ひまわり、オレを隠してくれよ




あの人の視線から。
















ひまわり
















黄色にかすんだ、草原のにおいの風がわたる。
オレの背よりほんの少し高い、こうばしい太陽みたいな花は、眩しく見渡す限り先まで咲き狂っていて オレの目を痺れさせた。
馬鹿みたいに青い空。
オレはひまわりに溺れながら、じっと 金の海原の向こうで揺れる銀髪を見詰める。





せんせいは待っている。
来ないあの人を。











背景の青い空に、カカシ先生の銀髪が散る。ほとんど透けそうな白い頬。眩しい太陽を吸って、せんせいの白い肌は境界をなくして溶ける。

オレは瞬きもせず、息を潜めてそれを見詰め続ける。


また、せんせいの髪を巻き上げて風が吹いた。無数のひまわりをざわめかせるそれは、さざなみの様にうねり、やがて身を隠したオレの所にまで届く。周りのひまわりが、くわん、と撓って、風は駆け抜けてゆく。オレは身動ぎ一つせずその波に抗う。気配を消して、息を詰めて。

カカシ先生の溜息が香った。
風に耳をすませるように、せんせいはじっと地平線を見遣る。



イルカ先生はこない。






















「あの人に伝えてくれないか」

あの日、カカシ先生は 少し笑って、オレの頭をなでた。
「もう会えないかもしれない・・・“待っているから”、って。」









一昨日、火影のバァちゃんに呼び出されたオレたちスリーマンセルは、担当教官の変更を知らされた。
なんで?どうして?カカシ先生いい先生だったじゃない?と詰め寄ったサクラちゃんに、曖昧に目を伏せて5代目は微笑んだ。

バァちゃんは相変わらずきれいだったけど、微笑んだ唇の端に、少し、本当にほんの少しだけ 余分な力が入っていた。そういう笑い方をするひとをたくさん見てきたオレは―――サスケも、きっとそうなんだろう・・オレたちは、何だか、気付いてしまった。


任務のことなんて、よく分からないけれど。
カカシ先生は きっともう、帰ってこない。


ねぇどうしてよ、みんなも何か言ってよ、と涙声で縋ってくるサクラちゃんの手をぼんやりと握り返して、オレたちは何も言えなかった。


「すまんな」 と、ひとことバァちゃんが漏らした言葉に、握り締めた拳に力が入る。




ほんとうにごく自然に、カカシ先生の存在が 少しずつ里から消えていた事に、オレは驚いた。
教えてもらったばっかりのせんせいの家。何回もつんのめって泥だらけになりながら訪ねてみたけれど、そこには何にもなかった。
せんせいが大事にしていた、変な名前のちいさな植木も、あんまり趣味が悪くて笑ってしまった 重そうな掛け布団も。オレの知っている、ものの少ない身軽な空間は跡形もなくなっていて、代わりにそこは、本やら服やら、カップラーメンのゴミが堆く詰まれる、見たこともない部屋になっていた。

せんせいの代わりに、まるでそこにもう何年も住んでいたような、全然知らない熊みたいな男の人が出てきて、「ぼうず、どうした?」と言った。




「探したか?ごめんね」

散々走り回って、ようやく見つけたカカシ先生は、夕日に照らされた顔岩の上でいつも通りオレに笑いかけた。


「任務が入ってね。・・・折角お前たちとも仲良くなれたとこだったのに。残念だよ」


いつもと同じ、少しの猫背。僅かな隙もない、飄々とした笑顔。
何を思っているのか、一切悟らせないそれが あんまり完璧すぎて、オレは何だか腹が立った。



「せんせいは・・っ・・・カカシ先生は、それで いいのか!?いつからそういうことになってたんだよ?どうして隠してたんだってば!?」

カカシ先生を目の前にして、頭の中を渦巻いていたもやが、一気に吹き出す。
だって、いなくなっちまうんだろう?もう戻ってこられないかもしれないんだろう?オレは悔しくて悔しくて、目の前で茜色に染まるせんせいをぐっと睨み付けた。


「思い残す事とか、ないのかよ!?」


あんまりせんせいが潔くて、それがまた悔しくて、オレは泣くのを堪えて叫んだ。
カカシ先生はいつも通り、猫みたいな目でぼんやりと笑っていたが、一つ目を瞑ると、鉄の仮面を少しはがした。

――――ない、といったら 嘘になるな。」

ゆらゆらと、地平線を揺らめかせる炎のような夕日が、カカシ先生の銀髪を染めあげ、せんせいの白い頬に、銀の睫毛に 乗る。

「お前たちをちゃんと最後まで見てやりたかったし。どんどん強くなっていくお前たちからは目が離せないからね。
ガイの馬鹿やアスマや紅・・・他にもたくさん。共に戦ってきた木の葉の仲間と別れなきゃならないのは、正直辛い。

それから、なにより・・・」



言葉を切ったせんせいは、寂しそうに笑いながら目を伏せた。


――――あの人に、何にも言えなかった。それが、一番悔しいな」






あの人。

その言葉にオレは硬直した。



そんなオレを知ってか知らずか(多分知っていたんだろうけど)、カカシ先生はオレに微笑みかけた。

「ナルト。・・・あの人に、伝えてくれないか」

そう言って、夕日色の溜息を ふ、と吐いた。
息を詰めたオレは、震えそうになる手を隠しながら、乾いた唇を動かす。



―――イルカ先生にかよ・・・」



夕風に掻き消されそうに呟いたオレの声は、擦れていてなんだかみっともなかった。








あのひと・・・イルカ、先生。

それは、オレたちの間だけに通じる暗号。決して明るみに出してはならない、胸の内に秘めた名前。

カカシ先生からは、一度もそれが誰を指すのか、語られた事は ない。
だけどオレにはわかる。せんせいが優しい目で、そっと唇にのせる「あのひと」のこと。

――――カカシ先生は、イルカ先生のことが 好きなんだ。



まだ空気が透明な氷みたいだった頃。スリーマンセル任務の帰り道。
偶然一緒になったイルカ先生とオレたちの頭の上に、音もなく舞い降りてきた綿雪。
夢中になって追い回していたオレがふと顔を上げた時、オレは、見てしまった。

イルカ先生の肩についた雪を払おうと、伸ばされたカカシ先生の腕が その肩を抱こうと瞬間、躊躇して・・・

――――――そして、諦めたように下ろされたのを。


びっくりしているオレに気付き、カカシ先生はオレにだけ、少し、笑った。
途方に暮れた、寂しい笑顔だった。




オレは気付いてしまったんだ。
だってカカシ先生の目。オレと、おんなじだったから。










オレは唇を噛む。

「・・・なんで、ライバルにそんなことしてやらなきゃならないんだってば」


――――そう。オレも、イルカ先生のことが、好きだ。

ガキの視野の狭い愛情?近しい人に対する、子供っぽい恋愛感情?・・なんとでも言えばいい。
オレには、この気持ちが本当の恋かそうでないかなんて難しいことは、わからない。
ただオレは、今持てる全力でイルカ先生のことが好きだったし、その思いは自分の中で 限りなく真実だった。

そして多分、カカシ先生もそのことに 気付いてる。


「自分で行きゃあいいだろ」

オレは、初めてカカシ先生の思いを知った時からずっと纏わりついて離れない、焼け付くような敗北感をまた思い出し、苦く言い捨てる。
それは、せんせいが強いこと。きれいなこと。きっと色々理由があるからなんだろうけど。

・・・悔しいのは、きっとカカシ先生が大人だからだ。

まだ子供のオレはどうやったってせんせいには敵わない。一緒に歩いていたって、彼が気を遣って歩調を緩めてくれ、目を合わせる為に彼が屈んでくれなければならないような、オレには。

オレはどう足掻いてもガキで、
オレにはそれが、悔しくて。




・・・・でも、一番悔しいのは。





「こう見えても、忙しくてね。やらなきゃいけないこと、割とあってさ」

オレの憎まれ口をさらりと聞き流し、カカシ先生は優しくオレに微笑んだ。

「・・・なぁ、頼むよ、ナルト。『お前に』行って欲しいんだよ」


そう言って、また、あのどうしようもないような悲しい笑顔で、オレの頭をぽん、と叩いた。それは何故だか ガキに対してするようなやつじゃなくて、もっと大人の、仲間にするようなやり方で。

「最後の頼みだと思って。頼むよ。」

オレは口をへの字にして、目をかっきり見開いてカカシ先生を睨んだ。熱が目にせり上がって、どうしようもなく顔が火照ってくる。
目の前に、靄がかかる。






――――そうなんだ。一番悔しいのは、この男を嫌いになんかなれないことなんだ。

オレも、そして――――イルカ先生も。









「もう会えないかもしれない・・・このまま、終わるのは嫌なんだ。
“最後の日、里外れのひまわりの丘で。待っているから” 、って。」




伝えてくれないか。ナルト。



















ずるいよ、カカシ先生。


オレは震えながら俯いて、分からないくらい小さく小さく 頷いた。

きっとカカシ先生は、イルカ先生に自分の気持ちを、伝えるだろう。



そしてきっと、イルカ先生はそれに頷く。






















空はどこまでも澄み渡って、見上げると 自分の身体が天へ、天へと落ちてゆくようだ。
一色にぺたり、と塗りつぶされた青空に、子供の絵のような入道雲。照りつける太陽に輝く、眩しいひまわりの黄金色。
太陽の匂いが鼻に届く。
その金色の波の中に立つ、カカシ先生は、じっと里の方角を見詰めたまま、身動ぎすらしない。風を嗅ぐように、時折空を振り仰ぎ、また、地平線を見詰める。


イルカ先生は来ない。
来るわけがない。




だって、オレはカカシ先生のこと 伝えてなんていないんだから。







きっと今頃、イルカ先生はいつもと同じ様に、アカデミーの受付で笑顔を振り撒いているだろう。
そうして、いつものようにふ、と目を伏せて、カカシ先生のことなど、思っているのだろう。






イルカ先生は来ない。







また、風が吹いた。
カカシ先生が 溜息をつく。


ひまわり、オレを隠してくれ。
罪深いオレを。臆病なオレを。
あのひとから。

オレはせんせいから、目を逸らさない。






いい先生だった。オレたちを認めてくれ、高みへとそっと導いてくれた、優しくて強いせんせい。
一緒に馬鹿やって笑いあったり、一緒に高い星空を眺めながら、任務をこなしたり。
辛い時も、楽しい時も。
オレにとって、なくてはならない人だった。







なぁ、オレ。
いいのか これで。
また物言わぬひまわりが香る。オレの視界を覆う、一面のきいろ。みずみずしい黄緑の太い茎。香ばしい花。



いいのか。



ぐ、と心臓の下に爪を差し込まれたような痛み。つきんと鼻にぬける感情が走る。







今ならまだ間に合う。全力で走れば、まだ。
いいのか。知らせないままで。
このまま終わらせてしまっていいのか。



真っ青な夏の空が、オレの思考を奪う。髪をひまわり色の風にかき回されながら、オレは瞬きもせずじっと、遠い銀糸を眺める。


足はぴくりとも動かなかった。





なぁ、ひまわり。
いいのか、これで。
乾いた目玉が熱く軋む。









カカシ先生が、懐から取り出した懐中時計を見る。
残り少ない時間がせんせいを急き立てているんだ。









そして、もう一度、カカシ先生は里の地平線を振り返った。


















なんにもなかった。

ひまわり以外は、何にも。





















そしてせんせいは、歩き出した。
里とは反対方向へと。 国境を越える、道へと。



















「・・・さよなら、せんせい」


ひまわりを揺らす風の中、オレは、呟いた。




涙が零れた。



































――――いい訳が


ない だろう













「・・・ッ!!せんせい!!カ、カカシ先生っ!!!待てよ!!待てってばッ!!!!」


ひまわりの中から飛び出して、渾身の力でオレは叫んだ。肺の中にひまわりの匂いがいっぱいに流れ込む。
涙で空が滲んだ。ひまわりの中に溶けてゆく銀髪。立ち止まらない猫背の背中に、オレは喉が張り裂けてしまうくらい、全力で声を投げつけた。


「カカシ先生ぇ――――――ッッ!!!!!」





ゆらり、と その背が立ち止まる。ゆっくりとこちらへ振り向いたその顔は、小さくて、滲んでいて、オレからはもうわからなかったけれど。
オレは叫んだ。

「せんせい!!!待ってろ!!!!すぐにイルカ先生連れてくるから!!絶対待ってろよ!!行くんじゃねェぞ!!!」







――――頼むから。

どうか、どうか。



待っていてくれよ。









オレは弾かれたように、ひまわり畑の中を駆け出した。

木の葉の里へと。










涙が溢れて、オレは大声で叫びながら金色の世界を駆けた。



















<終>
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谷山浩子「ひまわり」より。