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びっくりした。 まさか本当に、追いかけて来ないとは思わなかったから。 きっといつもの様に「待ってイルカ先生」「言い過ぎました。オレが悪かったから、戻ってきて」なんて言いながら、あの骨張った 長くて白い指が俺の腕を引きとめるものだとばかり ・・・思っていたのに。 勢い付いて駆け出したそぼ降る雨の中、息を切らせながら 呆然と背後の夜闇を振り返る。飛び出してきた家の明かりは、もう見えない。 細い雨を薄くけぶらせている街灯だけが、振り返った先の全てだった。 ――――追いかけてくると、追いかけてきてくれると 思ったのに。 もう一度確認のために振り返る。 誰もいなかった。 腹立ち半分落胆半分、意固地な気分で闇の先をひとつ睨むと、ふいと顔を背けてまた走り出す。 雨に薄く覆われ、鈍い光を放つ溶けた土に、自分の足音だけがばしゃばしゃと大きく響く。 いいじゃないか。大いに結構。 元々彼が持ち出してきた種だ。俺が腹を立てて飛び出して何が悪い。悪いのはあの人だ。 カカシさんが、あんな目で俺を見るから。 『もう限界。イルカセンセ』 熱い茶の入った湯飲みを鼻先でくるくると回しながら。湯気を吹き散らす彼の薄い唇が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。 『今月になって何回目かな。何も知らないフリなんてもう、限界なんですよ』 いつもの様に、夕方あの人が訪ねて来て、あの人は任務明けで、まだちょっと指先に泥や血がこびり付いていたから、風呂を勧めて。いつもの様に何日か食べられるよう多目に作っておいた男料理を適当に出して、彼はそれをいつもの様に旨そうに食べた。彼と俺はテレビを見ながら寛いで。そうしてぼんやりとしていたとき、まるで思い出したかのように 急に彼が言ったのだ。 『―――――浮気したでしょ、イルカ先生』 それがあんまり、穏やかで。 夕食の具の好き嫌いでも話すかのような何気なさで彼が切り出したもんだから。 「えぇ。しましたがそれが何か?」 ・・・あぁ、ばれていたのか。そりゃあ上忍だもんな。もしかしたら風呂にでも髪が落ちてたか?寝室か?きちんと掃除はしたはずだけど。あ、このひと鼻が利くんだったっけ。そんなあからさまなことがなくても、気配の端々から分かっちゃったりするもんなんだろうな。さて、どうやって言い訳をしようか。 ――――そんなことを取り留めなく頭に浮かべながら、それが 俺の返したセリフだった。 別に、今の生活に不満がある訳ではなかった。俺達は双方男、と言うことを除けば、至極よくできた恋人同士だったと思う。彼は相変わらず優しかったし、何処かれ構わず俺に甘えてきたり愛を囁いてきたりするもんだから、俺は辟易してそんな彼を怒鳴ったり、軽く睨んだり、冷たくあしらったりする。 さすがは上忍、とでも言おうか、とんでもなく突飛な馬鹿をやらかす彼に拳骨を落とし、アカデミーの生徒にするように叱ってみれば、目に見えるほど彼はしょんぼりと項垂れる。どれだけ落ち込ませても、俺が頭を撫でてやりさえすれば、また尻尾をちぎれんばかりに振って擦り寄ってくる彼。 いつの間にか俺達の間には、この力関係が暗黙のうちに出来上がっていた。 その筈だった。今夜だって。 彼が何かしたわけでもない。ましてや、彼が浮気などする筈もない。 知らない女と寝たのは、紛れもなく、俺。 しかも、深い訳もなく。 一度のみならず、何度も。 それでも、俺は、彼が追いかけてきてくれると信じていた。追いかけて来ない訳がない、と。自分が愛されている自信はあった。「彼は結局、俺に甘いのだ」と盲目的に思っていた。 だから、こうして光の落ちた住宅街を駆け続けていても猶、いつかは後ろからあの骨張ったきれいな手が 強く俺を引き止めるものだと信じて疑わなかった。この密やかな小雨の気配を破って、いつかは彼が手を伸ばしてくるのだろう と。 霧のような雨を吸い、いつの間にかシャツはぐっしょりと重たくなっていた。後ろで緩く束ねただけの黒髪はいつしかほつけ、絡まった木綿糸みたいになって顔に纏わりついている。 足元を見ると、突っ掛けてきたサンダルはドロドロになり、パジャマの裾にもぬかるんだ土くれが沢山の星を飛ばしていた。僅かに息が上がっている。 雨の伝う頬を拭う。 霧が立ちけむる視界の中、自分の吐息が熱く尾を引くのが見えた。 もう住宅街など、当の昔に終わっていた。 馬鹿な話だが。 俺は次第に速度を緩める。雨と疲労とで、急に身体を襲った極度の重みが、思考をぐちゃぐちゃと掻き回した。 脚がゆっくりと止まる。柔らかな雨を受け止めるように空を仰いでみる。 それでもまだ、自分の中で燻り残る期待と自尊心が入り混じった気持ちを拭いきれず、俺は未練たらしくぼんやりと歩く。薄いサンダルの足裏が砂利を食んで、ぬかるんだ土の中へと沈む。 あぁ、忌々しい。 そもそも、発端は何だった?どうして俺は女なんか連れ込もうと・・・ ――――あぁ。そうだ。 彼があんまり、俺のことを 何でも受け入れようとするから。 あんなにきれいな人なのに。強くて実力だってあって、もちろん階級は俺より遥かに上、いつ死ぬか判らないからこその かなりの高給取りだし、背だって高い。そのくせ物腰は柔らかで、驕らないし。 きっと、俺が女だったら、放って置かない。 だからいつも思う。何故、彼は俺のことが好きなんだろう。 自分のことを卑下しているわけではない。だが、自分は平均的な中忍で、造作だって平凡。根本的なことから言えば、それらを考える前にまず 俺は男だ。 その時点で、周りの数多の女たちより一歩後ろにいるわけで。 彼に俺から手を伸ばしたことなど、一度もない。長い間ひとりだった俺は、自分から求めたい気持ちに鍵を掛け、それを無いものにするのは得意だった。崩さないのは、俺が彼に『付き合ってやっている』というスタンス。 自信がないから、常に心のどこかで逃げられるように準備をしている。 自信がないから、彼を試してしまう。変わらず好意を向けてくれる彼を、無碍に扱ったり突き放したりすることで、それでも彼が縋り付いてきてくれる事で、自分の彼の中での存在価値を量っていた。 ・・・最たる例が、こんな風に。 身体に触れているのかいないのか、分からないほど細く繊細な雨が、睫毛に雨だれをつくる。つらつらと歩いていた足は、一枚の大きな灰色の壁に突き当たった。 高い高い、大きな壁。見上げたらひっくり返ってしまいそうなほど、高く天へとそびえる壁。 それは、この広い里の終わりを意味した。 俺はゆっくりと歩みを止める。雨の冷たさがじわりじわりと皮膚一枚を通り越して体内を侵し、生理現象で軽く震えだす指をその壁に這わせる。壁は夜を吸い込んでしっとりと冷たかった。 振り返るまでもなかった。追ってくる気配は、ひとつもなかった。 ざらつく壁を指で辿りながら、俺はぼんやりと思い返す。 どうしたのだったか、彼は。 何と言ったのだったか 『それが何か?』と俺が言った後 ・・・あぁ、そうだ 彼は一瞬、腕を振り上げたのだ。 凄い殺気だった。 いや、殺気じゃないな、あれは。 何というか、爆発寸前の、軽く爪を立てただけで弾け飛んでしまいそうな 凄まじい感情だった。咄嗟の動作ひとつ取っても、彼の動きには無駄がなく、彼が上等な人間であることを思わせた。あれが戦場だったら、きっと俺は死んでいた。 手の動きは見えなかった。 何故彼が腕を振り上げたと判ったのかというと、彼が 俺を殴る寸前で拳を止めたからだ。 実力の差か、情けないことに俺は、彼の拳が自分の髪をそよがせた時にやっと その事実に気づいたのだった。 あの時、殴ってくれていればよかったんだ。浮気をしたときから殴られる準備は、出来ていた。 それなのに。 長い沈黙の後、彼は、なにか胸のうちに溜まった汚泥を吐き出すかのように 深い深い溜息をつくと、振り上げた腕をゆるゆると下ろした。 「・・・何か理由があるの?だったら聞くよ?きっとまた、碌でもないこと考えてたんでしょ」 俺は目を丸くした。この人は一体何を言ってるんだろうと思った。 ――――彼は俺を、赦そうとしたのだ。 恋人が知らない人間と寝たというのに、まだ許すつもりか。 ここまで手酷い仕打ちを受けて、それでも猶、許すのか。 そして俺は戦慄した。カカシさんが、いつもと変わらず、優しい目で俺を見詰めていたから。 瞬間、自分の中の感情が溢れた。殴られもしなかったことは、俺の矜持を激しく切り裂いた。同時に、いつもの力関係が逆転していることに訳のわからない怒りが湧いた。 主導権を握っているのは「俺」で。「彼」はあくまで、それについてくるというスタンスで。 「・・・ありませんよ。理由なんて、何も。ただ、寝たかったから寝ました」 渦巻く黒い感情が、俺に酷い言葉を吐かせた。 「殴ればいいでしょう?どうして殴らない?」 「イルカセンセ・・アナタ、ちょっとそれは・・・・酷いんじゃない」 落ち着いて穏やかな、けれども、語尾が軽く震える彼の言葉に、俺は目を細める。 「俺はこんな男ですよ。嫌なら、別れればいいでしょう」 喉から、まるで知らない人間が言葉を発しているように、無意識のうちに最悪な言葉が垂れ流される。カカシさんの顔が酷く悲しげに歪んで、彼の腕が震えた。ほんの僅かなそれだったが、俺は彼がまた、俺を殴るのを寸での所で止めたことを知った。 それを理解した途端、もう我慢が出来なかった。俺は机を強く叩きつけて立ち上がった。 「殴れよ!!」 「・・・この、最低野郎・・・!」 俯いたカカシさんの喉から小さく漏らされたのは、付き合ってから初めて俺に向けられた、罵りの言葉だった。 それを聞いて、すっと胸の内が凍った。 「今頃気づいたんですか?えぇ、最低ですよ。俺は。・・・もう顔も見たくないでしょう? 出て行ってやるよ!」 それで、おしまい。 身に沁む冷気が、乱れた髪の間から頭蓋へと滑り込む。荒い息が鎮まるにつれて、するすると思考が冷えてゆく。 どうして飛び出してきてしまったのか、考えれば考えるほど訳が判らなくなった。 何やってるんだ、俺・・・どうして俺は、あんなことを・・? だって彼は、本当に何も悪くない。 次第に落ち着いてゆく感情に、自分の支離滅裂な行為に泣きたい気持ちになりながら、もう一度、未練がましく背後の道を振り返る。 霧雨に沈む闇。 ・・・当たり前だろう。追ってくるわけがないだろう。 もし俺が彼なら追うか?追うわけがない。 そもそも、悪いのは一方的に俺だ。もしこれが逆の立場なら、俺は出て行った彼を横目で見ながら、絶対追ったりなんかしない。あぁどうぞどうぞ、行ってらっしゃい。どうせいつもみたいに、しばらくしたらまた戻ってくるんだから、 と 思って・・・・ 指先がぎくりと強ばる。 「・・・なんだ、それ・・・」 頭を後ろから黒い塊に押しつぶされたような感覚。 何だそれは。 この期に及んで、彼に全て委ねてしまっている自分に愕然とする。自分は何も行動しないまま、彼が手を差し伸べてくれるのを待っているだけ。 いつものように、彼が俺を追いかけてくればいいのだ、と尊大な気持ちを捨てきれないまま。 「俺」は常に、「彼」との関係を律する立場で。 「彼」は「俺」が何をしても、いつでも俺を追いかけてきてくれて。 それはとても居心地の良い関係だった。 俺は彼に全てを委ね、そっぽを向いて待っているだけでいい。 この一方的な関係は、居心地が良かった。居心地が良すぎた。 心地良すぎて、意識しなければ忘れてしまうほどに。 俺は雨の中、唇をぎりりと噛み締める。薄く鉄の味が漂い、雨の埃っぽい匂いと混ざって雨雲へと吸い込まれる。 「・・・だからなんだよ、それは!」 吐き捨てた声は、足元の泥濘へと吸い込まれて姿を消す。 はっきりと意識した自分の勝手な思考に、愕然とした。 ・・・なんだ、俺は そんなに価値のある人間か?いつからそんな、尊大な馬鹿になっちまったんだ俺は。 いつの間にか、俺は彼から与えられる優しさの上に、胡座をかいていた・・・? いつからか、彼の与えてくれる優しさに酔って、頭のネジが飛んでいた? 身体に染み入る雨が、否応なく、オーバーヒートして短絡的な経路でしか物事を考えられなかった頭を冷やしてゆく。 種を蒔いたのは彼だから、俺が怒って当然?・・・ガキか、俺は。 そうだ、ガキだった。俺はいつだって。 それでも、そんな子供じみた感情も、いつも彼が困ったような顔で、自分が悪いふりをして、全て受け止めてくれていたから。俺が、自分の馬鹿を認識する前に、いつも彼が抱き締めてくれていたから。 大人なのは自分だと、大人の自分が、馬鹿をやらかしてばかりの“彼”を、諭し御しているのだと。 思い上がっていた。 気づいた。いや、本当は、ずっと前から知っていた。 いつだって、大人なのは彼の方で。 彼だったじゃないか。 いつも俺の中では、二つの相反する思いが鬩ぎ合っていて。 ――――なら、いっそこの手で。
女を連れ込んだ。いつも彼と抱き合うベッドに。そこに残る彼の幻影に見せ付けるように、女と交わった。 女を抱きながら、あぁこれで彼との関係も終わる、と安心する一方で、酷い焦燥に襲われた。 吐き気がするほどの罪悪感。俺は無意識のうちに泣いていた。 今すぐにでも見つけて、酷く叱って欲しかった。殴り飛ばして、俺の非を責めて欲しかった。 別れたくない。けれども、別れたい。 これだけ彼が胸の奥に食い込んで、離れなくなっているから。きっと捨てられたら、俺は壊れてしまうから。 別れたい。別れましょう。 ・・・でも、やっぱり 「カカシさん・・・・」 ぽつり、言葉が漏れた。 俺があなたよりも上の立場に立っていれば、あなたは決して俺のもとを離れないような気がしていたんだ。 あぁ、そうだ。あの時湧いたのは怒りではない。 あなたが上位に立ってしまったことで、自分が捨てられるのではないかとの、恐怖。 「・・・カカシ、さん・・・」 ごめんなさい。それでも、俺はやっぱり 「この、馬鹿」 突然、真後ろから声が降る。 咄嗟に振り返った。多分、相当に間抜けな顔をしていたんだろう。柔らかな雨に銀髪を打たせながら闇に溶けていた彼は、驚いた俺を見て 心外そうに顔を顰めた。 「・・・あのね、一応オレ、上忍なんですよ。そんなにびっくりしないでもらえます」 不機嫌な声。 驚きと戸惑いと、心底焦がれていた彼が目の前に現れたことへの泣きそうな喜び、しかし彼を怒らせているという恐怖が胸の内側へ一時に押し寄せ、俺の心臓を焼いた。早く、早く謝らなければ。けれど何て言う?浮気してごめんなさい?馬鹿なことばかり言ってごめんなさい?・・・違うだろう。もっと他に、伝えなきゃいけないことがあるだろう? 相変わらず、冷たい瞳が降ってくる。普段の彼からは考えられないような、感情を無くした、どこまでも冷徹な人間の目。当然だ。身体の中で蟠る言葉で、喉が引き攣る。 「好きです・・・」 長い時間をかけて、俺にやっと言えたのは、その一言だけだった。 しばらくじっとオレの方を見詰めていた彼が、ふう、と小さく溜息を吐く。それに浅ましいほど反応してしまい、情けなく身体が強ばった。 「本当は、声なんか掛けないつもりでした」 淡々と彼が言う。 「・・けど、アンタは今 自分だけの場所でオレを呼んでくれたよね。 ――――だからもう、いいですよ」 彼の瞳が、ふらりと緩む。実は嬉しかったんです、と言いながら、もう濡れ鼠になってしまった髪をがしがしと掻いた。 「――――けど。 ・・・ね、イルカセンセ」 言いさし カカシさんが、右腕をゆっくりと肩口へ折り畳む。じっと俺を見据えながら、逸らされる事のない瞳。 はっとするほど真剣な、鋭い眼差しだった。何かを訴えかけているような、彼の心の内が流れ込んでくるような。それを見た瞬間、俺は彼の言わんとすることを理解した。昔からの喧嘩癖で、咄嗟に奥歯を食い縛る。 パン! 間伐入れず容赦ない一撃が左頬に入り、目の前に赤い火花が散る。恐らく手加減はされたのだろうが、彼の本気に近い平手は俺を甘やかすことなく、俺は勢い付いて土砂の中へと倒れ込んだ。唇の端が切れ、殴られた側からは止め処無く鼻血が流れだす。拭いもせずに、揺れる視界を叱咤して、すぐに彼に向き直って立ち上がった。彼の鼻先へ頬を預け、また歯を食い縛る。こんな所で気を失ってしまうのは、彼にとても失礼な気がしたから。 幾らでも彼の気の済むまで、殴って貰って構わなかった。熱くなる頬に、彼の押さえ込んだ色々な感情が詰まっている気がして、苦しくて、俺は静かに涙した。 そんな俺を見て、彼は目尻を下げて少し微笑んだ。少し眉が寄って幼くなる、俺の大好きな、あの笑顔。 そして、雨をたっぷり吸った口布を引き下げると、彼は同じ様に俺に向かって左頬を突き出した。 「はい。イルカ先生もいいよ。」 自分の頬を指し示す彼に、訳が分からず困惑の眼差しを送ると、彼は目を閉じて言った。 「こんな所まで、アナタを引きとめもせずに来させちゃったから。アナタに嫌われるのが怖くて、殴ることも出来なかったから。・・・だから、はい。」 そう言って、律儀に頬を差し出してくる無防備な彼の姿。それに、堪えきれずに唇が震える。 あぁ、ほら。やっぱりあなたは、こんなに優しい。そうやっていつでも俺を、そっと抱き締めて赦してくれて。 どうしようもないほどの愛おしさが込み上げて、俺は拳の代わりに、初めて自分から彼の唇に噛み付くような、キスをした。
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