雨よ降れ。白い花嫁の祝福を掻き消してしまう様に。雨が降るといい。

六月の花嫁。その着物は純白。雨に濡れたそれは涙のいろ。

幸せなんて、誰かの不幸の上にしか成り立たないものだから。

 

 

溺 れ る 魚

 

 

出会ったときから、別れが来るのは目に見えていた。

だって、カカシさんにはそのときもう既に、里から与えられた上等なおんなが居たし、俺には俺で同僚のくるくるとした可愛い彼女が居たんだから。

カカシさんとは何度か寝たけど、やっぱり押し倒されるよりはおんなを組み敷く方が性に合っているみたいだし、何よりおんなは柔らかい。

 

今日、カカシさんの薬指に銀の指輪を見つけた。

終わりかな、と思った。

 

 

 

 

 

どおおどおお、と音を立てて、天の底が抜けたように雨が降る。

幾筋もの滝を作って窓を叩きつける雨。溢れんばかりの水に鎖された部屋の中は青く、とても、静かだ。

白くけむる雨粒の向こうで、彼の部屋を覆い隠す木々が枝葉を撓らせ風に抗っている。時折響く、鳥の泣き叫ぶような声は幻聴だろうか。

白く静謐な彼の部屋の中は、まるで海の中のよう。

この閉ざされた小さな空間の中、まるで、世界に二人しか存在しないかのような錯覚を覚える。

よく糊のきいた白いシーツは湿気を含んで冷たく、それでも肌にさらりと心地良い。
まるで、先ほどの激しい熱など、はなから存在しなかったかのように。

俺は、頬を静かにリネンに埋める。自分の体温の移った布地に、頬を擦り付ける。
カカシさんは、先刻からずっと、シーツ越しに俺の腰のラインを確かめるように、そっと指で辿っている。

何度も、何度も。

多分、とても優しい顔をしているんだろう。だから、俺は彼の顔を見ることができない。

時折思い出したように、散った俺の髪を一筋掬い取り、口付けて、また梳く。
冷えた象牙みたいな彼の指の感触。それよりもっと冷たく、硬質なものが、何度かに一度、俺の身体に触れる。

その小さな銀色を思い、俺は瞼を下ろした。

この、俺達の罪を隠してしまうように。

もっと激しく、雨が降るといい。

 

 

 

 

言わなくてはならないだろう。

俺の口から、決定打を。

それで、全てを終わらせなければならない。そう、いつまで俺たちはこんな不毛なことを続けているつもりだ。
里を裏切り、大切な人を裏切って。

 

しかし、用意している幾千の言葉とは裏腹に、僅かに開いた口からは、吐息が洩れるばかり。

一言、発しようと唇が用意をするたびに、何故か喉が詰まったようになり 言葉はシーツの青いひだに消える。
そして、俺の心臓は空気を食んでおかしなくらいに高鳴り、それを整えようと 深い息を繰り返す。

そうして、また言葉がこの青い空気に溶けてゆく。

 

言わなければ。終わらせなければ。今更、何を躊躇う?

背後で、彼のゆるりとした息遣いが聞こえる。忍びの息だ。

これを聞き取れるようになるまで、俺は 彼は息をしていないのではないか、と思っていた。いつでも彼は静かで、忍びのお手本のような人だったから。

 

いつの間にか。

彼の寝息を確認しながら眠りに落ちるのが、俺の日常の中に組み込まれていた。

気付けば聞き取れるようになっていた、彼の呼吸。

それほど、長く

・・・一体いつから。

彼と出会ってからの時間を思い返そうとして、俺はその無意味さに乾いた笑いを漏らす。

時間の長さなんて、関係がない。そんなもので張り合おうなんて、何て、馬鹿げた考えだろう。
過ごした時間の長さなんて全く意味を為さないこと、この身を以って知っている筈なのに。

その笑いのせいで、また 用意していた言葉は青い部屋に飲み込まれていく。

目の前の窓を流れ落ちる、狂気の濁流。

まるで俺達は、小さな水槽に閉じ込められた魚のようだ。

 

俺は部屋の片隅に置いてある、ちいさな金魚鉢を思った。

そこには、魚はいない。

春に、気の早い祭で彼と掬った金魚達は とても弱く、季節を待たずに水面に浮いた。

彼は、それを見て「彼らは自由になったんだ」と言った。

 

 

「イルカセンセ・・・」

彼が背後から、髪に埋めていた手をずらして、俺の首を抱く。首筋に埋められた彼の鼻先の感触に、胸が詰まった。
薬指の指輪が、俺の目の端を掠める。

・・・あぁ、もう、今しかない。

これを逃したら、きっと言えない。

 

俺は彼の左手首を取る。そして、まじまじとそれを見詰めた。

ほんの僅か、彼の腕がぴくりと跳ねる。錯覚かもしれないけれど。

 

細く、シンプルなラインを描くだけの、銀の輪。それだけに相当高価なものだということはよく分かったし、その滑らかな曲線は、彼にとても良く似合っていた。

「カカシ先生、結婚、されるんですね」

零した声は、思っていたよりずっと冷静だった。本当に、ただ純粋な興味で物事を聞く アカデミーの生徒の質問みたいに俺の声は響いた。

「・・・えぇ、まぁ・・・」

「いつです?」

 

―――6月に」

 

―――――6月。

俺の誕生日を平気で祝った顔で、この人はこんなことを言う。

そうして自分からは手を離そうともしないんだ。なんて残酷な人。

彼の隣に立つ、すらりとした美しい女性のことを思った。二人寄り添って立つだけで華があり、俺も昔からよく見知った人だった。この里では彼らのことを知らない人など、いないだろう。
淡い色の長い髪、しなやかな身体。

“はたけカカシ”と結ばれるべく里に運命付けられた彼女は美しかったはずなのに、顔が全く思い出せないのは、きっと意識的に目をあわせないようにしていたからだ。

6月、なんて。もうすぐじゃないか。もう何もかも決まっている未来を持ちながら猶、自分からは切り捨てもしない。

なんて残酷で、我侭で、


・・・馬鹿な、ひとだ。


「それは・・・おめでとうございます」

「・・・・イルカ先生は?結婚、しないの?」

その子供の無垢さを装う問いかけに、俺は思わず彼を殴りそうになった。代わりに笑う。肩を揺らして、掠れた笑い声は雨音に掻き消される。


俺が別れたのを知っていて、この人は、こんなことを言う。子供の顔で、まるで何も知らないフリをして。

何故別れたのかも、知っているくせに。こんな。

 

――――ね、カカシさん」

静かに、俺は彼へ振り向いた。彼の手首を取って、彼に圧し掛かるように、彼が顔を逸らさないように白い滑らかな頬に手を沿わせる。

彼の長い銀の睫毛が瞬き、濡れた青灰色の瞳がゆっくり表れるのを見て、雨を思う。

瞬間閃いた雷光が、部屋中を白く染めた。彼の輪郭だけをぼんやりと残して。その色の無い刹那を、俺は愛した。

まるで永遠みたいな、その白い世界にはまた唐突に色が付き、一拍遅れた神鳴りが頭上から降り注ぐ。
俺達の罪を叫ぶ神の声が、全ての言葉と音を奪った。

カカシさんは、ぼんやりと、けれど探るように俺の顔を眺めている。あぁ、こういうあどけないところも好きだったなぁ、と思って俺は少し笑んだ。


おしまいにしよう。もうここから先には、何も無い。

 


「俺たち、もう・・・・」


 

唐突に、言葉が全て攫われた。

カカシさんが俺に口付けていた。彼の乾いた唇が、深く、深く 俺の息を、言葉を奪い、舌を絡めて辿って、舐めて、吸い上げる。呼吸も出来ないような激しい接吻に暫く訳もわからず翻弄される。

自分の肩がいつの間にか冷たいシーツに埋まっているのを認識した時、自分の必死の決断が彼に飲み込まれたのだと知った時、俺はもう、笑えて笑えて、仕方が無かった。

彼はやめなかった。まるで必死に見えた。俺は目を強く瞑って、震える喉を隠しながら彼を抱き締めかえした。

あぁもう、なんて残酷で馬鹿で愛しい人なんだろう。こんな、俺の一世一代の決意を反故にして。

俺の一言で、あなたの未来はより整然と敷かれたレールになるのに。なんて馬鹿。

こうしてその場凌ぎで永らえて、俺達はいつまで続けるのだろう。この意味の無い、けれど、この上なく純粋なゲームを。

あれだけ必死で搾り出した言葉はもう、どう考えたって俺の身体から出せる筈が無いだろう?


「イルカ先生、オレのこと 好き?」


口付けの合間に、また子供の仮面をかぶって彼が問う。彼に穿たれながら俺は雨音と、自分の乱れた息のせいで聞き取れなかったフリをする。

――――彼は求めている。俺の口からの決定打を。それも、先に何も路が無い方の決定打を。

俺がそれを言うことで、何かが変わるかもしれない。彼は変えたいのかもしれない

けれど、それを求めながらも現実の路を捨てようとしない彼も、彼女と別れながらその先へ手を伸ばすことが出来ない俺も、きっと同じに卑怯で臆病者だ。

彼が息を詰めて、俺の奥へ激情を放つ。彼のしなやかな指に促され、俺も同時に達した。
腹の奥に広がる溶けた鉄のような熱さに、喉の震えが止まらない。


「イルカセンセ、オレのこと好きですか?」


息を乱しながら、彼は俺の頬の雫を唇で掬う。俺の乱れた髪に手を差し込んで、今度こそ離さないといったように俺の目を覗き込んでくるから、笑いながら言ってやる。


「いいえ。・・・・・きらいです」

「イルカ先生。オレは・・・」


突然部屋に響いた彼の声は凍った真水のようにキンと透っていたので、俺は彼がとんでもないことを言おうとしているのを察した。


「オレ・・・・」

―――駄目です。カカシさん、それ以上は」


彼の唇を掌で塞ぐ。口を覆われた彼は、瞳を大きく揺らした。


「なんで!イルカ先生!!」

「言わないで―――お願いです。彼女や・・・お腹の子供を これ以上悲しませないで・・・」

―――――!!」


唇を噛み締めて、絶句する彼を見上げ、俺は目を細めた。


「知らないと思ってました・・・?わかりますよ、何でも。・・わかるんです」


彼の薄く汗の滲む身体は美しい。引き締まった身体は灯りの無い部屋でも薄く光のベールを纏って見える。

この身体で、他の人を抱いたのか、と思うと、とんでもない嫉妬と独占欲が競りあがってきて、その時俺は自分の感情を押さえつけるのに精一杯だったのに。カカシさんが

 

「・・・もう、イルカ先生はオレのことなんてどうでも、いいですか。――――もう、忘れてしまうんですか・・・」

 


―――――なんて。

なんて、小さな声で泣き出しそうに零すから。

 

 

俺は反射的に、彼の頬を強く張っていた。

たーんという音と共に、水槽の中に落とされたみたいに、目の前が何にも見えなくなった。

 

「よくも・・・よくもまぁ、そんなことを 抜け抜けと・・・」


身体が震えて震えて、崩れて散ってしまいそうだった。

滲んで見えない水の中を、手探りで銀の髪を引き寄せ、噛み付くように口付けた。視界の端で、銀の小魚が鈍い光を放つ。考える間も無くそれに喰らい付くと、勢いをつけて引き抜いた。

「イル・・・っ!?―――馬鹿・・・!!!」

彼が叫ぶのと、俺の喉が上下するのとが同時だった。俺の喉に入った銀の魚は、瞬間意思を持ってのたうつと、後は驚くほど従順に身体を滑り降りていった。


「アンタ・・・!なんてことを!!死ぬぞ!?」


俺の頬を、首筋を捉える彼の指の感触を感じ、そこにあの銀の枷がない事を認めて、俺は言い知れない安堵に包まれる。



馬鹿みたいだなぁ、俺たち。俺たちはまるで、水槽に押し込められた魚みたいだ。

こんなに小さな世界に縛られて、藻掻いて、喘いで、けれども、そこから抜け出すだけの力を持たず。

大人しく与えられるものだけで満足していれば、酸素だって無くならずに済んだのに。


「あんたなんて、せいぜい不幸になればいいですよ」


俺は笑う。

俺の、何も孕む事のない腹の中に舞い落ちた激情は、鈍く光る銀の枷となって俺をこの世界に縫いとめる。

だから俺は溺れてしまって、きっとどこへも行くことなんて出来ない。


「・・・・けど、幸せになってください・・・」


俯いた俺の頭を、彼が優しく抱きとめた。

部屋に沈黙が満ちる。窓を叩く雨。梅雨のはしりの嵐。

 



雨よ降れ。白い花嫁の祝福を掻き消してしまう様に。雨が降るといい。

六月の花嫁。その着物は純白。雨に濡れたそれは涙のいろ。

 



カカシさんが俺を抱きながら、小さな声で歌を歌っている。

それが、どこかで聴いた子供の歌で、右から二番目の星が楽園へ導いてくれるとか願いを叶えるとかいうものだったので、俺は何だかおかしくて少し笑った。

このまま雨が、この小さな部屋ごと俺たちを攫ってくれればいいのに。

 

「雨がやんだら、帰りますね」

 

「・・・もう二度と、会いません」

 

呟くように言うと、彼の歌声が大きくなった。

俺の身体を、強く抱き締める。

 

俺の身体に根付いた銀の枷は、いつしか消えてなくなるだろう。

いつしか、身の内にあって当たり前の痛みとなるだろう。

そのときは、きっと俺も彼も、ここではないどこか幸せな場所へ 泳ぎ着くことが出来ていればいい。

 

 

ただ、今は

雨が止まない様 強く強く、願った。

 

 












<終>