部屋の中で、プラグを抜いたギターの弦を触っていたら、隣で物音がした。

どうやら、先生が起きたらしい。

やった、今日はついてる。俺は口笛でも吹きたい気分になり、すぐにギターを置いて、おろしていた髪を頭の上で束ねた。
そのまま、部屋の隅に準備してあった 本を数冊、手にとる。紙がよれていないか、ほこりや折り目はついていないか念入りに確かめ、もう一度角を揃えてまとめなおす。


両手に、できるだけ指紋だとか汚れがつかないようにそっと本を乗せ、隣を隔てる壁を見て少し――躊躇した。


今訪ねていったら、きっと起きるのを待っていたと思われる。
・・・それはいいが、隣の音に耳をそばだてて、様子を探っていた へんなやつだと思われはしないだろうか。

床に転がった目覚まし時計を見る。


――よし、あと5分待とう。


きっと 今、先生は顔を洗っている。歯を磨いて、多分あの小さなグラスで水を飲むんだ。俺はいつも窓際におかれている、華奢なグラスを思った。静かで、ただ純粋に透明なあのグラス。
あと、3分。時計をにらみ、じりじりしている自分を映す壁掛け鏡にふと目が行く。



――――なんて顔。



期待と不安、嬉しいのと心配なのがまぜこぜになって、ちょっと目が赤くなっている。

・・馬鹿じゃないか、俺。ただ、本を返しに行くだけで。
鏡の中の情けない自分を睨んでいたら、やっぱり額から落ちかかる髪が気になり、そっと結いなおす。


よし、ジャスト、5分。俺は丁重に本を抱え、家を出る。


冬の薄雲がかかった空に、頬を刺す透明な風が流れていた。すぐに視界が白い息で曇る。
寒い朝だ。俺は、サンダルをばたばたと地団駄しながら、部屋のすぐ右隣、同じ安物のみどりの、扉をたたく。
慎重に息を吸いながら、もう一度。


「・・・やぁ、イルカ。来たね」

ドアが開き、隣の住人――カカシ先生が、少し乱れた頭でゆったり微笑む。襟のずれたトレーナーに、先生の家の柔らかな、匂い。それだけで俺はもう、幸福になってしまう。




「本、読んだよ。――面白かった。すごく」
「でショ?活字もわりと、悪くないでしょ。わざわざ返しに来てくれたんだ・・・よかったらどうぞ?」

先生がドアを手で支えながら、部屋の中を指す。
まってました。俺は背の高い先生の腕の下を転げるように通り抜け、部屋の中へ入り込む。

「イルカは元気だなぁ」

オレは寒くて、動けないよ などとじじむさいことを言いながら、カカシ先生は後からついてくる。
先生の部屋の中は、うすく温まっていて、甘い煙草の残り香がした。





隣のカカシ先生は、大学で英語の講師をしている。それだけあって、部屋の中には本が山ほど積んである。表紙の手触りのよい、しっかりした分厚い本たちが。
日当たりだけはいいこのアパートの 大きな明り取りの窓から、ガラスの色を吸い取って黄色に染まった光がそこかしこに射し込んでいる。

あたたかい毛玉がたくさん丸まって落ちてるみたいだ。
俺はそこらじゅうにできた陽だまりを見ながら、思う。



カカシ先生の部屋は、シンプルだ。本、年代ものの化石みたいなパソコン、窓辺に置かれたきれいなグラス

―――それから、小さい部屋の真ん中で存在を主張する、みどりのソファ。


部屋の中で、とりわけ目立つそれは、おそらく3人掛けなのだろう。おとこ二人が座っても、間にひとり分の隙間ができるくらい、大きかった。山吹に近い、柔らかなみどりのカバーがかかったソファは、カカシ先生の家の中で妙にしっくりとなじみ、空間をまとめあげ、この小さな部屋をひとつの絵のように見せていた。

俺はこのソファが好きだった。ここが居心地のいい場所だということを、俺は肌で知っていた。
いつものように肘掛をひとなでして、座る。

定位置に収まった俺を見て苦笑しながら、

「お茶 いれようか」

と先生が言う。
先生のお茶は、コーヒーだ。






家庭の事情で、一人ぐらしを始めて、もうじき2年になる。高校から近くも遠くもない、そして家賃が安い、という理由で選んだ小さいアパートには、まばらながらも 数人の先輩たちが住んでいた。俺が決めた部屋の左隣は空きだったが、角部屋に当たる右側には小さなネームプレートが出されていた。

はじめてお隣にあいさつに行ったときは、衝撃だった。何の心の準備もなかった目の前に、すらりと長い手足を持つ、結構な男前が現れたからだ。彫りの深いくっきりした鼻に、灰色の混じる瞳。色の白い肌に、銀に近い髪。
ハーフ、という言い方を先生はひどく嫌ったが、まさかこんなきれいな人がこのぼろアパートに住んでいるとは思わなくて、しかもそれがお隣さんで、俺はすっかり動転してしまった。


「ギターを弾くの?」


頭ひとつ分高い位置から、視線が俺の背中から伸びる長いエレキに注がれる。
彼の口調がゆったりして柔らかだったのと、形のいい唇が言葉を象るのを茫洋として見ていたおかげで その短い言葉を頭に入れるのに少し時間がかかった。
隣人がギターを弾く。この壁の透けそうなアパートで、それを好むひとはまずいないだろう。慌てて弁解しようとすると、彼はうすく に、と笑って


「いいね」


と言った。


その、少し目を眇めた笑い方がたまらなく俺の心臓をはねさせた。
俺はとぎまぎしながら家へ―――薄い壁一枚隔てた隣の部屋へ、逃げ帰ったのだった。






「せっかくの休みなのに、練習に行かなくていいのか?」

いつものマグカップに、あたたかいコーヒーを注いで、先生は持ってきてくれる。黄色いマグカップは、いつも俺が遊びに来ると出してくれるもので、先生がそれを使っているのを見たことがない。なんとなく、自分専用、という気分になり、俺はそれにまた幸福になる。

「先生は、今日は1日休みなの?」

用事が全くないわけではなかったが、それよりもここにいられるなら、それを優先したかった。
思わず質問を質問で返してしまい、不躾さにしまった、と思ったが、先生はそんなこと気にも留めない素振りでうーんと唸りながら時計を見上げ、

「午後から、出なきゃならないんだけどねぇ」

と言って肩をごきごき鳴らした。


「ふぅん・・・」

どこに、とか 何で、とか訊きたかったが、やめた。なんとなく面白くない思いがこみ上げ、俺はマグカップに齧り付く。ブラックコーヒーの焦げた匂いが、鼻にかぶさった。先生のコーヒーはいつもブラックだ。最初は苦くて辟易したが、ずっと飲んでいるうちに、好きになった。


先生が、自分のコーヒーをいれ、ソファに座る。もう片方の肘掛に長い腕を廻して。
先生の重みでやわらかく撓むソファ。

毎度のことだが、俺はこの瞬間のたびに静かに緊張する。 大人ひとり分ほど間をあけて、先生の体温がじわりと伝わる。先生の側の産毛が逆立ち、肌が熱っぽくなって。敏感になりすぎて、痛いくらいだ。

そ知らぬ顔でコーヒーを啜り、皮膚で先生の存在を探る。
カカシ先生の、息遣いや、静かな匂い。
この部屋で、先生に英語を教わるときも、いつも二人でソファに座るときは、俺はなんでもない顔を貫くのに苦労した。


ちら、と先生の方を盗み見る。
寝起きで、すこし毛羽立ったトレーナーも、眠りから覚めたばかりの髪もそのままだったけれど、首筋が凛としている先生は、少しも清潔さを失って見えなかった。

きれいな、ひとだ。



―――本、どうだった?」

俺の視線に気づいたのか、ぼんやりしていた先生がカップに唇をつけながら微笑む。



「・・・馬を飼いたくなった」

耳の奥で打ち続ける鼓動から意識を逸らし、少し迷って、俺は思ったままを答えた。
あまり本を読まなかった俺に、先生はたまに本を貸してくれる。今回借りたのは、小さな赤い子馬をもらう少年の話だった。
先生がまた、少し笑う。

「痛くて、愛おしくて、どうしたらいいかわからなくなった」

途方もないような大きな自然の中で、大事な子馬が死ぬまでの話だった。
ハゲワシに目玉をつつかれる瀕死の子馬を、声を張り上げて護ったり、難産の母馬の頭を殴り、腹をひきさいて子供を取りだしたりする話だった。

微笑んでいた先生が、少し目を眇めて俺を見る。

―――オレもそう思ったよ」


その言葉に、俺はまた幸福になる。先生は俺を気持ちよくさせるのがうまい。

この部屋にはテレビもラジオもないので、俺が遊びに来ても、ふたりでただぼんやりコーヒーを飲んだり、こうして本や英語について話すだけだ。「退屈だろう」なんてカカシ先生は言うけれど、俺はこの なんでもない時間がとても気に入っていた。
カカシ先生と二人の時間が、とても。



また部屋に、優しい沈黙が満ちる。

時折 窓から入る鳥の影が、積まれた本の上を横切っていった。
また本を貸して欲しい、と俺は思う。






引っ越してすぐ、お隣さんの職業が「英語の先生」だということを知った。堅実な職についている人の素性を知るのは簡単だ。
特に英語がからっきしだった俺は、何度か逡巡したあげく、意を決して お隣に相談に行った。
・・・いや、先生に『会いに』行った。

全く相手にされないだろうことはきちんと心積もりをしていた。一度見ただけで、忘れられなくなってしまった、あの真冬のようなひと。触っただけでもつめたそうで、薄氷のようなひとだったから、人と話をするのもきらいかもしれない。眉をひそめられ、目の前でドアを閉められるかも―――傷つかないように充分準備をしていったのに、彼はあっさり、「じゃあ、オレでよければ?」と言って、家庭教師を引き受けてくれた。


それでカカシ先生は、俺の「先生」になった。






「イルカ、昨日遅くまで練習してたろ」

そういえば、と前置きして、先生がいたずらに笑う。
突然のことに、俺はびっくりしてコーヒーを噴きそうになった。

「うそ!きこえたの!?」

へたな歌は、まだ練習を始めたばかりの代物だ。あんなにしずかに歌ってたのに・・!と俺が目を白黒させると、カカシ先生はうん、と 俺の目をのぞきながら言った。

「聞こえるよ・・・きみの声は、誠実で、まっすぐだから」

オレはイルカの声、好きだよ


先生の優しく低い声に、俺はたじろぐ。たじろぎすぎて、鳥肌が立った。
LikeとLoveの間には大きな隔たりがあることは知っているのに、先生のやさしい目に、言葉に、勘違いしそうになる。

先生が、穏やかな笑顔のまま たずねる。

「聴きたいな、昨日の。きかせてくれない?」


不意を突かれ、俺は一瞬ごくりと喉を鳴らした。

「え、・・・今?―――けど、練習したばっかりだし、ギターもないし・・」

「じゃ、大丈夫。耳ではきかないから」

ここで―――と言って、先生は自分の胸の辺りを指す。

臆面もなく、こういうことが言えるのは 多分この人が大人で、それにいちいち戸惑うのは俺がこどもだからなのだろう。ただ、思慮深い先生が俺をからかっているようには思えなかったし、それに気持ちの隅で気づいた俺は、舞い上がりそうだった。

「はは・・ エア・ギター?」

言って見えないギターを構えるそぶりを見せると、わざわざカップを脇に置いたカカシ先生が、小さく拍手をした。


「きかせて」


身体中しびれるような、低い声だった。

そのきれいな青灰色の目と、ソファの上におさまった大人の体に 胸がばたばたとざわついた。先生を見ていられなくなり、思わずうつむく。

うつむいた先に、すり減った自分の爪が見えた。
不格好な手だった。

急に、余計なことを言い出してしまいそうで、振り切るように 大きく見えないギターの一音目を弾いた。
熱を持った頭の中に、音楽が満ちる。
歌詞が自然に、喉から滑りだした。


I'm not in love
So don't forget…



この間から弾き始めた、確か70年代の英語の曲。歌詞と、空に浮かぶようなふわふわした感じが気に入って なんとなく歌っていたら、ちゃんと練習したくなった。
架空のギターを鳴らしながら、つぶやくようにうたう。全部英語の歌詞の曲は、できればカカシ先生に聴いて直してもらいたかったので、きっかけができて嬉しいような、もう少ししてからきいてもらいたかったような、複雑な気持ちだった。


Don't get me wrong
Don't think you've got it made
I'm not in love


ふられた男が、強がってうたっている唄だ、と気づいたのは、歌詞を調べてからだった。 きみなしでも生きていける。だから誤解するな
そのかなしい意地っ張りに、わけもなく泣きたくなる。




――――いいね」

伏していた目を瞑ってひとつ息をつき、先生がまた、俺の顔を覗き込む。

「英語、うまくなったなぁ、イルカ。」

とたんに誇らしい気持ちがこみ上げ、俺は心の中で小さくガッツポーズをとった。


「俺、先生の大学、目指そうかなぁ」

思わず漏らした言葉を敏感に聞き取り、カカシ先生が眉を上げる。

「へぇ。前置詞を『かざり』って言ってたきみがねぇ?」
「!ちょ・・ それは・・・!」


俺は思わず言葉に詰まる。本当に英語が苦手だった俺は、何度かとんちんかんな答えで先生を唸らせたが、その中でも彼を絶句させたのがこれだった。

単語の前につく"at" "in" "on" などは雰囲気でつけるかざりだと思っていた、と言った俺に言葉を失った彼の顔が、今でも忘れられない。


「俺、けっこう頑張ってるんだけど」

じっとりと先生を見上げて、俺は軽く頬を膨らます。自慢じゃないけど、今じゃ高校での成績だって、わりといいしさ、とふてくされる俺に

「・・知ってるよ」

と、当時のことを思い出したのか、堪え切れないように肩を振るわせていたカカシ先生が破顔する。



「イルカが頑張ってるのは、オレがいちばん良く 知ってる」



たったひとつの、静かなその笑顔に、俺はまた爪先まで満ち足りてしまう。


――――先生の助手にして」


思わず。
ほんとにそうなれたら、どんなにか幸せだろう、と想像したら、思わず言葉が漏れていた。

一瞬目をみひらいたカカシ先生が、にやりと笑う。


「考えとくよ」







先生の勤める大学も、ここから近くもなく遠くもない場所にあった。時折、俺はわざと別の電車に乗り、先生の大学の前を通りがかったりした。レンガの造りが瀟洒な、こざっぱりした建物で、俺はそれを好ましいと思っていた。
だが、曲りなりにも、彼は大学の先生だ。こんなところに居座らずに、もっといいとこにも住めるはずなのに。それを俺はいつも不思議に思っていた。

けれど、このアパートは確かに居心地よい。有無を言わせず、ひとをつなぎとめる力があるのだと思った。
俺は漠然と、彼はここを出て行かない、と言う妙な確信を持っていた。



「イルカは、もてるだろう」

ソファに深く身を沈め、満足げに俺を眺めてカカシ先生が言った。
俺の胸のざわつきが、大きくなる。このひとの目に、そういう風に映っているということが恥ずかしいほど嬉しかった。そわつく気持ちを隠すように、急いで質問でかえす。


「先生は、好きな人 いるの?」



それはひどく突拍子もなく部屋に響いたけれど、俺の中では限りなく繋がった質問だった。ずっとずっと、ききたくて、でもなんとなく引き伸ばしにしていたものだ。

出会って2年、という歳月が、もうそろそろ訊いてもいいだろう、という気にもさせていたのかもしれない。俺は自分から出た言葉に狼狽し、けれど次の瞬間に腹をくくり、彼の答えを息をつめて待った。
この手の質問は、ひどく答えにくい。俺は今までの経験から、大概こういう場合はお茶を濁されるか、全くのうそを吐かれるかのどちらかだということを知っていた。はっきりした答えは、むしろ要らない、と俺は思う。うそやはぐらかしを冗談をこめて受け入れる程度の度量の広さは持っているつもりだった。


けれど。


先生はあぁ、とたった今なにかを思い出したように声を漏らし



「いたけれど、出て行ってしまったよ」



――――と言った。








それを、あんまり先生がなんでもないことのように言ったから。
俺は思わず、少し笑った表情のまま、凍り付いた。


本当に、本当に信じられないことだけれど、俺はこの瞬間まで、先生には恋だの愛だのといった、そういう類の心配事は一切ないと思い込んでいた。だって先生の家の中や言葉の一つ一つには、それらを滲ませるうわついたものがひとつもなかったから。

俺の前で先生をしているカカシ先生、壁一枚隔てて本を貸してくれ、コーヒーを入れて迎えてくれるお隣さん。
俺の目に映ったものがすべてであって、それ以外の可能性なんて、考えもしなかった。馬鹿なことに。



あんまり近くにいすぎて、見えなくなっていた。
こんなにきれいな人に、何もないなんて。
そんな馬鹿な。

大学でも、きっともてて仕方がないのは、この人のほうだろうに。




空の高いところを、飛行機が尾を引いて飛び去っていく音が聞こえる。 はり付けになった笑顔のまま、俺はあえいだ。
頭の中が白く塗りつぶされていき、うまく物事が結びつかない。
先生のその短い言葉を消化するのに、ずいぶん時間がかかった。
頭の隅で、この人に初めて会ったときのことを思い出していた。


ようやく吐けた息と一緒に、知らない人のような声で言葉がこぼれた。

――――それ、なんねんも前の、話?」

「そう」




「・・・きれいな人だった・・?」

うつむいた俺は、ほとんど瞬きを忘れていた。一拍おいて、先生の落ち着いた声が落ちる。


――――オレはそう、思っていたよ」



ききたくない。やめてほしい。
打ちのめされるのはわかっているのに、空ろにそう思うのと同じ速度で、食いしばった歯の間から言葉が漏れた。


「今も待ってるの」


「さぁ・・ね」





唐突に、俺は全て理解した。時が止まってしまったような部屋。このアパートを引き払わない彼。


落とした視線の先に、ソファの表面の布地が映る。今までこんなに、このみどりを凝視したことなんてなかった。荒く、しっかりと編まれた麻が、田んぼの畝みたいにどこまでも広がっている。

そっと指でなぞった。広がる大きなあぜ道を、鳥の影が過ぎる。



「いいなぁ・・・」


色々な感情が絡まりあう、ソファの毛玉みたいな頭の中から、溜息のような言葉が出た。



「いいなって、きみね・・・」
呆れたように言った先生の言葉にかぶせるように、俺は声を絞り出した。

「先生、」

2年越しで絞り出した声は、苦しく、ひどく掠れていて。腹でゆっくり息をして力をこめないと、音にもならない声だった。

「せんせい、俺・・・」

耳たぶが燃えるみたいに熱い。想いがせり上がって、目の裏からこぼれた。とたんに視界がゆがんで震える。





――――俺、失恋したんだ・・・」




水槽に突き落とされたように、あふれる水で、目の前が何にも見えなくなった。鼓動ががんがんとうるさいくらいで、自分がソファに落とした言葉に、自分で絶望した。身じろぎすらできなかった。
目の前のあぜ道に、ぱたん、と雨が降る。次から次へと田んぼを濡らしていくしずくを、雷鳴のように喉の奥で蟠る声を聞きながら、思った。

閉ざされた視界の中で、カカシ先生がうろたえる気配だけははっきりとわかった。頭の中身が全て飛び、彼のその気配だけに、集中していたいと思った。

体の中に、嵐があって、それが抑えもきかない力でもって、喉を破ろうと必死になっているようだ。
渾身の抵抗にも拘らず、バリケードを破って外に飛び出すそれは、時折獣のような声を俺にあげさせた。




休日の窓の外はしずかで、時折こどもの笑い声だとか、電線がなる音だとかが窓を通ってくる。
どれくらいそうしていただろう。
自分の中の獣は、雨と一緒にだんだん小さくなっていくのが判った。目の前の田んぼが充分潤った頃には、それは言うことを聞かない駄犬のようになっていた。 ぐい、と涙を拭いて、カカシ先生に向き合う。


「・・先生、酒くれよ」


ソファの端から身動きもせず、じっと俺を見つめていたカカシ先生が、苦笑する。
「悪い子だなぁ。―――ここに酒はないよ」


窓辺に置かれる華奢なグラスを俺は思い出す。この部屋で感じていた、些細な違和感の正体を。
そうか、あれはきっと、女物なんだ。

胸の犬は、まだ暴れまわっていて、内側から俺をひどく噛んで引きずりまわす。痛みでまた、目の前が見えなくなる。



ふいに、懐かしいにおいがした。目をしばたたかせると、黄色いカップが差し出されている。
受け取った黄色いマグカップには、コーヒーが入っていた。違和感に、俺はまた何度か瞬く。

そこには、ミルクで真っ白になったコーヒーが、なみなみと注がれていた。鼻を包む、甘い菓子のような香り。俺はこの部屋で、こんなコーヒーをはじめて見た。
思わずかっとなった。

・・こんなもの・・・

子ども扱いされているようで、唇をかんで先生を睨む。と、先生の持っているマグカップが目に入った。
中には同じ、真っ白なコーヒーが入っていた。


「イルカ、―――乾杯」

眉を下げた先生が、そっとマグカップを掲げる。俺は目を丸くした。まるでそれは、大人同士がするようなやり方だったから。俺は思わず笑った。その拍子にまた、涙が、あふれた。


コーヒーには、これでもか、と言わんばかりに砂糖が入っていた。
せんせい、ちょっとは加減しろよな
甘すぎるコーヒーは優しく、舌をしびれさせた。

俺はいっぺんに、振られて大切な人をとられてしまったような、そのひとと初めて、深いところで通じ合えたような もう嬉しいんだか悲しいんだか、色んな思いが泥水のように交じり合って、体中を駆け巡り分けのわからない感覚に囚われた。
わけのわからないまま、うたを歌った。大声で。この薄い壁を破って、アパートみんなに聞こえればいいと思った。
声を張り上げて歌った10CCは、まるでロックのように響いた。


これは恋なんかじゃない。恋なんかしてない。
あなたは僕にとって重要じゃない。
とんでもないよ


先生が不意に、'Free, you are'と被せてきたので、俺はまた笑った。
Free、か
きみは自由だ。
自由だ。

自由だから、何でもできる。











ふと気がつくと、窓の外が赤みを帯びていた。昼を過ぎてずいぶん経っている。喉がざらざらしていた。
あのまま、ソファで眠ってしまったらしい。久々に泣いたので、泣き方を忘れていて、ひどい頭痛がした。
少し身じろぐと、膝にかけられていた毛布が滑り落ちる。



目を泳がせると、もう片方の肘掛にもたれるように、カカシ先生が眠っていた。

小さく心臓がはねた。


・・・用事をキャンセルしてくれたのだろうか。うっかり眠ってしまっただけなのだろうか。
最初ならいいな、と俺は思った。


ソファが撓むと先生が気づく。俺は息を詰めて、無防備な先生を見遣る。
まっすぐ通った鼻筋、整った眉。やわらかな銀色の髪が白い顔にかぶさり、同じ色の長い睫毛が頬に影を落としていた。頬に当てられた、骨ばった長い指に、よれたトレーナーから覗く首筋。裾から伸びるきれいなふくらはぎ。

胸を締め付けられるみたいになって、俺は大きく息を吸い込む。鼓動が苦しくて、肺に流れる息が細かく震えた。
ソファのもうひとつの端から、先生の輪郭をなぞるように、そっと指で辿った。息を詰めて、だいじに、ゆっくりと。





先生の体に半分流れる風の匂いを知りたくて、必死で勉強した。

先生に褒めてもらいたくて、死に物狂いで頑張った。


――――気が付けば、こんなところまで来てしまっていた。



「せんせい」

声を消して、唇に言葉をのせる。 こんなに、遠くなってしまった先生。近いのに、遠い。おなじ意味の名前をもつみどりの家具に座って、俺はうわごとのように繰り返す。


「せんせい」



―――すきです」




あなたが、すきです。






俺、先生の大学を目指します。
いいですか

あなたをすきでいても、いいですか。





みどりのソファに抱かれながら、
あぁ、もう
はやく大人になりたい、と祈るように思った。






ソファの上の壱光年

※so far:酷く遠い