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オレの記憶の、一番最初にあるのは、石だ。 子供の頭にはあまりにも大きい、石。 額を触ると、べと、と手に滲んだ 赤黒い血。 キツネ、キツネと蔑む無数の声。常に擦り傷だらけの 節ばっかりが目立つオレの細っこい手足。 それを時折撫でた、しわしわの優しい掌。キセル煙草の焦げた匂い。 小さく降ってくる しわがれた謝罪の言葉。 ―――それだけが全てだった。それがオレの世界。 だからオレは、爪を噛んだ。 寂しくて寂しくて、 でもどうしたらいいかわからなくて。 オレには泣き方を教えてくれる人さえ、居なかったから。 噛んで、噛んで、行き場の無い思いを、硬い小さな爪にぶつけた。夢中でそうした。 そのうち 蔑みの声の渦に、時折、オレを庇う張りのある声が混じるようになる。 目の前を過ぎる黒い影。オレを守る、大きな背中。 その背中は、いつの間にかふたつになった。 銀色の方の影が振り返って微笑む。「大丈夫?ナルト」と。 黒い影は笑いながら言った。 銀の影はオレの頭を撫でて言った。 暖かな二人の手は、どちらも小さな丸い爪を持っていた。 だからオレは、爪を噛むのをやめた。 気持ちを全部ポケットに詰めて、それが零れないように両手で蓋をして。そうして、大人のフリをして口笛を吹いた。 そうしているときの自分は、黒髪の恩師にも、銀髪の恩師にも似ていて少しうれしかったから。 オレは必死で真似をして、いつの間にか爪を噛まなくなっていた。 その二人も、もう、いない。 だからオレは、また爪を噛む。 口笛より出ずる風に 薄く墨を纏った寂しい夕焼けの空に、定時を告げる鐘の音が響き渡った。 オレはぼんやりと、目の下に広がる風景を眺める。
膝の間に見える、夕闇に染まった下草が柔らかかった。オレは強く目を閉じる。 宵の闇に孕まれるちっぽけなあかんぼみたいに 強く体を抱き締めて 小さく小さく丸まった。もう何も、聞かなくていいように。 どれくらいそうしていただろう。 不意に舞い落ちてきたひとひらの木の葉が、すらりと伸びて音も無く人型をとった。 「・・・やっぱりここかよ、ナルト」 闇に溶ける髪を持つ、しなやかに背の伸びた男が傍らに歩み寄る。 「爪噛むなって言ってんだろうが・・・みっともなくなんだろ」 そう言ってオレの指を見て、それみろ、とでも言いたげに短い溜息を吐く。 「・・・ンで、来んだよサスケ・・・」 「お前が集合場所に来ないからだろ。オレだって好きで来た訳じゃない。上層部から直々にお達し出てんぞ」 顔を上げさせようと、強く手を引いてくるサスケに、なお抗って顔を背けながら小さい子の様にいやいやと首を振る。 その様子に彼が業を煮やした。 「馬鹿野郎!!いつまでいじけてるつもりだ!!オイ、顔上げやがれナルト!!」 本気の力で引き上げられ、珍しく苛立った様子の彼と、無理矢理顔を突き合わさせられる。 それでもその二つが、ひとりの人間の中に凝縮させられていて、本当に良かった、と思う。
「行きたく、ねェよ・・・」 小さく、つぶやいて目を逸らす。 本気で殴られるかと思った。 また、風が吹く。 「行けねぇだろ・・・なぁ、サスケ―――火影のバアちゃん、オレに『生きて帰れ』って言うんだぜ」
「この里の人達、みんなを守るために戦えって・・・けど、お前は絶対に死ぬな、って 言うんだぜ・・・」 行けねぇだろ、なあ。 この足元の光、みんながみんな、人間の命なんだ。 こんなに沢山。気が遠くなるくらい、数え切れないくらいに。 そして思う。 「――――いけねぇだろ・・・」 苛々と爪をかじると、その手をそっとサスケが止めた。 整った、ちょっといいとこの人形みたいなサスケの顔。 よくできたその顔はあまり表情が変わらなくて冷たい奴だと思っていたけれど、彼の青白い柔らかな耳たぶは、こういうとき、何よりも彼の本当の心をよく代弁して 薄っすら紅く染まる。 こうして並ぶと、今じゃ、ほんの少しだけ オレの方が背が高い。 だけど、未だにオレ達はこの数ミリの差を張り合って 馬鹿みたいにケンカしたりしている。 若竹が撓るようにどんどん伸びる手足。
子供の理論で、このまま、変わらないことなんて、何一つないと思っていた。 けれど。現実は。 夏草がちょっと見ない間にびっくりするほど大きくなっていて、それに驚く。あれと同じだ。 変わらないものも確かにある。けど、全ては足踏みしているオレだけを置いてどんどん変わっていってしまう。 ――――オレは、すっかりいい女になった サクラちゃんのことを思った。 サクラちゃん。オレの自慢のスリーマンセルの仲間。大切な友達。 あの子も、いっぱい恋をして、いっぱい泣いて女になって、いっぱい汗流して強くなって。 ・・・けどさ。 カカシセンセが任務からもう二度と帰ってこないって判った日にも、彼女はあのおっきい目に涙いっぱい溜めて 『でも、カカシ先生は最後まで忍びだったもの。忍者として、最高の最期だったんだもの』 って言って。 ・・・オレ、大人のちゃんとした女の人が、あんなに乱れて泣き叫ぶのを、初めて見た。 叫んだ。 それは本当に突然のことで、未だに火影のバァちゃんに言われたことが理解できなくてぼんやり受付所に立ち尽くしていたオレは、 彼女は泣いた。 「・・・なぁ、だって、どうすりゃいいんだよ」 オレは隣で、怖いような顔をしてじっとこっちを見てるサスケに、ちょっと笑ってみた。彼の耳が赤い。 「オレは馬鹿だからさぁ、こういうとき、この どうしようもない気持ち、どうやって言葉にすりゃいいのか、わかんねんだ。 説明のつかない、心臓を焼き切りそうに激しい怒りが喉に競りあがって、オレの身体はがたがた震えた。 「イルカセンセをやったやつ、子供だったんだぜ・・・」 オレはまた笑おうとして、失敗した。唇が無様に引き攣れるのを感じる。 サスケの整った顔が歪んで、口がもの言いたげに開き、でもできなくて唇を噛む。 「どこの国の子供かもわからねぇ、ちっちゃな子供。親を人質に取られてさ、捨て駒にされてるだなんて・・・ ・・・・・オレのこの思いも、どこにぶつけりゃいいんだよ・・・」 オレは彼の首筋に縋った。僅かに屈んで顔を埋めた華奢な首筋は、思った以上に硬く、逞しかった。 “イルカ先生をころした子供は、自分の親を人質に取られていました。 そうして、木の葉の忍びをころせと命じられました。 子供の親を攫ったのは、木の葉が敵対している国の忍びでした。 その忍びもまた、身内を木の葉にころされていました。 木の葉は、自分の国を、里の人々を守ろうとして、その忍びの身内をころしたのでした。“ そして、その子供も人質も、結局みんな死んでしまった。 途切れる事のない憎しみの連鎖。 無限に増幅されゆく慟哭のループ。 「なぁ・・・どうして、イルカセンセじゃなきゃならなかったんだ?」 オレは、足元の灯を睨み付けた。 決して言ってはならない言葉が、口をつく。 この国には、こんなに沢山の人がいて、 「どうして、オレの大事な人ばっかりなんだって・・・」 「・・ナルト・・・」 サスケの手が、オレの肩を抱こうとして、やめた。 「・・・・なぁ、サスケぇ・・・オレ、ひとりぼっちになっちまったよ・・・」 突然 独りきりで目覚めさせられた真夜中の赤ん坊のように。 オレは生まれたどうしようもない思いを 震える唇から溢れさせた。 「誰もいなくなっちまったよ・・・オレには、もうさ・・・もう」 また無意識に噛り付いた指先を、サスケの指が口から強く引き剥がす。 「んなことねぇだろ・・・みんな、いるだろ」 「違うんだ・・・ちがう。もう、いねぇんだよ・・・」 「いるだろ。もう、お前は昔のお前とは違うんだから。立派に里のために貢献して、上忍にまでなったんだから・・・ 「・・・わかんねぇよ・・・」 また指が口に吸い寄せられる。それをまだ握ったままのサスケの手が硬く阻止した。 「手ェ 離せ・・・」 「いやだね」 「サスケ・・・っ」 「嫌だ。離したら、またお前 爪噛むだろうが。 だったら、落ち着くまでこうしていてやるから。 ・・・だから」 だから。 サスケが深い深い瞳を揺らして、オレを見詰めた。 「もう、泣くなよ・・・」 ――――泣く? なんでだ。泣いてなんていないだろうが。 むしろ、笑ってんだぜオレ? サスケ、なに言ってんだよ・・・ 「もういい加減、受け入れろよナルト・・・」 ・・・・彼の方が泣いているように見えたのは、何でだろう。 サスケが沢山言葉を探しているのが分かった。いつの間に彼はこんなに変わったのだろう。 オレはその彼の不器用な優しさに、胸を貫かれたようになる。 「カカシも、イルカ先生も、二人とも、お前の言ってた『一番カッコいい終わり方』で逝っただろうが。もうこれ以上、お前の未練でこの世に縛り付けて、どうするんだよ。 これで良かったんだよ・・・。これが、良かったんだ。」 ――――あぁ、そうだった。 カカシ先生とイルカ先生。オレの大好きなふたり。 「辛いのは、お前だけじゃないんだぞ・・・」 俯いたサスケが、絞り出すような声で小さく言う。 オレの手を掴む彼の手が震えているのに、オレは今更ながら気付いた。 彼の手は、似つかわしくないくらい熱かった。 ごめん。 ごめんな、サスケ。 みんな。罵倒してしまった人達。憎んでしまった、里の人達。 そんなこと、本当は、もうとうに分かってたんだ。そういうの、全部受け入れて、全部わかっててオレは忍びになったんだから。 けど・・・ 「・・・ごめんな、サスケ・・・オレ、お前といると、気が緩んじまう・・ やなとこばっかり、見せちまうよ・・・」 ―――こいつもきっと、辛かったのに。 何も言わずに、じっとオレの勝手を聞いてくれていたサスケの優しさに、胸が痛くなる。 きっと先生たちは、一緒に手を繋ぐ方法を選んだんだ。そうして、爪を噛むのをやめたんだ。
衝動的に表れたその強い思いが、無意識にオレの唇を振るわせる。 「なぁ、サスケ・・・オレのこと、好きになってくれないかなぁ」 突然のオレのつぶやきに、彼の細い肩がぴく、と震えた。 何言ってるんだろうオレ。 こんなの、なんて自分勝手な願望だろう。 そうかもしれない。 ・・けど、きっとそういうことなんだ。 今、オレは誰よりもこいつに傍にいて欲しいし、誰よりもこいつの傍にいてやりたいんだ。 「嘘でもいいからさ。オレのこと・・・ オレの一番にさ、なってくんないかなぁ」 顔を上げたサスケが目を見張る。 そして、小さく吐き捨てる。 「馬鹿野郎・・・そんな顔で言うセリフじゃねぇだろ、それ」 忌々しそうに眉を寄せて、彼はオレの顔を見ると、また俯いて小さく舌打ちを零す。 「反則だ・・・」 そんな彼の優しさに、オレは小さな優越感と共に微笑む。 「嫌か?」 「・・・あぁ、嫌だね」 言葉と裏腹に、そっぽを向いたサスケの耳たぶは、真っ赤に染まっていた。 サスケの耳から、色が広がった。 世界に色がつく。 そして突然、気付いた。 ―――もしかしたら、どこかで命を落としていたのは、この目の前の彼かもしれなかったということに。 その瞬間、足元の灯り全てに、そこに集う人々の姿が見えた。 いまだ見たこともない、遠くの国の家々に灯る明かりを、オレは見た。 その灯りの下で、そっと身を寄せ合う無数の人々の影も。
お互いの命を守ろうと、必死で生きる人達の姿があった。 皆、自分の正義を貫こうと、必死で足掻いていた。 その世界には、どこにも 悪者なんて存在しなかったんだ。 オレの幼い二元論は、吹きぬけた風と共に砕け散った。 「・・・ナルト?どうしたんだよ・・・」 かっきりと目を見開いて、遠くを見詰めるオレに、訝しそうにサスケが声をかけてくる。 そうしてゆっくりゆっくり、大事に言葉を探した。 「・・・オレ・・・オレさ、今まで“火影になりてぇ”ってだけで、必死で上を目指してた。 ようやっと呟いたオレの言葉に、サスケがこちらへと視線を戻す。 だけど、今なら分かる。 「オレさ、忍びが戦わなくていいような そんな世界を作る火影になるよ。」 もうこれ以上、悲しい思いをする人が増えないように。 だって、きっと、今まで憎み合ってきた沢山の敵たちにも、大事な人がいたはずなんだ。 誰が悪者かなんて、そんなものはきっと決められないじゃないか。 「だからオレは、みんなを守る火影になる。世界中みんなが戦わなくていいような、そんな世の中にしてみせる。」 言い切って、真っ直ぐサスケに視線を戻すと、唖然としている彼が目に入った。 「お前・・・そりゃまた、でかい話だな。 「そんときは、便利屋でもすりゃいいさ。きっと重宝されんぜ。屋根の修理も火事の鎮火もお手の物!」 にっ、と笑って腕を掲げて見せる。我ながらいい考えだと思ったが、それを見てサスケがふぅ、と溜息をつく。 「・・・オレには、無理だな。オレには戦い以外の世界は、向いてない」 吐き捨てるように漏らされた言葉に、オレの心は強く痛んだ。 「・・・けど、」 そんなオレを見て、サスケが悪戯小僧みたいににやり、と笑った。 「・・けど、そういうのも、面白いかもしれねぇな」 ふわり と 「ま、まずはそのでかい口たたく前に 火影になってみろよ、ドベ」 懐かしい呼び方で呼ばれ、オレは思わず破顔する。 「おぉよ!なってやるさ!!見てろってばよ!!」 勢い付いてオレは叫ぶ。笑い飛ばしたつもりが、代わりに涙が溢れた。 「・・・まぁ、そんな夢なら、一緒に見てやってもいい」 涙の向こうに見えたサスケの耳たぶは、夜目にも分かるほど真っ赤に染まっていた。 サスケは、ずっとオレの手を離さなかった。 なぁ、サスケ。 もう大丈夫だ。 オレ、また歩いていける。 オレの行くべき場所が、見えたから。 イルカ先生も、きっと 無限の憎しみの輪を断ち切ろうとしたんじゃないかな。そう思わないか。 ―――そうして世界は変わる。少しずつだけれど、確実に変わっていく。 先生はそっと、オレたちの背中を押してくれた。 サスケ、お前は信じるかなぁ。 カカシ先生が、イルカ先生にそっと何か耳打ちして、オレたちに向かって手を振った。 イルカ先生は喉の奥で鳩みたいに幸せそうに笑って、笑顔でこっちを見詰めている。 「―――うん・・・」 オレはサスケの肩越しに、二人に笑い返す。強い思いを込めて。 風が吹いた。 この丘で生まれた風は、一体どこまでいくのだろう。 それは多分、誰も知らないような遠い場所まで。 ならオレは、風が頬を撫でる人達みんなが、涙する事のないような世界を造るよ。オレがその涙を乾かす、風になる。 約束するからな、センセ。 今ならきっと、先生達に 笑ってさよなら言えそうな気がする。 オレはまた、大人の顔をして口笛を吹くから。 <終>
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