挨拶ね」

からからと笑うはたけが、とんと跳躍し、軽い動きで窓枠に飛び乗る。

 

「じゃ、またね。イルカちゃん」

 

そのままふわりと窓の外に飛び降りたはたけは、背の高い植え込みの中に紛れ、一瞬で消え去った。

まてよ、なんだよこの状況。既視感にまたぐらつく頭と熱い頬を抱えながら、俺は唖然と窓を見遣ることしかできなかった。