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夕刻の、いい匂いのする町の中を、カカシはゆっくりと歩いていた。 受付所からの帰り道だ。今回の任務はランクが高かったが、首尾は上々。 仲間も勘のいいヤツばかりが揃っていたので、最低でも数日かかると言われていた行程を僅か一日足らずでこなし、こうしてまだ日のあるうちに帰還することが出来た。 筋肉は流石に疲労しきってはいるが チャクラ切れで倒れることもなく、ゆっくりならばまだ自分の足で歩ける。 上々だ。 ・・・だからまぁ、受付所でイルカ先生に会えなかったのもしょうがない。がっかりしたけど仕方ない。こんな日だってあるさ。 夕日の照り返しを受けて雲が緋色に染まっている。川に沿って歩き、大きく深呼吸すると、夕餉の匂いに混じって青々とした草の匂いと水辺の匂いが肺に沁み込んだ。 夕日の薄紅を羽に刷いたからすたちが 帰ろう帰ろう と鳴いている。カカシは覆面越しに目を細めた。 あぁそうだね、帰ろう。愛しいあの人のところへね。 イルカ先生はびっくりするだろう。オレの帰還予定は最短でも明日となっているから。 アカデミーにいなかったから、もう家に帰って夕飯の用意とか、してるんだろうか。 小さな羽虫がか弱いうなりを立てて耳元を通り過ぎてゆく。 カカシはつらつらと考えながら、連なる土手をゆったり歩いた。 ―――けどあの人、意外に横着もんだから、一人になると途端に三食ラーメン、なんてことになってるかもしれない。絶対体壊すからやめろってあれだけ言ってるのにね。 あ〜でも、まさか今日オレがくるなんて思ってないだろうから、家で用意してたとしても一人分だろう。 ・・・・ ・・・けどさ。けど。もし、もしも ――――こっそり帰って、センセが他の知らないヤツと その・・・・「致して」たりなんかしたら? (う・・・うわ) 勝手に想像した『もしも』に自分で青くなる。 (いやまさか!そんなことあるわけないでしょ。うん、ないない。第一イルカセンセそういうの嫌いだし。あんな真面目な人がそんなことするわけないし! け・・・けど、もし・・・・万が一、億が一、帰ってそんなことになってたら? 妄想余って、知らず知らずのうちに物凄いスピードで川縁を歩いていたカカシの前に、不意によく目に馴染む光景が現れた。 土手に立ち尽くし、その身を優しい赤に染めてじっと空を見上げている後ろ姿。 少し重そうなベストに、撫肩のライン。一括りにした黒い尻尾が重力に従ってふさ、と垂れ下がり、それに引かれる様に彼の目線が空へと上がっている。 (イルカセンセ・・・!) けれど、嬉しくて反射的に駆け出そうとした脚が無意識に止まったのも、思わず大声で呼びかけようとした口が動かなくなってしまったのも、全ては彼を驚かせようとしたからではなく、 ・・・イルカの手に握られていた、非常に彼にそぐわないモノのせいだった。 イルカが手にしていたのは、つるんとした真っ赤な風船だった。つくりもののリンゴのような安っぽい赤に、白抜きでカカシもよく使う商店街の名が入っている。 その糸の端を大切に握って、イルカは、緩やかな風に揺れるその風船越しに空を見ていた。 そこにいるのは確かに大人のおとこなのに、いつもの彼にある、受付所でのあのてきぱきとした空気や、生徒を優しく諭して教え導いているアカデミーでのあの大きな存在感がすっかり削げ落ちて、立ち尽くす彼はまるであどけない小さな子供みたいな、甘くてまるい空気に包まれていた。 カカシはその光景を絵本を読むような気持ちで眺めながら、ぼんやりとイルカに近付く。 「・・・・っうわ!!カカシさんっ!?」 彼まであと数メートル、という所で、イルカがカカシに気付き、まさかという顔で目を見開いた。 「び、びっくりした・・・もう帰られたんですか?」 想像通りのイルカの言葉に、しかし、思っていたのと全く違う稚い彼の姿に思わずカカシは笑みを零す。 まだ額宛もしたままで両手に沢山の買い物袋を重そうに提げて、その手に風船を握る彼の姿は、夕刻の風の中でとてもいとおしかった。 「えへ。思ったより早く終わっちゃいまして」 「え!?でも、確かランク・・・S、でしたよね?あ!まさかまた無茶なこと・・・・・は、してないようですが・・・」 カカシの身体やチャクラをざっと検分してイルカがほ、と息をつく。 「してませんよ〜。倒れたりなんかしたらまたアナタを怒らせちゃうし。 ・・・ってそれよりセンセ、何ですソレ?」 訝しげに手の中の風船を指差され、イルカは思わず頬を赤らめた。 ばつが悪そうに視線を彷徨わせながら、鼻の傷を掻く。 「い、いや別に・・・只の風船なんですが・・・」 「・・はぁ、そうみたいですけど・・・なんでまた?」 「・・・・・」 唇をきまり悪そうにきゅっと結んだイルカの頬が、夕日に照らされて杏色に光る。 「・・・イルカ先生?」 「――――ッ!ほ、欲しかったからですよ!!何だか急に欲しくなって、それで・・・」 わざわざ通り過ぎた商店街にまた戻って、貰ってきたのだ、と次第に小さくなる声で付け足したイルカの横で、 「・・・・へ。欲しかった、んですか?風船?」 眠そうな目をきょろりと見開いてカカシが驚くと、イルカは唇を引き結んでそっぽを向く。 「そう、そうですよ!!別にいいじゃないですか!!」 「・・・へへ」 「・・・・何です・・・」 「や、なんかイルカセンセ、か〜わいいv」 にやにやと笑いながら回り込んで顔を覗き込むと、わざとムッとした顔を作ったイルカが赤い眦を上げる。 「変なこと言わんでくださいよ。・・そういう気分の時だって、あるでしょう」 全く嫌な所を見られた、といわんばかりの苦いイルカの表情に、カカシは更に笑みを深くした。 川面を夕日色のあめんぼたちが滑る。温い風に吹かれて土手の蒼草がやわやわと揺れる。 「そんなね〜風船がいいんだったら、幾らでも買ってきてあげるのに」 「ちょっともう・・・判ってないなぁ。こういうの、貰えるのがいいんじゃないですか」 一日の熱の名残を受けながら、二人、風船越しにぼんやりと暮れゆく空を見上げた。 風に薄っすらと火薬の匂いが混じる。どこかで子供が花火をしているのかもしれない。 一言二言、ぽつぽつと交わしながら、カカシはイルカが手に握った風船の糸を掴んだり はなしたりしているのに気付いた。 しゅる、しゅ、するり 彼が手の力を緩めるたびに白い糸は掌をすべり、空へと抜け出そうとする。それを寸での所で掴みなおして、また はなす。 カカシにも覚えのある、子供の手遊び。手持ち無沙汰な時の遊びだが、これが中々どうして、難しい。 頭で考えたことが指先へと伝わるのにかかる時間差が、手を思うように動かしてくれないのだ。柔らかな細い糸は、至極簡単に指の葛藤をすり抜けてしまう。 手指の反射を鍛えるのに、アカデミーでも蝶に結んだ糸を追う実習があった。 存外難しかったそれを思い返し、カカシは慌てる。 「ちょ、ちょっとセンセ、危ない!風船、飛んで行っちゃいますよ!?」 重力に逆らって空へ舞い上がろうとする風船。それが手に繋がれて、かくんと止まる様を幾度も飽くことなく見詰めるイルカ。 橙の光が留まるその横顔は、うっとりと空を見詰めているようにも、何も映していないようにも見えた。 「えぇ・・・そうですね」 「そうですね、って・・・」 ――――欲しかったんでしょ?大事な風船なんでしょ? そんな大荷物なのに、放さずに大事に持って帰ってきてさぁ。 思わずしどろもどろするカカシとは対照的に、イルカはすべる糸の感触を楽しむように、穏やかに笑みながら風船をはなして、また掴む。 夏の空気がやわく丸まって落ちてきたような、ゆるやかな時間が二人の間を過ぎていく。 不意に、川下から渡ってきた気紛れな風が頬を掠めた。 あ、と思う間も無く、緩めたイルカの掌から糸が奪われ、見る間に紅い玩具は夕空へと攫われる。 「あぁホラ!だから言ったでしょ!」 「・・・あ――――ぁ」 咄嗟に風船へ手を伸ばそうと身構えたカカシは、思わずイルカの間延びした声に気を削がれた。 あまりにも場違いなその溜息に驚き え、とイルカを振り返ると、呆けたように空を見ていたイルカが小さく笑む。 「・・飛んでっちゃいましたね」 「・・・って、い、いいんですかイルカ先生!?」 「何が?」 「何がって・・・!風船!!」 「あぁ」 どんどん小さくなる風船を見、不意に感じた子供っぽい焦りと共に、慌ててカカシはイルカに訊ねる。 「イ、イルカセンセ ホントにいいんですか!?今ならまだ、取れますけど・・・」 空と此方とを交互に見ながら慌てるカカシの様子に小さく吹き出したイルカは、また空を見上げて口元に微笑を浮かべ、夕暮れの空気を大きく吸い込むような素振りを見せた。 「いいんですよ」 風船の軌跡を辿って目を細めるイルカ。慌てるでもない、その静かな空気に、カカシも次第に毒気を抜かれてしまい、為す術なくイルカと同じ空を振り仰ぐ。 天へ天へと昇ってゆく作り物じみた赤が、夕暮れの空とひとつになる。 空の端に残る淡い水色と夕日の紅が熟れて交じり合う場所に、つるんとした赤は吸い込まれるように小さくなってゆく。 どんどん小さくなる風船の影。どんどん、どんどん・・・ (・・・あぁ、もう無理だ・・・) ――――もう 届かない。 カカシは知らず知らず詰めていた息をふっと吐いた。瞬きを忘れていた瞳が熱く軋む。 自分の手の及ばない所へと飛んでしまった風船が、とんでもなく大切なものだったように感じ、カカシは何だか惜しい気持ちに囚われた。 (遠いな・・・) 家へ帰るのだろう、子供たちのはしゃぐ声が遠くに聞こえる。 ゆっくりゆっくりと空に融けていく風船をぼんやりと眺めながら。 夕刻の時計は ふたりの間を酷く緩慢に進んだ。 ・・薄暮の裾に濃紺が混ざり始める。 殆ど風船の姿が空に掻き消えてしまいそうになった時、今まで沈黙していたイルカがふと 呟いた。 「――――商店街であの風船を見たとき、なんだか小さい頃の事を、思い出したんです・・・」 両親に連れられて行った商店街で、配られる風船を見るたび 欲しい欲しいって大騒ぎしてね。 荷物になるからやめなさい、って どうせすぐしぼんでしまうんだからってどれだけ宥められても、諦められなくて。 ・・・随分迷惑かけたなぁ。あのときの父と母の顔、思い出してしまったんです。 「さっきも川縁で、両親の事考えてました。 ・・・・あなたのことも。」 「イルカ先生・・・」 空から目を戻したカカシは、イルカの顔をまじまじと眺めた。夕日の残像が瞼から剥がれず、そのままイルカの頬へと焼きつく。 目を瞬かせた不意を付いて、イルカは唐突に切り出した。 「・・手を放してみたくなったこと、ありませんか」 え、とカカシが聞き返す間も無く、イルカは続ける。 「風船。この手を放したら、一体どうなるだろうって。 手の中にあるのは、大事な糸だって判っているのに、このまま握り締めていたら風船は永遠に自分の物だってわかっているのに。 それでも、手を放したくなってしまったこと、ありませんか?・・・・ねぇ、カカシさん、」 つ、と空から視線を戻し、一呼吸の間をもってイルカは言った。 「あれ、取ってもらえませんか?」 あれ、と真っ直ぐにイルカが指差したのは、真っ赤な夕空の上 まさに今にも消え行こうとしている風船だった。 「え―――――!!?」 まさか、一体何を・・・と驚いたカカシがイルカの顔を見返す。 慌てて視界に入れた彼の顔には相変わらず夕日の影が張り付いていたが、イルカの目が真剣そのものであることに気付いたカカシは息を呑んだ。 「ま、まさか・・・・・冗談、ですよね??」 探るように見詰めた彼の顔に笑みは浮かんでいなかった。答えの代わりに真っ直ぐにカカシを射る黒い双眸が、痛いほどに注がれる。 ひたむきな、子供のような瞳だった。 「・・ア、アナタ、風船はもういいんですってさっき・・・!!」 「気が変わったんですよ」 「風船なら幾らでも買ってあげますから・・・」 「あれが、いいんです」 伸ばされた長い指が、まごうことなく空の一点を指す。 慌ててカカシはもう一度空を仰ぐ。風船はもう肉眼で確認するのが難しいほど高く高く昇っていて、はっきりと姿を捉えられない。 (嘘だろ・・・!?) 「冗談なんかじゃないですよ、カカシさん」 夕日の残滓を髪や産毛に纏わせて、冗談を差し挟む余地も無いひたむきな瞳でじっとカカシを見据え、イルカはカカシに向き直った。 「取って、ください」 「お願いします」 初めて見るまっさらなイルカの表情に、カカシは硬直した。 だが次の瞬間、カカシの頭の中にはもう、彼の我侭を叶えてやることしかなかった。空を振り仰ぐ。そうこうしているうちにも風船はどんどん遠ざかってゆき、その姿を追うのを拒むかのように 沈み際の陽光が網膜を焼いた。 ち、と舌打ちして カカシは必死で頭を巡らせる。 どうする、どうする?どうすればいい?今のオレに何が出来る!? チャクラはもう、底を尽きそうなほどしか残っていない。仮にも任務明けで身体はガタガタ。何か技を出すにしても小さなもの、しかも一つ失敗すれば全てが終わる。 例えば 「あの風船を割れ」、という要請ならば、恐らく今のカカシにとっても造作なかっただろう。忍術なんて大抵は壊すためのものだからだ。 だが、この厄介な依頼人は風船を無事に取り戻し、持ち帰ることを期待している。しかも相手は柔らかなゴム。下手に傷を付け、風圧をかけただけであっさり割れてしまうだろう。 ・・・・・じゃあ、一体どうしろと!?? 考えている間にも 風船の姿は追えなくなる。もう躊躇している暇は無かった。 「・・・うらみますよ、イルカ先生!」 カカシの脇からぱっと白煙が立ち昇ったかと思うと、そこからすらりとした白鷺がのび上がった。 長い首を撓ませ、見事な白羽で力強く大気を叩くと、その姿は見る間に空へと吸い込まれてゆく。 甲高い声の尾を引きながら夕闇を纏わせる白皙は美しく、まるで一枚の絵の様にイルカの目に沁みた。 ――――小さく、小さくなったその姿が視界から消え暫く経った後、再び空の彼方から羽音が聞こえた。 嘴に赤い風船を携えた鷺は柔らかな羽毛に風をはらませ、今度は風船を気遣うかのようにそっと舞い降りてくる。 ようやくその姿が飴細工ほどの大きさに近付いたとき、カカシの身体ががくりと傾いだ。 「マズ・・・・も、切れる・・・かも」 肩で息をするカカシのその呟きが終わらないうちに、白鷺の身体が震えた。嘴から風船が離れた刹那 その姿は白煙と化して掻き消える・・・ と同時に、空中にもう一人のカカシの姿が現れた。 鮮やかな変わり身に、イルカは目を丸くする。 (影分身だったのか・・・!) 宙で銀の髪が翻った。分身のカカシが鷺の後を継ぎ、咄嗟に糸を掴む。 地上のカカシがほう、と溜息をつく。 「やばかった・・・ギリギリ・・・・ ・・けど、これもマズい・・・かも・・・!」 羽を失った生身の身体は、すぐさま重力に倣って落下を始めた。 加速のついたそれは、次第に尋常ではないスピードになってゆく。イルカは息を呑んだ。 だが、地上から20間ほどの高さまで落下した時、操り糸が切れたようにカカシの影分身から力が抜けるのが見えた。 (!チャクラが、切れる・・・!!!) 「畜生!!持てよ・・・っ!!」 咄嗟に地上のカカシが空を睨んで叫び、それに呼応するように落下する影分身が素早く印を組んだ。 「風遁の術!!!」 影分身が力尽きて煙になる僅かに前、分身は印を切り終えた。ゴォ、と空中に小さな竜巻が生まれ、巻き起こった風が地上へ向けて風船を押しやる。 だが、 「くそ・・・思ったより、小さい・・・・・!!」 残りチャクラの殆どを分け与えた影分身の全力は、考えていたよりずっと少なかった。 カカシ本体には殆ど余力が無い。身体を支えきれずに両膝を地面につき、仰いだ空に浮かぶ あと僅か地上に届かない風船に歯噛みする。 頭上僅か数メートル先まで近付いた風船。だが、カカシには飛びつく力すらもう残ってはいなかった。思っていたよりも任務での消耗は大きかったようだ。 「ちく・・しょ・・・!!」 眉間が痛み、ぐらり、と反転する風景。カカシはブラックアウトしそうな意識を必死で押し止め、揺らぐ視界で霞んだ赤い風船を捉える。 無常にも再び空へ舞い上がろうとする風船。あぁ また、遠ざかる。遠く、遠く・・・ (さ、せるか・・・・!!!) 軋む腕を取り上げ、カカシは全力で親指の先を噛み切った。渾身の力で掌を強く地面へと押し付ける。 (これで、最後だ・・!) 「忍法・口寄せエェェ!!!!」 まふ、と上がった小さな煙の中にあらわれたのは・・・・ 「―――――な!?こりゃ一体・・・!?」 「パックン!!!いいから、早くアレを・・取って来い!!!」 突然呼び出された小さなパグ犬は、目の前の状況に目を白黒させる。 蝶の飛び交う、至極平和そうな夕暮れの川原に、瀕死で倒れている主人。必死で主人が指差した先には敵ではなく、真っ赤な風船が一つ―――― 「いいから、早く・・・っっ!!」 業を煮やしたカカシが、右往左往するパグの背中をむんずと掴む。 「飛べええええええぇぇぇっ!!!!!」 「ぎゃああああぁぁぁぁ!???」 渾身の力で空へと投げ上げられたパグ犬は、それでもさすが忍犬、すぐに体勢を立て直し空を蹴って伸び上がった。 獣特有の柔軟な筋肉で跳んだ忍犬は、寸での所で風船へと追いつき、ボールをキャッチするように糸を咥えて、そして ・・・・地上へと着地した。 「も・・・・限界・・・・・・・・・・・」 チャクラもカラ、疲労も限界。文字通り指先一つ動かない状態で地面に突っ伏したカカシの手には、 (ボロ雑巾って、こういうことね・・・) ざらざらとした砂の感触を頬に感じながら、カカシは力なく笑う。 唖然とその場に立ち尽くしていたイルカが、ようやく我に返り小さく零した。 「すご・・・――――本当に取れるんだ・・・・」 「―――――っ!!アンタね・・・・っ!!」 思わずがばっと顔を上げたカカシだったが、途端に身体が悲鳴を上げ、また地面へと力なく頭を垂れる。 (前言撤回。上々なわけがあるか・・・今日は最悪だ!) 「・・・アンタいい性格してますね・・・・ほんと、いつの間にそんな我侭になったんですか・・」 がっくりと地面に顔を伏せたままカカシは恨み言を零した。 もう精も根も尽き果てたところへとどめの一言。 (本気でオレ、再起不能になるかも・・・) じっとりと目だけで最強の我侭をかましてくれた恋人を睨む。消え去る間際の夕焼けが、思い人の背で赤く燃えていた。 「取れないと、思ったんですよ・・・・」 見上げたカカシの目線の先で、黒い影を背負ったイルカが小さくごちる。 「無理だと・・・絶対に無理だと思ったんです。だって風船・・・こんな、ただの風船なのに・・・ あなたにチャクラが残ってないのも、知っていました。本当に無理だと思ったんだ。 けど、けど あなたは 俺のちっぽけな我侭を、こんなに他愛もない言葉を、こんなに必死になって 叶えて、くれて・・・・」 ふ、ととカカシの手に暖かなものが触れた。やさしく、少し乾いた肉厚の指。 イルカがそっと膝まづいて、カカシの手ごと風船を握り締める。 そして、その掌をゆるりと撫でた。 「あなたは本当に凄い人だ。すごい忍びだ。俺が考えていたより、ずっと、ずっと―――― ・・・・だから俺は、もう我侭なんて言いません。俺があなたに望むのは、もう、これきりにするから」 だから・・・・ ふわりとカカシの首に腕が回される。甘いイルカの匂いがカカシを包み、その腕がカカシの頭を強く強く抱き締めた。 「きっと生きて帰るって、約束して下さい。何があっても、きっと この里へ・・・俺のところへ、帰ってくるって。 ・・・俺が生涯あなたに望むのは、それ一つだけだ」 気が付くと、草むらの露を啜る虫たちの鳴き声が 辺りを満たしていた。 額当ての金属と、柔らかな後れ毛に頬を掠められ、カカシは目を見開く。 「イ・・・ルカセンセ・・・・」 常に無いほど強く掻き抱かれているのを感じ、カカシは思わず口元を緩めた。 熱い腕、普通の人より少し体温の高いイルカの熱い肌。抱き締められた腕の息苦しさすらも、堪らなくいとおしかった。 「アナタ、それ すごい殺し文句・・・・」 果実を焦がしたような匂いのついたイルカのベストに、そっと鼻先を埋める。 「・・・んでもって、すっごい我侭ですよソレ」 されるがままイルカの首筋に顔を寄せ、カカシが幸せそうに微笑するのにイルカもまた微笑み返す。 「俺は、自惚れますよ。・・・それでもあなたは、叶えてくれるんでしょう?」 イルカの言葉にカカシは目を丸くする。そして、やれやれ・・・というように首を竦めた。 「完、敗・・・・アナタ、ほんとにいい性格になってきましたね」 「ま、カカシさんとずっといるわけですから」 また目を丸くするカカシを、ははは、といつもの快活さで笑い飛ばしたイルカは、もういつも通りの教師の空気を纏わせていた。 勢いをつけて立ち上がり、カカシの肩をぽん、と叩く。 「さ、怒らないで。今夜は茄子の揚げびたしと鮎の塩焼きにしましょう?」 さっきの余韻など微塵も残さないその笑顔に、カカシは呆気に取られる。 (なんだ・・・この人) 思わず口元が緩んだ。 (可笑しいなぁ) 吹き出しそうになるのを堪えながら、彼の差し出した手に掴まる。 そうしてこんな時、強く実感するのだ。 あぁ、オレはこの人が好きなんだなぁ・・・と。 そうしてきっと、オレは彼の我侭を叶えてやりたくって、また必死になってしまうんだろう。 「・・・イルカセンセ」 「なんですか?」 「もう・・・歩けないです・・・」 カカシがだっこ、と伸ばした手を、イルカは笑いながら優しく引いてやる。 「はいはい」 そっと抱き締めるように肩を貸され、カカシはふふ、と笑んだ。 「何です?」 「・・・いえ、なにも?」 自分の傍らで揺れる赤い風船を振り仰ぎ、カカシは上機嫌で笑った。 暮れかけの空、いい匂いの風、隣にはいとしいアナタ。 前言撤回。やっぱり今日は、上々だ。
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