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今日は、何もかもが神様を孕む日。
「静かですねぇ」
「・・ほんとに。さっきの騒がしさが 嘘みたいだ」
外は、雪。
ほとほとと 音もなく降り積もる真っ白な綿雪は、空を舞う祝福の鳥のよう。
夜の匂いの中、人肌でやわく温まった部屋で、カカシとイルカは冷たい窓にうしろ頭を押し当てる。直に腰を下ろした床が、自分の体温で息づくのを滑らせた指先で感じながら。
投げ出した足先に、転がったワインの瓶が当たって、がろん、と重たい音を立てる。
「・・・行っちゃったかなぁ」
「・・パレード?はは、そりゃもう行っちゃったでしょう。何時だと思ってます?もう11時回ってますよ」
広いカカシの部屋は、二人分の体温をもってしてもまだ少し冷える。笑うイルカの唇からふわり、と立ち上る 薄くけぶった息。二人、窓を背に座り込み、ぼんやりと窓越しの夜空を見上げる。
カカシの家から商店街を練り歩くイブの出し物が見られるらしい、と知ったのはつい2、3日前のことだ。
満面の笑みを浮かべ、通りを駆ける子供たち。鮮やかな夜空を見て、幸せそうに微笑む大人。
今日祝われているのは、実際は木の葉の神ではない。遠い海の向こうから渡って来たらしい、異国の髪と目を持つ聖人だ。
現にイルカも、祭り好きな人間の一人で。カカシの家から木の葉の通りが見渡せると知ったとき、「じゃあカカシさんの家で呑みましょうよ!」と目を輝かせて提案してきたのはこのイルカの方だ。
窓を彩る雪が目に入り、そのまま二人は異国の神に思いを馳せた。
しこたま買い込んだ酒やつまみをカカシの部屋の床に広げ、二人、窓に凭れて酒を酌み交わしあった。
窓の下から聞こえてくる、楽しそうな人々のざわめき。賑やかな音楽隊の歌声。
酒と会話に夢中になっているうちに、気が付けばおかしなくらい沢山の酒の瓶が空いていて、楽しみにしていた 出し物の目玉であるパレードはいつの間にか通り過ぎた後。それが何だか滑稽で、二人、額を寄せ合って笑う。
「・・・ね、どうするイルカセンセ?行っちゃいましたよパレード」
「ほんと、馬鹿みたいですね俺たち。何のために待ってたんだか・・」
酒の酔いに身を任せ、くすくすと細波のように身を震わせて笑っていると、すぅ、と目の前に闇が降りた。
イルカが動きを止め、カカシは笑みを収める。
す、とまた一つ部屋の闇が濃くなる。続いて、また、ひとつ。
窓の向こうで、電飾が1つずつ、蝋燭をそっと吹き消すように、消されていく。
大きな刷毛で、薄く薄く、闇を重ねられているように。次第に深くなってゆく部屋の闇に、いつしか二人は息を止めて見入っていた。
最後の光が消える。
―――夜が戻ってきた。
いつの間にか、あれほど騒がしかった外は凍ったような静寂に包まれている。薄青く光るのは、雪の光。
見上げると、空を覆い尽くすほどの雪が零れ落ちている。氷の冷たさを持つ大きな腕に包まれて、今 カカシの部屋は、世界からすっぱりと切り離されているようだった。
ふ、と胸に溜まった息を吐き、イルカは窓へと頭を押し付ける。突き放したような、肌の温もりとは相容れない凍った窓が、イルカの髪を濡らした。
「終わった・・・」
ぼんやりと、カカシが虚空に呟く。口から言葉が転がり出た途端に、部屋が温度を下げたような錯覚に カカシは身を震わせる。
「・・イルカセンセ・・・こっち、きて」
「え?」
「こっち。もっと寄って。寒い・・」
掌に乗った雪よりもっと儚い、消え入りそうなその声に、イルカは大人しく身を預けた。差し伸べられた腕の中に収まってしまえば、シャツ越しにじんわりと伝わる薄い体温。誘われるままアルコールで薄く色付く首筋に鼻を摺り寄せると、カカシがくぐもった笑い声を上げる。
「センセ、冷たい」
ふわりと漂う上気した肌の匂い。鼻先を埋めたカカシの襟元からは夜空のような匂いがする。ほんの少し酒精を纏わり付かせるそれは、里の普通の、平和な人間のものと変わらなくて。それにイルカは少し目を伏せ、安堵した。
そのままじゃれるように脚を絡め、冷え切った足の裏をカカシの脹脛に押し付ける。突然の攻撃に竦んだカカシが、ひゃ、と裏返った声を上げた。
「ちょっと、ほんとに冷たいですって!!もう〜!」
笑いを含んだ抗議の声に、抵抗がないのを見てとって、イルカもまた笑みを深くする。酒で火照っているとはいえ、剥き出しの手足の先は氷のようだ。調子に乗って更に凍った素手でカカシの身体を弄ると、流石のカカシも身を捩じらせた。
「も〜!悪戯っ子ですかアナタは」
「ふふ・・暖房、入れますか?」
「・・・、いいです。このままで。あったかいよ」
そのままイルカの手足を抱き込むように、毛布のように覆い被さると、すぐにイルカは大人しくなる。そんなイルカにカカシはそっと口付けを落とす。その黒髪に、ひいやりとした指先に、頬に、唇に。
柔らかな口付けを受けて、イルカは幸せな幼子のようにぼんやりと笑む。
床の上を滑ったイルカの足が、柔らかな紙の飾り紐を引っ掛けた。それに頭の隅で、あぁ、そういえばさっきクラッカーも使ったっけ。商店街の花火と一緒に打ち上げてみたりして。なんか馬鹿だなぁ俺たち、と少し笑う。
祭り気分に浮かされた頭は、いつもよりほんの少しネジが緩んでいる。
唇の端にも薄く笑みは乗ったのか、気付いたカカシも微笑みながら 少し身体を浮かせた。
「―――イルカセンセ、明日のご予定は?」
カカシの寒空色の瞳が、薄っすらと情欲に染まっている。
これは、いつもの合図。続く行為への同意を得る為の、暗黙の問いかけ。
イルカは解れてしまった髪紐の結び目に指を差し入れながら、見上げるカカシは本で見た異国の聖人に似ている、と呆けた頭で思う。
「俺は、いつも通り・・アカデミーの残りの仕事を片付けるくらいですけど。・・・けど、あんた」
突然、甘く熔けた身体に雪風が吹き込むように。
急速に戻ってきて頭を冷やした現実に、イルカは僅かに歯噛みした。
「・・あんた、明日っから任務でしょうが」
苦々しくカカシを見上げると、カカシは叱られた生徒のような顔をちら、と浮かべた。
「あ〜・・・やっぱ、知ってましたか。」
「そりゃそうですよ。仮にも受付ですからね。・・・・それで、いつまでなんです。あなた、正月は?」
「・・・えぇと。正月は、多分・・ちょっと。」
「・・そう、ですか・・・」
瞬間イルカの瞳を刷き、通り過ぎていった感傷に、カカシは怯え、言葉を探す。彼を胸に抱き締め、組み敷いて何も考えられなくして、そうして零れそうになる言葉を、今の彼を苛む感情を、全て奪ってしまうのは簡単だけれど。けれど、それで誤魔化される人ではないというのは、長い間連れ添ってよく知った事実で。
慌てて代わりになる言葉を探す。
「でも、簡単な任務ですから。すぐに帰ってきますから」
「――――嘘吐け」
ぴしゃり。
どうしようもない沈黙を背に、二人黙る。
「―――S」
小さく動いたイルカの唇に、カカシが僅かに瞳を持ち上げる。
「・・・じゃないですね。それより上?書類には記載さえありませんでしたよ。
・・あんたまた、そんな任務受けて・・」
「・・・ごめんなさい」
項垂れ、そっと伏せられる銀の睫毛。夜灯の僅かな光にほの白く浮かんだカカシの輪郭が淡雪のように揺らぎ、なにか言いたげに綻んだ唇が、躊躇うように閉じられる。
窓の凍ってゆく音が聞こえそうな、静寂の中、カカシは眉を下げて少し微笑んだ。
「・・でも、帰ってくるのは本当。絶対に、帰ってきますから」
「・・嘘つけ・・・」
絶対、なんて、そんなものはこの世にありえない、と強く閉じた瞼の下で思いながら、イルカはカカシの頭を掻き抱く。
「―――今俺たちを守ってくれてるのは、誰なんでしょうね」
気が付けば、ぽつりと言葉が落ちていた。
「木の葉の神様?それとも、今日生まれる異国の神様?」
「・・さぁ・・・ どう、でしょうね」
子供をあやす様に、ゆるゆると揺さぶられるカカシの腕に、イルカは強くしがみ付く。首筋に手を廻し、唇でその通った鼻筋を辿って、雪のように冷える頬に額を寄せて。それは、甘えるというよりは、もっと強く、強く。
「どっちでもいい。神様、この人を・・・」
俺たちを。
酔いに任せた振りをして、イルカはカカシに縋りつく。
言葉にならない思いは、祈りに似ていた。
そのとき、雪に混じって舞い落ちた言葉は、聖夜ゆえの気紛れか。
「――――逃げませんか」
その言葉は薄く冷えた部屋の中に、氷よりきっぱりと、真っ直ぐに突き刺さった。
カカシの、まどろむ様に下ろされていた瞼が ぎくりと強ばる。
次いで、徐々に意味を理解した瞳が大きく見開かれ、薄い唇が驚きの形で小さく疑問の音を洩らす。
呆気に取られてこちらを見詰めてくるカカシに、イルカは悠然と笑んだ。
「・・・ね、カカシさん。逃げませんか。どこまで行けるか、行ってみませんか。
―――大丈夫、ただのゲームですよ」
どこまで行けるか。誰にも見つからずに。
ね、と笑ったイルカの表情は、いつものイルカのもの。
それに思わず笑みを零してしまったカカシの言葉も、聖夜の為せる悪戯だったのだろうか。
「・・いいですね、それ」
カカシは悪戯そうに目を瞬かせ、差し出されたイルカの手を取った。
―――攫って逃げるのです この人を。
遠く遠く、誰にも見つからない所まで
“いいですか、大事なものを持って、誰にも見つからずに。
半刻後に、あの樅の木の下で“
外は、雪。
聖夜を舞う、祝福の鳥のような。
つい数時間前はお祭騒ぎだった商店街の広場には、誂えた様に誰もいない。
ついと見上げた大きな樅の木。雪をたっぷり纏ったそれは、手の届かない天へと 高く高く、伸びていた。その切っ先から引っ切り無しに零れ落ちてくる、大きな綿雪。
柔らかに落ちてくるそれを睫毛で、頬で受け、イルカは凍ったように静かな胸の内で自分たちの事を少し、考える。自分がここからいなくなったら。
提出の迫った書類のこと。
カカシの明日の任務のこと。
子供たちの授業のこと。
けれどそれらは、はっきりと不安の形を取る前に掻き消えてしまい、後にはただぼんやりとした さっきカカシの部屋で抱いた衝動が残るだけだった。
銀鼠の空気に、吐き出した息が凍る。息で瞬間曇った視界の向こうに、同じ髪の色をした男が見えた。
いつも通り、少しの猫背でゆっくりこちらへと歩んでくるカカシ。お互いの姿を視界に納め、カカシとイルカは思わず、笑った。
二人とも、何にも持っていなかった。
鎮まり返る広場に、零れ落ちる雪の音が響く。遠くでちらちらと揺れる、木の葉の里の温かな明かり。それをちらりと視界に納め、口布もつけていないカカシは ふ、と笑みを向けた。
「じゃ、行きましょうか」
す、と目の前に差し出された、白い掌。笑みを返すと何の躊躇いも無く、イルカはそれを取った。
二人には何も無かった。だからきっと、どこまでも行くことが出来る。
強い思いが、イルカの瞳をぬらした。
走るでも、急ぐでもなく。ただゆっくりと、二人、零れ落ちる雪の狭間を歩いて行く。
足音もお互いの息遣いも、凍った空に吸い込まれ、聞こえるのは耳を掠める雪の降る音ばかり。
カカシから差し出された掌は、しっかりと絡まったままだ。
繋がれた掌はお互いの温度に染まり、イルカは骨張ったカカシの指を感じながら、不思議と穏やかな気持ちで笑んだ。それに気付いたカカシが、頭を傾けて幸せそうに笑みを返す。
里から遠ざかる。一歩一歩。まるで何かが味方をしているかのように、誰にも会うことは無かった。木の葉の里を取り巻く広大な森は、沢山の雪と夜の空気を抱えて、ひっそりと口を開けている。
「誰にも会いませんでしたね、」と、悪戯そうにカカシが目で問い掛ける。
「そうですね」とイルカも目で笑う。
「神様が、味方をしてくれてるのかな」と、ぽつりとカカシが呟いた。
―――あぁ、それが本当なら、何を躊躇うことがあるだろう。イルカは強い視線をカカシに投げ、ぐい、とその手を牽いた。
引っ切り無しに零れる雪が、二人の足跡を、残り香を 覆い隠していた。まるで、本当に何かが自分たちに組してくれているかのように。
悲しいくらいに、自分たちは今、自由だった。こんなにも簡単に、里の外へと足を踏み入れてしまって。まるで、束縛するものなど何も無いかのような錯覚。その思いに胸を詰まらせ、束の間の自由にイルカは縋った。
「大丈夫。ただのゲームですよ」
不意に胸を襲った感情の波にイルカは顔を歪ませながら、カカシの手を強く牽く。更に遠く。森の中へとカカシを誘った。
森の中には静寂が満ちていた。昼間なら煩いほどに周りを取り囲む緑の気配もすっかり凍りつき、そこはただ、延々と広がる、暗い樹の骨組みの洞窟だった。
里にいるときから、抱き続け、けれども必死で考えまいとしてきた願いは、静かに凍る この閉ざされた空間の中で やわやわと輪郭を露わにする。凍り付いてぼやけた思考の中で、その幸せな夢にイルカは溜息を零した。
隣を歩くカカシは、物思いに耽るかのように少し伏せた目で 真っ直ぐ前方を射抜いている。イルカの手を取るカカシの手には、力が籠っていた。さく、さく、と。確固とした足取りで、足元を埋める雪の中を突き進む。
言葉は無かった。目的地も見出せないまま、ただ二人、消し炭色にけぶる視界の中を、真っ直ぐに歩いた。
道は永遠に目の前に続いているように思えた。自分たちの意思のある限り、何処までも、遠くととおく。
けれど、本当はそうではない事を、二人共知っていた。
真っ直ぐに歩く木の葉の森の中。その先には、大きな大きな、湖があった。見渡す限りにぽっかりと広がる、海のようなそれは、木の葉の領土と隣国の境界をくっきり線引くものだ。
つまり、道はそこで、終わっているのだった。
イルカも知っていた。「行ける所まで」と言いながら、そこより先には進むことができないことなど、十分に承知していた。自分たちの道など、とっくに閉ざされていることも。
けれど、それが叶わない願いであると、知っていた。
自分達は、生まれてから死ぬまで木の葉の忍びであったから。
叶わないと知っていたから、夢を見ることが出来た。束の間の時間 彼と一緒に果てしない夢を見たかった。
・・・けれど、それももう、終わる。
イルカの指が震えた。終末を自覚した指に力が篭って、カカシの手甲に小さな襞を作った。このまま歩みを止めてしまいたい葛藤が、足を縺れさせる。
大きな木々の重なる、回廊を抜ける。
ざぁ、と雪風が鳴いた。とおく湖を渡ってきた、肌を刺す凍った風を真っ向から受け、二人は目を細める。
瞼を打つ雪粒が視界を一面に覆い隠し、次の瞬間、強い風が全ての雪をかなたへと奪い去る。途端に目の前が開け、視界一面ぽっかりと広がる鈍色の湖があらわになった。
え・・
夜の空と境界がまるで曖昧なほど、地平線まで続く湖。それを目の当たりにし、イルカは目を瞬かせた。
呆けたように瞬きを繰り返す。何度も、なんども。
自然に止まっていた足が、無意識に動き出す。さくさくと軽い音を立てて雪に沈み込む足は、湖の縁に来て、止まった。
―――ま さか・・・
爪先から湖に転がり落ちる氷の塊が、硬質な音を立てる。
湖は、凍っていた。
目の前一面に広がる大きな障壁は、見渡す限りの鏡のようにつるりとその表面を光らせ、しずかに輝いていた。
しんと静まり返った湖面に、降り積もる雪がかすかな音を立てている。
道ができていた。
道は、そこから更に先へと延びていた。
心臓が跳ねた。
は・・、とイルカの吐き出す息が細く震える。目の前には、一面に広がる真っ直ぐな道。
いける、この先へ。
行けてしまう
イルカはうろたえた。予想すらしていなかった出来事に、様々な感情が溢れそうになったが、圧倒的な大きさの氷を前に それらはしずかに凍っていった。
大きく跳ねた心臓は、指先に伝わったのだろう。カカシが イルカの手を包むてのひらに少し力を込める。
ゆるりと込められた力が、次第に強くなる。強く、強く。カカシの体温が、イルカを現実に引き戻した。圧迫してくる彼の指の下で、イルカは自分の鼓動を自覚する。
あ、と思う間もなかった。引かれた手に導かれ、自然と足が前に出る。足の裏が、硬質な道に触れる。
音もなく自分の体重を支えた氷は、軋みすらしなかった。
足元の深いところで、水草が動きを止めているのが見える。
・・・なんて 厚い
イルカは呆けたような頭でそれを認め、ゆっくり瞬いた。睫毛の上を、雪がすべる。まるで鏡の上にいるように、男2人の体重を受け止めても、湖はじっと沈黙したままだった。
カカシが歩き出す。強くイルカの手を引いて。促されて、イルカもそれに従った。
足音さえも、分厚い氷に吸い込まれるのだろうか。氷を踏みしめて歩いているはずなのに、何の音も響かない。
しずかだった。
夜の闇が、音もなく歩く二人を、そっと包み込んでいた。
ふと見上げた空は満天の星を抱いて、深く凍り付いている。どの星も、瞬きすら忘れてしまったようだ。空に沈んだ数々の伝承を、思い出すともなく意識の端に上らせながら、イルカは星座を辿った。
美しい英雄の姿、おおきな山犬、仲の良い 双子の兄弟・・。
星が落ちてきたのかと思ったら、また雪がふりはじめていた。
空へのぼった星座の殆どは、何かに追われて空へ逃げたのだときく。無数の星を記憶を頼りにつなぎ合わせ、イルカはどろりと澱む思考の中で思った。
引かれる右手が、彼の薄い体温を伝えてくる。
「カカシさん」
小さく呼びかけたつもりだったが、声は凍って出なかった。
兄弟、か。そういえば、ずっと俺にはいなかった。両親を亡くしてからは、ずっと一人だった。
いつでも俺のことを認めてほしくて。いたずらばっかりしては怒られたな。
様々な姿を見せる、天空の星に木の葉の人間を重ね合わせて、ぼんやりとイルカは考える。
叱ってくれたのは火影様。両親を失い、自棄になっていた俺の頬を張ってくれた初めてのひとだった。戦後でまだ木の葉が不安定な中、周りの大人たちも、自分を見捨てなかった。
自分は、周りの人間に生かされた。気づいたとたん、心がほどけるようだった。優しくするだけではないやさしさがあるということに、初めて気づいた。初めて、ひとのために何かをしたいと思った。
人間が好きだった。アカデミーの教師になった。預かる命の重さに、足が震えた。ちっぽけな自分を心から慕ってくれる子供たちに、報いたい、とそう思っていた。いつか自分を助けてくれた人たちに。今、自分を自分にしてくれている人たちに。報いたいと。
カカシさんと出会った。彼の孤高と、それを包み込んで余りある優しさにひかれた。突き放すようでいて、子供の頭にそっと触れる、長い指の優しさが好きだった。心で人間に向き合おうとする、彼の高潔なところが好きだった。
逃げずに、真っ直ぐ進んでいく。そういう彼が、好きだった。
性別なんか飛び越えて、空気のように寄り添った。呼吸するように自然に惹かれあい、季節がめぐるように自然に繋がりあった。そしてまた、呼吸するように一緒に死んでいきたいと思っていた。
彼を大事に思うほど、彼を任務から遠ざけたくなった。それは同時に、里への裏切りを意味する。彼を愛し、里も愛し、がんじがらめになった糸から俺は逃げられなかった。
―――逃げる
逃げるのか?
ぜんぶすてて?
びょお、と 湖面を渡る風に耳をさらわれ、イルカははっとする。凍った瞼をむりやりに瞬かせ、あたりを見渡した。
どこだ、ここは
半歩前では、変わらずカカシの銀髪がゆれている。身を切るような凍った風が、足元の氷が、少しずつ身体から熱を奪っているのを感じた。意識したとたん、足が震えだす。もうどれくらい歩いていたのだろう。ぼんやりしていた頭の中に、急激に冴えた雪風が吹き込む。
何時の間に。
一体どこまで来たんだ、俺たちは。
氷に掴まれ、足の感覚がなくなっていた。それなのに、引かれる手にあわせて足は進んで行く。
「カカシさん」
喉が凍り、声は届かない。睫毛の雪を瞬きでふるい落とし、イルカは声を張り上げた。
「カカシさん・・!」
うすい、掠れた声は湖面を渡る風にさらわれる。耳がちぎれるほどの凍った風だった。イルカは辺りを見回した。一面真っ暗な深い闇。足元の氷だけが、薄灰色に光っている。
不意に鼓動が早くなった。訳のわからない焦りに息を詰まらせながら、イルカはカカシの手を引き返した。
「・・カカシさん・・!!」
渾身の思いで搾り出した声は、凍った喉にも雪風にも打ち勝った。ようやく形を取った、その弱弱しい声に、しかしカカシの足は止まることがなかった。自分の足も、まるで機械のように動くことをやめない。凍って感覚のない分、それは恐ろしかった。
だめだ 歩いちゃ
これ以上行ってはダメだ
上がる息の合間に、声にならない叫びが漏れた。
だってきっと 一生歩き続けたとしても、俺たちは空には上れない。幸せな結末なんて、ありえない。
混乱と焦りで、イルカの瞳から涙が溢れた。
だって 行ったら
もう戻れなくなってしまう――――
「俺 行けない・・・!カカシさん・・・!!」
イルカは泣き崩れて、カカシの手にすがりついた。自分が何よりも最低なことをしていると自覚しながら。
「行けない・・・・!!」
彼を連れ出して、二人きりで幸せになりたかった。彼を幸せにしたかった。里を出るとき、その思いはまぎれもなく本物だった。彼を攫ってどこまでも行けるなら、何もかも投げ出して惜しくないと思っていた。
だが、どうだ。
こんなところまで来てようやく、自分の浅はかさに気づいた。
何一つ捨てられない自分。
イルカは叫んだ。叫び散らした。
彼を自分のエゴで連れ出し、期待させて、それでもなお 土壇場で何もかもを捨てきれない 自分の弱さが。
それよりも何よりも、本気にさせたカカシの心を弄んでおいて、こんな水際で突き放してしまう、自分の馬鹿さ加減に。
「俺、最低だ・・・!俺、おれ は・・・!」
あなたを幸せにするために、全て差し出そうと本気で思っていたのに。
雪に塗れて、カカシにすがってイルカは泣いた。掠れた叫びが吹雪に混じり、空へと吸い込まれていく。許して、なんて言えるわけがなかった。自分の全てを差し出すつもりだったのに。こんな裏切りを。彼を傷つけて。
今地上で一番罪深いのは自分だと、地面に崩れ落ちながらイルカは嘆いた。
ならばもういっそ、俺を罰してくれないか。あなたの手で。杭を打ち込まれても一生裏切り者と蔑まれても、俺はそれを受け止めるから。
カカシの足は止まっていた。何時からだろう、吹雪の中じっと立ち尽くしていた背は、イルカに片手を預けたまま、どこか遠くを見つめていた。縋られた手のひらを通して、その吐き出される言葉を吸い込んでいた。
ゆっくり瞬いた色違いの瞳が、こちらを振り返る。雪風の合間、カカシはしずかにイルカの脇にかがみ込む。
「だいじょうぶ、イルカせんせ」
震えてうずくまるその背を、あやすようにそっと撫でる。
「ただの、ゲームでしょ?」
どうしちゃったの、と苦笑しながらかけられるカカシの声に、イルカはそれでも顔すら上げることができなかった。嗚咽で息が詰まって、あえぐイルカの喉に雪が舞い込む。
ふいに、背中の方角から、やわらかな光が雪空に広がった。ぱん、と凍った星空を溶かすように放たれた人工的な照明弾は、溢れんばかりの綿雪に撹乱され、優しくほどけるように夜空に滲む。
「―――あぁ、ほら、里の方が騒がしくなってきた」
はるか遠く湖の向こう、里の方角から、いっそ仰々しいほどの追っ手が迫るかすかな気配に、カカシは困ったような顔で笑った。
ばれちゃった
どうやって言い訳しようね、とカカシが笑う。
「・・帰りましょ?イルカ先生」
そっと肩に廻された手は暖かい。
絶望に目の前が真っ白になり、イルカは唇を戦慄かせ、頬を噛んだ。自分の罪深さに打ち震え、獣のように叫びながら凍てついた道の上に爪を立てる。
もう、とカカシのてのひらが、顔を上げないイルカの背をゆする。誤解しないでください、と。あまく、何度も何度も。
謝らないでください、せんせ
あやまらないで。
「・・オレはねぇ、とっくに幸せでしたよ。」
聞き分けのない子供をなだめるように、頑ななイルカの背を抱きしめ、耳元にそっと囁きかける。
アナタがオレに出会ってくれたときからずっとね。
髪に、凍てついた頬に口付けながら、カカシがイルカを引き寄せる。すきです。幸せですよ、イルカ先生。
「かえりましょ」
聖夜の魔法がとけた地平線から、幾人もの忍びが駆けてくる。
照明弾に浮かび上がった二人の姿は星になりきれなかったちっぽけな人間で。
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