決して振り返ってはいけませんよ、と

彼は言った。

 

 

 

 

魂祭魂送り〜

 

 

 

 

 

夏の夜は短く、カカシはそれを惜しいと思う。

三日の休日を共に過ごしたイルカの古い、大きな家は 持ち主の愛着が籠ったなめし革の様に、飴色の柔らかな光を湛えた優しい場所だった。初めは馴染みのなかった扇風機の立てる羽虫のような音も、自宅にはない畳の胸のすく様な匂いも、今では自分の周りに自然に溶け込むようになっていて、カカシはその満たされた幸せに少し酔った。

早めに湯浴みを済ませ、イルカの宛がってくれた白地に紺の染め抜きの入った浴衣をゆるりと纏ったカカシは、広い畳の部屋で足を投げ出す。小奇麗に片付けられた部屋の隅には、小振りな仏壇がひとつ。簡素な造りのそれを覆い尽くしてしまうほど、周りには色とりどりの供え物が山と積んであった。

部屋の中に、ゆるやかに夜の闇が押し寄せてきている。

カカシの好きな夏の夜だ。

こうしてイルカの家で過ごして初めて、カカシは家をくるむように四方から注ぐ 夏の虫の澄んだ声や、湿った空気に肌をふやかせながら眺める月の光の冷たさを知った。そうして指先が人恋しさにちりちりと焼けるとき、傍にいとしい人が居てくれることの泣きそうな幸せを知った。

時に激しく、時には静かに抱き締めあいながら、カカシとイルカは イルカの両親の見詰めるこの部屋の中で敬虔な夜を過ごしたのだった。

互いに求め合いながら夜を過ごしている時、カカシは オレたちは身を寄せ合って朝を待つ か弱い鳥のようだ、と思う。
何かをやり過ごすようにひたすら息を詰めて夜を耐え、しかし、朝日が静かにイルカの寝顔を照らし出すと、短く過ぎてしまった夜をとても惜しく思うのだ。

初めの夜、この部屋で抱かれることに、イルカは躊躇するのではないかと思ったが、おずおずと彼に触れた指は 予想外に強く色を刷いた 真っ直ぐな瞳で握り返された。

彼もまた、何かを耐え凌ぐような瞳をしている、とカカシは頭の隅で思う。


―――この部屋の小さな仏壇には、写真がない。位牌もない。

「生きていた」という痕跡を残すことすら許されない忍びにとっては当然のことだ。ただぽっかりと切り取られた空間には、質素な線香立てと、その奥に隠れるように 拳ほどの大きさの小箱があるだけ。



・・・一度、本当に一度だけ、カカシはそこに置かれる小箱に何が入っているか気になって手を伸ばしてしまったことがある。

イルカに仏間の設えを頼まれた日のことだ。

遺体も遺品も跡形なく焼かれ、残り香すらも残せない忍びの仏壇に何が置かれているのか、今まで盆に加わる事のなかった好奇心も手伝い、そっとその箱を手にとって 開けた。

イルカのことを良く知りたかった。


静かに蓋にこびりついた線香の香りが鼻先を掠めた。

 

――――中には、柘植の櫛と、小指ほどの細さに束ねられた黒髪の小さな房が入っていた。

 

 


「櫛は、母の。髪は父のです」

 

突然背後からかけられた静かな声に、カカシの背筋は凍りついた。

気配は意識の端で感じ取っていた。そこにイルカがいることも知っていたのに、カカシは小箱の中にあるものの重みとイルカの声のあまりの静かさに心臓を凍らせ、まるで重大な謀を暴かれてしまった悪党のように、その場に縫いとめられてしまったのだった。

みし、と畳を軋ませてゆっくりとイルカが近付く。動きを止めたカカシの指を解くように、そっとその手から箱を抜き取ると、元通り丁寧に蓋をして仏壇へと収めた。

「・・報告なさいますか?構いませんよ、別に」

見上げると、イルカは静かに微笑みを向けていた。いつも通りの、何ら変わらない、朗らかな笑みだった。

カカシはそれを見て、やめてくれ、そんな顔で笑わないでくれと胸が張り裂けそうになって、強くイルカを掻き抱いた。
今自分が犯してしまった過ちを無かったことにするためなら何でもする、と震える指で彼を抱きながら思った。

 

 



扇風機が緩やかな唸りを立てて、銀の前髪を揺らす。

ちらちら揺れる扇風機の羽越しに、イルカは、先刻から熱心に麻殻を折り続けていた。流した長い髪と、黒髪に良く相まった濃紺の浴衣の裾が 扇風機が回るたびにひらひらとはためく。
暗くなった部屋で、仏壇の傍に置かれた廻り灯篭が 夏草の絵を畳に映し出しながら映写機のように回る。その陰がイルカの頬に落ち、衿から覗く首筋に落ち、露になったふくらはぎに落ちていた。

カカシがぼんやりと見とれていると、その黒い瞳がつ、と上げられ 笑みを形作る。

「終わりましたよ。・・・じゃ、行きましょうか」

 

連れ立って出たイルカの家の庭先は、幻想的だった。滑らかに苔むした石に光が見え隠れし、なんだ、と目を凝らして見ると 無数の蛍が庭を飛び交っていた。

静かに周りを取り囲む夏虫の声。夜の方がずっと濃やかな草の匂いや、その上に乗る水の匂いが漂う。

二人どちらともなく指先を絡めて、蛍の庭を歩く。

 

「・・・帰りのときも、火を焚くんですね」

「えぇ、そうです。魂を送る時は、帰りの道がよく見えるように」

 

ぱきぱきと手際よく麻殻を折って積みながら、イルカは目を細めて飛び交う蛍を見回した。夜風が這うように浴衣の中を通り抜け、揺れる袖が涼やかな音を立てる。

帰りの道を照らすためと言いながら、こんなに小さな炎を地上で焚くことの無意味さに、カカシは残された人間の非力を思った。それでもやらずにはおれない、生き残った者の執着も。

イルカが蛍火に囲まれるのを見て、彼が思いを馳せているのであろう遠い世界に嫉妬し、今は何を言っても自分の声は彼に届かないのだろう、と なにやら確信めいた思いに胸が掻き乱される。

 

イルカが懐からマッチを取り出す。術でもいいけど、こんな時はやっぱりね、と言いながら しゅ と小気味良い音を立ててそれを擦り、麻殻の小山へと差し込むと、炎は見る間に乾いた麻殻全体に回った。

すぐに膝程の高さまで燃え上がった炎の山に、二人の身体が明るく照らされる。

辺りの風景も、蛍の光も、闇に沈んで見えなくなる。

イルカの濡れたような瞳に、橙の火が留まっていた。

熱に頬を焼かれながら、カカシは飛び散る火の粉に乗って天へと舞い上がる魂を想像する。

二人、炎の吸い込まれてゆく空を見上げる。

 

――――カカシさん。一つ、約束して下さい」

不意に、イルカが言う。

しばらく勢い良く燃え上がっていた麻殻は、まるでそうなることを知っていたかのような潔さでするりと燃え尽き、燻りを残して、辺りにはまた闇が戻ってきた。

少し首を傾げてイルカを見遣ると、彼はカカシの手に自分の手を滑り込ませ、強く握った。

「今から家に入るまで。絶対に、振り返らないでください。何があっても。絶対ですよ」

困惑したようなカカシの視線に、イルカが顔を上げ、ふ、と微笑む。

 

「・・・死者が、寂しがって呼ぶから」

 

イルカは器用にカカシと手を繋いだまま、熾き火を用意していた桶の水で消した。そんな夢のようなことを言うのが、平気で仏壇の前で交わってみせた彼や、この三日間もどこか割り切っていた感じのあるいつもの彼と似つかわしくなくて。カカシは呆けたように首を傾げたまま、その言葉を反芻した。

「・・死者が、呼ぶ・・・?」

「えぇ、そう。――――馬鹿なことだと思いますか?
・・・けど、俺の両親はそれで死にました」

え、と目を見開くカカシに、イルカは独り言のように呟く。

「あの夜の、前の盆にね・・・送り火を焚いた後、帰ろうとしたときに 母が『あ、』って言ったんです。
燃え殻を集めるのを 忘れた、って。その声に、父も振り返りました。それで、二人して戻っていってしまったんです。

・・・俺に『振り向いてはいけない』って教えたくらいだ。二人とも、知っていたはずなんだ。

そのとき、家に振り向かずに入ったのは、俺だけでした。・・燃え殻なんて、ほっときゃ良かったのに」

 

庭の暗闇に声の余韻が吸い込まれるまで黙り込んだ後、イルカは少し俯いてふう、と溜息を吐いた。

「・・・すみません、こんな話」

 

炎に驚いて沈黙していた虫たちが、また 我先にと鳴き出す。イルカはカカシに視線を合わせると、柔らかに微笑んだ。

「帰りましょう」

そう言って引かれた手には、僅かに力がこもっていた。

 

月が冴え冴えと辺りを照らしていた。夏の空気を素足で掻き分けながら、カカシは半歩先を進むイルカを見詰める。
温かな彼の手はカカシの冷えた手に絡みついたまま、強くカカシを家へと誘おうとする。

行きよりもやや早歩きの彼は、この危険な場所から、一刻も早くカカシを安全な所へ連れゆこうと焦っている様にも思えた。

僅かに下で揺れるイルカの漆黒の髪や、そこから時折覗く真っ直ぐな首筋が頑なで、カカシはイルカの背から発せられる 張り詰めた空気の妙に思わず笑みを零す。幼子のように迷信を信じて自分のことを思ってくれているイルカの様子がこそばゆく、嬉しかった。

 

 

だから、ほんの少し、悪戯心が湧いたのかもしれない。満ち足りた幸せから来る、些細な悪戯。

あるいは、自分の手の届かない所で彼を縛る、死者への稚拙な対抗心か。

 

あと数歩踏み出せば玄関、というところで、カカシの鼻先を掠め どこかに姿を潜めていた蛍が飛んだ。

目の端を光の尾を引いて、後方へと真っ直ぐ飛び去る軌跡。

イルカが既に玄関へと足を踏み入れたのを確認して。

――――それを、カカシは目で追った。

 

イルカの話を全て理解した上で、彼の反応を窺いたかったのかもしれない。
自分が彼に必要とされている、という確信がもっと欲しかった。

目で追えばどうなるか承知しながら、カカシはそれを視界に捕らえ。そして。



振り向いた。

 




振り返った先には、何もなかった。黒い黒い闇が、ぽっかりと穴をあけているだけだった。

明るい玄関の光に慣らされた目は、そこから何も見出すことはなかった。

(・・・なんだ)

別に何を期待していたわけでもないが、軽い落胆をカカシは味わう。小さく息が漏れた。

 

手を引くイルカが動きを止めていた。彼は振り返っていなかったが、カカシの手の僅かな動きで、彼は何が起こったか 全てを知ってしまっていた。

カカシの手を掴んでいたイルカの手が、ゆるりと解かれた。衣擦れの音。

 

(・・何言われるかな。やっぱり、怒られるかなぁ)

 

それすらも喜ばしい気持ちで、興味半分、カカシはおどおどとイルカの方に向き直る。


そして、凍りついた。

 

 


イルカはそこで、声もなく叫んでいた。震える口を手で覆って、見開かれた瞳には真っ黒な恐怖が張り付いていた。

イルカは、まるで氷のように硬直していた。そこに居たのは人ではなかった。

カカシは生まれて初めて、人間が音を立てて壊れる音を聞いた。

 

 

「・・・っせんせ・・・」

 

―――――とんでもないことをした。オレは、なんてことを。

息が止まるような思いで思わず差し出したカカシの手に、溺れる人のように取り縋って イルカは身も蓋もなく叫んだ。

「あ、あああああああああぁぁ!!!」

カカシの浴衣を握り、皮膚を引き裂かんばかりに爪を立て、イルカは叫び、打ち上げられた魚のように酸欠に喘いだ。大きく見開いた目には、絶望と恐怖しか残っていなかった。

まるで癪の患者のように震えて震えて止まらないイルカの身体を、カカシは必死の思いで抱きすくめる。

「ごめんなさい・・!イルカセンセ、イルカ、ごめん・・・!!」

 

口の中がからからだった。

叫び散らすイルカの身体を何度も何度も強く撫で擦り、カカシは自分の罪深さに打ち震えた。

 

「っやめ・・・やめてくれ・・・!!この人は、この人は連れて行かないで・・・!!!

俺が、俺が、代わりに・・・・!!!」

「やめろ・・・!そんなこと、言わないでくださいセンセイ・・・

悪かった、悪かったから・・・!」

カカシに取り縋って、背後の闇へと声を限りに叫ぶイルカを、カカシは唇を切れるほど強く噛み締め、胸に繋ぎとめる。なんてことを、オレはなんてことを・・・!

仏壇の小箱を開けたときとは比にならないほどの後悔と罪の重さがカカシを押し潰した。あまりの圧迫に、息が出来なかった。

「悪かった・・・ごめん・・・ごめん・・・!!」

 

「カカシさん、うそですから・・・!!さっきの話は全部、嘘ですから・・・!!!」

「うん、わかった ごめん、ごめんなさい・・・・」

震えて砕けそうなイルカの身体を何度も撫で擦り、カカシは瞼を震わせて涙が零れるのを感じた。

嗚咽を漏らしながら、胸に取り縋って泣くイルカを、何度も何度もさする。

 




獣のような、嵐のような夜だった。

二人為す術なく、玄関先で掻き抱き合って泣き崩れた。恐ろしく長い間、そうしていたように思う。

 

ふとカカシが顔を上げると、月は既に中天を過ぎていた。

まだ荒い息を吐きながら、潰れた喉で何かを呟くイルカの声は、次第に小さくなっていた。ぐったりとカカシの胸に縋りつき、それでも背に廻された腕は緩むことがなく、カカシは同じ強さでじっとイルカを抱き締め続けた。

ゆっくりと、夏の短い夜は過ぎてゆく。ぼんやりと焦点を結ばないカカシの目の前を、何匹も蛍が通り過ぎていった。



魂は、きちんと帰ることが出来ただろうか。もしかしたら、驚いて戻ってきてしまったかもしれない。

そんなことがなければいい、とカカシは思う。彼を苛むものは、もうオレだけで充分だろう?
彼はオレが守りますから、心配しないで、なんて 今のオレに言えたセリフではないけれど。

明日になれば、夜が明ければ、また彼はいつも通り笑ってくれるだろうか。

――――きっと、笑ってくれるだろう。馬鹿なことしました、すみません、なんて言って恥ずかしそうに笑って。

・・・けれど、今日オレが彼に付けた傷は、きっと生涯、癒えることはない。日常に塗れて薄くなったとしても、例え忘れていたとしても、ふとしたときにケロイドのように痛んで、彼を内側から苛み続けるのだろう。

今まで通りの、何も変わらない二人に戻ることは、もうないのだ。
何もかも忘れて無垢な気持ちで笑いあうことは、もうできないのだ。




けれど、彼が死んだら、きっとオレもすぐにいくから。恥ずかしくないようなやり方で、きっとすぐに。

そしてきっと、オレが死ぬとき 彼もそうするのだろう、と カカシは何の根拠もなく、思った。



胸に抱き締めたイルカの体温が熱い。

オレは馬鹿ばかりしてアナタを傷つけるけれど、絶対に最後まで手を離さないから、とカカシはイルカの首筋に顔を埋めた。

 



蛍が、二人の周りを 光の帯を刷いて飛び交う。

まるで、魂のように。


 











<終>



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カカシ視点。送り火。