蜩が、短い命を惜しむように鳴き続けている。

 



魂祭魂迎え〜

 



風が僅かに雨の気配を孕んで、開け放した家の中へと入ってきた。ひたひたと湿気を多く含んだ空気によって満たされる浴室で、イルカは緩やかに水に浸食されてゆく自分を思う。

夏の夕暮れの訪れは遅い。普段ならばまだ十分に明るい筈であるのに、小さな明り採りの窓から見える空は重く鈍色に塗り潰されていた。昼時から部屋や風呂の掃除に執心していたイルカは、浴槽を磨いていた手を止めて、二の腕で汗を拭う。
小さく息を吸うと、殆ど水の様な空気が肺へと吸い込まれ、湿気に思わず噎せた。

こんな所で溺れてしまうかもしれないなぁ

と、イルカはふと思っておかしくなった。

もし俺が死んだら、あの人は泣くかな。

そんなことを思い、ばかなことを、と自分で苦く笑うと、イルカは思い切り良くシャワーの栓を捻った。
浴槽の洗剤を流すのと一緒に、シャツのまま頭に冷たい水をかぶる。


今日は、死んだ両親が帰ってくる日だ。こんな日はどうも 思考が澱みの方へ向かってしまって困る。


居間の風鈴が、風に吹かれてちりちりと鳴くのが聞こえる。硝子のものより澄んだ音を奏で、余韻が粘るように尾を引く鉄器のそれは、カカシが気に入って購ってきたものだ。
常の様に壁に沁み入る余韻を奏でるのではなく、今は忙しなく鳴り続けている。風が出てきたらしい。

一雨来るな、とイルカは垂れ込める雲を見上げて思った。
早く雨戸を閉めてしまわないと。あぁそれと、軒先の洗濯物が少し残っていたはずだ。
それから・・・風に煽られて、風鈴の糸が切れなきゃいいけど。

裸足のあしの裏に、青いタイルがひんやりと心地いい。残り水の滴るシャワーの栓を固く締めると、いつの間にか狭い浴室中に充満していた雨の気配が イルカを柔らかく押しつぶした。

・・・カカシさんが、やってくれるかな

イルカは居間で悪戦苦闘しているであろうカカシのことを考えて、少し笑んだ。
オレにも何か、と手伝いを申し出てきたカカシには、仏間を整える役目を任せてある。透かしの廻り灯篭や、蓮絵の台敷き、色鮮やかな供え物を 盆を知らないらしい彼がどのように設えるのか、楽しみだといったら怒られるかもしれないが。

今宵、死者の霊は懐かしい家々へと戻ってくる。胡瓜と茄子で拵えられた馬や牛の背に乗って。

この日ばかりは休暇を取って、先祖を迎えるために家を清める者も少なくない。イルカも例外ではなかった。

くだらない、所詮は残された者の独り善がりな風習だということは解っている。
戦場を駆ける身としてイルカが頭で理解したのは、死者は所詮死者でしかなく、魂などと言う高尚なものは肉体のどこを探しても見つかることなどないということだった。身体の中心で脈打つ熱い臓器が停止して、血液の供給がなくなればそれまでの、どこまでも俗物な肉。その肉を生き物たらしめるために、必死で忍びはクナイを振るう。

けれどもこの日ばかりは、胸のうちに誰もが秘める美しい理想郷の存在を、そこで暮らしているであろう故人の幸せを、願わずにはいられないのだ。

雨が降ると、迎え火がけぶる。我が家への標となるそれが天からちゃんと見えるといいが、とイルカは窓越しに雲を見遣った。




山の向こうで、遠雷が低く喉を鳴らすのを聞く。

夕立の前の緊張を孕んだ大気は、どこか戦場のそれに似ていると思う。殺気だけを奇麗に削ぎ落とした、血の匂いのない戦場。

イルカは歯でずり落ちてくるシャツの袖をたくし上げると、磨きあげた浴槽の底に栓をした。
落ちかかる前髪を払いのけ、乱れた髪から組紐を抜き取って、もう一度強く結びなおす。火種を入れて蛇口を捻り、浴槽に熱い湯を勢い良く溜めてゆく。

 

どどど どどどど

 

空っぽのステンレスの底を叩きつける水流。派手な音を立てて跳ね返る湯は、小さな浴槽の中で踊りまわり、まるで何かの楽器の様に銀の入れ物を振るわせた。

イルカはその振動に身を任せ、そっと浴槽に体を寄せる。縁に肘をかけて汗の滲む頬を当てると、金属の透き通った冷たさが皮膚を破って身体の内に仕舞い込まれる様な気がした。

心地良い疲れにゆったりと弛緩する身体を浴槽に預け、イルカはぼんやりと蛇口から流れ落ちる湯を眺める。


激しく雪崩れ落ちる水は、底で勢いの気泡と共に不規則な波紋を作りだす。
裸の浴槽にくわんくわんと反響する水音は、複雑に重なり合って 在る筈のない音をも生み出した。

 

どどどど どどどど

――――イルカ・・・”

 

イルカは薄く目を開く。

 

どどど どどどど どどど

“・・イルカ・・・・・・イルカ・・・”

 

激しく浴槽を叩きつける水音に混じって、ある筈のない声がイルカに呼びかけ続けた。

 

 

 

“いるかぁ・・・”

―――――あぁ、今のは、同級生だった、あいつだ。負けん気が強くて、いつでも一緒に悪戯しては 怒られたっけな。

どどど どどどど

“・・・イルカちゃん・・・イルカ・・・・・”

――――優しかった、あの子だ。ふわふわの奇麗な髪が、すごく、好きだった

“・・・・イルカせんせい・・・”

―――――あぁほら、危ないって言っただろう?あれだけ気をつけろって、言った のに・・・

“イルカ・・・”

“・・・おぉい、イルカぁ”

“いるか・・・”

わんわんと反響し、重なり合う沢山の音の中、確かに自分を呼ぶ懐かしい声を聞き分け、イルカは冷たい浴槽に頬をつけたまま笑みを深くした。あの夜、命を落とした無二の親友、戦場で行方の判らなくなった初恋の人や、初めての任務であえなく帰らぬ人となった可愛い教え子達の声。

 

・・・聞こえる、わけがない。

 

けれども、幾重にも重なった音は無限の周波数を生み出し、そこから確実に懐かしい人の声色を拾い上げてゆく自分が少し可笑しかった。

結局、自分も寂しい人間の一人だ。

頬に張り付く解れ髪から、かぶった水がつ、と頤を伝い落ちた。イルカは目を閉じて、冷えた浴槽に指を滑らせる。

目を閉じて集中するのは、水の音。

 

 

――――イルカ・・・・”

耳にするりと入ってきた懐かしい声に、イルカは思わず薄っすら唇を開く。薄く張った瞼が僅かにひくりと動いた。

 

―――イル、カ――

 

 

 

あぁ、

父、だ。

 

 

父と母だ。

 

 

 

 

“イルカ・・・”

耳の奥にこびり付いた優しい二人の声音は、はっきりとイルカの耳に届いた。

父と母を失って、もうどれだけの月日が流れただろう。もう一回り以上の年月が流れているというのに、イルカの耳は両親の温かな呼び声を記憶し、イルカの瞼の裏にはあの忌まわしい夜の満月が、まるで刺青のように刻まれているのだった。

懐かしい声に思わず応えようと零れそうになった呟きを、イルカは軽い吐息とともに飲み込む。

 

“・・イルカ、イルカ・・・”

 

――――あぁ。

こんなにも、近くで。こんなにもはっきりと聞こえるのに。

イルカは、その水音の中から他の言葉を拾い出そうと強く瞑目した。もっと、呼びかけて欲しい。もっと話して。

俺はずっと寂しかったよ・・

しかし、水音からはそれ以上、イルカに呼びかけてくる声はなかった。どれだけ集中しても、まなうらに浮かぶのはおぼろげな父の顔、柔く弧を描く母の口元。そこからは、自らの名を呼ぶ優しい声の他には 何も聞こえてくることはなかった。

父の声も、母の声も、優しい反響の中で入り混じり、そこから掬い出す事はイルカには出来なかった。十二年の歳月を思い、イルカは強く唇を噛む。


―――――何のことはない、忘れてしまったのだ。

瞼にはまだ忌まわしい月の姿をはっきりと描き出すことが出来るのに。両親の姿はもう、イルカの中で擦れた押絵の様だった。

「・・・はは・・」

イルカの喉から引き攣った笑いが漏れた。涙は出なかった。涙を流さなければならない時期はもう疾うに過ぎていた。
弛緩した身体を浴槽に預け、小さな振動を身体中で受け止める。

「馬鹿、俺・・」

細かな水飛沫が顔に跳ねる。

幻聴でもいい。名前を呼ばわる声以外、もう 思い出せないとしてもいい。

だから、もう少し・・・・

イルカは浴槽に凭れ掛け、その中に溜まる水音に耳を澄ませた。

 

“イルカ、イルカ・・・・”

どどど どどどど

 

 



“・・・イルカ・・・”

 

 

 



「イルカセンセ」

 

 

 

 

不意に、良く知っている 低く柔らかな声がイルカの耳に滑り込んだ。

はっきりと鼓膜を震わせて響いたそれに、イルカはふっと目を開く。

浅葱色の磨り硝子が填められた扉を半分ほど開き、そこからカカシが困ったような顔でこちらに笑いかけていた。

 

「ごめんセンセ、これ、やり方わからなくて・・・」

眉を下げたカカシが申し訳なさそうに扉の隙間から差し出したのは、一頭の牛になろうとしてなれなかった 
つややかな茄子だった。
親指ほどの長さに折った割り箸を四本、脚として挿してあるのだが、どの脚も野放図に相容れない方向をむき、まるでおどりでも踊っているかのようにアンバランスな様だった。

水音で閉ざされた、暗い浴室の中に不意に現れたその踊る牛は丸い尻をぴかりと光らせており、イルカはその滑稽さに大きく吹き出す。

恐らくこのままでは、ちゃんと仏壇の脇に立てることすら難しいだろう。
全く、一体どうやったらこんな無茶苦茶な挿し方が出来るんだろう?

里の誇る上忍が、こんな茄子如きで右往左往していたかと思うと、愛おしさが込み上げてきて、イルカは 目の前に立つ柔らかな猫っ毛を形振り構わずぐしゃぐしゃと撫で回してやりたい衝動に駆られた。

くすくすと笑いを含みながら、カカシが差し出した牛を受け取る。

「もう・・・違いますよカカシさん。・・これはね、こうやって―――――

挿すんですよ、と。

 

続けようとした言葉は、出てこなかった。

 

 

 

 

 

 

つややかな茄子の腹には、既に他の穴が穿たれていた。明らかに一度挿して、意図的に抜かれた痕。
その穴が、この上なく正確な位置に穿たれていたことに イルカは、気付いた。

 

気付いてしまった。

 

 

 

 

「・・・これ、カカシさ―――――

 

イルカの問いかけは、カカシの腕に強く抱きしめられることで泡となって消えた。瞠目するイルカを、カカシは強く強く、自らの胸に抱き締める。

「イルカセンセ、オレは、生きてます」

 

「・・・ええ・・・・」

 

「生きてるんですよ。まだ生きてるんです。生きて、アナタを抱き締めてます。

・・・ね、センセ」

 

「ええ・・・ええ・・・」

 

イルカは強く、カカシの胸に額を擦り付けた。彼を守るようについた筋肉の隆起の下で、熱い臓器が強く波打っているのを、濡れそぼった身体で感じる。

いつの間にか、明り採りの窓は雨で閉ざされていた。気付かぬ内に浴槽一杯になっていた湯を、カカシの長い腕が止める。イルカの手の中で、いびつな牛がころ、と転がった。

 

 

 

「このあと、御迎え火を焚くんですよね?」

「ええ・・・そうです・・・」

「雨、早く上がるといいですねぇ」

 

じっと抱き締められたまま、イルカは 思い出の濁流に押し流されそうだった自分を掬い上げてくれたカカシを思う。自分を救い出す隙を窺ってくれていたのであろう、彼の作った手の中の歪な牛を思う。

温かな腕の中で、この満ち足りた瞬間が永遠のものであるように願う。

 



今年の牛は少し脚が悪いから、

きっと、魂はゆっくり帰ってゆくことになるんだろうな、とイルカは深く笑んで、満ち足りた気分のままひとつぶ涙を零した。









 



<終>



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イルカ視点。
カカシはイルカに話し掛ける切っ掛けを作るために、わざと牛の脚を差し換えました。
「馬は魂が帰ってくるときに乗り、牛は魂が帰ってゆくときに乗る」ものだとか。