誰か、この柔らかな牢獄から連れ去ってくれないだろうか。

例えばそれがUFOだったりドラゴンだったり。

 

ライト兄弟の美しい飛行機だったり大きな鳥だったりしたら

 

 

それは結構、すてきだ。

 

 

 

ワインド・マシーン

 

 

 

口の中の飴が、歯に当たって小さく砕けた。ストロベリーミルクのロリポップ。

うみのイルカはしばらく舌に遊ばせていたそれをひとなめし、目の前に掲げてみる。

屋上から眺める夕日は、簡単に丸い飴に覆い隠された。緋色の光に透ける、とろりとつややかなキャンディ。18時を前にした校舎には、"勤勉な"生徒たちはほとんど残っていない。人気のない校門からこちらへ向けて真っ直ぐ整えられた 肌理の細かいアスファルトが、校舎の曇りない窓たちが、イルカの立つ時計塔が、地獄のような赤に染め上げられている。

一日分の人の営みを吸って けだるく緩んだ空気が、彼の頭の上で結い上げた黒髪を頬になびかせ、鼻先に甘ったるい飴の匂いを運んだ。

舌の上にのるイチゴの味を飲み込んで、イルカはまたキャンディを頬張る。
舌を動かすと、視界の隅でぼんやり白い棒が踊った。

 

くだらないな、なにもかも。

 

例えばここで頬張るのが飴であってもタバコであっても、イルカにとっては大差がなかった。ただ何もしていないと、自分の中の空虚な穴が広がってしまいそうで嫌なだけだ。
何か目的を持ってしている、という安心感が欲しくて ごろごろと飴を転がす。口に広がる人工的な甘みはタバコよりもうすっぺらく、今の自分にしっくり来ると思った。

 

甲高い声で鳴いた鳥の群れがシルエットとなり、夕日に吸い込まれていく。思わず目で追いかけ、その広げられた翼を、力強いはばたきを記憶するように見つめた。
どこか遠くへ旅立つ鳥だろうか。

日没間近の鋭い光が、イルカの網膜を焼き、涙が滲む。

 

名門、“此葉”―――中央に聳える大きな時計塔と、緑に囲まれる整然とした校舎が印象的なこの高校は、国内有数の進学校だ。

身体に馴染んだ「名門校」の制服は仕立てがよく、こうして屋上で風に煽られても撚れることがない。
洒落たモスグリーンの上着に臙脂のタイを合わせた色味は近隣でも有名なもので、イルカも嫌いではなかったが、こういうときはやけに乱れのない制服が忌々しく思える。

 

襟元に留めた、金のバッヂが指先に触れた。見下ろして、イルカは僅かに顔をしかめる。

 

・・だっせぇ

 

小さいが、一際目立つエンブレムは生徒会役員の証だ。本当なら引き毟ってしまいたい衝動に駆られるが、それは許されない。なぜなら、曲がりなりにも自分が会長であるからだ。成績順位で決められたそれを、イルカは成り行きで引き受けた。

教師に気に入られると、何かと都合はいい。それは学校生活においても、あと少なくとも半年程度で決めなければならない卒業後の進路においてもそうだ。いい子に成り下がるつもりはなかったが、適度に猫をかぶって微笑む程度の処世術は身につけていた。

ただ、空虚だった。

 

勉強なんて、やればだれでもできるんだっつの

 

イルカはフェンスに指を絡め、格子柄の夕暮れを見上げる。ぬるくてあまい、檻に囚われているようだと思う。足の枷は緩んでいるが、それでもここからは決して出られない。

未成年で、何の力も持たない自分はとても歯がゆい。あと数年で迎えるはずの「大人」と見做される区切りまで、大人ではなくましてや子供でもない、中途半端な俺たち。その数年が永遠の時間であるようにイルカは感じる。

 

――ただ、まだ一人前でもないこんな俺たちに、今進路を決めろってのは 正直どうかとおもうわけ。

 

イルカは、ポケットからくしゃくしゃになったプリントを取り出した。捩れた紙面には、将来の進学先についての希望を細かく訊ねる項目が並ぶ。提出期限の迫ったそれには、まだ何の文字も書かれていない。

しばらく見つめた後、それをきれいに折りたたむ。折り目をつけ、また開き、爪先を使って先端をそろえる。手先が慣れた動きで作り出した紙飛行機を、イルカはそっと空に放った。

僅かに抵抗したあと、風を捕まえ するりと夕日に溶けていく飛行機。風に乗るよう、大きめに折った翼は難なく風を孕み、夕空の中を滑空していく。

 

――――上出来。

 

腰に手を当て、満足げに微笑んだイルカの耳に、鈍い声が引っかかった。

鳥ではない。

背中側、校舎の逆サイドから響いたそれに眉を寄せると、イルカは手摺り越しに下を見遣った。

 

喧嘩だ。

 

思ったとおり、校舎裏手の空き地で 数人の生徒が束になり揉み合っているのが見て取れた。およそ名門校には相応しくない罵りが小さく耳に届く。

ここの校舎は“コ”の字に曲がっているため、時計台のある中央棟以外は、実質 校門とは逆・・・つまり、表通りから隠れた位置に延びている。豊かな木々が巧い具合に隠すその2棟が、生徒たちの教室だ。

世間の評判とは裏腹に、バックステージでは殴り合いの喧嘩など珍しくもない。それってなんだか、舞台とその袖みたいだなぁ、と思い、イルカは無性におかしくなる。

止めるつもりもなかった。適度な発散は健全な生活において必要だと思うからだ。

手摺に肘をついて、特に何ということもなく ぼんやり見下ろす。

 

あれ、でも

 

・・・なんだか、人数がおかしくないか?

 

イルカは夕日の残滓を受け、長く影を引くその塊を見つめた。1、2、3・・・6人。半数ほどは他校の制服だろう、見慣れない形の着崩した詰襟が見える。残りは恐らくここの生徒だ。夕日の赤が強すぎてはっきりとは見えないが、馴染み深い形のブレザーはそうだろう。

怒声を飛ばしながら、数名が勢いをつけて殴りかかる。残りは威嚇だろうか、周りを取り囲むように立ち、順に中央に歩み寄ると、罵りと共に拳を飛ばしている。その輪の中央で拳を受けているのは、たった一人。

 

―――5対1!?

 

いくらなんでもやりすぎだ、イルカが思わず身を乗り出した、そのとき、中央で暴力に甘んじていた一人が身を躍らせた。途端に、群がっていた3人が弾き飛ばされる。

 

 

強い光が目を射、瞬間 イルカは何かがはじけたのかと思った。驚きで瞬いた目が見つけたのは、中央の男の豊かな銀髪。見事なシルバーブロンドが、夕日をはねて燦然と光っていた。

 

――――

 

ゆらりと立ち上がった銀髪の男は、地面に唾を吐き捨てると、真っ直ぐ顔を上げ 正面を睨みつける。気圧された周囲の生徒が、僅かに後ずさる。

その静かな気迫に、屋上のイルカの肌もぴり、と引きつった。

 

・・・知ってる。あいつ

3−Dの、はたけだ

 

目の前に、つい先日戻ってきた模試の順位表がフラッシュバックする。全国模試の上位者氏名一覧、その、自分のほんの僅か下に、彼の名前があったことを思い出す。

 

はたけカカシ。この学校随一の問題児。

アイルランドかどこか北欧系のハーフで、見てくれが良いため何かと人目を引く。それもあり、彼の周りは常に人が寄りつき、その分不穏なうわさが多かった。

喧嘩っ早く、女グセも悪い。

確か、親父が議員だったはずだ。有力者の息子ということで、学校側も下手に干渉できず手を拱いている。

すらすら出てくる、話したことすらない相手の情報にイルカは少し驚いた。それだけ彼が有名人だということだ。

 

 

張り詰めた空気の中、はたけがタップするように足を踏みかえ、一人を目掛けて走りこんだ。一拍置いて、体勢を立て直した相手が 彼目掛けて大きく振りかぶったストレートを打ち出す。

それが当たる寸前。はたけは急に地面に手をつくと、相手の足元から顎を狙い まっすぐに蹴り上げた。いきなり視界から消えた相手に 瞠目していた生徒は、はたけの不意打ちの一蹴に 弧を描いて弾き飛ばされる。

おもわずイルカはごくり、と喉を鳴らす。

 

・・・速い――

 

周りの生徒が一斉にはたけに向かって喰らいついた。殴りかかってきた拳を身体を反らせてかわし、横から腹に体当たりしてきた相手の顔面に、容赦なく肘を打ちつける。逆サイドからの拳がはたけの頬に入る。それをものともせず、その生徒の腹に体重を乗せた蹴りを突き入れた。
彼の制服が鷲掴みにされ、ボタンが引き千切れる。はたけは別の拳を顔面に受けつつ、その相手の鼻先に捻りの入ったストレートを見舞い、猶、腹を蹴り上げてくる生徒の腿を抱えて体勢を崩し、鳩尾あたりに踵をめり込ませた。

 

「・・・っめェ!」

 

腹を押さえ、よろめきながら殴りかかる二人の相手を軽いジャブで牽制し、不意をついて身体を傾がせ、その腹に拳を突き入れる。同時に 後ろから迫った相手の顎に、流れるような回し蹴りがヒットする。ズボンから引き出されたシャツの裾が、しろい羽のようにたなびいた。長い脚が、宙を舞う。

は、とイルカは目を見張る。

 

鳥・・・みたいだ

 

目にも留まらぬ速さで相手の襟首を掴むと、はたけは その額に容赦ない頭突きを食らわせた。

はたけの腕の中で、意識を失った身体がぐらりと崩れ落ちる。

 

 

 

気が付けば、倒れる5人の生徒の中、たった一人立ち尽くして息を切らしているはたけがいた。

文字通り、ぼろぼろ。仕立ての良いモスグリーンのブレザーは所々破れ、肘まで落ちかかっている。恐らくボタンなど殆ど残っていないだろう乱れたシャツが、申し訳程度に胸の辺りで留まっていた。切れた唇から流れる血を、なんの躊躇いもなく袖口で拭ったはたけは、悠然と髪を掻きあげる。

 

 

思わず、小さく拍手していた。

咥えていたロリポップは、いつの間にか足元に転がっている。
遥か眼下に、夕日を浴びて輝く銀髪。ここまですれば、こんなに制服って乱れるんだな、と思わず意識の隅で感嘆する。

何かが、自分の中の価値観を壊してくれそうな気配に、イルカは思わず声を漏らした。

 

「・・すっげぇ・・・」

 

と、はたけが不意に顔を上げた。

夕日に僅かに目を眇め、こちらを振り仰ぐ。イルカは瞠目した。

 

―――この距離。聞こえるはずない

 

怒気が篭っているかと思った彼の目は、驚くほど静かだった。しずかに、けれど確かにイルカの方を見つめてくる。それになぜだか、イルカはたじろいだ。


一瞬の空白の後。はたけはにやり、と唇に弧を描かせると、こちらに向けて、大きくピースサインを突き出した。

 

銀髪が、ゆらりと風に吹かれて揺れる。大の字に足を踏ん張り、誇らしげなそれがまるで小さなこどものようで。

イルカは思わず、吹き出した。

 

――――なんだ、

ヘンな奴だなぁ

 





かさりと音を立て、はたけの足元に白い鳥が舞い降りる。目を瞬かせたはたけが拾い上げたのは、先ほど自分が飛ばした、白い紙飛行機だった。

不器用にその飛行機を広げ、はたけがこちらに向かって大きく手を振る。


「・・もしかして、おとしたァ?」


―――そうかも。」
 

何だか、思っていたよりも人生は自由なのかもしれない。そんな根拠のない期待に胸が躍り、自然とイルカの唇から笑みがこぼれた。

 

焦げ付く夕日が、美しく世界を暮れさせていく。

 

 

 

それが、はじまり。