向かい側の教室の窓が、初夏の太陽を反射して眩しく光っている。

 

・・・そういえば俺の教室からは、D組が、見えるはずなんだけど。

 

俺はぼんやり思いながら、窓の向こう側の「窓」に向かって頬杖をついた。午後の気だるい空気の中に訥々とした教師の声が響く教室から、空に向かって気持ちを飛ばす。
眩しく光る窓の上を、小さな鳥たちがもつれ合って上空へと舞い上がってゆく。

無意識にそれを目で追い、羽ばたきの軌跡を目に焼き付ける。先端1/3が柔らかく撓って風を切り、残りの部分で空気の流れに乗るのか。2枚の翼では上下の力を相殺するけれど、4枚翼なら連続的に上向きの力を生めそうだ。迎角は20degが最適かもしれないな―――

トルク式に当てはめた数字を、英語のノートの端に書きつける。ふと眼をそらした先に、また向かいの教室の窓が目に入った。

 

そういえばあいつの姿を、俺は見たことないな。

 

コの字に折れ曲がった俺たちの校舎は、最初と最後のクラス・・・つまりA組とD組が向かい合う形になっている。

太陽の通り道上に延ばされた講義棟の窓は、鏡みたいに眩しく陽を映していて、午後は俺の教室から向かいのD組を覗き見ることはできない。
かといって、向こう側の見える午前中にも、俺は黒板に向かい合っている窓向こうの生徒の中に、あの目立つ銀髪を見た記憶がなかった。

 

俺は は、と溜息をつく。


何だ俺。気になってるのか、あいつのことが。

大きな鳥みたいに、突然自分の前に舞い降りてきたあいつ・・・はたけ、のことが。

 

なにも見えないことをわかっていながら、俺は鏡になった午後の窓を見つめる。網膜に太陽がしみこみ、瞬くと目の奥がじんと痺れた。

 

 

 

 

 

 

「どーも、うみのサン」

「―――あぁ・・」

 

昼休みの廊下を、書類を繰りながら歩いていたら、前から突然挨拶が降ってきた。ななめ前から遠慮がちに、ではなく、自分の進行方向 真っ向から飛んできた声に思わず足を止める。静かに心臓がはねた。

手元から目を上げると、進路をふさぐ格好で「はたけカカシ」がこちらに向けて笑いかけている。

相手が止まると信じて疑わない ある意味挑戦的な態度に、なんだかあきれを通り越しておかしくなる。
自分の前にこうして飛び出してくるやつなんて、この学校にはそうそういないから、腹が立つ前に不思議な感覚に囚われた。

「・・あっぶねぇな、ぶつかるだろ」

「わりぃ。こっちくるの見えたもんだから、ついね」

相変わらずだらしなく着崩したシャツを灰色のスラックスから引き出し、ブレザーの前をくつろげたはたけは、色違いの瞳に弧を描かせながらゆったりと近づいてきた。こちらを窺うように首を傾がせ、まっすぐ目を覗き込んでくる。

 

なんかきらきらしてんなぁ、こいつ。

鳥の尾羽みたいな。

 

久方ぶりに見た珍しい銀色の髪が、開け放した窓からの風に揺れるのを眺めていたら、うっかり自分の近くまで来るのを許してしまった。相変わらずパーソナルスペースの狭いはたけは、あっという間に懐近くに入り込み、俺の手元を覗き込む。

「なにソレ?生徒会の書類かなんか?」

「―――ちょっと、距離近ぇんだよ」

「だからオレ、外人なんだって。大目に見ろよ」


不機嫌に睨みつけてやったにもかかわらず、からからと笑い飛ばされてしまえば 突っ込む気力さえ削がれる。

ポケットに突っこんでいた手を引き出したはたけは、はい、とばかりに掌をこちらに差し出した。

「・・なに、それ」

「いや、よかったら運ぶの手伝おうか、ソレ」

「――――たかだか十数枚の紙切れを持ってくのに、手伝いが必要か?ていうか、なんでそうなるんだよ」

「や、アンタがこっちくるの見えたもんだから。」

「理由になんのか?それ・・」


なんだかこいつと話していると脱力してしまう。溜息をつきながら歩き出すと、至極機嫌の良さそうなはたけは、あろうことか横についてきた。
廊下でぬるい昼休みを浪費している生徒たちが、遠巻きに 驚いた目で俺たちを見ている。 前から近づいてきたクラスメイトも俺たちを認めると、驚いたように距離をあけ、珍しいものを見る顔で眺めてきた。いつものように会釈しながら横切っていく下級生たちが、何事か囁きあいながらこちらを窺っている。

 

・・・気色わりぃな・・

生徒会長と問題児が一緒にいるのがそんなに珍しいかよ。

―――いや、珍しいか。

 

隣を見遣ると、意にも介していない風のはたけがへらりと笑いながら、「うみのサン、すげぇ機嫌悪そう」と俺の顰めた眉間あたりを指してきた。その手を払いのけ、恐らく不機嫌丸出しであろう顔のまま はたけに向き直る。

「というかさ、お前、今来たの?」

「へ?ガッコ?・・・なんで?」

「なんでって・・・」

いつ見てもお前 教室にいないからじゃないか、とは言えずに 瞬間、口ごもる。相手のことを気にかけていると思われるのは、何だか癪だった。逡巡は一瞬だったが、俺が言葉を続けようと口を開く前に、はたけが可笑しそうな目でこちらを覗き込んできた。

 

「ひょっとして、オレのこと気になってる?」

 

「―――は、ぁ?」

 

・・こいつは誰に対してもこうなんだろうか。俺は男だからいいとして、例えば片思いをちらつかせる女なんかにもこんな風に突っ込んでいくんだろうか。いや別に、俺が片思いしてるわけではないんだが。
あんまりといえばあんまりな、ストレートすぎる問いかけに、俺は眉を顰めることすら忘れてしまった。動揺する間もなく、開いた口が塞がらなくなってしまう。

 

「・・・ンなわけあるかよ。どんだけ自意識過剰なんだお前」

開きっぱなしの口の隙間から答えてみれば、「なぁんだ」と残念そうな声が返る。

 

 

「そうだったら嬉しいのに。」

 

 

なにを考えているんだか、天性のたらしなんだか。

男の俺に向けて拗ねた顔をして見せるはたけの髪が、光の粒を乗せてふわりと揺れた。

体の骨格はしっかりしているのに、わざと背中を丸めるせいで、無防備で隙だらけのように見える。こいつの戦略かもしれない。髪色と同じ、長い睫毛が頬に影をつくっていた。

 

ほんっと、ヤバい奴なのに、鳩の尾羽みてぇ・・

 

平和の象徴のそれとは全然相容れねぇのに、と茫洋と思いながら、そのやわらかい毛並を見ていた俺に また、へらりと笑って見せたはたけは、髪をかき上げながら言った。

 

「だってアンタ、午後はいっつもすんげー切ない顔してオレのクラス眺めてるからさ、ひょっとしてオレのこと気にしてくれてんのかなって思ったわけよ」

 

 

 

都合よくそこでチャイムが鳴った。

 

音が見えるわけないのに、この音を聞くと皆、チャイムを吐き出すスピーカーの方に目をやる。例に漏れずはたけも斜め上を仰ぎ見たので、俺が書類をうっかり落としそうになったことには気づかなかったはずだ。

 

しまった、迂闊だった。向かいの窓に太陽が反射している、ということはつまり、向こう側からはこちらの様子が丸見えだということ。
午前中にA組からD組の中が良く見渡せるのと同じように、午後は当然、D組からこちらの教室が見えてしかるべきだ。そんな単純なことにどうして気付かなかったのか。俺としたことが。

 

 

「あ、そういえばさ」

 

チャイムが尾を引いて鳴り終わろうとする中で、はたけがつ、と振り返る。

「今日6限かそこら、確か体育合同だったよな。ADの」

 

「・・・そこら、じゃなくて5限だ。お前ほんとに授業出てないのな」


呆れた声で訂正すると、楽しそうに体を傾がせてはたけが笑った。


「だっていらねーじゃん。オレは好きなことだけするし。で、今日は確かバスケの試合。・・・違った?うみのサン、アンタ、出る?」

 

「出ない理由がねぇよ。何が言いたいんだよお前」

 

「じゃ、オレも出る」

 

掴みどころのない笑顔から出たはたけの言葉に思わず絶句し、彼の顔をまじまじと見つめてしまった。

クラスは違えど、今目の前で言われた言葉が天変地異級のことだということははっきり分かる。

 

「・・・お前、体育とか出たことあんのか?少なくとも俺は授業でお前の姿を見たことねぇぞ」

 

事実、入学以来何度か合同授業はあったにもかかわらず、俺は彼と顔を合わせたことすらないのだ。はっきりお互いを認識したのだって、つい最近のことなのだし。

 

「や、多分今日が初めてだろうね」

 

「お前・・・」

 

 

「オレさ、バスケ得意なのよ」

 

のらりくらりとしたマイペースな彼の言葉に呆れながら溜息をつくと、彼の目付きが変わった。

 

「一個くらいアンタに勝ってないと、気が済まない」

 

急にぴり、と肌が引きつる感覚があった。はたけの眼力だ。吸い込まれそうな青灰色の目が強い意志を持ち、こちらを睨みつけてくる。途端に活き活きと輝きだした瞳に呑まれそうになり、俺は思わず息をのんだ。

 

「・・って言ったって、前の模試もまだ返ってきてないだろうが」

 

声が掠れないように注意しながら答えると、はたけが小さく首を振る。

 

「数学の最後から2番目、最後数式マイナスかけてひっくり返すの忘れた。アンタは多分正答してる。オレの負けだ」

「・・・そんな、どんな問題だったかもう忘れたって」

「とにかく」

 

肩に体重をかけた手を置かれ、擦れ違いざま耳元で囁かれる。

 

「今度こそ覚悟しといて、うみのサン」

 

強い光を宿した目が、瞬間交わって ふっと逸らされる。そのままダメ押しの様に俺の肩を叩き、はたけは廊下を戻っていった。

逃げんなよ、と聞こえた気がした。

 

廊下の窓から吹き込む生暖かい風が、頬にぶつかって通り抜けてゆく。慌ただしく教室に飛び込む生徒たちの足音が、遠いところで軽やかに響いていた。

 

「・・・誰が。」

 

熱い肩を押さえながら、俺は少し笑んだ。腹の奥底で眠っていた生来の負けん気が、むくむくと頭をもたげる。

俺は強く瞬くと前を見据え、昼休みの終わった廊下を 書類を束ねて駆けだした。