青い空気が、部屋の中を満たしている。
夜明けまでは まだ遠い。

イルカは寝台の上に半身を起こし、一つ布団で眠る銀髪の男を見つめる。



充分に睡眠をとるという行為に慣れていなかった頃 男は、夜に何度も目を覚ました。

息をするようにごく自然に、何の前触れもなく男は夜中に目覚めた。目を開けた男は既に体中全てが覚醒しており、たとえその場に幾千のクナイの雨が降ろうとも、瞬時に全てを避けて 尚且つ敵の懐に小太刀を捩じ込めるような、そんな張り詰めた恐ろしさを漂わせていた。



彼を目覚めさせるものに悪い夢が混じり始めたのは、付き合い始めてしばらく経ってからのことだ。

男は時折苦しげに呻き、自らの胸に爪を立て、酷く汗をかいて 飛び起きるようになった。荒い息とともに空中を彷徨わせていた瞳がイルカを認めたとたん、男はめぐらせていた殺気をほどき、泣きそうな顔でイルカの名を呼んだ。そんな時男はいつも、イルカの腰を砕けるかと思うほど、強く強く抱きしめた。



そして、今。男はまるで幼子のように、イルカの傍らでよく眠る。

肺の底から吐き出される長い呼気が、男の眠りの深さを物語っていた。
今まではイルカの体の一部に触れていなければいやだ、眠れないと子供のように駄々をこねていた男の手は、きちんと彼の腹のあたりで組まれ、美しい顔で眠る男はまるで欠落なく完成された 大人の男のようだった。
何年も前から、ずっとそんな佇まいであったような、そんな安定した安心感をイルカに与えた。




窓の外で、夜の葉桜が風に揺れている。腕をかざせば、薄い寝巻きの袖を巻き上げ、さぞ心地よく肌をくすぐるだろう。隣の男のたっぷりした銀髪も、初夏の風を喜ぶに違いない。


窓を開けようか逡巡するイルカの脇で、眠りの中、男は甘くイルカの名を口にする。男の髪をそっと撫で、イルカは彼の寝顔に見入る。




男は眠ることを覚えた。疑いなくその身を預けることを覚えた。信頼することを覚えた。そして、自分の命へ執着し始めた。
イルカのために、里のために。
そして、男自身のために。

男は強くなった。元々才能を持つものが自身の命に価値を見出したとき、そこには無限の力が生まれる。


―――強くなった。


イルカは思う。今の男からは、不安定な陰りが全く感じられない。まるで大きな船に寄り添っているようだと。


強くなった、カカシさんは。


そして思う。
恐らく自分は、近いうちに死ぬ。

 


今までは、男の不在に怯え、彼の死に怯えるのは自分の方だった。死に近い、難度の高い仕事をたびたび請け負わざるを得ない彼に、その背に纏いつく死の影に、彼を見送りながら胸を震わせるのは自分の方だったのに。

安定した彼の笑顔を見るようになり、どんなときも彼は絶対に帰ってくると確信できるようになってから。自分の乗っている船は、確実に脆くなり始めた。

彼を手に入れて、ここで死ぬわけにいかないと思うようになって。

心に生まれた思いは彼と何ら変わらない。
けれど、自分はただの中忍だ。

命に執着する「持たざるもの」は弱くなる。
術をかける出足が遅れる。向けられる刃にひるむ。「このまま攻撃を受けて、腕が飛んだら」「足が動かなくなったら」「目が潰れたら」「声を失ったら」頭を駆け巡る無限の「たられば」が、身体を動かなくさせてしまう。


彼と自分のことは、恐らくそう遠くなく、周囲に感づかれるだろう。この国にも、外の国にも。
他国のビンゴブックにも載っている彼を潰すため、外堀から埋めていくのは定石だ。


―――恐らく自分は 彼より先に死ぬだろう。


「ごめん、カカシさん」

男の眠りを妨げないように唇に言葉をのせ、そのまま柔らかな銀髪に口付けを落とす。洗い髪のうすい花の香りが そっと唇に触れた。

胸にこみ上げる不安を拭えず、彼の姿を少しでも目に焼き付けたくて。

イルカの眠る時間は次第に短くなった。今までは周りが呆れるほどに、どんな状況でも頓着せず寝入ることができたのに。

自分の不在を思い描くだけで、彼がどれだけ思い悩むか想像するだけで 悪夢がイルカを追い立て、その度引きつった叫びを上げて目を覚ますようになった。飛び起きる夜の寝台はいつもしんと静まり、汗で冷えた自分の指先が震えていた。



横で男が寝ている。穏やかに、まるで何の心配事もないような顔をして。


彼の柔らかな寝息が、イルカの強張りをほどく。静まり返った部屋に広がる、彼の肌の匂い。細い息。

夜明けを前にした空気は澄んでいて、彼を見つめたまま自分の聴覚が無限に広がっていくのを感じた。
窓の外で風に揺れる葉桜。身じろぎする野良犬の毛並み。遠くでくしゃみをする、見知らぬ子供。薄藍を刷く空のかなたにまで広がった耳は、最後は自分と男の鼓動へと落ち着いた。


と、と、と と規則正しく刻まれる心臓の音。リズムの違う二つに、じっと研ぎ澄ました感覚の中で聞き入る。

 

男の寝顔を見て次第にイルカは思うようになる。どうぞこの、彼の心の凪が、何時までも続きますように。


いとしさを込めて、イルカは眠る彼に口付けを落とす。

きっと自分がいなくなって、強く心乱れるだろう未来の彼に向けて。
夜を一人で越えられない彼が、安らかに眠れますように。悪夢に苛まれませんように。どうぞ悲しみの海におぼれて、また自分を捨てることのないように。

「ごめん、カカシさん・・」


自分がいなくなった後の彼のために、何万回もの口付けを 今。

 




いつしか、イルカの夜の目覚めは、静かなものになった。まるで呼吸するように、そっと瞼を開け、夜の虚空に瞳を凝らす。

僅かに身じろぎ、半身を持ち上げて男の寝顔に見入る。

そうしてまた、何万回目かの口付けを、イルカは眠るカカシに贈る。

 

今日も、空が僅かに白み始めていた。

 







AM4:50