「先生は、手 きれいでいらっしゃるのねぇ。男の方なのに。」
―――そうですか?いや別に、そんなことはないと思いますけど。
「いいえぇ。おひとり暮らしなんでしょう?きっと器用でいらっしゃるんだわ」
いやいや。いかついもんですよ・・ほら、指とかごつごつだしね。
「そんなこと!ほら、男の方って大抵包丁苦手なのに、先生の手には傷もないし。
刀や術で怪我した痕もありませんし、ほんと、さすが先生だわぁ。
ほら、うちの子なんてドジだから、いつも授業で怪我してばっかりで・・・」
延々と続きそうな保護者との立ち話に相槌をうって、はは、と笑った。アカデミーの正門前。
鼻っ柱の傷に伸びる指は、条件反射だ。視界の真ん中でぼやけるそれを、何となく見遣る。
少し日に焼けて。少し節くれ立った。
ごくふつうの。
蝉が煩い。
だんっ。
「あちー・・」
思わず零しながら、シャツの肩で汗を拭う。引っ切り無しに溢れる汗は、額をつたって頤で大きな玉を作った。
じわじわと引っ切り無しに鳴くセミたちの声が、少しずつ狭い台所の温度を上げてゆく。
明り採りの小窓から差し込む西日が、身体の半分だけを焦がす。落としていた視線を逸らすと、汗でぼやけた視界にシンクに反射した斜光が飛び込んできた。
ぽたん、と落ちる汗。
その先には、大きなマアジと、アクの染み込んだ小さなまな板。
――包丁を握る、自分の手のひら。
ふぅ、とひとつ溜息。自分の息が生暖かくて、煩わしい事この上ない。
カカシさんが来てる。
多分、ガラス戸一つ隔てた居間で、言われた通り大人しくテレビでも見てるんだろう。
向こうの部屋には扇風機がある。古いけれども、まだ立派に使える奴だ。
その薄汚れたハネが空気をかき回すさまを想像した。
「・・あたりてぇ〜・・」
「え?なに、イルカ先生?」
「・・・いえ、別に」
暑さでどっか麻痺してんのか。思ったことが垂れ流しになる口に、俺は苦笑した。
頭をまな板に向けなおす。空気が少し揺れるだけで、熱い手のひらで全身を撫でられているようで、思わず眉を顰めた。
生臭い魚のにおい。
身体に纏わりつく湿ったシャツ。
どろどろだ。何もかもが。
だんっ。
眼下のアジに、包丁を突き立てる。
首筋に差し込んだ切っ先をぐるりと引く。溢れた血がまな板の上に染みて、また新しい黄ばみを作った。
ゼラチン質の中に沈む澄んだ目が、オレを映すともなく見ている。腹には脂がのって瑞々しく、適度に弾力がある。いい魚だ。いいのを選んだ。
カカシさんにうまいもの食わしてやろうか、と思って。
腹の張りに刃を入れる。横一線に滑らせると ごぽ、と中身が溢れ出て来た。
掌に零れ落ちる、赤黒い血。皮膚の表面を撫でてゆったりと滴る臓物。汗と混じった俺のものではない血液が、肘の方まで筋を作って滑る。
蒸し上がる空気から臭いたつ、生臭いにおい。
鉄。
血。
・・・戦場の臭い。
は、と鼻で笑う。嘲笑う。 何考えてるんだか俺。
そう言えば、こういう光景を見るのって久しく無いよなぁ。ずっと内勤続きで戦地に出るなんてないし。
クナイを握るにしても、アカデミーの実習程度。昇格してすぐにアカデミー配属が決まったから、実戦経験だってそう多いもんじゃない。
そもそも、俺
―――人を殺したことなんてあったか?
いや、そりゃあるだろ。あるだろうよ。仮にも忍びなんだからさ。
何年この仕事やってると思ってんだ。
けれど、それはそのくらい遠く、記憶の奥底で擦れていて。
その事実に、俺は軽い焦りを覚えた。
忘れてしまいそうだ。 掌に纏わりつく人の命の熱も、それを断ち切った自分の腕の動きも。
包丁の動きに合わせ、また新たに零れる赤色。不意に湧き上がった既視感に、俺は軽い眩暈を感じた。
既視?あぁ、それこそ最後に戦場に赴いた時の記憶か?
赤い血。自分の手を汚す、地獄のような赤。最後にそんな光景を見たのは・・・
「・・あ、」
しかし俺は、その記憶の中に銀の尾びれを見つけた。まるまるとして、よく脂ののった、新鮮な―――
命を奪った真っ赤な俺の掌。しかし、その鮮血は、人のものではない。
・・・・そうだ、その最後の記憶でもきっと、
俺はこうして魚を捌いていた様に、
思う。
蝉の声が更に不快に脳に染みていく。
鼻先を掠める 生臭い臭い。掌を汚して滴り落ちる生の残滓。
生暖かくぬめる指先を擦り合わせて、俺はそれを目の前に掲げてみる。
別に何の変哲も無い
ごく、ふつうの
思わず笑いが漏れた。
発作的に湧き上がったそれは抑えることが酷く困難で。横隔膜を細かく痙攣させながら、俺は熱さで蕩けた頭でしばらくそれを垂れ流しにした。
「えー?なに、イルカ先生?」
楽しそうですねぇ、と隣からガラス戸越しに声がかかる。楽しそう、か。そうかそんな風に聞こえるのか。
この手、この掌。忍びのくせに、人の命を奪うことも知らずのうのうと生きている
傷もない
汚れるのは、魚を料理する時くらいの。
綺麗なてのひら。
百戦錬磨のあなたには、一体どんな風に映っているんでしょうか。
「な・・ッ !!なにしてんの!」
突然降って沸いた必死な声に手首を掴み上げられた。
目を上げて見ると視界一杯に慌てた銀髪の男前。
「ちょっとアンタ、いきなり静かになったと思ったら!!なにしてんのなにしてんの・・ッ!!」
なにって・・・
なぁ?
俺は返答に困って、じっと彼に掴まれた手を凝視した。真っ赤に染まったてのひら。鼻に澱んだ空気と一緒に纏わりつく、生き物の生臭さ。
手の甲に突き立った、包丁の切っ先。
汗が滝のように滲んで、視界を濁らせる。霞んだ目の前には、身体を震わせながら、泣きそうな顔してこっち見てる百戦錬磨の彼。
あちー・・
相変わらず蝉は煩い。部屋の温度もどんどん上がっていく。
全くもう、何もかもが、鎔けてしまいそうだ。
あぁもう、そんな顔しないでくださいよカカシさん。
ただ俺は突然
自分の手がとてもとても
恥ずかしいと思ってしまったんだ。
元を正せば彼の愚痴