「ね、わかってんのイルカセンセイ?オレだってね、ほんとはこんなことしたくないんですよ?」
飄々とした、普段通りの物言いに関わらず、一縷の感情も滲まない、カカシの 声。
床に張り付くイルカの乱れた髪に 骨張った指を絡ませ、ぐい、と引くと、イルカの喉から圧し潰された声が漏れる。
先ほどまでイルカの部屋を照らしていた柔らかな居間の灯りも、小さな音で流していたテレビのニュースも、何もかもが耳から外れた、遠い所へ行ってしまったようだ。頬に感じる床の埃のざらついた感触だけが、この張り詰めた空間に奇妙な現実感を与える。
「――――悪い子。ね、どうしていつも 他の奴と寝ちゃうのかなぁ?
オレ今回は、ちゃんと1週間で帰ってくるって言ったよね?」
ね、どういうことイルカ先生。ねぇねぇねぇ、とまるで駄々をこねる子供のように 舌足らずに問い掛ける。
しかしその白い指はイルカの髪に強く絡められたまま。
仰のかされたまま問われるたびにがくがくと酷く髪を引かれ、痛みと苦しさで思わず眦に涙を浮かべると、呆れたカカシの視線が降ってくる。
「なんなの。そんな顔してもダーメ。アンタね、自分のしたことわかってんの?」
え?と一際強く髪を引きつけられ、吐息がかかりそうな至近距離で優しく囁きかけられる。ぎりぎりと掴み上げられた長い髪が軋む。耐え切れず、くぐもった悲鳴を上げると、ひとつ鼻を鳴らしたカカシは 興味を失った玩具を打ち捨てるようにその場にイルカを投げ出した。
ど、と為す術なく床に打ち付けられたイルカは、顔を伏せて歯噛みする。
何の前触れもなく訪ねて来た、任務帰りのカカシに無言で殴り飛ばされ、有無を言わさず床に転がされてから既に数刻。
後ろ手に捻り上げて拘束された両腕は、一体どう縛られているのだろう、見当もつかないような巧みさで、イルカから一切の抵抗を封じていた。布と、掌にあたる固い金属の感触。恐らく額当てか。ぼんやりと逃避するかのように、イルカは皮膚を引き攣らせるものの感触を探った。だが、器用に結ばれたそれは もがいてみた所で、到底外れるわけもなく。
無抵抗な蓑虫のような姿のまま、数度酷く蹴り上げられる。僅かに傷付いた臓腑から、薄桃色に染まった液体が競り上がり、唇を伝って床を濡らした。息つく間も無く 何度も何度も腹に爪先を打ち込まれ、吐き気と気道を詰まらせる空気に、気が遠くなる。
思わず昏倒しそうになると、突然頭から冷たい水を浴びせられた。
「―――― ッ・・!!」
「何、もう寝ちゃうの?まだ早いでしょ。オレ全然、治まってないから」
解れた髪を掴み上げられ、仰け反った喉にも、大量の水が流し込まれる。急な刺激に対処しきれなかった気道が、突然割り入ってきた水に激しく噎せかえった。
「げ・・・ッ!!げほげほげほ・・・っ・・は、あぁ・・・が・・っ!!」
臓腑ごとひっくり返ってしまうかのような喘鳴を伝え、濡れたイルカの肩が忙しなく上下する。カカシの手から投げられたグラスが、足元で鋭い音を立てて割れた。為す術なく転がされた姿勢のまま、激しく喘ぐイルカの目がカカシを捉える。
「なんなの、その目は。可愛くないなぁ・・・。
こんなときはどうしたらいいか、アカデミーで教えてるんじゃないの?"ごめんなさい"くらい言ってみたらどう」
「・・・ご、めんな さ・・・」
「・・・ま、そんなこと言われても許す気なんて毛頭ありませんけどね」
嘲るように言って、カカシの足先がガラスの破片を叩き割る。厭な軋みをあげて砕けたそれをぼんやりと見遣り、カカシは這い蹲るイルカの脇へと屈み込んだ。
「謝れば何でも許してもらえると思ってるでしょ・・・オレ、アンタのそういう平和ボケした所、嫌いだなぁ」
言いさし、溢れた水で濡れたイルカの顔に手を沿わせる。部屋の暗い電灯がイルカの蒼白な頬を舐め、闇へと溶けてゆく。
――――いつからか。
イルカは、カカシの不在には決まって、他の人間と関係を持つようになった。
それも、生易しいものではない。きちんと最後まで事の進んだ、性的なものを伴う、「関係」を。
最初、カカシは"まさか"と思った。まさか。あのイルカが、そんな事をするはずがない、と。
動かぬ証拠を、自らの目で確認した時でさえ"きっと何かの間違いだ。さもなければ、なにか深い事情があるに違いない"と思い込んだ。
だが、それは一度だけではなかった。
おかしなくらいに。まるでそれを見計らっているかのように、自分が里を空けた時には、必ず。イルカは誰かと関係を持つ。
男であろうと、女であろうと。
三度、カカシはイルカの情事の最中に わざと踏み入った。相手は、全員違う人間だった。
キレた。
さすがに。
見も知らぬ男の下で、いい様に喘がされているイルカを三度目に見たとき、カカシの理性は弾け飛んだ。
相手の男を壁へと弾き飛ばし、まだ情事の余韻を纏わせながら目を見開くイルカを渾身の力で殴りつけた。
そうして、動かなくなったイルカに言ったのだ。
"次は、1週間で帰ってきますから"、と。
「――何が気に食わないの?オレ、アンタのためにこんなに尽くしてるじゃない?地位もあるし、顔だって悪くないでしょ。アンタが言ったんですよ。オレの顔、好きだって。稼ぎもいいほうだ。アンタには随分といい思いさせてると思うけど?アンタが寂しがるから、任務以外はずっと傍に居るでしょう?暇さえあればアンタの顔見に行ってるよね?・・・ね、オレはアンタの望むオレでしょ?一体何が気に入らないって言うの」
苦しげに顔を歪めたイルカの漆黒の瞳が、焦点を結ぼうと躍起になってカカシの鼻先で揺れる。まだ肩で息をしながら、言う事をきかない身体を床に横たえるイルカは、カカシに乱暴に顎を捕らえられて苦しげに喘いだ。
何か言おうとしたのか、僅かに開かれた唇が、また言葉なく閉じられる。
それを見たカカシは眉を跳ね上げた。
「は、びっくりした・・・本気でアンタ、全然悪いと思ってないんだ」
心底呆れた声で、吐き捨てるように溜息を吐く。
唇を噛み締めるイルカを見下しながら、カカシの目が剣呑な光を宿し、す、と細まった。
「まぁそのつもりなら?こっちだって、好きにやらせてもらいますけど」
治まることなく、止め処なく襲う吐き気に、未だ息の整わない胸。頭に上る、血。
曇るイルカの視界に、こちらに向かってまっすぐ伸びてくる、カカシの腕が映った。
それを朦朧とした頭の中で捉え、イルカは反射的に身を強ばらせる。
カカシが僅かに笑う気配がした。
その冷たい指先が、頬に触れた瞬間、
イルカは初めて、自分の身体の異変に気付く。
「―――――っ!?」
触れただけ。カカシはただ、イルカの頬に指先を這わせただけなのに。
びくり、と大きく身体を竦ませ、反射的にイルカは身を引いた。
頭に集まった血が、頭蓋の中でがんがんと煮え滾るようだ。頬に残る、冷えた指の感触。
そこから全身に波紋のように広がった、背筋が震えるほどの―――
「あ・・んた・・・!俺に、何盛った・・・っ!?」
「あ〜・・・。アンタわりと薬に耐性ありますねぇ。なかなか効かないもんだから、どうしようかと思っちゃった。」
目だけで笑いながら、ちらり、と時計を見てカカシが呟く。
「――――10分、ね。褒めてあげますよ」
戦慄するイルカを面白そうに見遣り、す、と傾いだカカシの身体は、瞬きする間にイルカの傍らへと落とされる。
ぼやけた頭でうまく状況が飲み込めなかったのか、突然詰められたカカシとの距離に、イルカが ヒ、と小さく声を漏らした。
転がされた己の上に、まるで檻の様に覆い被さってくる鍛えられた身体。すぐ目の上で、カカシが笑むのが見える。身体のどこも、押さえつけられては居ないのに。顔の両側に腕をつかれている、ただそれだけで、全身が術に掛かった様に、強ばって動かない。圧倒的な力を持つ、支配者のチャクラを感じた肌が、びりびりと痺れる。
それとは別に、身体の奥底から競りあがる、燻る熾き火のような・・・・熱。
気付いたイルカの頤に、つ、と汗が伝う。
「効いてきた?」
歪んだカカシの唇から、赤くぬめった舌が覘いた。それを視界に納めただけで腰から脳天に突き抜けるような痺れを感じ、思わずイルカは強く目を瞑る。
背けた首筋に、ひたり、とカカシの冷たい手のひらが触れた。途端
「――――っあ、 ッ・・・!!」
明確に触れられた場所から、灼熱の疼きがイルカの身体中を駆け巡った。一気に全身が熱を孕む。薄い皮膚の一枚下、身体中の最も敏感な所を、無数の芋虫が這いずるような。
身体中を襲うそれは、紛れもない、
快楽。
その熱は容赦無く、一気に下肢へと集約する。
「ひィ・・・ッ ァ・・・!!」
イルカは思わず身体を丸めた。耳の奥で己の鼓動がうるさいほどに鳴り響く。
「よかったぁ。ちゃんと効いたね?遊郭で初物を卸すときに使うもんなんだって。でも量わかんなかったから、適当にやっちゃった。」
先ほどのグラスの破片を、可笑しそうに玩びながら。カカシは、戦慄くイルカの身体を、うっそりと笑って見詰めた。
ね、気持ちいい?・・・良さそうだよね、イルカセンセイ。
アンタ、気持ちいいこと好きらしいからね。
がくがくと震え出す体を抑えようと、目を見張り、必死で耐えるイルカにはカカシの声は聞こえない。息が頬を掠めるだけで、どうにかなってしまいそうなほど、身体中の感覚が逆撫でられるかのような錯覚に、イルカは息を詰める。
眼下で小刻みに震える体を見遣り、カカシはその色付く耳朶に指を伸ばした。
「ッあアァァ・・っ!!」
触れられただけで全身を襲う快楽の波から、無我夢中で逃げようと身を捩る。その肩を腕一本で封じたカカシは、触れるか触れないかの位置で イルカの張り詰めた首筋を撫で、震える耳を弄んだ。
「ああぁあ!・・っ!!!も、もう・・・や、め・・・ぇ!!!」
敏感な皮膚の薄い部分から、身体を貫くような熱が走る。カカシの束縛から逃れようと暴れるが、衣擦れを起こしただけでおかしくなってしまいそうな身体が言うことを聞いてくれない。次第に理性を食い尽くしてゆく魔物と戦うイルカを見ながら、カカシは酷薄な笑みを浮かべて、立ち上がった。
そのまま、離れた位置に椅子を持ち出して、ゆったりとその上で足を組む。高みの見物を決め込んだかのようなカカシの様子に、イルカは思わず慄いた視線を送る。
「―――オレが欲しい?欲しいよねぇ。尋常じゃない量入れちゃったから。先生なんだからわかるよね?この手の薬は、あんまり無理すると狂っちゃうから・・・」
――――じゃあ、おねだりしてごらんなさいよ
カカシの薄い唇が、嘲笑の形に歪められる。椅子の背もたれに片肘をかけて、薄く笑みを滲ませながら。だが、その目には笑みなど微塵も浮かんではいない。氷のようなそれに、カカシの本気を感じ取ったイルカは、奈落の底に突き落とされたような感覚に、身を震わせた。
「・・・・な・・・!!」
「できるでしょ?いつも他の奴を誘ってるみたいに、脚 開けばいいんだから。
オレの足元に縋って、そのいやらしい声で誘ってみなよ。」
くすくすと、楽しそうに洩らされる声とは裏腹に、突き刺すような冷たい視線がイルカを射る。カカシの牡を知っているイルカの身体は、その視線にさえ浅ましく反応し、イルカは耐え切れずに悲鳴を上げた。
抑制の効かない、身体の奥底で 暴れ狂う灼熱の欲望。ギリ、と噛み切らんばかりの強さで唇をかみ締める。
腕を強く束縛する、額当ての痛みにすらも、信じられない程過敏に反応し、跳ね上がる体。汗が全身から滝のように吹き出す。
身体に蓄積されてゆく、逃げることのない熱。それでも流されまいと、イルカは必死で胎児のように身を丸め、震える自身に抗った。
「・・・・い、やだ・・・」
ごり、とざらつく床に額を擦りつけ。己の掌を裂くように、強く爪を立てて抉る。
「絶対に、厭だ・・・!!!」
「あらら。頑張るねぇ。ほら、そんなにしたら筋肉が使いもんにならなくなっちゃうよ?」
歯を食い縛り、渾身の力を込めて耐えていたイルカの筋肉が限界を迎え、痙攣しだす。それを見ていたカカシは面白くなさそうに鼻を鳴らすと、苛立ちの籠った瞳でイルカを睨み付けた。
「他の奴にはできんのに、オレにはそこまでしてしたくないってわけ・・・。」
椅子を蹴倒すと、カカシは荒々しくイルカの身体を蹴りつけた。イルカが悲鳴を上げる。薬に神経を支配された身体は 皮膚を裂く痛みすら激しい快楽にすり替え、擦れる悲鳴に混じるのは、甘い喘ぎ。
「できるでしょ?アンタがいっつもオレがいないときにしてるみたいに、やってみろって言ってんの」
「ひ ゃああぁああ・・っ・・!!!」
カカシの爪先が、イルカの内腿を強く踏みつけた。激しい痛みにとうとう堪えられなくなったのか、吐精したらしいイルカの身体が激しく痙攣する。
もうドロドロに体も、思考も溶けているに違いないのに。
それでも猶、狂人のように叫び、息を荒げながら逃れようとするイルカ。
「・・・・ねぇ。・・・・なんで?」
獣のようなイルカの吐息と、熱を孕む空気に混じった、血生臭い牡の臭い。
「や・・・だ・・!いやだ 厭だ!!やめて・・・やめてくだ・・さ・・ッ!!」
「なんでだよ・・・」
切れて血塗れになった、滑るイルカの唇に、カカシはそっと指を這わせた。もう意識は飛んでいるだろうに、イルカはその刺激に大きく反応して、顔を遠ざけようと身を捩る。息を荒げ、うわごとの様に拒絶の言葉を繰り返すイルカに、カカシは諦めたように、笑った。
「どうしてなんだよ、イルカ先生?」
首筋に顔を埋め、強く背に腕を回して抱き締めると、その刺激にまた熱を解放したらしいイルカが、大きくうち震える。眦に涙を浮かべ、もはや焦点を結ばないイルカの瞳が、強く引き結ばれた。
「あんたなんて、お、俺を置いて、死ぬくせに・・・!
――――俺をひとりに、するくせ に・・・っ!!」
抑える事の出来ない、乱れた息の合間に、狂いのようにイルカが叫ぶ。
カカシは、笑った。腹の底から笑った。
――――だって、なんて返せばいい?"死なない" "いつまでも一緒にいる"なんて、できもしない絵空事を並べ立てたところで、何の意味もない なんてこと、百も承知だ。
自分が不幸になると知っているのに。
それなのに、それでも猶、お互いを手放すことができない。
体も、心も。どこまで行っても、融け合う事なんてできやしない。
所詮自分が満たされたいだけの。悲しい、寂しい人間。
「・・・アンタの、一滴残らず搾り取ってあげますよ。
他のヤツとなんか、もう二度と、寝られない様にね」
答えは返さず、カカシは笑う。
平行線のまま、そうしてまた、この関係は続いてゆく。
決して交わる事のない、その不純な思いを殺し。
どちらもが、この上なく我侭な、
――――エゴイスト。
夜が更けてゆく。
「・・・もういっそ、このまま終わってしまえたら 楽なのにねぇ」
交わる事のない線路の上を歩きながら。
カカシはイルカの首に手を掛け、少しも力を込めることができないそれにまた、笑った。