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静かに音を立てながら、窓が凍っている。ちりちりと、透明なガラスを爪で掻くような密やかで、澄んだおとだ。 硬質な光を放っている小さな星を眺めていると、うすぼんやりとした雪が零れ落ちてきた。すぅ、と空気を切りさいて、雪のひとかけらが伸びあがる。玄関へとのびる広い石畳の半ばで、それはひとの形をとった。 「―――――遅いですね。今日は、帰らないのかと思いましたよ」 雨戸に頭を凭せかけながら、イルカが呟くと、うつくしい銀髪の男になった雪は、目尻にしわをよせて密やかに笑った。 「あんまりいい風情だったもんでね・・。もうちょっと見てたかったけど、あなたに風邪ひかせるわけにはいかないから」
ただいま、と 分厚い外套を脱ぎながら、かつて里の英雄とたたえられた男は、音もなく石畳を歩み来た。差し出されたカカシの外套をごく自然に受け取ると、イルカはその銀髪に乗った雪をそっと払う。 「湯を張っていたんですが、遅いので先に頂きましたよ。どうぞ体をあたためて。その間に膳をつくり直しますから」 たっぷり夜気を吸った背を中へといざなうと、すれ違いざまにそっと頬をすくわれ、口付けを仕掛けられる。夜風にかさついた唇からふくよかな舌がイルカの唇をすべり、ついばむように口の端をつついて、ふと離される。 「ありがと」 いい香りだね。鮮やかに微笑んだカカシは、幸せそうな流し目をイルカに残し、湯殿の方へと消えた。 僅かに触れられた頬から融けてしまうようだ。イルカは器用に自分の中の炎を目覚めさせる男の唇に、熱で潤んだ瞳を伏せた。唇の端が甘く痺れている。こんなに上手に口付けをする人間を、自分はほかに知らない。 長かった、と思う。その一方で、ほんの数月前に出会ったばかりであるようにも感じる。初めて顔を合わせたときから、お互い、何かしら特別な感覚はあったと思うのだが、それはもう遥か昔のことで。思い出そうとすればするほど、ぼんやりと甘やかな感情が胸の中をよぎるだけだ。 気がつけば、ずっと一緒にいることをゆるしてしまっていた。寂しい男。ばかな天才。かわいそうに思いながら幾度となく肌を重ね、夜を越え、何度怒鳴っても自分のもとに帰ってくるカカシを いつしか自分から手を伸ばして抱きしめられるようになり。 上忍が上忍として生きられる時間は短い。限界にまで高めた身体は、酷使し続けられる日々に少しずつひびわれてゆく。忍び里の頂点として、連日最も高等な任務を受け続けたカカシだが、ある日、とうとうその位置を退くときが来た。それと同時に、彼は戦忍としての生命を終えた。それはつらい綻びではなく、むしろ大輪の花がそっとほころびるような、かがやかしい綻びだった。 最後の長期任務を終えて里へ戻ってきたカカシに、イルカは初めて心から安堵した。「せっかくだから、何か我儘でも言ってみたらどうです。最後だからね、ちょっとの無理でも奮発してやりますよ」 そのころ、もうすでに二人の付き合いはかなり長かったのだが、イルカはものを形として残すのが嫌で なにひとつ贈りものらしいことをしたことがなかった。腰に手を当ててそう言い放った思い人に、カカシは目尻のしわを深くして、ほんとう、と目を細めた。 「なら、あなたの残りの時間を、全部オレに頂戴。」 イルカの手を掬いあげ、そろった爪先にそっと唇をあてたカカシは、両の目を見開いてまっすぐにイルカを見つめた。 「オレといっしょになって、イルカさん」
温かな家の中との境目で、凍った空気が雫になって滴っている。カカシが風呂から戻る前に、夜食の準備はできてしまった。 湯のかおりが濃くなった。意識の隅で思っているうちに、黒の着流しを肌に纏わせたカカシがあらわれる。裾からのぞく雪のように白い足首や、胸元と漆黒の浴衣との対比に、ひそかに目を眩ませたイルカは、彼の側によるとその襟元をしゅ、と正した。 「また襟がぬけてる・・何度言ったら、わかるんです」 湯上りの温みを伝える肌に指を滑らせ、腰の帯をすこし締めると、布地が心地よく体に沿う。ほぐれた気持ちが首尾よく正されてゆくさまに、カカシは微笑みながらイルカの髪を撫でた。 「・・あなたも、ホラはやく ちゃんと髪ふいて。冷えてきてしまってる」 させてね、と首にかけていた手ぬぐいを抜き、カカシはそれをイルカの黒髪に纏わせた。つややかな髪を乱さないように、そっと房に分けて水気を吸いとってゆく。そんな壊れ物を扱うように、気を使わなくてもいいのに。昔から変わらない柔らかなカカシの手付きに、イルカはひとつ息をつく。髪を一筋すくい取り、口付けながらカカシはそのなめらかな感触を唇で楽しんだ。 「・・・なんです」 子供のように髪を拭かれながら、顔をじっと見つめてくるカカシにイルカが問うと、銀の長い睫毛を揺らし、カカシが目元を緩ませる。 「いや、あなたの黒髪、年を経るごとにふかくなる・・・ふしぎだね」 きれい。唇を頬にすべらせ、少し冷えた顎先を啄ばむように舐めとる。イルカが言葉をつくるより先に、暖かな唇がそっと声を塞ぎ、湯で温度を増した吐息が舌の上へおくられた。背筋がふるえる。確かめるように、イルカの唇を吸い、そのぽたりとした肉を柔らかく食む。決して苦しい思いはさせず、息をつく余裕を与えながら。敏感な粘膜の、ごく表面だけを舐めあげられ、それだけで自分の頬が、唇が、また熱をもってしまうのをイルカは浅く息を吐きながら自覚した。僅かに開いたイルカの口を割り、ぬめらかな舌が縮こまっていた舌にそっと合わせられ、とろりと舐め上げられる。 浅い口付けの合間に、額を合わせながらカカシが顔を覗き込んでくる。強引ではないやり方で引き寄せられ、カカシの温かな身体に、湯の抜けた皮膚がびくり、とさざめくのがわかった。熱いカカシの体。ピークを過ぎ、角がとれた筋肉は、それでもまだ鞭のようにしなやかに彼の身体を彩っている。かたいその感触に、イルカは目を伏せた。前線を退いて、やせた自分の身体とは、大違いだ。 あなた、今日護衛任務だったでしょう。その日の夜、夕食に箸をのばしながら言ったイルカに、カカシは目を丸くしていた。通りで見かけましたよ。すぐわかった。あなた、変化下手になったんじゃないですか? イルカの言葉に、カカシは一拍おいた後、大笑いした。それはもう、長年一緒に過ごしたイルカも虚を突かれるほどの、胸のすくような大笑いだった。そしてイルカを抱きしめ、かなわないね、と、ひとこと甘く囁いたのだった。 かたい畝を形作る、完成された身体だ。思い出しながら、布地越しに伝わる、その鍛えられた腹の隆起をそっと指先で辿っていると、「・・誘ってるの?」と笑みを含んだカカシの声が降ってくる。イルカの鼻先を横切る傷に唇がおとされ、暖かく湿った指先がするりと浴衣の隙間から腰を撫でる。尖った腰骨を指の腹で潰すようにくすぐりながら、悪戯な手のひらは腹の上を這いまわる。 赤く熟れた唇で、イルカがこら、とその手首をつかんだ。 「――冷めますよ。お膳。せっかく用意したんだから、召し上がってください」 自分の声が、欲情で震えているのがわかった。よくもまぁ、こんなに浅ましい身体になってしまったものだと思う。出会ったころは必死に否定し、10年前は虚勢を張って彼を拒んでいた自分の身体は、今やこんなにも気持ちに正直だ。熱をもった目元を隠すように顔をそむけると、カカシがふ、と笑う気配がした。 「・・そうね。先にいただこうかな。このまま進めると、良すぎて途中で倒れるかもしれないし」 もう年だから、力つけなきゃね。赤く染まったイルカの首筋に口づけると、カカシは湯の香りを残して離れてゆく。 こんな余裕は、20代のころにはなかった。イルカは甘い疼きを残す唇のあとを押さえると、目を伏せる。お互いがほしくて、まるで殴り合うように抱きあっていた20年前。気持ちの別離におびえ、距離をおきながら、必死でお互いを繋ぎとめようと身体を重ねた10年前。薄っぺらいとさんざん自分が揶揄していたカカシの「あいしてる」という言葉は、歳月を経て 声に出さずとも心に沁み込むようになった。変わったな、と思う一方で、お互い静かに身体の奥の熾き火をあおられる、この感情はどうしようもなく変わらない。年々甘く、いやらしくなるカカシの抱き方に、いい年をしてほんとう、お互いどうしようもないな、とイルカは小さく笑った。 広い和室はカカシが望んでつくらせたもので、金茶の縁取りをされた美しい畳が、藺草の良い香りをただよわせている。今では身体が重いものを好まず、体にするりと馴染むものを欲しがるようになっているため、質の良い食べ物を中心にちいさく整えた膳は、暖かな出汁のけむりを立ち上らせていた。 静かにかかげた杯の冷酒が、空の腹をじんわりとあたためる。 ひとつひとつ、丁寧に箸を進めるカカシの所作を見て、イルカは茫洋と重ねられた年月を思う。ゆったり組まれた長い脚や、幅の広い肩。深みを見せるようになった整った顔の彫りに、うすく輝く雪色の瞳。頬の肉が、少し削げたかと思う。みつめていると、なぁに、と色素の薄い眼球が動き、顔にかかった銀髪が揺れた。かたちのよい唇が微笑む。目の皺が深くなる。どこをとってもうつくしい男だ。 小鉢の透明な蕪を、ちいさく箸で割いて口へと運ぶ。じゅうぶんに出汁を吸ったそれは、舌の上でやさしくほぐれ ほのかな甘みを喉に伝えた。そっと咀嚼し、食べ物が身体に馴染んでゆくさまをぼんやりと感じる。目の前でカカシが、また少し猪口に口をつける。彼に馴染んだ色違いの瞳が、澄んだ光を湛えてイルカをうつしていた。 「あなたは、ほんとうに長い間、一緒にいてくれたよね」 長い沈黙の後、冷酒を一息にあおったカカシが呟いた。部屋の中を照らす明かりが、つつましい光を畳に落としている。しんと静まり返った外からは、何の音も聞こえない。 「・・男のひとり寝は寂しいだろうとね。かわいそうにおもったんですよ」 ふ、と笑みを浮かべたイルカが答える。初めてであった頃に思いをはせていた自分の胸の内を読まれたのだろうかと、軽く唇を撫でた。 「それだけで?20年間も?」 「・・・情が、うつったんですよ」 「あなたいつも、そればっかり」 カカシはくつくつと喉を鳴らして笑う。白い喉に浮き出た無骨な骨が、はしゃぐように上下した。長い指ですこしずれた襟元を引き寄せ、はだけた自分の胸をすらりとなぞる。 「家族ごっこも、これだけ続けばもう、立派な家族だよね。情も積み重ねれば、愛情。・・ちがう?」 自信にあふれた笑みでこちらを覗き見てくるカカシに、イルカは絶句した。紙をくるように、ひそやかな音が耳たぶをかすめる。うすい雪が屋根にかさなってゆく音だ。 「・・ほんとに厭な男ですね、あなたは」 舌の上で転がしていた酒が、甘く喉を焼いた。ふかい芳香が身体の奥から立ち上る。滴るように熱をもった目を、イルカは畳に落とした。いま自分がどんな顔をしているか、知っている。きっともの欲しそうな顔をして、彼のことを見つめてしまうだろう。胸の熾き火が、肌をめぐって頬を熱くさせる。こんなすこしの酒で酔ってしまうなんて。情けない。 膳の向こうから、カカシがそっと腕を伸ばし、イルカの顎をとった。浅ましい自分の瞳を自覚しながら、イルカは潤んだ視界で目の前の男をとらえる。甘い指が肌を痺れさせながら、自分の輪郭を這いまわるのを掌で抱き込み、そのまま白い指先へ唇を落とした。湯のさめた彼の指先は、すこしかさつき、年を重ねた厚い爪が埋め込まれている。 ふと、梅の香を嗅いだ気がした。それは快くふくよかで、密やかだけれど胸の内を淡く染める香りだ。庭の梅のつぼみも、もう随分と膨らんでいた。きっと、いまにも綻びそうな彼らが見せる、気の早い幻影なんだろう。 東の空が、白んできている。また新しい朝が来るのだ。けれど、もう今の自分は、彼との別離に泣き叫ぶこともなければ、身を裂く思いで前線へと赴く彼を送り出すこともない。あとはもう、ふたりでゆっくりとした時間を重ねるだけだ。 今のこの手に似合う手袋を贈りたいと、イルカは思う。しっとりとやわらかに、肌に馴染むものがいい。革がいいだろうか。この愛おしい手に、暖かなぬくもりを与えてくれる手袋を。 「・・・愛してますよ」 イルカが呟くと、 「しってます」 ふふ、と梅の花のような色香を浮かべ、枯れない男は甘く笑うのだった。
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