アカデミーの大時計が、ごぉんごぉん、と二度 低い鐘の音を響かせた。
任務を依頼する者と任務完了の報告にくる者、両者でごった返すこの時間の受付所は、
まさに戦場といった言葉が相応しく。
ぼんやり並んでいるこちら側は良いが、たった数人でこの人数を処理せねばならない長机の向こう側は、恐らく息つく暇もない筈だ。
オレは、いつもながら思わず溜息の出そうな、その騒然とした光景をぼんやりと眺める。
報告書を弄びながら、任務報告に来た他の忍び達にのろのろと混じる。
・・・けれど 唯一晒した右目は、真っ直ぐ机の向こう、一点を凝視して。
そこから延びる、他よりも少し「長い」列に、迷う事無く歩を進める。
もちろん普段は絶対、そんな面倒なことはしないのだけれど。
「はい、結構ですよ。お疲れ様でした。」
目線の先から聞こえる、芯の通った 明るい声。
列になった人達の陰から時折垣間見える、忙しなく揺れる黒い尻尾。
人懐こい笑顔を絶やさず、てきぱきと着実に人を捌いてゆく。
しかも、一人一人に柔らかな労いの言葉をかけることを忘れずに。
『彼に笑ってもらえると、帰って来た、という気がする』と語った忍もいた。
彼に労わりの言葉をかけて貰いたいが為に、毎回彼のシフト時間に報告書を出しに来る者もいるという。
彼は、受付所の人気者だ。
現在の教え子たちの元教師、うみのイルカ先生。
ほっこりと暖かくなる温度を持った人だ、と、オレは覆面の下で思わず笑ってしまう。
・・・忍びらしくないねぇ、この人。
だからこそ、この人に報告書を見て貰いたくなるのかもしれない。
勿論、彼と言葉を交わすのが、わざわざ長い列に並ぶ一番の目的ではあるのだけれど。
オレはどうやら、教え子から毎日の様に聞かされる この忍びらしくない先生に、随分興味を抱いているようなのだ。
また一人、イルカ先生の温かな笑顔に見送られて、列から離れて行った。
列に並んでいるのは、後 ざっと十人ほどか。
――――そう、例えば
今のオレ達の距離をこのくらいとして。
オレは、彼との距離をどんどん詰めてゆく様を想像する。
今は只の、教え子を介して知り合った「顔見知り」。
けれど、たまに一緒に飲みに行くようになったりして、それがだんだん頻繁になって。
ちょっと深い相談事や、悩みなんかも 語ってくれるようになっちゃったり。
あの笑顔を、頻繁に向けてくれるようになって。
ふざけ合えるような仲になって。お互いの家に呼び合うことなんかもあるようになって。
気が付かないうちに、いつの間にか唇を重ねあって。
彼の硬い身体に手を這わせて、腕の中でなかせて・・・
あれ。
想像がセクシャルな部分にまで及んでいたことにオレは苦笑した。
男はあんまり得意じゃないんだけど。けれど、彼には何だかやたらと惹き付けられる部分が多い。
有体に言えば、「してみたい」のかも。
すぐ前に、イルカセンセイの結い髪が見えた。誰かの報告書に注がれる、漆黒の目。
こうして見ると意外に長さのある睫毛が、瞳に薄く影を落としている。こんな時でもきっちり結ばれたままの厚みある唇。
彼を象徴するかのような す、と伸ばされたきれいな首筋。
その首にすうっと指を這わせて。きれいに締まった彼の頤や瞳、唇なんかを辿って・・・
「あ、カカシ先生、お疲れ様でした」
にこり、と満面の笑みを向けられた。
ずっと下を向いていたせいか、彼の鼻を一文字に横切る傷がちょっと赤く染まってる。
「ど〜も」
イルカセンセの節の目立つ、けれども器用そうな手がオレの報告書に伸ばされる。
報告書の端から手を離さずに、オレは言う。
「ね、イルカ先生。この後、呑みに行きませんか?」
思惑通り、少しずつ彼との距離は縮まって
毎日出来るだけ話す機会を持つ様にしたり、酒に誘ってみたりした努力が功を奏したのか、
一月も経った頃には、オレとイルカセンセイは週に三度は共に夕食を共にするような仲にまでなった。
今では、酒を酌み交わしながら、彼の笑顔を独り占めすることだって出来る。
最初はオレが上忍ということで緊張していた彼も、オレの好意に気付いてくれたのか、最近では仕事の愚痴や相談事まで持ちかけてくれるのだ。
好奇心から始まった身勝手な片思いだったが、彼とこれだけ同じ時間を共有することによって、それは何やら確信めいた感情へと変化しつつあった。
後はもう一押し。目の前に引かれた細い一線をちょっと飛び越えるだけでいい。
そうすれば、彼に思う様触れることが出来る。
そんな不埒な想像を巡らせていた矢先。
たまたま呑みに入った店で強い酒にあたり、イルカセンセイが見事に酔い潰れてしまった。
初めて見る、無防備な彼の寝顔を、オレは食い入るように見詰める。
普段のきりりと強い印象が消え、あどけない子供の様な、本当に安心しきった横顔。
ちょっと意外なほどに長い睫毛が、赤味がかった店の電灯の下で 彼の良く焼けた頬に影を落とした。
本当は、勢いに任せて襲ってやろうと思ってたんだよね。
けど、出来なかった。
オレの心臓は大きくひとつ跳ねたきり、凪いだ海の様に静かになった。
熱く火照り暴れ出しそうだった体が、指先から鎮まりかえってゆくのが判る。
イルカセンセイの寝顔。オレはその光景に暫く動けなくなった。
――――隣で眠るイルカセンセイが、あまりに穏やかすぎて。
触れることも出来なかった。
それは、信じられないほどの暖かな光に満ちた光景で
オレの手では、冒してはならないものだったから。
それは、オレの手が触れてしまったら、すぐに壊れてしまいそうな危うさで。
彼の形をとってそこに存在していたのは、とうの昔にオレが無くした、人としての「ぬくもり」だった。
世界が違うのだ、と
強くそう思った。
その日から、イルカ先生を酒に誘うのをやめた。
毎日のように彼を訪ねることもしなくなった。
すれ違っても、目を合わせずに挨拶をするようにした。
そして、受付所で、彼の列に並ぶのをやめた。
彼との距離が、大きくなった。
オレと彼の間には、人が十人では足りないくらい、大きな隔たりができた。
イルカセンセイがオレのことを心配そうに見ているのは知っていた。
知ってる。彼は、自分が何かしただろうか、と 心配になっているのだ。
違うんだ、違うんです、と言いたい気持ちに鉤を掛けて胸の底へと沈める。
――――今ならまだ間に合う。
お互い、顔見知りの状態に戻れれば、それでいい。
アナタはオレが触れていいような人ではないんです。
オレが汚して良い様な人ではない。
存在する世界も、足を踏み入れようとする世界も。何もかも、オレとは違うんです。
アナタは今まで通り、陽の当たる場所で微笑み続け、オレはたまにアナタの笑顔を見られるだけで、満足すれば
それでいいんだ。
「あ、あの!カカシ先生!!」
意を決した顔で 頬に緊張を走らせながら、イルカ先生が任務帰りのオレを呼び止める。
オレはのろのろとした動作で振り向く。至極面倒臭そうに。
彼と顔を合わせたくなかった
イルカ先生が息を呑む。逡巡の後、つかえながら、漸く言葉を発する。
「今夜・・・その、お暇だったら、一緒に晩飯でも・・・」
「あ〜、スイマセン イルカ先生。・・・申し訳ないんですけど、もう」
やめにしましょ。そういうの。
鉄壁の笑顔で彼に微笑みかける。
目は、合わせない。
こういうとき、覆面に感謝する。きっとオレは今、巧く笑えてはいないだろうから。
口の端が僅かに引き攣れるのを感じる。
訳もなく、笑みを作った目が痛んだ。
喉の奥が、苦い・・・
彼が蒼白になるのが空気で判った。
身勝手な自分ごと覆面で隠し、「じゃ」と平静を装ってその場から姿を消す。
彼を、これ以上見ていられなかった。
辛くて、彼を諦めきれていない自分がいて。オレは、イルカ先生から逃げた。
逃げた筈だった。
「カカっ・・・カカシ先生!!!」
振り切った筈なのに。
アカデミーの門からまさに踏み出そうとした足を止め、顧みた先には
息を切らして立ち尽くす、イルカ先生が いた。
夕日に染まって暖かな色。黒い、一つ括りの髪が、彼が肩で息をする度ふわふわと揺れる。
涙を滲ませて 全力で追って来たらしい彼は、本当に暖かく、きれいで。
オレと彼の間には、丁度 混んでいる受付で彼を垣間見ていた時と同じ距離。
おそらく十人分程の間を置いて
陽だまりの人が、そこにいた。
「待ってください・・・!!俺、俺 あなたに何かしたでしょうか!?
折角親しくなれたのに、いきなりこんな・・・こんな終わり方では、納得がいきません!!」
彼が一歩近付く。咄嗟に、オレは後ずさった。これ以上、彼との距離を詰めるわけにはいかない。
イルカ先生が酷く傷ついた顔をした
「だめ。イルカセンセイ」
オレ、諦めきれなくなっちゃうから。
小さく漏らしたその言葉に、イルカ先生は泣きそうな顔を向けた。
「どういう・・・どういう、ことなんです!?
俺、おこがましいかもしれませんが、あなたが今更階級なんかで俺を差別して切り捨てたようには、
到底思えないんです!
立場の違いなんか気にもしないで、あなたは俺を一人の人として見てくれていた。
俺はそれが、本当に嬉しくて、 あなたのことを深く知って行く内に、どんどんあなたに惹かれて・・・っ」
は、と言葉を呑んだイルカセンセイの頬が、見る間に赤く染まった。
しかしすぐ腹を括ったのか唇をきゅっと噛み、吹っ切れたようにイルカセンセイは一気に言葉を紡いだ。
「俺は・・・っ、あなたに惹かれていました。人として、忍として。
今でもそうです。俺はあなたと離れたくない・・・!
独り善がりかもしれませんが、俺、あなたと友達になれたと思っていました。
そうですよね?確かに俺達は友達でしたよね?・・・それが・・・どうして・・・」
まるで、止められない流れのように彼の唇から零れる言葉を、オレは信じられない思いでぼんやりと聞いていた。
やばい、泣きそうだ。
夕日が目に染みて、痛い。
「・・・だめですよ、センセ・・・」
オレは、アナタの思っている様な人間じゃない。
「アナタとオレは、何もかもが違いすぎる・・・汚れたオレとは何もかも。世界が違うんです。
オレとアナタは、互いに相容れないものなんだ。」
ほら、オレとアナタの間には、
こんなにも、距離が。
夕日が沈む。
彼を照らす、夕日が闇に取って代わられようとしているのが哀しかった。
それ以上近付いたら、オレの手でアナタを染めてしまうことになる。
オレはそれが、怖い・・・
「それ以上近寄らないで、お願いだから。」
アナタはいつまでも、陽の当たる場所で微笑んでいるイルカ先生でいてください。
アナタは、そのまま、陽だまりの人でいてください・・・
「やめてください!!カカシさん!!!」
突然の強い語調に、思わず弾かれたように顔を上げる。
彼の、握り締めた拳が、ぎゅっと結ばれた唇が、小刻みに震えていた。
「・・・馬鹿にするな・・・!!!」
え、とオレは瞠目する。こんなに感情を垂れ流す彼を見るのは初めてのことで。
――――イルカ先生の目が、怒っていた。
「知ってますか、カカシさん。こんな距離、アカデミーでは2秒以内に走り抜けなきゃ、俺の試験は落第なんです!!」
「・・・は、ぁ・・・?」
「卒業生で、1秒。俺にとってはこんな距離、瞬く間だ!!
・・・俺達に、こんな距離なんか・・・!!」
姿が掻き消えたと思った次の瞬間、至近距離に現れたイルカ先生の漆黒の瞳が 間近でオレの顔を覗き込んでいた。
オレの胸倉を掴んで、絞り出すような声で、彼は叫んだ。
「こんな距離、なんだと言うんです・・・!!!」
真っ黒な目は、酷く濡れていた。
オレを真っ直ぐ見詰める黒い瞳の中に、燃える灯火が見える。
あぁ
「・・・ごめんなさい
イルカ先生・・・ ・・・ごめん・・・」
オレは子供みたいに小さく項垂れて、震えるイルカ先生の手にそっと手を重ねた。
彼の手は、とても温かかった。
あぁ、あぁ
馬鹿なオレ。
オレは侮っていた。この人を。
オレなんかが触れたくらいで、この人の暖かな灯が消せるものか。
イルカセンセイの漆黒の目に映っているオレの姿が、
先生と同じ様に夕日に温かく染まっていたのが、嬉しかった。
「俺を一人の人間として、あなたに関わらせてください・・・」
小さく紡がれたイルカ先生の言葉。
立場、階級、性別や生きる場所の違い
イルカ先生が一瞬で詰めてくれた、くだらない思い。
今オレ達の間には 人ひとり分の距離もない。
十ヤード離れたまま声をかけた
※1ヤード=0.9144メートル