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空気はあたたかくて、それはおそらく昼を過ぎて少しの時間で。蜂蜜色の太陽がとろけてアネモネの絨毯の上に落ちていた。
それでオレは、多分寂しかったんだと思う。
からだの下で、柔らかい花びらがそっと皮膚を押し返している。贅沢な寝床に横たわっているみたいだ。顔の横で揺れる、数えきれないほどの茜の花束。甘やかな日なたの匂い。
きみどりの茎を空に伸ばし、その上に咲いたぽってりとした花が、風にそよいでいる。
太陽に染まった花越しに見上げる青空は、ただひたすらに澄んでいた。ちぎれたような綿雲が、音をなくした速度でゆっくりと通り過ぎる。時折、羽音を立てて小さなみつばちが視界を横切っていく。
光に射抜かれて、目の前に薄く膜が張る。
静かだった。
幸福な沈黙。なのに、どうしようもなく寂しかった。
とがった自分の鼻の先に、腹に、のばした足に、うでに。あたたかい陽だまりが蕩けている。
ざわりと風がふいた。とうとう血の匂いを嗅ぎつけたのか、獣が草を踏みしめる音が、背中に小さく響く。
「―――死んだのか?」
不意に視界を覆った影が、小さく言葉を紡いだ。
みつばちの羽音を縫って近づいてきた鈍い足音は、人だったようだ。重くなった瞼を上げると、頭の上から自分と同じくらいの子供が覗きこんでいる。
何度かぼんやりとまばたきを繰り返し、オレはその顔を見上げた。体力は限りなく零に近く、もう、本能の警告を感じることもできない。無防備にぼやけた頭が、うまく働かず、声が掠れた。
「・・さぁ・・・わからない――――お前は?」
問いかけが終わらないうちに影が傾ぎ、傷だらけのその子供は、オレの傍らにどさりと崩れ落ちた。ひとつに結いあげた黒髪が、ぼさぼさになって、血にまみれた頬に張り付いている。
見たことあるな、こいつ。まとまらない思考の中、ようやくオレは記憶の中の顔の一つに、この子供がいることに思い至った。
オレと同じ、孤児だ。戦災孤児。
戦争が終わり、里も国も不安定な中、未だ戦の炎が吹き荒れる場所に向かわされたのは、俺たち親を失った忍びだった。途切れることなく舞い込んでくる、身の丈に余る任務の折、何度か瓦礫の中に佇むこいつを見たことがある。
先の戦で里が壊滅状態に追いやられた後、死を免れた人間たちは一斉に自分の家族の守りに入った。恐ろしい狐の化け物から命からがら逃げのびた者が、震える手で家族の再会を喜び合い、もう誰も手放すまい、と 家という殻に閉じこもったのは当然のこと。しかし、もともと戦へ兵を派遣して財政を潤わせていた里だ。戦う人手は減り、けれども一刻も早く国を立て直さねばならない木の葉にとって、最も使い勝手の良い駒は、戦乱で家族を失った孤児たち。それは、仕方のないことだった。
国は、どうしようもないほどに荒れていた。
だから、こうして子供がどこかで行きだおれてゆくのも、仕方のないことだった。
動かない首をめぐらせて、腹のすぐ横にうずくまった背中を見やる。焼けただれた肩が裂けて、血を吹いている。ぶるぶると震えているように見えたのは、忙しない息に肩が上下しているからだ。けれど、弱音を吐くかと思ったそれは、ふいに顔を上げてオレをにらんだ。
鼻の上を一文字にまたぐ傷が、らんらんと輝く黒い目の下でゆがんでいる。草の匂いがしたたるような、青くさい少年だった。彼は、荒い息の隙間でにやりと笑う。
「―――お れは、生きてるよ!」
腹をかばいながら、笑みの形にゆがんだ唇から、白い歯が見えた。肌が荒れ、唇がさんざんにひび割れて、血を滲ませているのが、何故だかやけに目につく。
「・・・そう、・・・。―――じゃ、オレも生きてるな」
ざんねん、とまた目を閉じると、目の裏に焼き付いた青空が、じんわり頭にしみた。
どこか遠くで、山鳥が鳴いている。何かを呼ぼうとしているような、高い空に響き渡るかぼそい声。それは人の感情に例えるなら、さみしい、とかそういった類のもではないかとぼんやり思う。
こそばゆい感覚にまた重い瞼を上げると、アネモネの向こう、腹の脇で黒髪が揺れていた。
「―――なにしてんの・・」
「・・だってお前、腹に穴 あいてる」
ぐらぐらと不安定な身体のまま、傷の少年はふらりと腕を上げ、応急処置の小袋から裂いた血止めの布を引き出し、オレの横腹に押しあてている。自分のは、数キロ先に放棄してきた。ということは、こいつのものなのか。視界を花で覆われ、オレからは何も見えないが、傷を触られても何も感じない所をみると、もうダメなのではないかと思う。
「―――お前ね・・自分に使いなよ。お前、思ってるよりもひどいよ?」
茫洋と言うと、ぐらつく身体を肘で支えながら、少年はくつくつと笑った。笑いながらせき込み、血を吐き、オレの腹を押さえながらまた、笑う。アネモネの茜色しか見えないが、何かおかしなことでも起こっているのか。何が楽しいんだか。考えていると意識にもやがかかり、ふうっと青空に吸い込まれそうになった。
気を失ってしばらくたった。気付くと、傍らの子供は動かなくなっていた。オレの首ももう動かなくなっていたが、かろうじて感じる腹の重みから、恐らく彼はまだそこにいるのだろうと思う。
「しんだか?」
絞った自分の声はひどく擦れていて、みつばちの羽音のようだった。
「―――いきてる」
おんなじようにボリュウムを絞ったラジオのような音が、腹の脇から聞こえた。
「・・・・そう」
ふたりとも、あと、どれくらい持つか。獣に食われるのが先か、この瞼が二度と開かなくなるのが先か。
あぁでも、何だって今日はこんなに風が気持ちいいんだ。
鼻先に落ちている太陽の影に目を細め、オレがまた瞼を閉じようとすると、ねぇ、と少年が呟いた。
「―――家を建てよう」
ちいさな蝶がひらりと目の前を行きすぎる。揺れるアネモネに絡むように舞うそれを目で追いながら、オレは は、と喉を鳴らす。ひび割れた小さな音は、ちゃんと疑問の形をとった。
「家。・・・俺たちの、家。青い 屋根の」
何を馬鹿な、と言わなかったのは、体力が底をついていたのと、そのことばが想像をこえて甘い響きを持っていたからだ。家。オレたちの。青い屋根の。
「・・・石でできてるんだ。家。大きな木が、そばに あるの」
「――――なんで、石」
疑問を唇に乗せると、また腹の横でくつくつと笑う気配がした。
「ばか、つよい家は 石ってきまってんだ、よ」
嵐が来ても吹き飛ばされないんだ。火にも焼かれない。ずっとのこる、つよい、家だ。
そんでさ、と弱く弾んだ声が、オレの穴のあいた腹を震わせる。
「ふかふかのふとんと、あったかいスープを用意しよう。」
「――――だれが つくるの、それ」
また問いかけると、だいじょうぶ、と腹の声が答える。
「俺、料理 とくい。ひとりで作ってたら、うまくなった」
透明な午後の光が、アネモネの絨毯の上に落ちている。甘くぬるんだ風が、燈色の花びらをつるつるとなでながら滑ってゆく。腹の上の子供は、少し笑ったようだ。にんにくをゆっくりいためて、バターといっしょに貝やらいかやら、火を通すんだ。えびもいいな。きんめが少し残っていたから、あれも入れよう。とうがらしをいれたら、たっぷりのスープに浸して、とろとろ、煮込むんだ―――やわらかく、みんながとけるまで。
「だから、俺が作るよ。つくって、お前が帰ってくるのを、まってる」
莫迦みたいな戯言だった。今までのオレなら、鼻を鳴らして踏みにじっていた類の、オレが最も嫌いな子供の世迷いごとだ。笑い飛ばそうとして、オレは失敗した。腹に、というか、もう体のどこにも、力が入らなくて、感覚もほとんど残っていなくて、そのくせ胸の内側だけはきしきしと痛んだ。
「ばかか」
ばかか、お前は。
力もないくせに。こうして、こんな野原で行き倒れようとしているくせに。
もうお前を待っている人なんか、どこにもいない。オレは、声の出ない喉から空気を絞り出しながら、眉を顰めた。こんな、なんにもない場所で何も為さずに死のうとしているくせに。それは、忍びにとって最も恥ずかしい逝き方だと常々オレは思っていた。任務も半ばに、力がすべての世界で、敗北して散ってゆく。そんな人生なんて許せないと、オレが最も憎んでいた在り方だ。だからオレは何があっても生に食らいつき、相手の喉笛食いちぎるまで、自分に誰もかなわなくなるまで、のぼりつめてやる、と。
―――けれど、あの恐ろしい満月の夜からこっち。あれほど欲しがっていた、上級任務が立て続けに降る中で、オレは自分の感情が実体をなくして散ってゆくのを感じていた。ひとつ、任務を重ねるたびに、およそその場には不似合いなガキたちとともに、勝てるはずもない戦の場に立つたびに、僅かに残った生への執着が綿毛のように霧散してゆく。
どぉん。大きな爆発がおさまるといつも、自分と同じ、使い捨ての子供が、周りでたくさん死んでいた。
もう、いいんじゃないか。褒めてくれる人も待っている人もいないなら、もうどこでのたれ死んだとしても、それはオレの勝手だから。この器をどう扱っても、誰もとがめる人なんていないから。
永遠のように感じられる夜を、たった一人でやり過ごすのは、無為な死を見た後は特にきつかった。大きな闇の化け物が世界を食らいつくし、その腹の底で自分はひとりになる。自分の存在なんか、夜の底でかき消されて無くなってしまう。父親と同じように何度もロープを首にあてがっては、寸での所で思いとどまる。そういうことをずっと繰り返していた。
「ばかか」
もう一度、オレはつぶやいた。力も金もないくせに。存在すらもないくせに。オレたちはただの孤児のくせに。そんなきらきらとした希望を口にするのは、あまりにも馬鹿らしくて辛い。
「・・でもね、いいだろ?」
そよ風に、アネモネが揺れていた。腹によりかかった黒髪の子供は、また少し笑う。
太陽が、耳の横で鳴っている。ちりちり、光のかけらが小さな音を立て、柔らかく花畑に積ってゆく。
「―――ふかふかの ふとん」
なにも言わないオレを尻目に、少年はぽつりぽつりと言葉を落とす。オレはといえば、ただ空を見ていた。緋色の絨毯の向こうに広がる、澄み切った空。ぼんやりしていると、どんどん空想の家は組みあがってゆく。
「―――いぬ」
少年が零した言葉に、オレはひとつ瞬く。犬、か。
「・・・あぁ、それはいいね―――それなら 賛成」
やっと口を開いたオレに、子供は嬉しそうに息を弾ませた。湿った咳。とたんに血のにおいが濃くなる。
「ねこ は?ねこはだめか・・?」
息を切らして、少年が笑んでいるのがわかった。僅かにオレの方へ身体を起こそうとして、失敗したのも。
「・・だって、犬と猫はけんかするだろう?お前、面倒みきれるの?」
僅かに逡巡したあと、馬鹿みたいに何気ない、平和な子供の会話を、オレは楽しむことにした。最期くらい、年相応のふりをしたっていいだろう。ん、とちいさい吐息がかえり、そうだよな、と殊勝な声がしおれてゆく。
「じゃあ な、花の庭――――ここの花 つんで 庭いっぱいに植えよう」
オレは溜息と一緒に目を閉じた。頬が自然に緩んでいた。
「・・手入れ、大変だぞ・・・ オレは 手伝わないよ」
へへ、と少年が鼻をすする。だいじょうぶ。
「野花、はきっと 強いよ。嵐に打たれてもしなないよ。きっと、きれいな家になる」
―――あぁ、それから。声が、何かを思い出したように一段高くなった。
もう話し続けられるような状態ではないくせに。その声が、甘い子供の声が思いのほか鼓膜に柔らかく オレは耳をそばだたせた。
「―――灯り。家の 前に・・・いつでもここがわかるように」
目の前に極彩色が散る。瞬くと、闇に慣れた眼に光が色を躍らせ、古い映画のフィルムみたいに派手な色が舞った。あかり。あかり。口の中で反芻して、自分が口にすることのそぐわなさに驚いた。あかり、なんて。
「・・・ばか、お前、そんなことしたら、敵に見つかるでしょ・・」
「いいんだ」
穏やかな声が、胸を突いた。
「いいんだ。だって、俺たちの家だから。俺たちがいつでも、帰ってこられる ように」
目の前には、白い家。
青い屋根の。石でできた。そばに大きな木が枝を広げて、アネモネの絨毯が玄関までずうっと、続いている。
家の中から、あたたかいスープの匂い。
そして、ちいさな、灯り。
「――――ばかか・・・」
相変わらず風は気持ちよくて、アネモネの甘い匂いがオレの髪を揺らしている。うん、と呟いて、少年は手を伸べた。正体をなくし、震える指が、渾身の力でのばされ、オレの頬をかぼそく掻く。
「―――だいじょうぶだよ。かなしいことなんて、なんにもない」
だから、泣かないで、と オレの頬に落ちた爪先が、何度もひきつりながら、不規則に皮膚の上をくすぐった。
「おれは、まっているよ」
喉が喘ぐように空気をはんで、唇の隙間から獣のような嗚咽が漏れた。優しい風に、オレの身体は散ってなくなりそうになる。感覚のなくなったからだで、それでもやはり胸だけはつきんと針を刺すように痛んだ。痛くて、痛くて、壊れてしまいそうだ。
ずっと寂しかった。オレだって欲しかったんだ。あかりのこぼれる温かな窓が。冷たい海の底みたいな部屋ではなくて、誰かが待ってくれている家が。いくつの寂しい夜を越えて、全部乗り越えたふりをして、それでもオレたちはやっぱり、ちっぽけな子供だった。
うん、とオレは答えた。声が震えて、燈色の風にとけた。少年の顔を見たいとオレは思う。もっとちゃんと、その目を見て、肩に触れて、この優しい少年を抱きしめてやりたかったと思う。オレがそうしてほしかったのと同じように。
涙で濁った視界の向こうに、青い屋根の家が見えた。指が僅かに震えたけれど、もう手を伸ばすことはできなかった。
だいじょうぶだよ、とまた少年が呟く。まってるから、だから
「―――雨になるまえに、かえってこい な?」
その後、野原でぼろ雑巾のようなオレたちが見つけられたのは、しかもそれが自国の忍びだったのは、ほんとうに奇跡だと思う。殆ど息の消えかけていたオレたちは、ぎりぎりの所で救命処置を受け、再び里の地を踏んだ。
それきり、オレたちは二度と会うことはなかった。
季節は巡り、木の葉の傷も少しずつ癒えはじめる。
また ど、とオレの身体が跳ねる。目の前を、暗い血しぶきが覆う。
痛みで頭が麻痺しかけ、オレは命を放棄しかけた。もう無駄だ。敵うわけが、ない。
その時男が空を見上げて舌打ちをし、言ったのだ。
「――――ま、雨が降る前に、終わらせるか」
頭の中に、風が吹いた。
それはアネモネ色の風。遠くに輝く、ちいさなあかり。
石でできた、つよい、つよい家。
男が振り返り、刀をふりかぶるのと、オレのクナイが男の喉に突き立つのと同時だった。
「へ・・・ ?」
首に空いた穴からまぬけな音を洩らし、ごぷりと体液が噴き出す。男が呆気にとられた隙に、身体を使って刃を引き抜き、そのまま体重をかけて心臓の上に倒れ込んだ。
オレに馬乗りにされ、数秒前と全く逆の体勢から男は茫然とオレの顔を眺めた。ひとこと なんで、と疑問が漏れる。
「――――ごめん、やっぱりオレ、帰らなきゃ」
オレの体を縛るトラップは強固だった。茨のように肉と骨に食い込んでいた。だから、咄嗟に捨てた片手と片足が、使い物にならなくなって身体の横でぶらぶら揺れている。
かえらなきゃ
オレは動かなくなった半身をずた袋のように引きずる。顔を上げると、木々の隙間からちいさなひかり。
胸の中に、青い屋根の家。アネモネの小道をたどって、スープのおいしそうなにおいが流れている。
そっと頬が緩んだ。
かえらなきゃ。かえろう、かえろう
オレたちの家に。
あいつもどこかで、おなじことを思っているだろうか。死んでいないか。ぼろぼろになって、それでも空を見上げているだろうか。家に帰りたいと、思っているだろうか。
そうだといいな、とオレは思う。
家に帰ろう。青い屋根の家。
大きな木のそば、名前も知らないあいつと犬が、オレに手を振っている。
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