イタリアというのはなんて猥雑で甘い匂いのするところなのだろう。

 

空の中央から微動だにせず照りつける太陽を仰ぎ、俺は顔をしかめた。

 

久々の余暇を使い、地中海に突き出した半島に降り立った俺は、その太陽の凶暴さと 肌を惜しげもなく晒して歩く女たちの健全さ、豊かな川や海の恵みと裏腹に、活火山を多く抱える大地の不安定なエネルギーに圧倒された。

街にあふれるオープンテラスのカフェから、ピッツァとトマトの甘い香りが流れている。

肌を焼きながら美しい大聖堂を楽しみ歩く旅行者たち。自分の国土にはない、雲ひとつない青空とまばゆい陽光は、夕暮れ時になっても飽かずに俺の体中を焦げつかせる。

このまま脳髄まで溶かされてしまうんじゃないか。鈍い頭痛に悩まされながら、通りで買ったボルサリーノを目深にかぶり直す。

こんな時は熱を集める自分の黒髪が恨めしい。意識しなくとも自然と足が日陰の方へ進んだ。

 

海風の当たる通りの脇に、背の高い漆喰の路地が連なっていた。

土埃で煙る煉瓦の路地裏に入ると、すこしばかり冷えた空気が纏わりついてくる。

建物の影でもなおサングラスの必要な鋭い日射しに いい加減うんざりしていた俺が、甘い風を嗅ぎながらそこで出会ったのは、一人の青年だった。

道の端にうずくまっていた彼は、この地域では珍しい肌の色をしていた。白地に黒の斑点の入った派手なシャツからのぞく首筋と、端正な頬にかけてのラインがなめらかで 息をのむほど白い。
柔らかなブルーブラックの巻き毛が、細面の顔にふわりとかぶさり、そこに夕闇が深い影を落としていた。

首と、同じように白い指に厳つい貴金属が巻きつけられている。華奢な指が折れそうなほど重ねられた指輪の、真っ赤な石が太陽の残滓を飲み込み 光っていた。

最初彼の姿に目を奪われたのは、その派手な出で立ちが気になったからでも、美しい項に心を奪われたからでもなかった。


その巻き毛からのぞく、大きな二本の飾り―――まるで角、のような。


頭の両脇から弧を描きながら手前に伸びたそれは、大理石の光沢で輝きながら青年の髪を飾っている。角。まるで角、だ。エスパニョールで見た闘牛の凶器にそっくりじゃないか。ただ、それを持つ目の前の青年は線が細く、奇妙にちぐはぐで、神話の動物に出遭ったような気分に陥った。

思わず足を止めた俺に、青年が視線を上げる。奥が透けて見えるほど澄んだ、薄い緑色の瞳がこちらを射すくめた。


長い睫毛の端が赤く潤んでいる。涙の跡だ。

泣いていたのだろうか。子供みたいに。


俺を認めた瞬間、青年は驚いた表情を見せた。だがそれは一瞬のことで、青年はふ、と人懐っこい微笑を浮かべた。まるで自分が泣いていたことなど忘れてしまったかのように。


「―――ボンジョルノ、スィニョーレ。イタリアは初めて?」


美しく訛りのない発音で、青年は挨拶を口にした。突然零された花のような笑顔に俺は虚を突かれる。


「・・・どうしてわかったんだ」

「だってあんた、まるで『もうこんな所はうんざりだ』って顔してるもの」


艶やかな唇が、楽しそうに弧を描く。年の頃は20歳前後、だろうか。ひどく甘く、美しい青年だった。彼は少し俺を見つめると、頬を拭うしぐさを見せて立ち上がった。


「黒い目だね。太陽は苦手?」


青年は、その長身を煉瓦の壁に預けてまた俺に微笑む。優雅な仕草で持ち上げられた長い指が、路地の向こう側をひらりと指した。


「でももう日が沈む。海に落ちる太陽を見た?セイアーノの夕日は格別だよ」


青年の言葉にふと顔を上げると、あれだけ猛威を振るっていた太陽が嘘のようにおとなしくなっている。頭痛もすこし落ち着いていた。
俺は魔法にでもかけられた気持ちで、サングラスの奥で目をしばたたかせる。

路地裏の狭い空から差し込む夕日が、青年の細身のスーツに、黒い巻き毛に、そして金色の角に落ちていた。


「・・君のそれは、角?君はいったい何者だ」


俺は唐突に、この青年のことが気になった。飴色に輝く双角に、やわらかな髪が纏わっている。青年は首をかしげ、薄く目を細めた。


「さぁ、何だろう。あんたはどう思う?」


微笑しながら穏やかに紡がれる問いかけに、俺は小さく心臓を打たれる。彼のまとう濃い香水が首筋から香った。


「――ハスラーか、マフィアか」


罠にかかったように、思ったままのことが口を衝いて出た。ふ、と目を細め、彼が笑う。


「そう見える?」

「こんな時間から路地裏に逃げ込むのは、客を待っているからか、人目に触れたくないからか。・・・もしくは太陽にうんざりした観光客かだろ」

「ハハ・・!違いない」


やられたな、とばかりに肩を揺らした彼から、俺は目が離せなくなった。

なんて甘く、儚く笑うんだろう。
密度の濃い睫毛の隙間から覗く緑の目が、涙と共に押しつぶされて アドリアの海よりも蒼く光っている。

 

彼の角が、鈍く輝く。聖堂の中の像のようだ、と俺は意識の隅で思った。


「―――そして君の角は美しいな」


俺の言葉に、青年が目を丸くする。笑いをおさめ、彼はまじまじと俺の顔を見つめた。

小さな静寂が落ち、遠くの海鳥の声がぴんと響いている。


「・・・驚いた・・ みんな『まぬけ』だって言うよ。褒めてくれたのはあんたで二人目だ」


たっぷりした巻き毛を揺らして、彼は空を仰ぎ見た。藍色を帯び出した空気が、夕暮れの終わりを告げている。

双角の上に、夕日の残りがきらめいていた。
彼は美しい生き物だった。


神の遣いなのか、悪魔なのか。


「――触れても?」


小さく問いかけると、青年は柔らかく笑んだ。


「・・いいよ・・・撫でて、くれるなら」


俺は恐る恐る指を伸ばして、彼の角に触れた。指先の予想を裏切って、生き物のように体温を帯びて温かい。先端から付け根までそっと手を滑らせると、僅かな凹凸が指の腹に伝わった。柔らかい巻き毛が手のひらに絡んでくる。猫の子をあやす手付きで撫でると、青年がくぐもった笑い声を上げた。

また遠くで海鳥が鳴いている。

青年は目を逸らさず、じっと俺の顔を見つめてきた。その瞳に呑まれながら、白い頬に手のひらを滑らせる。
そっと仰のかせて口づけると、薄い舌が絡んできた。浮かされるようにそれに自分のものも添わせ、柔らかく吸う。

あまい。

乾いた口内を潤す舌は、甘く、甘く。そしてなんて猥雑な。

ふいと離された唇に名残惜しさを感じ、青年を見つめると、彼はとろけそうな顔で笑った。
笑顔が無邪気で、卑猥な行為との境界が分からなくなるようだった。

首にまわされた腕から、かすかに煉瓦の土埃の匂いがしている。美しい男にひどく不釣り合いな匂いだ、と思った。

甘える瞳で、至近距離から見つめられ、背中が痺れる。赤い唇を舐め、不思議な生き物が艶やかに微笑んだ。 


「――――もっと撫でてくれる?」


その魅力に、俺が抗える筈もなかった。

 


近くに豪奢で敷居も高くないホテルがあったため、俺はそこへ青年を連れていこうとした。美しい生き物はそれに相応しい場所で愛でてみたかった。だが予想外に彼は眉をひそめ、

「そっちじゃだめだ・・こっち」

と言って、俺の腕を引き路地裏を進みだした。

ひょっとして性質の悪いハスラーに引っかかってしまったのだろうか、馬鹿高い娼館に引き込まれるのだろうかと危惧していただけに、青年が扉を押したのがこじんまりした、恐ろしく古巣の宿であったので、俺は拍子抜けしてしまった。

表通りから一筋も二筋も奥まった処にあるそのホテルは、がっちりとした大きな煉瓦で組まれており、蔦とゼラニウムを外壁に生やしながら 路地の背高い建物の中に溶け込んでいた。

燻された木製の看板と窓枠の金茶が洒落ている。趣味のよい造りだった。
ただ道が酷く入り組んでいて細い上、入口以外の3方を路地に埋めているその建物を、観光客が見つけるのはまず難しいと思われた。

部屋のドアノブにバラがあしらわれているのを見、もったいない、良いホテルなのに、と俺は目を細める。

「気に入った?」

薄暗く美しい天蓋のベッドを持つ部屋で、ビロードのカーテンを引きながら青年が言う。その細い腰を抱き締め、仰のいた唇をまた後ろから塞いだ。



燭台の大きなキャンドルが、蜜の重みでとろけてゆく。

ゆらめく灯りに照らされ、柔らかなベッドで露わにした青年の肌は陶器のようだった。
そのなめらかな肌に唇を寄せ、くすぐるように口づける。その優美な頬に、まっすぐな首筋に。薄く筋肉の付いた腹に、細い腰に浮き出た腰骨に。
指先で身体中を愛で、後を追うように口づけていく。

甘い喘ぎをもらしながら小さく身をよじる青年をじっくりと眺めながら、その肌に散る無数の傷に気付いた。

白い肌に楔のようにつけられた、細かいが主張のある傷。何故か大半が火傷の痕で、どうしてこんな場所に、と首を傾げたくなるような箇所にも その薄桃色の引き攣れは存在していた。


「・・煙草を押しつけられるようなプレイが好きなのか?」


腰の、花のようなその痕を舐めとりながら俺が尋ねると、目を瞬かせた青年は ・・あぁ、なるほど、と言って可笑しそうに笑った。


「そう見える?・・・そうだったらどうする?」

「どうも。・・・俺が上から新しい痕をつけるまで」


ただし、俺には人を痛めつける趣味はないからな、と言って 彼の傷跡に上から強く口づけると、青年はまた目を細めて微笑んだ。


「ありがとう。俺も痛いのはいやなんだ」


そうして、彼はまた俺に撫でて、と身を寄せてくる。

 

しなやかに撓った背骨をゆるりとなで降ろし、柔らかな双丘を揉みしだく。ふと思い出した疑問に、尾骶骨あたりを指で弄ると くすぐったがって彼が身を捩った。


「なぁに?」

「いや・・尻尾も生えているのかと思って」


俺の言葉に、くつくつと喉の奥で笑った青年は、俺を口づけたまま押し倒す。馬乗りになって上から見つめられ、思わず喉が鳴った。


「・・昔はあったんだ」

「え?」

「尻尾。でもね、ちぎっちゃった。」


彼に導かれて触れたその部分には、確かに硬い、骨の名残のような小さなしこりがあった。

一体何なんだろう、この青年は。彼は一体、誰なのか。・・・そういえば、彼の名前は。俺はこの青年の名前すら知らない。

数多の疑問が波のように迫り、しかしどれもがはっきりと言葉になる前にまた彼の唇に呑みこまれていった。


俺の腹の上に乗る彼の体が、キャンドルの光で薄く照らし出される。長い手足と、無駄なく筋肉の付いた 細身の体。
汗の光を纏って揺さぶられる青年の姿は、妖艶で、卑猥で―――甘い。

時折小さな悲鳴を上げながら突き上げられる彼の、長い髪の隙間から熱く熟んだ瞳が覗く。
濡れた瞳に、俺はイタリアの海を思った。

巻き毛からこぼれる角が、揺らめく炎に時折強い光沢を放つ。彼は、本当に神話の中の生き物のようだった。
妖艶でどこか悲しく、ただただ美しかった。

 


「そういえば君は、泣いていたな。どうして泣いてたんだ」

行為の後、シーツにくるまった彼の髪を撫でながら俺が言うと、彼はそれには答えずぼんやりと笑った。代わりに、

Shanidarの花の話をしない?」

と呟いた。

「シャ・・?なんだって?」

「シャニデール。イラクの洞窟の遺跡なんだ」

 

ネアンデルタール人が埋葬されているのが見つかったその洞窟には、そこには咲かない種類の花が数多く添えられていたという。
つまり、彼らは花を死者に贈った。進化の歴史の中で初めて故人を悼み、「埋葬」という形がとられた遺跡なのだと。


「ときどき考えるんだ。今までただの肉塊だったものが、彼らの中で悲しみの対象に変わったとき、一体何があったんだろう。
彼らが“人間”になったとき、一体何が起こったんだろう って」


青年は、枕元に置いた俺のボルサリーノを弄びながら、遠くを見つめる瞳で呟く。


「俺は人間になれない。ずっとそうありたいと思ってたけど、結局どうあがいても、ただの 何か人間以外のものにしかなれなかった。・・・それが、時々悲しいんだよ」



彼の放つ不思議な雰囲気に、俺は彼にかけるべき言葉を持たなかった。ただその横顔があまりに寂しく孤独だったので、俺は彼を抱き寄せ、その美しい角を撫でた。腕の中で彼が少し笑む気配がした。


「・・スィニョーレ、あんたはイタリアではこれを被らない方がいいね」


彼は言いながら、俺にボルサリーノをかぶせてくる。


「あんたに似てる男がいるんだ。あんた、ここでそれ被ってたら、すぐに命を落とすよ」


え、と問いかける暇もなく、つばを引き下ろされ目の前に闇が下りる。それに、肩にカメレオンを乗せるのもやめておいた方がいいな。軽やかな青年の声が響き、暗闇の中で、頬に甘く柔らかい唇が押し付けられた。



「おやすみ。良い夢を」


彼の香水としなやかな腕に抱かれ、俺はすぐに眠りへと落ちて行った。

 

 






ふわ、と体が浮かぶような感覚に、びくりと意識が浮上した。視線をさまよわせると、ベッドサイドの燭台に燃え尽きた蝋の塊が見える。
裾の長いカーテンは引かれたままだったが、その足元からまばゆい陽光が漏れていた。


「ごめんね、起しちゃった?」


ひょっとして目が覚めると煙のように消えているのではないか、との予想を裏切り、身支度を整えた巻き毛の青年は 出会った時と同じ細身のスーツのボタンを留めているところだった。


「・・もう朝、か?」

「うん。きれいな朝だ」


微笑む彼の首筋から清潔な水の香りがしている。シャワーを浴びてきたのだろう。
きちんと着こまれた服に、寂しさを覚えてそのスーツを引き寄せる。指をからめて彼の体勢を崩し、倒れこんできたそのまま唇を重ねた。触れあった唇から昨日の熱が再び思い出される予感がし、俺はもっと深く唇を奪おうと彼の掌を握り込んだ。


ふと。彼の右手指に、俺は硬いしこりを感じた。

すんなりとした指に不似合いなそれは、肉刺がさらに時を重ねて硬く凝り固まったような 異質の感触を俺に伝えた。
昨日は夢中で、全く気付かなかった。俺は口づけながら、その手のひらを指先でなぞる。

数日やそこらでつく跡じゃない。それはもっと長い時間をかけて造り上げられた・・・


まるで職人の手のようじゃないか?


そこで突然、甲高い電子音が鳴り響いた。シンプルなそれは、携帯の呼び出し音だ。

瞬間、彼の顔に走った動揺を俺は見逃さなかった。唇を離した彼は、ポケットに納められていた薄い器械を取り出す。


「―――ごめん、スィニョーレ。電源切り損ねてたよ」


溜息と逡巡の後、何かを諦めたような顔で彼は微笑んだ。起き上がろうとした俺を手で制し、彼は優しい笑みを浮かべながら携帯を耳に当てる。

 


「―――もしもし」


 

少し緊張を帯びた、それでも柔らかい彼の声が部屋に響いた。そのまま彼は俺に背を向け、少し間を取るよう歩き出した。無意識かもしれない。だが、この狭いホテルの部屋でそれは無意味なことだった。


「うん、俺だよ。―――大丈夫、ちゃんとやった。」


ベッドに放り出された格好になった俺は、手持無沙汰に先ほどの彼の手の感触を思い出していた。
硬く凝り固まった右手。親指の付け根と人差し指の中ほどにひときわ硬い肉刺があり、残り三本の指の半ばにも肥厚した皮膚が存在していた。


「なんだか疲れちゃって、休んでたんだ。・・うん、すぐに帰るよ。―――だいじょうぶ、いいよ、帰れる」


彼のくぐもった声を上の空で聞きながら、俺は自分の指を折りたたむ。不思議な掌だった。一体どんな道具を使えばあんな肉刺ができる?三本の指で握り込むようにして、人差し指を軽く曲げて、親指を伸ばす―――そう、例えば、こんな・・・

 

「え?・・・うん。そうだね。――――わかった」

 

青年が困ったような声で相槌を打つのが、遠い所で聞こえる。俺は自分の手が模った形に静かに硬直した。

映画の中でしか見たことのないような、その形。架空の塊を持つ自分の人差し指は、確実にそれの引き金を引く格好をしていた。

俺は路地裏で嗅いだ、彼のスーツにこびりついた匂いを思い出す。そうだあれは、土埃なんかじゃなく

 

硝煙、の・・

 


「うん。はい・・・大丈夫だよ。愛してる、ボス」


 

笑顔で彼がささやき、携帯のボタンを切る。部屋に一瞬の沈黙が満ちた。ごくり、と俺の喉が鳴る。ゆっくりとこちらに振り返った彼は、ベッドサイドに音もなく座り 硬直した俺の右手を、そっと押さえた。

 

「・・さて、あんたに伝えなきゃいけない残念なことが 二つある」

 

眉を下げて優しく微笑みながら、彼は俺の顔をのぞきこんだ。


「ひとつは、あんたにはシャワーを浴びる時間がないってこと。もうひとつは、休暇中悪いのだけれど、あんたはできるだけ早くイタリアを離れた方がいいってことだ」

 


彼の穏やかな口調と裏腹に、部屋の中に息苦しいほどの緊迫が満ちているのを感じた。
喉が干からびて引き攣る。緊張で俺は瞬きと呼吸を忘れていた。

いそいで、と肩を叩かれたのを切っ掛けに俺は飛び上がった。薄暗い部屋中を見渡し、慌てて脱ぎ散らかした服を掻き集める。
裏表がどうとか、服の撚れがどうとか考えている暇はなかった。とにかく身に着け、荷物を手繰り寄せる。


「幸い、このホテルは表側にしか車はつけられない。あんたはすぐに裏手に回って、通用口から外に出るんだ。まっすぐ進めば、15分後には運河沿いに出られる。」


穏やかな声で、彼が通りと逆の階段を指差す。


「巻きこんじゃって悪かったね。スィニョーレ」


俺はもう、無我夢中で部屋のドアを開けた。汗が滲んで、ドアノブが滑った。体当たりするように開いた部屋の先、廊下から明るい日差しと新鮮な風が流れ込み、俺はそれにふと、我に返る。



ふり返ると、半分闇に沈んだ部屋で、青年は静かに微笑んでいた。双角が薄く輝いている。その頭には、俺のボルサリーノが乗せられていた。


「これは宿代に、もらうね」


青年は無邪気に笑った。


「たくさん撫でてくれてありがとう」

 



「そうだ、きみ、君の名前は―――・・」

思わず叫ぶと、彼が自分の唇に人差し指を押し当てる。言い終わらないうちに、通りに車の止められる鋭い音がした。


「早く」



 

「・・も、もしも!君がいなくなったら!」


俺は泣きだしそうな思いで捲し立てた。焦りで舌が絡んで、ひどい吃音になった。


「俺は泣くだろう。そして、俺は君に花を贈るよ。世界中どこにいても、きっと」

ドアを開きながら俺は肩越しに彼に告げる。青年は目を見開くと、その澄んだ瞳を瞬かせた。

程なくして、その唇から笑みが花のようにこぼれる。


「ありがとう」


小さく首を傾げ、青年は少し頬を拭うようなしぐさを見せた。


「―――ランボ、だよ」

 

濡れた瞳で さよなら、と微笑んだ彼はやはりとても美しく。いつまでも俺の瞼に残像として焼きついた。