愛しいアナタを、捕まえる。

そう、これは


罠。




coat






暖かな 夢を見た。
夢の中で、自分は小さな子供だ。
傍らで微笑んでいるのは、亡くした筈の優しい母親。
少しかさついた、温かい手で、優しく自分の手を牽いてくれる。

“寒くない?”

そう言って、ふんわりと抱き締めてくれる母。
体温がゆったりと胸に、背中に廻り、凍えていた身体を溶かしてゆく。
イルカは目を瞑り、母の柔らかな身体に身を預けた。
木漏れ日のような穏やかな匂いに包まれ、ゆるゆるとまどろみが襲う。

“ほら、イルカ。雪が。”

ぼんやりと開いた目に映った、真っ白な綿雪。
母の肩越しに銀鼠の空から降るそれを見たのは、一体いつだったか。

柔らかな一時の幸せにしがみ付きたくて、イルカは母のコートをきゅっと握って眼を閉じた。








「・・・ん・・・」

眩い光に、頬を撫でられて 意識がゆっくりと浮上する。
重い瞼を抉じ開けると、窓から低く差し込む太陽の光に眼を貫かれた。
(あ・・・え?朝・・・??)
目を擦りながら、腕の中から顔を上げる。どうやら机に突っ伏して寝てしまったらしい。
寝惚けまなこに飛び込んできたのは、整然と並んだ 見慣れた灰色のデスク。傍らに積まれた授業の資料と採点待ちのテストの束。窓にかかった黄色いカーテン・・・


「―――――えぇっっ!?」

思わずがばりと身を起こす。そこは見慣れたアカデミーの職員室だった。

な・・・どうして俺・・・!??

乱れた結い髪に手を当て、昨日あったことを反芻する。

そうだ、確か、昨日はアカデミーで 職員の忘年会があって・・・
そうそう、確か火影様も顔を出されたんだ。広いアカデミー内とはいえ、火影に目をかけられており、またあのナルトと関係が深いとあって、イルカには馴染みの同僚が多く、あちらこちらへと酌をし、返杯され・・・と飛び回っている内に、すっかり酔っ払ってしまったのだ。

(うぅ・・・)

二日酔い独特の感覚で、頭がズキズキ痛む。
そこから先の記憶が全く無いことから、やはりと言うべきか、どうやら自分はすっかり潰れてしまった様だ。

(全く、ざまぁないなぁ・・・)

職員室で寝こけてしまうとは。
これからはもうちょっと酒は控えめにしよう・・・とイルカが鼻の傷を掻きながら反省していると、朝一番の同僚が出勤してきた。

「うぅ・・・さむさむ。お!おはようイルカ!どうだよ二日酔いの方は?」
「おはようコナタ・・・酷いもんだよ、頭が割れそうだ」

ニヤニヤと聞いてくる同僚に、苦笑しながら答える。

「昨日は迷惑かけちまったみたいで・・・すまないな」

イルカが申し訳無さそうにそう言うと、同僚は まったくだ、といった様にうんうんと首を振った。

「しかしよぉ・・・まさかあそこであんなエライ人が出てくるとは思わねぇもんな。
ほんと、寿命が縮んだぜ」

しかし今日は寒いな・・・と、震えながらストーブに火を入れに行く同僚を首を傾げて見た。
あんな・・・偉い人?何があったんだ・・・?大体、そんなに今日は寒くないだろう。

訝しそうな視線に気付き、イルカを見遣った同僚が、眼を見開く。

「・・・って、おい、イルカ!それ、そのままにしといていいのかよ?」
「え・・・?」
「だから、ホラ、それだって!!」

同僚が困惑しながら指差したのは、自分の背に柔らかく掛けられていた、黒いコートだった。
あまりの滑らかさに、背中にとろりと馴染むそれに、今まで全く気付いていなかったことに驚く。

「え・・・?ってコレ、何だ?どうしたんだ、俺?」

本気で当惑するイルカの表情に、同僚は まったく・・・とこめかみを押さえて唸った。

「全く、何処まで鈍感なんだお前は!!昨日、酔っ払ったお前に はたけ上忍が掛けてって下さったんだろうが!!」

同僚のその言葉に、思わず瞠目する。

カカシさんが?

「ほんとに、俺たちがどんだけ苦労したと思ってんだよ・・・ほんと、肝潰したぜ。
いきなりはたけ上忍が現れて、お前に無言でコート掛けて『もう、お前たちいいよ。オレが面倒見るから』だもんなぁ・・・。
当然上忍の方にそんなことできる訳もないから、俺たち、必死で断わったけどよ・・・」


あぁ、そこまでは覚えている。酒が過ぎて、気分が悪くなった所を介抱してくれていた同僚たちの間から、背の高い人影が見えた。
同僚たちの非常に恐縮している様子から、介抱を申し出ているらしいその人物に
『いやぁ、大丈夫ですよ〜。俺。皆も付いてくれてますし、暫くしたらすぐ回復しますから・・・』
・・・等と口を挟み、それだけでは足るまい、と 酔っ払いの無謀さで、わざと背筋を伸ばしていつも通り歩き去った覚えがある。

丁重に断わったつもりであったが、

――――――あれが、そうか。あの人だったのか。



ぼんやりしているイルカに、同僚が溜息を吐いて肩のコートを指差した。

「・・・お前さ、どうでもいいけど、ほら。そのコート上級品。俺たちがどんだけ頑張っても手も届きゃしねぇシロモノだぜ」

その言葉に、改めて掛けられているコートに目を遣る。

言われなくても、相当値の張るものであるらしいことは薄々勘付いていた。
朝日を柔らかく跳ね上げる、しなやかな布地。漆黒の艶が美しい。
恐らく何かの細い毛で編まれているらしいそのコートは、とても軽く、それでいて驚くほど暖かなものだった。


カカシさんが、これを。

これがなくては、きっと夜の寒い職員室で凍えていたことだろう。
鍛えているとはいえ、風邪くらいはひいてしまったかもしれない。


イルカは、初めてカカシのおせっかいに感謝した。

「で、どうすんだよそれ?貰っちゃうのか?」

意味ありげな視線で見上げてくる同僚を、そんなわけないだろ、といなす。

「・・・返しに、行くよ。仕方ないからな・・・」

あんまり気乗りしないけど・・・と、はぁ、と吐いた溜息は、朝の職員室の中に白く広がった。

そこでイルカは、初めて気温が低いのだということに気が付いた。






その日の、夕刻。

イルカは、几帳面に畳んだ例のコートを小脇に抱えて、上忍の控え室へと向かった。
逆の手には、律儀にも 好意のお返しとして酒の瓶が握られている。
カカシの任務は、受付所で確認済みだ。今日は、7班のDランク任務で昼から農園の水やり手伝い。
かかって3、4時間の仕事だと聞いていたから、この時間ならば、数刻後に備えて きっと控え室で報告書を書いている筈だ。
・・・なぜなら、その時間は、イルカが受付係をしている時間帯だから。

イルカは、毎任務後 謀った様に自分のシフト時間に押しかけて来るカカシの事を思い、ひとつ溜息を吐いた。



はたけカカシ。
―――――変わった人だと思う。

流石 上忍と言うべきか。上忍ともなれば、変わった人が多いのは周知の事実だから。
・・・だが、まさか。

―――――自分に愛を囁いてくる人がいようとは。

そう、はたけカカシがうみのイルカを追い回している、というのは、もう一つの周知の事実だった。
実際 会うたびに、「好きですイルカ先生」だの「愛してますよ」「オレのものになってください」だのを、人目を憚らずに公言するのだから、堪ったものでは無い。
それを、ただでさえ人の殺到する受付所でもやらかすのだから、噂にならない方がおかしいといったものだ。
基本的に、忍の間に於いて 同性で好き合う、というのはしばしばあることで。
だから、イルカ自身も その様な性癖を持つ者たちに対し、特に偏見は無かったのだが。
だがしかし。やはり自分の性は男だ。周りから、女房だの(つがい)だの言われて気分が良い訳が無い。
・・・かと言って、カカシは特に男が好き、というわけではないらしい。
その立場と容姿とで、随分女の噂の絶えない人であったということは、後ほど周囲から嫌と言うほど聞かされた。

すなわち。自分は遊ばれているに他ならない、ということで。

最初は、「物好きな人だ」と思う程度だったのだが、事ある毎に手を握られ、抱き締められ、あまつさえキスまでせがんでこられる様になっては、これはもう、閉口するより他無かった。
・・・しかし、相手は上忍。自分に出来ることは、出来得る限り、カカシを無視し、彼を遠ざけることだったのだ。


そんな訳で、暫くカカシを避けていたイルカだったが、何の因果か、このような不慮の出来事で、久方振りに彼と顔を付き合わせることとなってしまった。


――――困ったなぁ・・・
何て言おうか。


控え室へ向かう足取りも、自然と重くなる。
イルカは再び嘆息して、脇に抱えた柔らかなコートを見遣った。


そういえば。今朝は、なんだか幸せな夢を見た。
・・・背中に温もりを感じるなんて、何年ぶりのことだろう。

何だか不意に、鼻の奥がジンとする様な、目の奥が熱い様な、そんな感覚に囚われてイルカは慌てた。

目に優しい、柔らかな黒のそれは、今は人気の無い廊下の窓から差し込む夕日に染まって 艶々と輝いている。
ふわふわと揺れる短い毛足に橙の光が留まり、本当に温かそうだ。
イルカは、思わずそのコートに顔を寄せる。
そっと、柔らかなそれに鼻先を埋めると、ふわりと漂う、心地良い香り。

―――――カカシさんの、匂いだ。

過剰なスキンシップから、何度も抱き締められて覚えてしまった、カカシの匂い。
外の任務が多いせいか、彼からはいつも 深い森の様な、冴え渡る夜空の様な、そんな香りがした。


―――――これに包まって、昨日は寝たのか・・・


そのとき、胸に広がった何とも言えない切ない思いを、何と言ったら良いのか。

『イルカセ〜ンセ!』
脳裏に、いつも満面の笑みで手を振ってくるカカシの姿が浮かぶ。
これを自分に貸したということは、昨日カカシは外套無しで帰宅したということ。

ふと、愛しい思いが込み上げた。


「本当は、そんなに悪い人じゃないのかもしれないな・・・」

今度はゆっくり、話してみようか、と
イルカは控え室に向けて歩みを速めた。








「あ!イルカセンセ!!!」

控え室の扉を開けるのと同時に、上擦ったカカシの声があがる。
挨拶をしてから入室しようとしていた矢先だった為、イルカの口は半開きのまま止まってしまった。
一礼しようと折り曲げかけていた身体も、中途半端なまま止まっている。

・・・まさに、出鼻を挫かれた感じだ・・・

少々げんなりしながら、仕方なく小さく「失礼します・・・」と言い、目だけ上げるとカカシが満面の笑みでぶんぶんと手を振っているのが視界に入った。


「お、こら珍しいこった。イルカからお迎えとはな。なんだ、とうとうカカシの強引な押しに折れちまったか?」

横から煙草の煙を燻らせつつ、アスマが面白そうに横槍を入れてくるのをカカシはキッと一瞥する。

「やめてよね〜!アスマ。イルカセンセが折角来てくれたのに!先生が不快になるようなこと言わないでくれる?」

へぇ・・・?と片眉を上げ、意味ありげな視線だけを向けて来るアスマを無視し、カカシは一瞬の内に目前に現れイルカの手を取っていた。

「嬉しいです〜!イルカセンセから訪ねて来てくれるだなんてv

キラキラとイルカの顔を覗き込みながら、胸の前でぎゅうっと手を握った。

「いや、あ、あの、」
「オレ、イルカセンセに避けられてると思ってましたから」

そう言って、フッと寂しそうに笑ったカカシを イルカは信じられない思いで見た。

・・・一応は、気付いてたんだ・・・

あまりに懲りずに接してくるので、知らないものだと思っていた。
それなのに、避けられているのを知っていて猶、こんなしがない中忍風情に近づいて来ていたと言うのかこの人は。


急に自分の行為が恥ずかしくなった。今まで俺は一体何て子供じみた事を・・・
謝ろう。全部、謝ろう。
恋人はやはり困るけれど、友達として。仲良くなっていこう。

そう決心して、イルカがぐっと顔を上げた瞬間、

至近距離のカカシの瞳と、真っ向からまともに目が合った。

初めて認識した、額当てから見える青灰色のそれに、思わず息を呑む。


途端、

「「あ」」

二人が声を出したのと、た―――んという音を立てて、イルカの手の酒が床にぶつかったのとが同時だった。

「・・・あっ・・・」
「ああぁぁあ―――――――っっ!!!!!!イルカ先生の酒が零れてしまったぁぁぁ!!!!」

果たして、より大きく絶叫したのはカカシの方であった。

目にも留まらぬ速さで床に這い蹲り、散らばった酒と瓶の破片を身を震わせながら見ているカカシを、
イルカは呆気に取られて見守る。

・・・安酒だったんだが。

「あ、あの・・・カカシさん?」
「うぇ・・・もしかしなくても、コレ、オレに持ってきてくれた酒なんでショ・・・?」

本気で涙目になり、ぐすぐす言い始めたカカシに、イルカは当惑した。

こうして距離をおいて見てみると、いかにこれが異常な事態か分かる。
里の誇る上忍が、自分のごとき中忍にここまで入れ込んでくれているとは。

「わ、わ―――――っっ!!!??カカシせんせ・・・っ!!止めてください―――!!!!」

床を穴があくほど見詰めていたカカシが、突然その床に顔を近づけ、その零れた酒を舐めそうなのを見て、慌ててイルカはその肩を掴んで起こした。

「ほんとに・・・本当に安い酒だったんですから!!また、別の新しいのを持ってきますから・・・っ!!!」

同時にイルカの胸に沸き起こった思いは、
(なんだか、嬉しい・・・)
この人、この変わり者の上忍は、いつも こんなに自分のことを思ってくれていたのか・・・
今まで反発していた気持ちを、少し、受け入れてみる。
すると、驚くほど暖かなものに 胸の内が埋められるのを感じた。

・・・人に、無償で愛を与えてもらえる、ということ
唯一無二のものとして、人に想われる ということ。


悪くない、と思った。


「・・・ね、イルカセンセ!」

心底残念そうに肩を落としたカカシが、突然がばっと顔を上げて勢いよくイルカに食いついた。

「この後!このあと、何か用事がおありですか!?」
「え・・・?このあと・・・ですか?いえ、特には・・・」
「じゃあ!」

カカシが、ほにゃ、と相好を崩す。

「一緒に飲みに行きませんか?オレ、どうしてもこれじゃあイルカセンセに申し訳ない・・・
オレが奢りますから!!飲みにいきましょう!!」


驚いたのはイルカだ。

「え・・・?いや、でもそんな!!俺がお礼に来たのに、それじゃあ本末転倒です!」
「いやいや!!」

カカシがぶんぶんと首を振って強く主張する。

「ほんとに、折角のイルカ先生の好意をこんな形にしてしまって、オレ、どうしても自分の気持ちに収まりがつかないんです!だから、お願いします!!」

肩を強く掴まれ、ずい、と目を覗き込まれて力説されては、イルカも折れるより他なかった。



「―――――わかりました・・・本当に申し訳ないですが、では、お言葉に甘えて・・・」
「ほんとですか!!!!!」

カカシが、これ以上無いといったような満面の笑みで、イルカに微笑みかける。
・・・今までなら、カカシからの誘いなど 断固拒否して聞く耳も持たなかったが、今日は不思議とカカシの言葉がすんなり胸に入ってきた。
嬉しそうなカカシを見て、イルカも何だかくすぐったい様な気持ちになり、鼻に走る傷を掻いて苦笑した。




あぁ、なんだか。こういう気持ちも、悪くない。

それじゃあ、早速行きましょ行きましょ〜!と、小躍りせんばかりの浮かれようでカカシがイルカの背を押す。
イルカは、恥ずかしそうに笑いながら、カカシに小脇に抱えた 黒いコートを差し出した。

「前後しましたが・・・これ、本当に有難うございました。温かかったですよ」


部屋を出るとき、なぜかアスマが大きな溜息をついたが、イルカは聞かなかったことにした。








カカシが連れて行ってくれたのは、イルカにも馴染みの、大衆居酒屋で。
そのことにイルカは、ほっと肩の力を抜いた。
・・・カカシほどの忍になれば、当然、いつもこの様な場所で飲んでいる筈はなく。
そのことを裏付けるかの様に、カカシがその店の暖簾をくぐると、そこそこの広さがある店内に どよめきが走った。

(俺に、気 遣ってくれたのかな・・・)

イルカはまた、何だか くすぐったい様な気持ちに囚われる。

(この人、やっぱり俺が思っていたほど、自分勝手で考え無しな人ではないのかもしれない)

イルカが少し、周りの壁を外したことで、会話は弾み、楽しく杯が重ねられた。
カカシは最近のナルトら7班の任務の様子や、彼らに与えている修行のこと、そして、忍としての知識など、イルカが興味を持って入り込める話題を幾つも持っていた。
また、良く話してみると 非常に聞き上手で、酒の相手としては申し分なかった。

そうして楽しい時間が過ぎ、押さえようと思っていたイルカも、ついついかなりの量を飲んでしまって。

店を出る頃には、少し足元が覚束ないほどになっていた。

しかし、すこぶる気分は良く。
イルカは、このような酒の飲み方もあるのだ、と、温かな幸せに浸っていた。



「うわ・・・結構冷えますねぇ」

カカシがイルカに手を添えながら、寒空を見上げる。
凍りついたように透明な冷気が火照った頬を撫で、イルカは思わず身震いした。

「ほんと・・・ですねえ。―――――あの、カカシさん、今日は本当に、有難うございました」

二人の帰宅する道が分かれる桟橋まで辿り付いて、イルカはカカシに深々と頭を下げた。
・・・こんなに楽しい酒を飲んだのは久方振りだ。
イルカは、傍らで微笑むカカシのぬくもりを感じ、何だか切ないような、人恋しいような、複雑な思いでいた。
今まで、カカシには決して抱かなかった、いや、抱くまいとしていた、想い。


顔を上げると、イルカの視界の飛び込んできたのは、ひとひらの、雪。

「「――――――あ・・・」」

また同時に声を上げ、何だかそれがおかしくて、二人でふふ、と笑った。



「・・・ね・・・カカシさん」

雪を見上げながら、橋に身を預け、イルカは独り言のように言った。

「俺ね、雪を見ると、亡くした人の事を思い出すんです」

きれいな、きれいな雪。
けれどもそれは、儚い思い出の様に 掴もうとするとすぐにひらりと溶けて 消えて。

「寒くなると、なぜだか、人恋しく なりますよね・・・。
昔はね、俺にも 寒い夜を分かち合う家族が、あったんですよ」

イルカの手が空を掻いた。手のひらに収まった雪は、途端に消えてなくなる。

「・・・でもね、俺の大切な人は、みんなみんな、逝ってしまうんですよ・・・俺を置いて。
俺はいつも、それが怖くて・・・ひとりは怖くて、ね」

イルカはそっと橋の欄干に顔を伏せた。


それは、今まで 誰にも話すことのなかった、心の内。
イルカが抱えていた孤独の部分を、そっとさらけ出した。





そのとき。イルカの背中を、蕩けそうな温かさが包んだ。

顔を上げて見ると、その背に掛かっていたのは 漆黒の、コート。
カカシが今しがたまで羽織っていたものを、イルカの背に、そっと 掛けたのだ。
背中に伝わる、温かな 感触。
すぐ傍に居る人の、息が詰まるような、狂おしい生の実感。


・・・身動きが、できなかった。


その感触に、温かさに、思考の全てが奪い去られてしまうような。


息を止めたイルカの後ろから、そっとカカシが 腕をまわす。
コートごとイルカを腕に抱いて、カカシはゆっくりと言葉を紡いだ。

「イルカ先生・・・」

耳元で囁かれる落ち着いた声に、イルカは身震いした。

「オレは、ずっと、アナタの傍にいます。一緒に。アナタを一人には、させませんよ・・・」


触れ合った背から、直に伝わる、静かな振動。コートから、カカシと触れ合った場所から じんわりと広がる優しい熱。


は・・・っ


胸が、詰まった。
自分の身の内から競り上がった 体温よりも遥かに熱いものが頬を濡らし、地面へと滴り落ちるのを感じる。


・・・カカシさん・・・

「・・・イルカ先生・・・」
キス、してもいいですか。



滲む視界の向こうで、気遣わしげにこちらを覗き込んでくるカカシの青灰色の瞳がある。
彼の肩越しには、舞い散る 今年最初の、雪。




言葉にはできず、イルカは静かに俯いた。







*
 * * *


「なぁカカシ。お前最近、やけにイルカにご執心なのな」

上忍控え室で、鉢合わせたアスマが掛けてきた言葉。

任務が終わってすぐらしいアスマは、いつもの様に咥え煙草で、手にした報告書を弄びながら からかう様な視線を向けてくる。
カカシは報告書から顔を上げることもせず 無表情のまま部屋を横切ると、アスマの腰掛けるソファの反対側へどっかと腰を下ろした。
その様子に、アスマがふん、と鼻を鳴らす。

「なんだなんだ・・・イルカといる時は、あんなガキみてぇな顔で尻尾降ってやがるくせに・・・
イルカの事、本気で惚れてやがんだな」

「ぶっ!!」


その言葉に、今まで一言も発しなかったカカシが盛大に吹き出した。

「っ・・・・く・・・っくく・・・あはははははは!!!!」
「な・・・」

身体を折り曲げて、これ以上無いといった様に涙を浮かべて笑い転げるカカシを アスマは呆気に取られて見遣った。

「何笑ってんだよカカシ・・・間違っちゃいねぇだろうが。毎日毎日、あんなに甲斐甲斐しく引っ付きまわってよ。
仲間内でもかなり噂だぜ。“あのカカシがとうとう愛に目覚めやがった”なんてよ・・・
・・・おい、いつまで笑ってやがんだカカシ」



「―――――本気で言ってるわけ?」

漸く笑いを収めたカカシが、眦に涙を溜めて、目だけでアスマを見上げる。

「・・・何が言いてぇんだ、カカシよ」

アスマが少し目を見開いてカカシを睨む。短くなった煙草を乱暴に吸殻入れに押し付けた。



「愛・・・か。・・・それもいいねぇ」

再び肩を震わせて笑い出したカカシを横目で見て、アスマは片眉を吊り上げる。

「いいね、そういう感情。あのひと、きっとそういうの大好きだからね」


あのひと、イルカ先生。

愛に飢えて、それを大人の仮面で隠して。
周りの子供を庇護することで、それを代償してはいるけど。

・・・ほら、ね。


カカシは、先刻からこちらに近づいて来ているイルカの気配を敏感に感じ取っていた。
カカシは、その気配を探り、に、と笑う。


・・・渡り廊下のイルカの気配が、そっと、自分のコートに顔を埋めて。


―――――オレが気付かないとでも思ってるのかね、イルカ先生は。


幼くして、両親を亡くした
愛に飢えた、カワイソウなひと。
けれど、その寂しさを全て笑い顔に変え、常に朗らかな、快活な態度を崩さない。
しかも、その手を他人にまで伸ばしてこようとする。
・・・火影の気に入りであるという話も聞く。



――――だってね、気になるじゃない。

その笑顔の下に、何が隠れてるか。


・・・それがもし、オレの持っているような狂気と同じだったら、なんて考えると、ゾクゾクする。


気になるんだよねぇ、あの笑顔。
初対面の時から、自分に向けて、全く屈託なく与えられてきた、あの笑顔。
・・・それを、自分だけのものにしたいと思った。
自分のものにして。自分で縛り付けて。

―――――そして、一気に突き落としたら。


あのひと、一体どんな顔するだろうね。





欲しい。



「知ってるでしょアスマ?」

カカシは口布に指を引っ掛け、少し摺り下げた。露になった形の良い薄唇が、にぃ、と歪められる。
酷薄な笑顔に、アスマの背を冷たいものが走った。

「・・・オレは、欲しいものは どんな手段を使っても手に入れる」

ほら、あの人は もう扉の前まで来てる。




扉が開かれるのと同時に、初めて気付いた様な素振りでいつも通り手を振ってやると、イルカは心底うんざりした、といった顔で形式どおりこちらに頭を下げてきた。
・・・その腕にかかっているのは、先日 オレが彼に掛けたコート。
そしてもう一方の手に握られた小振りな酒の瓶。
それを見て、オレは心の中で鼻を鳴らす。

――――なんてお人よしなんだろうね、アンタは。


アスマが胡散臭そうな目を向けてくるのを無視し、オレはその「お人よし」の手を握る。
真っ直ぐ目を覗き込んでやれば、面白いくらいに反応が返り。
酒を割ってしまうのも、また 一興。
目の端で割れた酒を確認し、算段どおりにイルカを誘えば、存外簡単に乗ってきた。

彼の態度には、いつも通りの拒絶ばかりではない、暖かなものが含まれる様になっていて。
――――オレは、それを感じて胸の内でほくそ笑んだ。


計算通り。

・・・ほら、もうすぐだ。












オレは、最も卑怯な方法を取る。
・・・愛情に飢えたこの男に、ぬくもりを。


――――そっとその背に、自分の着ていたコートを羽織らせる。

自分の体温が残ったままの、それを。
自分の腕の下で、イルカの身体が明らかに強ばったのが分かった。
そのまま、赤くなって小さく震え出す。
その身体を後ろから包み込んで、優しい言葉をかけてやる。
『ずっと、一緒にいますよ、』なんて
忍にとって、馬鹿みたいに薄っぺらい嘘を。



・・・なんだ、案外簡単だったね


自分の腕の中で、ほろほろと涙をこぼし始めたイルカを見て、そう思う。
胸に沸き起こったのは、押さえ様もない達成感。
イルカの頬を滑り落ちる、滑らかな水滴。
涙に濡れた漆黒の瞳は、驚くほど透明で―――――扇情的で。

・・・きれいなイルカ先生
ほら、・・・あなたはオレの手に、落ちてきた。

――――どう、してやろうか。どう壊してやろうか
愛して、愛して
そうしてオレ以外のことを考えられなくなるくらい、縛り付けて。
・・・それから、高みから突き落としてやろうか。



カカシは胸にイルカを抱きこみながら、にぃ、と笑いを漏らした。
どうしようもない興奮。

・・・だが、それと同時に沸き起こった感情。
―――――胸の奥の熾き火を煽るように、身体の内から湧き上がる、その 感情。
叩き割ってしまいたいと考えていた先刻の感情とは正反対の

―――――――それは、言うなれば、磨き上げ、大切に飾っておきたい、護りたい、といった思い。




(・・・なんなんだろうねぇ、この、感じは・・・)


視界の端を、白い雪が掠める。
イルカの体温がカカシにも伝わってきた。元々体温の低い身体が、徐々に温められてゆく。
カカシは、目の前でふわふわと揺れる イルカの結い髪に、そっと鼻先を埋めた。


胸に湧き上がった、その 感情。 



その感情につける名前を、カカシはまだ、知らない。






あなたを、「捕まえた」。

そう、これは


罠。

暖かな、罠。






捕まったのは、どちらだったのか。