花を喰らう。



足元を埋め尽くす、業火のような、花。

美しい緋色。はぜる炎を思わせる華奢な花弁。すっくりと伸びた 葉を持たぬ瑞々しい茎の上に、重たげな炎の冠を掲げて揺れる。




ここは、地獄だ。

一面に咲き乱れる真紅の花を、イルカは視界の端で漠然と捉える。
裸足の足元を 風がさらってゆく。薄藍の浴衣の裾を引く様に、足元の柔らかな花弁が絡んだ。

黒髪を掻き乱すのは、樹木の枝葉で洗われ、里の臭いを削ぎ落とした風。


誘われるように、イルカは手を伸ばして、炎を手折る。ぱきりと細い音を立て、業火は容易く手の中に収まる。
滑らかに切り口から流れ出て腕を濡らす透明な雫を、舌先で拭いあげ。




―――そして、イルカは花を食む。


優しく口付けるように、その豪奢な花弁に唇を寄せ、柔らかく噛んで引き千切る。
舌の上に乗る真っ赤な花は、小さく裂かれた千代紙にも似て。
けして甘くはない、純粋な金属のような冷たい香りが喉を滑り落ちる。舌を擽る、柔らかな炎。

その身を切る冷たい味は、イルカに戦場で受けた刃毀れを思い出させる。
火花を散らして舞い散る破片。喉の奥に蟠る、細かな鉄の粉。
鼻に口に。容赦無く襲い掛かる血の臭い。


ぐ、と大きく口を開け、花を捩じ込む。炎の下にすっくと伸びる、若草色の硬い茎に、切歯をかりり、と食い込ませれば、溢れんばかりの液が口内に蕩け出してくる。

その苦味を身体に染ませ、イルカは薄く笑った。











“曼珠沙華に近付いては駄目”

“あの花を摘むと、おうちが火事になってしまうのよ”



幼い頃、母に何度も諭された言葉の真の理由が、別の所にあると知ったのは、アカデミーに入って暫く経ってからだったが。


忌み嫌われる、鮮血の花。
美しい花は、毒。


忍びの懐薬にも用いられる曼珠沙華は、交配を繰り返して毒性を強め、森の片隅でひっそりと咲き乱れている。
血が折り重なって濃くなるように、少しずつ少しずつ 紅く深くなった花の毒。
幼い子供ならば、一花食しただけで死に至らしめる事が出来る。

死を纏った、美しい炎。
イルカの喉が、こくりと硬い茎を飲み込む。その漆黒の目が、僅かに熱を孕む。
掌を伝う最後の雫を、一滴も残さずに吸い尽くし。

そして、誘われるように。また次の花へと手を伸ばす。






花を、喰らう。地獄の業火に焼かれた花を。

そうして毒を、身の内に飼うのだ。






――――憎しみと言う名の、毒を。









花喰い鬼








腹に狐を宿す幼子。自分に与えられた任務は、最も近しい所で いつ封印が綻びるとも知れない「ナルト」を監視し、上層部へと報告すること。そして、彼を守ること。
初めは相対するだけで指先が凍りつくような憎悪をひた隠しにするのに精一杯だった。
眼下で震える細い首をへし折ってやろうと、何度思ったことか。

だが、親も無く、忌み嫌われて 生まれたときから否応無く孤独を強いられている彼を見守るうち、自分の指先は滲み出す心の震えで温かく染まっていった。
里中から爪弾きにされ、由ない暴力で常に服の下に無数の痣を持つ彼が、それでも誰も恨むことなく、精一杯の笑顔を振り撒いているのを知ったとき、自分は涙ながらにその痩せた背を掻き抱くことしか出来なかった。



任務はいつしか使命に変わった。
何を差し置いても彼はこの手で護る。
彼を胸に抱き締めて代わりに自分の背を差し出すのは 難しいことではなかった。
大丈夫だ、お前は何も心配しなくていい、と柔らかな金髪を撫でて何でもないように微笑みながら、大きく広げた背中で無数の石礫を受け止める。彼の顔が曇る事のないように、彼の代わりに傷付いた腕で、そっと涙を拭いてやる。

ナルトは、幼い頃の自分に良く似ていた。自らに重ね合わせた彼を護ることで自分もまた、満たされていたのだ。


だが、膨れ上がった里の憎しみは、自分一人の背には重すぎる。
九尾に家族を殺され、大切な者を奪われ、自らの築き上げてきた生活もまた 叩き潰された里の大部分の人間にとって、彼は忌むべき存在でしかなかった。

殺してやる、と誰かが叫ぶ。
かわしても、かわしても 無限に湧きあがる身も潰されんばかりの罵りと、突き立てられる憎悪の爪を零れ落ちぬように一つの背中で受け止めて、イルカはナルトを抱き締め続けた。
彼を護り続けることは、自分の生きている証でもあった。
だから、必死で歯を食い縛ってそれに耐えた。



―――しかし。時は流れて。

生き甲斐とも言える存在だった庇護すべき幼子は、とうとう自分の手を離れた。

事実上 自分の後を引き継ぐことになったのは、銀髪の、里一番の実力者。


初めのうちこそ、自分の後任となったその胡乱げな男を信用しきることが出来なかったが。


だが、相変わらず自分に甘え抱き付いてくるナルトの、暫く見ぬうちに驚くほど伸びたその背に気づいたとき。
その身体に根付き始めた しっかりとした骨格を感じたとき。
そして、彼を見守る「仲間」の優しい眼差しを目の当たりにした時。




・・あぁ、自分の役目は終わったのだ、と


感じた。






彼を導く任務を受け継いだ、得体の知れない上忍は 考えていたよりもずっと優秀だった。それは、彼に導かれる子供たちを見ていても良く分かる。
彼は、ナルトに相応しい。

そう、自分よりも、余程。


自分がナルトを護る背中なら、銀髪の男は、彼の周りにとぐろを巻く、大きな龍だった。
地獄の遣いの、炎を吐き出す巨大な障壁。
龍の一睨みで彼に害意を持つ人間は竦み上がり、傍へ寄ることすらかなわない。



「じゃあな、イルカ先生!」と 愛しい幼子が彼の元へと駆けてゆくのを笑顔で見送った時、自分の胸にぽかりと空いた如何ともし難い喪失感を、それと同時に沸きあがった、焼け付くような嫉妬を、自覚してイルカは呆然とした。









――――どうして素直に喜べない。俺は、なんて、


・・・醜い。







胸の内を、業火が焼き尽くそうとする。


もう彼を抱き締める必要もない両の掌を見遣り、イルカは小さく 引き攣った笑い声を上げた。











・・・終わりではなかった。

狐子に手を出すことが出来ず、またそれを庇護する者の背中には傷すら付けられないと知った里の者達が 振り返った先にいたのは、イルカだった。
未だ怒りを納める術を知らない忍び達の憎悪。里人達の際限のない憤り。狐子の元教師であったというそれだけの理由で それらは、全て イルカへと向けられた。
彼らは嬉々としてイルカの背に爪を立て、溜まった鬱憤を晴らすかの様に思うさま抉った。
イルカは屈しなかった。以前より格段に酷くなった嫌がらせの類や、それこそ理由のない暴力にも甘んじて耐えた。

里内における同族同士の諍いは御法度。特に、忍びが一般人と争いを起こすことは固く禁じられている。
「忍びはあくまで国の裏方に徹し、力は持てどもそれを振り翳さず」を信条とする木の葉の定めた不文律だった。
それ故侮れず、恐ろしいのは、力を持たぬ里の人々だ。忍びが手出しできないと知った上で彼らは容赦無く干渉してくる。
里の忍びも中忍や上忍クラスになると、巧妙に里の目をすり抜ける術を持つものが幾らでもいる。

あの銀髪の上忍も、四六時中ナルトの傍にいるわけではない。まだ力を持たないナルトを護る障壁の崩れる時間が、必ず出来る。
誰かが進んで矢面に立たなければ、きっとナルトは簡単に殺されてしまう。


自分が、そこに立たなければ。



イルカは黙って突き立てられる憎悪に耐えた。エスカレートしていく暴力に血を流し、服の下を痣だらけにして、時には立ち上がれない程の傷に何度も咳き込みながら、いつも通り何も無いように笑ってみせた。


幾ら傷つけてもイルカが屈しないと判ると、里人達は方法を変えた。 髪を下ろしたイルカに、母親の面影が色濃く残っているのを知ると、彼らは暴力の代わりにイルカを精神的に痛めつける方法を見出した。
傷を付けず、相手を苛む最も効果的な手段で。

すなわち、凌辱。場所を問わず時間を問わず、里の目を盗んでは物陰に引き摺り込んで、散々に犯す。
気配や残り香を消した行為は、イルカが震える脚を隠し、笑顔を取り繕っていれば誰にも知られる事のないような巧妙さで。


それでもイルカは笑って見せた。こんなもの何でもない、と背筋を伸ばして、暗がりで自分を押し倒す男たちを見下し、笑い飛ばした。

それがますます彼らを煽る結果になると分かっていながら。






だが、綻びは確実に大きくなっていた。

元々受け入れる性では無い所へ無理矢理強要される行為に、イルカの身体には僅かずつ罅が刻まれた。
日に何度も、幾人もに捩じ込まれる牡。身体は徐々に限界に近付き、イルカはしばしば崩れるように意識を失った。




それよりも。

何より恐ろしいのは、無理矢理に開かされた身体が、少しずつ快楽の味を覚え始めていること。

下卑た声や他人の精液に塗れて、女のように声を上げている自分に気付いた事。







―――もう、笑うことは出来なかった。


味を占めた里人達はイルカを手放すことなく、日毎 イルカの最も恐怖する脅し文句をちらつかせて彼を引き摺り倒し。











そしてある日、里外れの業火の中で下肢の感覚が無くなるほど犯された夜。

とうとう綻びは崩れ落ちた。







可笑しな程に澄み切った月の下、イルカは初めて声が嗄れるほど泣いた。
自分にもナルトを護れる、と胸の内で燻っていたちっぽけな自尊心を、心底嘲笑った。



繰り返し強要される行為は、予想以上にイルカを深く苛んでいた。



打ち捨てられた身体のまま、泥と誰のものとも知れない体液に濡れて迎えた朝。
涙も声も嗄れ果てたイルカの手に触れたのは、辺り一面に咲く、曼珠沙華の花だった。


抜け殻のように呆けた頭のまま 一房千切り、そっと口へと運ぶ。
噛み締める花は青臭く、甘味など何処にも見当たらず。
虫を寄せる必要のない無情な苦味を、イルカの舌に伝えた。




美しい花は、毒。

子供なら一花食しただけで死に至る。




知らず、イルカは眉を引き絞った。枯れたと思っていた涙がまた、一筋頬を伝った。








もう、いいじゃないか。 俺がいなくても。
俺の役目はもう、終わったんだ。



掌が掴んだ真っ赤な花を、また力任せに千切る。

誘われる様に、口内にそれを含む。
噛み締め、千切り、飲み下す。




もう俺なんか、いなくてもいい。
このまま消えてしまっても。













でも――――









ふ、と泣き濡れた漆黒の瞳が、見開かれた。つるりと光る鏡面のようなその目に、僅かに力が籠る。
辺り一面の業火を映したそれは、燃え立つような妖艶さを帯び。







そう、俺はどうなってもいい。

けれど、出来る事なら














あいつらも一緒に



















毒性を強めた曼珠沙華。子供ならばほんの僅かで死に至らしめるが、大人はそう簡単にはいかない。
あらゆる毒に対して耐性を付け、解毒剤を携えている忍びならば、猶のこと。


・・・だが、知らず 身の内に毒が積み重ねられるのならば、どうだろう。
身体の耐性が追いつかぬ程に、毒が折り重なっていくのだとしたら?

自らの命を縮める毒が、自ら犯している罪の中で蓄積されていくのだとしたら。




それは何と、皮肉なことか。

















イルカは人目を忍び、里外れの曼珠沙華の元へと足を運ぶようになった。

そして、花を喰らう。何も考えず、ただ無心に 自らの中に重なる地獄の業火を思い描いて。



狙うは、花の持つ、毒。炎の抱く猛毒を、少しずつ少しずつ、自らの内に馴染ませる。

ほんの僅かばかりの解毒薬で、巧く自分の身体を騙しながら。


初めは、そのあまりの強さに何度も昏倒しそうになった。だがそれにも、一月を過ぎる頃には身体が慣れた。
徐々に衰えてゆく体力と引き換えに、自らの血流にのって毒が身体中に回るのを感じ、イルカは薄く笑む。
頭の先から喉、内臓。脚、指の一本一本、爪先まで。全身に染みた猛毒は、今やイルカのものだった。


その身体で、イルカは男に抱かれる。
宿主をも蝕む毒は、その体液にも混じり出る。少しずつ、だが、確実に。

業火を纏って、イルカは男を誘い入れるのだ。その炎で全てを焼き尽くすように、見も知らぬ男に舌を絡ませ、肩口に歯を立てて、柔らかな体内で、男を締め付ける。

次第に強くなる炎に、男達が気付かないうちに。







効果はじわりじわりと顕れた。



イルカを襲う男の数は、少しずつ減っていった。

ある者は身体の不調を訴え、ある者は胸の病を抉らせて死に。
ある者は、任務先で突然倒れ そのまま慰霊碑に名を刻まれた。


風の噂で耳に入るそれらの訃報を聞きながら、イルカは一人、静かに笑みを深くする。



さぁ、もう少しだ。あとすこし。







そしてまた、イルカは人知れず花を食む。


炎を摘み取り、業火に身を焼かれながら、その冷たい花を飲み下す。
足元の炎を揺らす、強い風。視界を覆い隠す流した黒髪の隙間から、真っ赤な花弁が見える。

燃え盛るように薄く波打ち、冷たい香気を放つ猛毒の花。
流れるように手を伸ばし、

また、一花口に含んで―――










――――花喰い鬼。」





突然、背後から低い声がかけられる。

ざぁ、と炎を巻き上げ 風が通り過ぎた。


それに僅かに瞠目した後、動じることもなく、イルカは緩慢な動作で振り返る。
流れた黒髪に絡まるようにして、唇の花弁が風に流される。



視線の先には、銀に透ける髪を持つ 長身の男が一人。
猫背気味に背を丸め、両手は気怠げにポケットに入れたまま。
覆面で隠された顔の中で、唯一露な右目がすい、と細められる。

銀糸が、風に散る。





「・・アンタ、知ってます?噂になってるの。『花喰い鬼』だってさ。
アカデミーでは生徒たちが挙って怖がってますよ。絶対に森には近付いちゃ駄目だって。

・・・まぁ、誰もアナタがその『鬼』だなんて知らないでしょうけどね。


―――ねぇ、アカデミーの うみのイルカ先生?」




飄々とかけられる声とは裏腹に、射る様なその視線。
突き刺さるそれを仮面の無表情で返し、イルカはゆるりと唇を開いた。


「何の御用でしょう、はたけ上忍。いつものようにご覧になるだけでしたら、御引取り願えませんか」


感情の篭らない凍ったその声に、銀髪の男がうわ、と首を竦める。

「ほんとアンタ、アカデミーと他じゃ全然態度違うよねぇ・・・。冷たいの」

おどけて見せるくせに、全く笑みを浮かべていないその右目に、イルカは眉根を寄せる。





銀髪の上忍・・・はたけカカシ。「ナルト」を任された上忍師。
一風変わったこの男は、少し前からイルカが花を喰らう所を好んで見に来るようになった。

初めて彼とこの場所で顔を合わせた夜、後をつけられていたと知ったイルカは、事が上層部に伝わり、その懲罰のために寄越された忍びかと半ば逃げるのを放棄した頭で思った。
元々捨てて惜しくない命、執着は無かった。
しかし、カカシはただイルカを眺めるだけ。いつも一言二言声をかけてくるのみで、邪魔をすることも無く、行為を咎める事も無い。
かといって、イルカが裏で何をしているのか知らぬ訳ではなかった。
寧ろ詳しすぎるほどに、カカシは細かに事態を把握している。
それは、いつもカカシが独り言のように伝えてくる「今日は、あいつが死にましたよ」という言葉から容易に知れた。


しかし、ただ、見ているだけ。
咎めもせず、上へ密告することも無く。







―――ならば、好きにするがいい。上忍ゆえの、気紛れに付き合う暇は無い。

もう自分には、あまり時間が無いのだから。

例え、全てが終わった後で処刑されることになろうとも。自分にはもう思い残すことなど、何も無い。
ただ、最期まで止めずに居てくれるのなら。








相変わらず背を丸め、吹き渡る風に髪を遊ばせながら じっとこちらを見詰めてくるカカシ。
イルカは暫く彼と対峙すると、ふ、と目を逸らし、また緩やかな動きで新しい花を摘んだ。
そのまま、何も無かったかのように、再び花を口にする。

鼻に突き抜ける刃の匂い。
もう、少しなんだ。もう少しで・・・






















――――ね、イルカ先生。アンタいつまで、こんなこと続けるつもり」


不意にぽつり、とカカシが呟いた。






ふらりと空気が揺らぎ、気付いたイルカが目を見張った次の瞬間、イルカの腕は間近に現れたカカシに強く捉えられていた。

腕ごと花を遠ざけられ、食んでいた花弁がばらばらと零れ落ちる。


「な―――!!」



今までとは違う事態に、イルカは身体を強ばらせる。驚きで心臓が早鐘のように胸を打ちつけた。
思わず傾いだイルカの身体を引き寄せたカカシが、心底不愉快そうに眉根を寄せる。


「こんなに痩せて・・・イルカ先生。いい加減やめなさい、こんなこと」

――な・・ん!!あ、あんたには、関係ないだろう!!」

「いーえ。関係ありますね。」

「離せ!!」

「いやです」

「畜生!何のつもりなんだ!!あんたには関係ないでしょう!?離しやがれ!!」


憎々しげに紅く染まった瞳でこちらを睨みつけ、全力で暴れるイルカを片手で押さえつけて、カカシはじっとその目を覗き込んだ。

「だーめ。アンタがやめるって約束するまで、離しません。さもなくば、今すぐ上層部に訴えて止めて貰いますよ」








―――!!


今まで全くと言っていいほど干渉してこなかったカカシの突然の強引な言葉に、イルカは目を見張った。
乱れた髪の張り付く頬が、怒りでわなわなと震え出す。


「・・どうして止めるんだ!!今更!!今まで全部知ってて止めなかったくせにあんたは!
あと少し・・あと少しなんだよ・・・!!」


唇を戦慄かせて、絞るように声を吐き出すイルカを封じるかのように、カカシはその胸にイルカの頭を抱き締めた。



「・・っ!?」


驚いて瞠目し、反射的に逃れようと身を捩るイルカの腰に強く腕を廻して、カカシは腕の中にイルカを繋ぎ留める。

そのまま、耳元で小さく囁いた。


「・・ねぇ、いい加減に気付いてよ。何のために、オレが毎日様子見に来てたと思うの。」


聞いたことも無い、溜息のような優しいその声色に、イルカは息を詰める。

「そんな・・そんなこと知るかよ!・・・ッ!離せ!!俺に構うな!
・・あんたには、あんたには何の関係も無い!!」


鼓膜を震わせるように、直に耳に落とされた声に身震いして、弾かれたようにイルカが藻掻く。
手負いの獣のように暴れるイルカを猶も押さえつけ、ふ、と溜息をつくと カカシは一つ息を吸い込んだ。





―――なら、アンタが好きだと言ったら?」






びく、とイルカの動きが止まる。

思わず見開いた目に、鮮血の色が滲む。
夢中で足掻いているうちに、知らぬ間に強く爪を立てていたのか、カカシの白い手首から紅い筋が滴っていた。


それを呆然と見ながら、イルカは唇を戦慄かせる。



「・・・・あんた、何が目的だ・・?」



凍りついたイルカの声に、カカシは苦笑を漏らす。

「目的も何も・・言葉通りの意味ですけど?」

苦笑交じりのその声に、跳ね上げられたイルカの目。怒りの籠ったその漆黒に映る深淵に、カカシはまた溜息をつく。



「信じられない?――――じゃあ、信じさせてあげましょうか」








世界が反転した。


あぁ、と思う間もなく、イルカの視界は業火に染まる。

はぜる曼珠沙華の赤、色付き始めた薄ら青い空。天へと舞い散る 無数の炎の欠片。


そして、目の前を覆い尽くした、銀色の龍。






―――っ!?ん ぅ・・!!」


気付いた時には、イルカの声は薄い唇に飲み込まれていた。
柔らかな銀糸で埋まった視界に、思わず喉が鳴る。





―――毒が・・!






――――っや・・・、やめ・・ッ!!」



イルカは瞠目した。渾身の力でその背を引き剥がそうと藻掻くが、巧みに組み敷かれた身体は意に反して地面へと押し倒される。
角度を変えて押し付けられる、薄く柔らかな唇。熱い舌が否応無く歯列を割って、イルカの舌を絡め取る。



――――!!」



なんて事を・・!!何て事をするんだこの男は――




イルカは猶も身を捩り暴れた。逃れようとその身体に爪を立て、髪を毟り、頬を抉り。
渾身の力で抵抗しているのに、カカシは一向に拘束を緩めず、イルカの唾液を吸い上げ、飲み下す。



俺が今までここで何をしていたか、知らない訳がないはずなのに。
俺の毒は、あんたを殺すためのもんじゃない――――!!









「・・・っぅ・・・」



思わず小さく漏れた嗚咽に、カカシがゆるりと視線を戻す。
そのままゆるくイルカの舌を吸い上げて、そっとその唇を解放した。


























「なんてこと・・・・するんだよ・・・」


花の中に押さえ付けられたまま、肩で息をしていたイルカが呆然と呟く。


「・・あんた・・・死ぬぞ・・?」



ふ、ふ、と細かい息を吐きながら。全力で藻掻き、すっかり弛緩しきって抵抗の意志をなくした身体を花の上に横たえて。
ふらりと戻されたイルカの濡れた目に、カカシは僅かに笑みを返す。


「だーいじょうぶ。オレ、毒関係には結構強いんですよ。・・けど、アンタ結構溜め込みましたねぇ・・
流石のオレでも、ちょっとふらふらする」



何でもないように笑う目の前の銀髪の男に、イルカは何と返して良いのか分からず 呆けた頭のままぼんやりと宙を見上げた。
上がった息と自分の鼓動が耳に煩い。掻き乱される思考に、酩酊に似た浮遊感が、身体を襲う。


カカシの長い指がそっと頬に触れたときも、イルカには僅かに瞳を揺らすことしか出来なかった。











「ね、イルカ先生。オレのこと信用できないかもしれないけど。

とりあえず全部、オレに任せて、オレに守られてみませんか?」






まだ夢に中にいるような茫洋とした表情のまま、見上げてくるイルカの額に子供をあやす様な口付けを落とし。
カカシは、悪戯そうに微笑んで見せた。







「今度はアンタが護られる番だよ。


―――だから、ちょっとずつ オレのこと知っていって。ね?」












―――――あぁ・・・





まなうらには、一面の業火。澄みきった高い夜明けの空と、自分を抱き締める温かい腕。



おぼろげに霞む意識の中で 自分を抱く大きな銀色の龍を見、イルカは知らず、涙を零した。

















<終>