それはまるで、
一生 全て注ぎ込んだ恋のような。
「たまには旨いもんでも食べましょうよ」、なんてあんたが言うから。
じゃあいつも俺の料理をウマイウマイって食べてるあんたの言葉は社交辞令だったわけですか、そうですか、と目を細めてみたら、「ごめん、違うんだそうじゃないんです。ただ、たまには料亭とか高そうな店に行ってみるのもいいんじゃないかと思って。それだけなんです。ごめんなさいセンセイ」なんて、必死になって謝ってきた。
あんまり懸命に弁解してくるから、俺の方だって収まりがつかなくなってしまうじゃないか。なので、今日はカカシさんの驕りということで折り合いをつけよう。別に高い料亭でなくたっていいんだ。近所のファミレスで構わない。そう言ったら、「こんな時くらいたかりゃいいのに。本当に欲がないよね、イルカセンセ」と彼が笑った。
俺に高級な店は似合わないんですよ。目の揃った座敷の畳になんて長く座ってたら尻が痛くなっちまうし、お通しの皿や小さなグラスだって高そうで、いつ割りゃしないかとヒヤヒヤもんだ。かといって家みたいに寝転ぶわけにもいかないし、つまりはうっかり深酒もできない。肩が凝って仕様がないんです。そう零したら、うんうんと彼は頷いて、また何だか嬉しそうに笑っていた。
そんなわけで、今日の晩飯はファミレスだ。二人で支給品ではない軽いジャケットを着込み、近所の店を物色しに行く。彼が羽織っているのは、深緑の薄いニットコート。去年の冬辺りに俺が見つけた、季節外れのセール品だったものだ。彼の私服が好きな俺は、その深緑の上にあの銀髪が乗っかっているところをどうしても見たくなった。それで彼に買って帰ったのだが、秋の初め 肌寒い頃にちょっと羽織るための薄い薄いそのコートは 当然真冬の寒風を凌げるようなものではなく。それを彼は、「それでも嬉しい」と言って、冬の間中マフラー代わりにして首に捲いてくれていた。こくのある緑に銀糸が映えて、やっぱり思ったとおりにとても綺麗だった。
そのコートを、ようやく本来の用途どおりに使える季節が来た事を改めて感慨深く思う。そうか、もうあれから、1年か。深い森のような、苔むした岩のような色のそれは、やっぱり想像したとおり、すらりとした彼にとても良く似合っていた。
そこで俺ははた、と気づく。そうか、ひょっとして今日は、二人が付き合いだしてから丁度1年目の日ではないのか。
お互い十分腹も減っていたし、そこら中からいい匂いはしてくるしで、考える事を放棄した俺たちはとりあえず一番最初に目に付いたファミレスの前で目配せを交わしあった。存外簡単に読めてしまったお互いの思考に苦笑して、店の扉をくぐる。可もなく不可もない、木の葉でもよく見かける、平凡なレストラン。それなりの賑わいを見せる店内の窓際の席に、とりあえず腰を落ち着けた。
記念日を敢えてファミレスで過ごすなんて、何だか小気味いいじゃないか。あぁ、腹が減った。
「イルカセンセ、何にします?」
え〜と、そうですね。・・・なんかハンバーグ食べたいかな、俺。
「えぇ!ハンバーグ!!何だかお子様じゃないですかそれ?」
うっさいよ。と彼の方を少し睨む。ハンバーグったって色々あるじゃないですか。上に旗が立ててあるやつだけがハンバーグだと思うなよ。じゃあカカシさんは何にするんです。
「オレ?え〜・・・そうだな。・・・ナポリタン、とか」
ぶはっ!あんた、それあんたの方が充分子供ですよ!!
「・・・いいじゃない・・・おいしいよ、ナポリタンは」
はは!言ってることがまた子供!口の回りまっかにする上忍なんて、見たくねぇ〜!
「ちょっとセンセ、笑いすぎでしょ〜・・・もう。」
む、とむくれる彼を見て、その表情をしているのが立派な男前なものだから、もっと可笑しくなって更に笑い転げてしまう。
「も〜いいでしょ!オレが奢るんだから!ハイ決定〜!」
つーんと顔を背け、ウェイトレスに挑戦的に手を上げる彼に苦笑しながら、注意をこちらに向けるように とんとんとメニューを指で叩いた。
それでいいですけど、サラダも頼みましょう。あんた、最近野菜足りてないんだから。
店の中はいい具合に込み合ってきた。目の前の通路を行き交うウェイターたちの動きが忙しない。至る所から聞こえるざわめき、子供たちのはしゃぐ声。意外と数の多いカップルが幸せそうにじゃれ合っている。
流れているはずの音楽も掻き消してしまうほどの喧騒が、ぼんやりと明るい照明に溶けて、俺達の頭の上を通り過ぎてゆく。
当然、大の大人がハンバーグやナポリタンの皿一つで満足できるはずもなく、更に追加されたピザやドリアやステーキや、挙句の果てにはケーキの皿なんかも並べられた机の上は、幸せに満ち足りていた。結構な量を腹に詰め込み、俺は 脱力して椅子の背もたれにしなだれかかる。ケーキの最後のひとかけらを口に放り込んだカカシさんが、俺を見てにやりと笑う。
「なんだかんだ言って、子供ですよね。」
そうですね、俺たちね。
ぼんやりと首を巡らせた窓の外には、透きとおった高い夜空にたくさんの星。大きなガラス窓は、僅かに水滴をのせて曇っている。彼も視線を流し、見るともなしに、窓を眺めていた。これからまた巡ってくる冷たい季節のことを、彼も思っているのだろうか。あの 誰かの体温の恋しくなる、季節の事を。
今 彼の心の中、隣にいるのは俺だったらいい、とふと思い、何だか辛くなって煙草を取り出して火をつけた。一息吸うと、身体の中の余計な感情が 血管が収縮するのにあわせて、指先から すい、と鎮まり返る。
目を戻すと、カカシさんがきらきらした目で俺を見て、「オレも!オレも」と手を差し出してきた。目の前に今まで並んでいた子供パーティーのような料理と、ガキのような彼の表情があんまりにもぴったりで、しかもそれでいて煙草をねだってくるのだから、俺はまた胸の辺りがふわりと揺れるのを感じる。
箱を揺らし、一本スライドさせて 仕方ないなぁ、というように彼に突きつけた。食後の一服、それを俺にねだるのは、最近の彼の常套手段だ。・・・そういえば最近、この人が煙草を持ち歩いてるの 見たこと無いな。
「あ!火もちょうだい。ごめんね」
カカシさんがへへ、と笑って、俺の脇のライターを指す。なんなら口移しでもいいけど?なんて言って覗き込んでくるから、俺は憮然とした表情のまま ずい、と火をつけたそれを差し出した。嬉しそうな彼を恨みがましく、じっとり眺める。・・・あんたね、いっつも俺にたかるんだったら、持ち歩きなさいよ。結構吸うくせに。この高給取りめ。
「でもねぇ・・・だって、イルカセンセがいつも持ってくれてるじゃない?」
そう言うと、彼はうまそうに濃いめの煙を吸い込んだ。煙草を挟む、長い指。片肘を皿だらけの机について、目だけでこちらに笑いかけてくる。
深緑の上着の背で、彼の髪が柔らかな光をはねた。満ち足りた食後の一時。
俺は煙と共に短い溜息をつく。あんたねぇ、何言ってるんですか。
「俺が・・・」
“いつまでも隣にいると思わんでくださいよ”
―――言いさしの言葉を、俺は飲み込んだ。
自分が言いかけた言葉に、俺は静かに硬直する。脳裏に血の色が閃く。崩れかけた手足や、クナイを突き立てられた躯が咆哮するのを、真空管のような頭の中で聞いた。引き裂かれた臓物、腐ってゆく肉のにおい。崩れ落ちる屍は、自分や、彼の顔をしていた。
常に生死紙一重の、薄い刃の上を歩くような俺達の生業。決して明日、この世から消え去らないとは言い切れない。それは、この里に生まれついた者に等しく課せられた宿命だ。命への執着は疾うに捨てている。
―――けれども、それ以上に。
それ以上に不安定であやふやで、切れかけた蜘蛛の糸に縋るように 未来のない。
俺達の関係は、そういうものだった。
恐らく周りには、ただの仲の良い友人にしか見えていないだろう。こんなファミレスで、馬鹿みたいに楽しそうに食事をする俺たち。けれどもそれは摂理に反し、道徳に反し、里の規範にも反した 罪深く、リスクだらけの関係だった。
聡い里親は、事を荒立たせぬよう細心の注意を払っては、事ある毎に俺たち個々を呼び出し、訓戒を与え、見合いを勧めていた。裏ではもっと姑息な根回しが、実しやかに行われているのを知っている。俺や彼の耳に入るお互いの噂、職場で同僚から聞く世間話の中の流言に、俺はいつの間にか、周りからじわりじわりと外堀を埋められている事実を知った。
あのひと、はたけじょうにん。
けっこんするらしいよ。
ほら、あのひと。いるかせんせい。
かわいい、いいひとができたんだって。
たくさんおんなを、かこってたらしいよ。
なんでも、はらませちまったらしくてさ。
ひどいおとこだそうだ。
あそびあるいていたけれど、けっきょくみをかためることにしたんだって。
先日もカカシさんが、お見合い写真を渡されて苦笑しているのを見た。いい加減諦めてくれませんかねぇ。もうこんな所で終われないんですよ、オレ達は。そう言って、俯いた彼の姿。
思考は一瞬だったはずだ。俺の目に薄い涙の膜がはったのも一瞬で、次の瞬間には俺はそれを瞬きひとつできれいに消してみせたから。表情など変えなかった。気配すらも乱さなかった。ただ、ライターを差し出した自分の腕が、僅かに不規則な軌道を描いた程度で。
ほんの刹那の、眉一つ動かさない慟哭。けれども、彼は俺の顔をじっと見詰めてきた。火のつけられた煙草はそのままに、視線だけが射ぬかんとばかりに俺を捕らえる。
「・・・『俺が、』 何ですか?センセイ」
真っ直ぐな瞳で、探るように俺を見詰めてくる。色違いの瞳。紫煙がゆらりと、二人の間をたちのぼる。俺は少し笑った。言える訳がなかった。
「・・・また、いい色の服、見つけたんです。Tシャツですけどね。あんたに買ってこようかと思って。青は好きですか?」
俺はさも、秘密ごとを語るように 悪戯っぽい表情で彼に笑いかける。
「Tシャツ?ちょっと これから、冬なんですけど・・・?」
「俺の買ってくるのは全部、シーズンオフの叩き売り品ですからね。嫌なら、」
「ややや!嫌じゃないですけどっ!・・・けど、今度はマフラーにはできませんよ・・・」
慌てる彼に、俺は笑って 煙草の煙を深く吐き出した。
「知ってますよ。また来年、着たらいいでしょう」
えぇ・・・ま、そうですけど。来年、ね。もー。
苦笑いしながら彼は俺の言葉に騙されたふりをした。俺もまた笑いながら、そんな彼に気づかないふりをした。
最後の言葉だけは、本物だ。今年もまた、今は着る事の出来ない服を贈って。また来年も、彼の傍に立っていることができればいい、なんて 卑怯な伏線を張っているんだ。
俺たちが生きている間だけでいいのに。この刹那のときだけでいい、幸せでありたいと願うだけなのに。
だから、彼といる時はせめて、悲しいことなんか全て頭の中から追い出して、馬鹿みたいに満ち足りた気持ちで過ごしていたいんだ。辛いことは考えるな。こんな感情、邪魔だ、邪魔だ。
邪魔で疎ましくて仕様がないのに。・・・いつだって どうしても、振り払えないんだ。
「・・・・幸せになりてぇなぁ・・・」
煙草を挟んだ手を高く上げ、俺は少し俯いた。
耳に収まりきらない、周りのざわめきや睦言が、ばらばらと零れ落ちる。ほんのりと柔らかな照明。机の上の、祭の後のような皿たち。沈黙が小さなテーブルをみたした。1分、2分・・・ひょっとしたら、ほんの数秒。指先に摘まんだ煙草がじりじりと熱を発して、指とフィルターの境界を無くしてゆく。圧迫に負け、脆くも崩れ去り、灰になって全てを諦めてしまおうかと。俺はその短い沈黙の中で、何度も彼に別れを告げる夢をみた。
「なりましょうよ。幸せに」
不意に、指先の熱が奪い取られる。はっとして顔を上げると、俺の指から煙草を奪い取った彼が、にい、とこちらに笑いかけていた。ぐい、と襟首を引かれて体勢を崩し、慌てて掌で身体を支えた時にはもう、俺の唇は机越しに身体を伸ばした彼の唇に飲み込まれていた。がちゃん!と派手な音を立てて食器が鳴る。舌が絡め取った、柔らかな煙の苦味と、ほんの少し、ケチャップの味。
彼の信じられない突飛な行動に、あんまり突然の出来事に、思わず呆然と彼の顔を見遣る。何やってるんだよあんた、こんな、人だらけの場所で・・・。
「ねぇイルカセンセ。今からアンタを抱いたまま里中走って、最後にアカデミーの門の上で『オレたち幸せになります!』って叫ぶから。覚悟してね」
きっちり、おごらせていただきますよ。最期まで、ね。
悪戯小僧そのままの顔で、彼が俺の手を引いた。銀髪の下で、深緑のコートが翻る。
俺は何だか腹の底から笑い出したい気持ちになって、大人しく彼に身を任せることにした。
邪魔かな