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だって、オレなんて、ほとんど死んでるも同然だから。 毎日を“いきる”っていうのが 何とも良くわからないんだけれども。 ただひとつ判るのは、彼がとんでもなく「よくない」類の人間だ、と言うことだ。 はたけカカシは、人のごった返す真昼の受付所で、虚空に向かって鼻をひくつかせる。 その中――乱立した木立の様な人の並びから、ひとつ、鼻に引っ掛かる匂いを見つけ出す。 その方向、1点を見据え、カカシはまっすぐ脚を進めた。 見た目からして周りから一線を引くものがあるだとか、悪い噂が後を絶たないだとか。 ―――けれど。 「・・・全く、似合わないねぇ・・」 カカシは、鼻を鳴らしてひとりごちる。 見遣る先には、屈託のない、明るい笑顔を振りまく黒髪の男。 掌に乗せた、申し訳程度の報告書を弄びながら、カカシは受付所の中忍―――うみのイルカを睨んだ。 彼は微笑を浮かべ 次から次へ差し出される書類を処理していく。任務受付を兼ねる大広間は、午後の日差しで馬鹿みたいに明るい。 この場所で、彼は完全に 快活なアカデミー講師の「イルカ先生」だった。 けれど。 (知ってるよ、オレは) カカシは忌々しげに顔を歪める。 こんな大きな窓から差し込む陽光にも、全く怯んだ様子を見せないが。 (ほんとはこんなあかるい場所、似合わないくせに) ゆっくりと進めていた脚が、机の前にたどり着く。 イルカのうなじに、光の粒が乗っているのを見ながら、カカシは無造作に報告書を差し出した。 瞬間、カカシを認めた彼の視線に深淵が過ぎる。奥が何も見えないような、真っ暗な海。だがそれを、瞬き一つで見間違いだったのかと思うほど鮮やかに掻き消し、 「お疲れ様でした」 と イルカは満面の笑みをカカシに寄越した。それを見てカカシは、密かに眉をはね上げる。 (・・ねぇ、そうでしょ?『イルカ先生』)
それは、頭で理解できる理屈ではない。ただ、直感だ。 明るく、模範的なアカデミー教師の中忍。生徒想いで情に脆く、直情型でおっちょこちょい。仲間からの信頼も篤いと聞く。 ・・健全すぎる。 その、完璧すぎる健全さが、かえって危険だと本能が告げていた。 “少し間が抜けている“彼は、ほとんど内勤が主であるため、たまの任務に出れば、必ずどこか掠り傷を作って帰ってくる。
だが、彼の言うそんな「任務」が存在しないことを、カカシは知っていた。
研ぎ澄まされた忍びの耳には、些細な不協和音ほど よく引っかかるのだ。 イルカが受け取った報告書を一瞥する。 「――いいですよ。夜半で宜しければ。」 報告書の中に忍ばせた 不穏な暗号文に顔色一つ変えずそう答えると、イルカはまた笑顔をよこす。完璧な笑顔だった。だが、ほんの少し、唇の端に、妖艶な色を滲ませて。 それを認め、またカカシは覆面の下で 皮肉に顔をしかめる。 ほら、似合わない。 昼間のアナタは、完璧に健全すぎて、可笑しくなるよ。 そう、オレの感情なんて、ほとんど死んでるも同然だから。 自分の死んだ感情を少しでも動かすことができるものを 目が鼻が耳が、五感が「離さない」のだ。 自分の感情を少しでも動かせるもの。 カカシは思う。それは、 ――――危険なもの、だろう? だからこそ、彼からは目が離せなくなる。 危険であればあるほど、興味がわく。そこに何があるのか、近付きたくなるのはこの凍りついた感情を、少しでも動かしてくれるものに縋りたいからなのだろうか。 カカシはまた、何かしら不穏な空気が背をざわめかせるのを感じる。 イルカは『夜半なら』と言った。ということは、それまでは用事があると言うことだ。 (どこで何をしているんだか・・ねぇ) イルカの恐ろしいところは、素性が全くわからないところだ。普通、周りを取り巻く人間関係というのは、隠していても何かしら滲み出してしまうもの。 特に、忍びにとっては、ある意味それを洗い出すのが仕事。一国の諜報活動だってこなしたことがあるカカシだ。一旦真剣に情報を集めようと思えば、要らない所が付いて来すぎて困るくらいに その人物に関する事柄というのはつぶさに知ることができた。 ――――はずだった。 最初はお遊びのつもりで。だが途中からは 思いも寄らなかった強敵に躍起になって、本気で彼の周りを調べ上げた。だが。 わからなかったのだ。 なにひとつ。 初めて「ぞっと」した。 うっかりすると、これは自分の裁量を遥かに超えた爆弾かもしれない。 意識した途端、凍った心が、すこし躍るのを感じた。 「お待たせ致しました」 既に深夜をまわり、大分過ぎた頃。いつものように静かにカカシの家の扉が叩かれる。 外に立つのは、月に照らされ、顔色を闇に溶かした受付所の中忍。瞳が、仄暗い空の光を受けて沼のようにどろりと光っている。 「・・遅かったね。どこで何してきたのかなぁ?イルカ先生」 問い掛けに、薄い笑みで答えたイルカは、勝手知ったるとばかりにそっとカカシの脇の扉を押し開け、自分のものではない玄関へと足を踏み入れた。 「アンタさぁ、何でアカデミーの先生とかやってんの」 あんな、明るい場所で受付やったり、子供たちを教えたりなんかしちゃって。 もっと他の仕事の方が似合うんじゃないの。 カカシの言葉に、イルカは僅かに目を眇めた。 「・・・さぁ。何を仰っているのか 判りませんが」 薄い微笑を唇に乗せたまま、イルカは頭の後ろを探り、額宛を解く。軽く乱れた髪が気に入らなかったのか、結わえる組紐に指をかけると、躊躇いなくそれを引き抜いた。 音を立てて、長い漆黒の髪が零れ落ちる。 「で、今日はどうされます?しますか?」 凛とした言葉で、迷いなく言葉を発するイルカを、カカシは半ば感心して眺めた。 闇の中、真っ直ぐに立つ細身の体に、血が欲情を伝える。 「・・とりあえず、ヤらせて」 言うと、イルカが僅かに笑う気配がした。 おとこがおんなよりも便利なのは、乱暴にしても壊れることがないということだ。この手の行為に慣れた奴なら、かなり手酷く痛めつけても、そうそう傷むことはないし、不埒な真似をして孕むこともない。 イルカはいつも、カカシの求めに対してひどく従順だった。欲望処理優先の、自分勝手な手荒い愛撫にも黙って耐え、驚くほど柔軟にカカシを受け止めてみせた。まるで水を抱いているかのように、滑らかで、そのくせ隙間もなく埋めてくる。 イルカは抵抗しない。それをいいことに、カカシは何時ものように性急に組み敷いて、噛み付くように口付けた。 イルカは柔軟だった。しなやかに筋肉の付いた滑らかな肢体で、カカシの無謀な動きを抱きとめる。 暗闇の中で視線がぶつかる。帳の中に満ちる、荒い吐息。一戦交えているかのように、お互いに上がった息と、熱を帯び朱を刷いた瞼。イルカの漆黒の目が、まるで挑みかかるようにひた、とカカシを見据えていた。 は、と熱の篭った息を脇に吐き捨て、カカシは目を細めた。 「・・アンタほんとかわいく、ないね。甘い声で、オレの名前でも呼んで縋ってみたらどう?」 あがる息の合間、イルカは妖艶に微笑む。 「―――よくいう・・そういうの、望んでなんていらっしゃらないくせに」 不意に床に散る髪を掴まれ、瞬間、イルカは顔を歪めた。だが、曳き毟られると思った衝撃は裏切られ、カカシの手は先ほどとは打って変わって柔らかな動きでイルカの髪を梳く。その愛おしむかのような手付きに、思わず瞠目する。イルカの眼に初めて困惑と動揺が浮かぶ。 鉄壁から零れた彼の僅かな感情に、カカシは訳もなく興奮した。背筋を震わせ、またイルカに挑みかかる。 イルカは巧かった。彼の体に溺れるのは容易かった。自分の下に、何時爆発するとも知れない、得体の知れない爆弾を抱いていると言う感覚は、殆ど動く事のないカカシの感情を大きく揺さぶった。 だからといって、一体何人と関係しているんだこの男は、と思う。 手馴れていすぎる。彼を抱いた後はいつも、鉛でも詰まっているのかと思うほど、体が重く、指先も動かせないほどになる。精魂奪われてしまうような感覚だ。 巧い、と自分が思うのだから、きっと相当なのだろう。 ―――こんなに後ろ暗いアカデミー教師がいるだろうか。 また、忍びの感覚で敏感に感じ取る警告音。 関わらない方がいい、近寄るな、と 本能が危険を告げていた。 ある日、 何時ものように呼び出した 彼に感じた、一抹の違和感。 「―――ねぇ、なにソレ」 カカシが凝視する先に自分の顔があることに気づいたのか、イルカは“あぁ、”と苦々しげに顔を顰めながら、乱暴にその唇を拭った。 「まだ残ってますか・・・こういうの、落とすのを持ってなくて」 歪められたその唇には、淡い色の紅が擦れている。口づけられて付いたのとは違う、口角まできちりと乗った薄紅は、恐らく拭われる前は相当鮮烈な赤だったのだろう。 アンタ、何やってんだ・・ と、別の違和感が目の端を掠める。想像の中の彼にひかれた紅に近い、鮮血の色。 予備動作なく、カカシはイルカの左腕を掴む。 「――――これも・・・?」 彼の、左手。薬指の爪にだけ乗った 鮮烈な赤。 またイルカが苦く顔を歪める。 「・・こういうの、なかなか落ちないんですよね」 おとこの骨ばった、けれども普段は手甲に隠されているため白い指に、その赤は凄まじい妖艶さで存在していた。 「・・・ちょ・・!」 カカシの動きは突然だった。腹の中に突如湧き上がった、煮えたぎるような感情に任せ、その赤に齧り付く。 「ッ!」 ばり、という音と共に、イルカの爪先が飛んだ。 口の中に残った欠片から紅の味がする気がして、カカシはそれを床に吐き捨てる。
「――――はたけ上忍・・?」 打ち捨てられた真っ赤な爪の欠片が、床でぬめりと光った。 ただただ、不快だった。 「―――気に入らない。取りな、こんなもの」 思わず荒くなった声に、カカシは自身で少し驚く。 イルカが、心底珍しいものを見るような目で、カカシを見つめていた。 「・・珍しい・・・あなたが感情的になるなんて」 その黒い瞳がゆるりと動き、自分の左手を見遣る。カカシに食い千切られた薬指の先から、僅かに血が滲んでいた。それを見たイルカの唇が、引き攣れたように笑みの形を描く。 「――けど、酷いですね・・・教師は結構、指先を使うんですよ?」 イルカの目がカカシを捕える。そのまま伸ばされた、ひやりとした指がカカシの手に絡んだ。視線を外さず、その手を口元へと持ち上げる・・・カカシの、左手を。 カカシは、イルカのその一連の動作を、夢の中の出来事のように茫洋と見ていた。イルカの薄紅の残る唇がすこし開き、中からあかい舌が覗く。獣のように鋭くはないが、硬く輝く揃った歯を それが舐め取るのを見て、呆然ときれいだ、と思った。 その牙が、ぐ、とカカシの薬指半ばに当てられる。反射でカカシの筋肉がちいさく痙攣した。 カカシはただ見ていた。止めもしなかった。イルカの好きなように、ただその手を差し出した。 ゆるりとイルカは力をこめた。肉を裂く鈍い痛みが薬指に広がる。 ぎし、と筋肉がひずんだ。ぷつりぷつり、血の管が切れる音がする。カカシは、ただじっとイルカを見ていた。その口元を。艶めいた唇から覗いた白い牙を。
イルカは容赦しなかった。ひたとカカシと視線を合わせたまま、じりじりと顎に力をこめてゆく。カカシの指から鮮やかな血液が滴り、イルカの顎を濡らした。 静かだった。食われた肉から溢れた血が 床に滴る音だけが、大きく響いていた。 不思議と凪いだ気持ちで、カカシはイルカを見つめていた。それは贄を差し出すときの気持ちに似ていた。腕の1本くらいなら、この静かな獣にくれてやってもいいような気がしていた。
イルカの歯はカカシの薬指の骨まで届いていた。それを軋ませ、渾身の力で歯を立ててから、
「――――だめだ。やっぱり骨は硬いですね」
まるで今日の天気を語るときみたいに、何でもない声色で言い放ち、イルカはカカシを解放した。 ふふ、と笑い、ぶらぶらになったカカシの薬指を見遣る。その唇に、真っ赤な血の紅。 「・・・声、出しませんでしたね」 イルカがカカシを見上げる。 その眼を見た途端、 カカシは一瞬で世界が凍るのを感じた。 真っ暗な眼が、無言でこちらを見つめていた。軽く理性を飛ばした瞳に月明かりが映り、澱のようにぬめっている。彼の唇に乗るのは、紅ではなく ベとりとした鮮血。 壮絶な光景だった。 カカシの背筋を興奮が駆け上がる。 そうだよ、イルカ先生 アンタはこうでなくちゃ。
異常な空気を溶かしたのは、まるで獣のようだった瞳が にこり、と微笑んだこと。急にイルカは、平凡なアカデミー教師に戻る。 イルカは笑って 「判りました。あなたの心意気に免じましょう」 と言った。 「・・免じるも何も・・・オレ、上忍よ?」 オレだって相当指先使うんですけど。 不思議な笑みに呑まれながらそう言うと、たしかに、とイルカは楽しそうに笑った。 それから暫く、イルカの姿を見なくなった。 受付で、だけでなく、里中何処にも。ふっつりと存在すらなくなったかのように、彼の気配は木の葉から消えた。 なんとなく、世の中が忙しなく動いているように思えた、そんな折。ある日カカシは、隣の小国が崩れた、という話を聞いた。 その日、件の任務を受けに赴いたカカシは、久方振りにイルカを見つけた。それは、またあの馬鹿みたいに明るい大広間で。
だが、 「おまえ、どうしたんだよ!?」 「大丈夫なのか?」 同僚たちに 口々に心配そうな声をかけられている彼を見て、驚いた。 頬に大きな絆創膏、忍服の首から、手首から 覗く、真っ白な包帯。 「いや、任務でとちっちゃってさぁ」 やっちまったよ、と何時ものように鼻の傷を掻く彼の様子は、まるで前のままだったが。 呆然と近づいたカカシに気付き、イルカはいつものように笑いかけた。 そして自らの左手の薬指を、そっと挙げた。きちんと指を揃えて、まるで指輪を見せる花嫁のように。
「結構大変でしたよ。落とすまで、随分時間がかかりました」
――――まさか。 目の前には、微笑を浮かべた平凡な中忍。 相変わらず、照りつけることしか知らない太陽が、影もなく彼に射している。 カカシは瞠目した。 たっぷり5秒間の空白の後―――― 「・・っは、はははははは!」 まさか。 まさかまさか。 カカシは大きく吹き出し、あえぐように空気を食んだ。 そのとき初めて、本当にはじめて。自分が、息をしていることを自覚した。 アンタ、ほんとに何してんだ。 何てことしてきたんだよ
凍りついた心に、音を立てて感情が流れ込んでくるのがわかる。 包帯で固定をしている左手の薬指が、急に引き攣れた痛みをカカシに伝えた。それでも爆発した笑いは収まらず、カカシは体を折り曲げて笑い続けた。 アナタに食いちぎられた、指が痛い 可笑しい 苦しい ――――息をしている イルカ先生、どうしよう、オレ 今 すごく楽しい。 まるで新しく生れ落ちた赤ん坊のよう。 身体に流れ込んだ鮮烈な感覚の渦に、カカシは身を任せた。 なんだ。オレ 生きてるじゃないか。 痛い。苦しい。可笑しい。おかしいよ
この感じ・・・悪くない。
辺りがざわめきで満ちている。受付所の他の忍び達が、驚いた顔でカカシを見つめている。 狂いのような上忍に、誰もがかける言葉すら持たず、ただ黙って見守るだけだった。 そんなカカシを見て、イルカが、笑った。 受付所では見せない、あの深淵に飲み込まれるかのような 真っ黒な微笑だった。 「―――センセ、この後呑みに行きましょうよ」 喉をひくつかせ息も絶え絶えに、カカシが言うと 「いいですね、『カカシさん』」 俺も今 あなたと呑みたいと思っていたんです、と 初めてカカシを名で呼んだ夜の獣は笑った。
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