「イルカセンセイどうしよう

オレ、アナタを殺してしまう」

 

そう言って彼が泣く。

 

 

俺は彼を繋ぎとめるために、今日も彼との思い出を語る。

 

一つずつ、ひとつずつ。

 

 








カ  ウ  ン  ト  ダ  ウ  ン

 

 

 

 

 

 

過酷な任務に携わる忍びの中には、頭の中に切り替えスイッチを持つ者が多い。

精神に過度の負担が掛かると、無意識の内にその制限装置が発動し、自分の中の別人格へとその負担を肩代わりさせる。
所謂「第二の人格」が発動するのだ。

それは 通常時と任務時 それぞれ別の自分へと成り代わり、「殺し」という精神への負荷を軽減しようとする
無意識の防衛本能のようなもので。

 

だが、このオンオフが上手くいかない者も存在する。

 

――――カカシさんが そうだった。

彼はハイクラスの任務が続くと、スイッチが入りっぱなしになってしまう。

 

 

 

“イルカセンセイ、どうしよう

オレ・・・おかしくなるんだ。敵と味方が分からなくなる。アナタを殺してしまう・・・”


そう言って彼は泣いた。ある日、任務帰りで「オン」の彼が、駆け寄った俺を敵だと思い込んで殺しそうになった時のことだ。

だから俺は、彼に暗示をかけた。


“なら、こうしましょう。いいですか、よく聞いて。

・・・あなたが自分を見失ったら、俺は、あなたに―――――

 

 

 

 

今日もアカデミーの帰りに、里端の森で不穏な気配を感じた。

彼の長期任務がそろそろ終わる頃だと神経を尖らせていたから、逸早く気が付いた。

最初に気付いたのが俺で良かった。本当に良かった。

森の奥へ一歩、足を踏み入れると同時に、襲い来る尋常ではない殺気に息を詰め、

暗転しそうな意識を叱咤しながら 更に彼の射程範囲に足を踏み入れる。

滝のように吹き出す汗に、止め処ない吐き気。震える脚。それらを必死で堪えて一歩、

 

踏み出すと同時に、側頭を張られて首から吹っ飛んだ。

 

咄嗟に跳んで衝撃を和らげていなければ確実に頚椎が折れていたであろうその衝撃を、到底かわす事などできず
近くの大木にしこたま叩き付けられ、身体中の骨が悲鳴を上げた。

突然の激しい揺れに、梢から何羽もの鳥が飛び立つ音。

脳が揺れて意識が混濁する。

木々の奥から弾丸の如く飛び出してきた銀の獣は 易々と俺の上に跨ると、躊躇いなく首に手を掛けた。

そのベストは血に染まり、元が一体何色だったか判別出来ないほど。彼の白い顔を覆う口布も、手甲からも何者かの血が饐えた臭いを放っている。
飢えた狼の様に肺の奥から搾り出される 荒く激しい息を繰り返す彼の目は真っ赤に充血していて、焦点を失い俺の上をふらふらと彷徨う。

「オン」の彼。

彼は自分の中のスイッチを上手く切り替えることが出来ない。



俺はひとつ息を吸うと、彼のスイッチを切りに掛かる。


「・・・・ね、カカシさん。花の苗、買ってあげましょうか?」

首筋が軋んで嫌な音を立てる。渾身のチャクラを込めて彼の手首を掴むと、震える声で俺は言う。

「百日草・・・・あなた、花屋で欲しがりましたよね?きれいな苗、買ってあげましょうか・・・」

 

 

――――――周りから消えていた音が、耳に戻って来た。

氷のように張り詰めていた大気が、くにゃりと溶け。

彼の手からふっと力が抜ける。暗い瞳の奥底にほんの僅か、小さく正気の光が灯る。

 

殺気を霧散させると、どさ、と糸が切れた人形のように俺の上へと崩れ落ちる彼。

 

 

―――――イル・・・カ・・・・センセ・・・・・」

「はい、おかえりなさい・・・・・カカシさん」

 

酷い眩暈と嘔吐感を押さえてそれだけ言うと、俺は耐え切れずに吐いた。

俺の腹の上で、彼がうわ言の様にもうしません、ごめんなさい・・・と呟いていた。



涙が出た。

 

 

 

“あなたが自分を見失ったら、俺はあなたに思い出を語りましょう。俺たち二人の思い出を。

そうすればきっと、あなたは俺を思い出す“


それが、俺が彼にかけた暗示。

 

 

スイッチがオンに入りっ放しになっている彼を呼び戻すには、衝撃と 自分がこちらの世界に属しているという認識。

必要なのは、記憶を揺さぶる打撃。ショック療法だ。

俺は、彼が自分を見失う度に 二人の思い出を話す。二人で創り上げた思い出を。

新しい刺激を与えなければならないため、一度語った記憶は使えない。まるで中毒患者のように、「オフ」への戻りがどんどん悪くなっている彼を現実へ引き止めるため、少しでも強い刺激を与えなければならないから。

 

彼が狂う度に、俺は二人の記憶を語る。1つずつ ひとつずつ。

 

 

「あの日、一楽へ 初めて二人で行きましたね。あなたいきなり好きだなんて言うから、びっくりしてラーメン吹いちゃいました」

「誕生日のナルト、嬉しそうでしたね。サスケにサクラ、それに俺たちからでっかいケーキ貰って。皆で撮った写真、大事にするんだって照れてましたよ」

「今日みたいに風の強い日、初めてキスしましたね」

「初めて寝たのはあんたの誕生日だ。覚えてますか」

「任務に行きたくないなんて馬鹿なことあんたが言うから、殴っちゃいましたけど・・・頬、もう大丈夫ですか」

「ね、カカシさん」

「カカシさん・・・・」

 

彼に圧し掛かられ、

殺されかけながら、

必死で記憶を掘り起こして、

また、新しい思い出を。

 

それは、まだ少ない二人の日々を片端から墨で塗り潰していく行為にも似ていて。

 

 

 

 

そして、ある日。

 

 

いつもの様に、里外れ近くで感じた 荒んだ彼の気配に、思わず脚が動き

いつものように彼に組み伏せられた途端。

気付いた。

 

「ぁ・・・・・」

 

いつものように開いた唇からは、何の言葉も出てこなかったのだ。

 

(もう、無い・・・・)

 

 

 

喉からは、ただ、首に掛けられた指に抗うかのような 乾いた忙しない息が洩れるだけで。

 

俺達の思い出は、元々そんなに多くない。忍びという異端を生業とする俺達には、休日なんて滅多に与えられる物ではないのだ。どちらかが任務へ出ていたり、内勤の仕事が入ったりして

 

俺達が一緒に過ごせる時間なんて、限られていたのだから。

 

 

 

彼の冷たい指が喉笛に食い込んで、抗うたびにそこからひゃあひゃあと隙間風のような音が洩れた。本能的にその指を剥ごうと爪を立てると、途端、肩口に焼け付くような痛みが走る。

夜闇の中、視界のすぐ下のあたりに突き立つ鋼が見えた。

「っぐ・・・・ァ!!」

肩から暖かい液体が流れ出して、服を気味悪く濡らしてゆくのが分かる。的確に筋肉の継ぎ目に入れられたそのクナイに、痛みで思わず喉を仰け反らせると、息つく間も無く腹に重い衝撃。殴られたのかと思って息を詰めた瞬間、横っ腹の妙な涼しさに気付いた。

 

思わず、叫んだ。

獣のようなその声を、どこか醒めている頭の端で他人事のように聞いた。

俺の脇腹は小太刀で大きく抉られていた。滑る体液を介して、熱すぎる体温がどんどん芝生へと吸い込まれてゆく。

あ、

死ぬな と思った。

敵う訳が無い。彼の手のクナイは、確実に俺の喉の中央に向けて構えられていた。力を入れると身を引き裂かんばかりに血を吹き上げる腹の筋肉に 震え出す体を抑え、その腕を渾身の力で支えながら 唇を噛んだ。

痛い。死にそうに痛い。でもこの腕の力を少しでも緩めたら、俺は本当に死ぬ。

死ぬ。
死んでしまう。

「・・畜生・・・」

何だか訳のわからない思いに捕らわれて目の奥が熱くなった。ちくしょうちくしょう。

だって俺がいなくなったら、誰がこの人を止めるんだ?誰がこの人をここまで愛せる?

それにきっとあんたも泣くだろう。自分を責めて泣くだろう?

俺の他に、誰がいるんだ。俺がいなきゃ、あんたはどうするんだよ?

ちくしょう!

 

「・・・・・カカシさん、忘れ・・・たんですか?」

彼の血走った昏い目に、何の希望も見出せないと判っていながら。
俺は泣いた。

 

「俺ですよ。あんたのことを、この世で一番思ってる 男ですよ・・・・・」

 

畜生。あんたに触れることも出来ない。この束縛された両手を離してしまえば。

それで終わりなんて

畜生。ちくしょう、ちくしょう!!

 

「愛してます・・・」

 

絞り出した声で叫ぶようにやっとそれだけ告げた。
もうそれ以上は彼を見ていられなくて 強く目を閉じた。喉がひくつく。

無念で悔しくてどうしようもなくて、もう声も出なかった。

 

 

 



血の気の失せた頬に、ばたばたと何かが降りかかり。

一体なんだ、と目を凝らしてみると、それは彼の涙だった。

 

「う・・・・あ・・・・ああぁぁぁぁ!!!!」

獣のような咆哮を上げて クナイをかなぐり捨てた彼は自分の頭に血が出るほど強く爪を突き立てながら、血塗れの俺の胸へと顔を埋めた。

 

 

「ごめ・・・・んなさい・・・・・イルカ先生・・・!!!

ごめんなさい・・・・・!!」

 

「・・・・あぁ、謝らないで・・・・カカシさん」

「ごめんなさい・・・・ごめんなさい・・・・!!!」

助かったのか。

まだ生きてるのか俺は。

あぁ、謝らないで。あんたが悪いわけじゃないんだ。あんたは何も、悪くない。こんなに優しいひとなのに。

自分を忘れなきゃ生きていけないほど、あなたはこんなに優しいのに。

 

もうしませんもうしません許して、と祈りのように繰り返す彼を 血だらけの手で抱いて、

その不憫さにまた涙が一筋、流れた。

 

 

 

一つ一つ、消えてゆく思い出。

元々俺達の思い出なんて、数えるほどしかない。

底を尽くのが時間の問題なのは、最初から目に見えていた。

 

 

 

これから先、彼との思い出は 増えるだろうか。

増えたとしても、それは決して彼の任務の数を上回ることは無いだろう。

それを知りつつ、お互いを選び、そして受け入れた。俺達忍びは そういうものだから。

 

 

俺の切り札は全て、使ってしまった。もう「愛している」も言えない。

 

 

 

でも


もし、次に彼が狂ったら もう一度「愛している」と言おう。

そうして、強く抱き締めてやろうか。

 

そしてそれが、きっと最後。

 

 

白み始めた空に輝く明星が、頭の上で俺達を笑っていた。