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家に帰りたくない。 彼の待っている、あの家に。 夜の連れてくる、うすら湿った冷たい風に舌打ちして、オレは顔を顰める。 寝静まる木の葉の里。物音一つしない、深夜の住宅街。本当の真夜中には、動くものなんて何もない。 静寂が均衡を保って、細い糸をぴんと張り巡らせている空間。 だからこそ、オレ達忍びには都合がいい。 こうして皆、眠っている様に見せかけて きっと不穏な気配を感じると同時に目を光らせて飛び起きるのだろう。 まるで野生動物のように。 真夜中のしんとした空気に、しかし、そういった緊張感がほんの僅か溶け込んだ この里独特の夜の雰囲気が、 “待っている”というのは、おかしいかもしれない。 だってオレは、待たれてなんていないだろうから。 最近、めっきりと笑わなくなった彼の、まるで表情を無くした黒い双眸が、無感情にオレの顔を一瞥したのを ち、と又舌打ち。 眉間の辺りからおりてきた激しい苛立ちと、指先から立ち上る不穏な衝動を如何することもできない。 彼と、喧嘩をした。 オレが単独任務に出る、ほんの数時間前のことだ。 今までの諍いなんて比にならない、最悪のやつを。 声を荒げもしなければ、拳なんて振るうこともない。 お互い、表向きは極めて冷静な仮面をかぶっているが、頭の中は憤死しそうなほど煮えくり返っていて ・・・最悪の喧嘩だった。 彼は最近、オレに笑顔を向けてくれることがなくなった。 あぁ、又来たんですか。そうですか。その程度。 そうして惰性で一緒に居て、食って、寝て、セックスして。 それでも、そんな風になってまだ最初の内は良かった。 長い間、本当に長い間一緒に居て、いつの間にかオレ達の間からは 昔みたいな 代わりにひたひたと静かに広がる様な、柔らかで大人しい けれども慕わしげな感情が ―――だが、小さなともし火のように温かなそれは、同時に とても繋ぎとめておくのが難しく。 穏やかに凪いだ海は、気が付けば音もなく冷えて いつの間にか凍りついた湖になってしまっていた。 彼はどんどん笑わなくなっていった。 オレは気詰まりな沈黙に苛立ちを覚え、半ば同棲状態に持ち込んでいた彼の家に「帰らない」ことが度々あるようになった。 衝動的に抱いた、馴染みだった遊女の肌は存外心地良く、オレは現金にも 懐かしい感覚にまるで夢から醒めたような心地を味わったものだ。 彼は何も言わなかった。 散々おんなを抱き散らかした挙句、家に帰って彼を抱いたこともある。 それでも、彼は何も言わなかった。 ただ、笑わなかった。 ・・・もう、いいか と思った。 それはもう、この上なく凶悪な感情で。 潮時ってヤツ?と。 随分酷い事も言った。冷徹の能面を付けたまま、お互いに 言ってはならない決定打を何度も口にした。 彼の饒舌だったはずの漆黒の目が、無感動にオレの顔を一瞥した時、 オレは反射的に玄関の扉を蹴破って、彼の家を後にしていた。 軋む扉に、一拍置いて地面に叩きつけられた鍵が壊れる重い音を、気が狂うほど耳障りに感じた。 ――――初めて、“死んでやろうか”と思った。 お奇麗なあの人には、きっと「殺してやる」よりもそっちの方が堪えると思ったから。 それはとても簡単なこと。 いつもの任務中に、ほんの少し立ち止まればいい。 手を離せばいい。 敵の小太刀の軌道を見ながら、笑って目を瞑ればいい。 そうして「はたけカカシ」らしからぬ最期を知って、あの人が自分を責めて 途方に暮れて、 その想像の凶暴な快感に、オレは身を震わせて笑んだ。 単独任務で、他国の森の中を敵の気配を背負いながら駆けていたときのことだ。 けれど、幼い頃から仕込まれてきたオレの暗殺機械の部分は思った以上に優秀だったようで。 ・・・だめだったんだ。 オレの隙を見逃さずに投げられたクナイがあと少し、ってところまで来た時、無意識に風より速く動いた手が、その黒い塊を叩き落していた。 オレに向けて寸分違わず発動させられた術も、迫る幾本もの刀も、全部。 全部だ。 みんな、無意識の所で体が舞って、的確に“返し”の術が発動されていた。オレは人事の様に反転する空中からその光景を眺めて、なんだ、やるじゃんオレ、なんて思った。 でも同時に、妙な後悔と喪失感と、焼けるような諦念が胸の奥で綯い交ぜになって、 瞬間、あの人の顔が浮かんで。 それで、オレは諦めた。気がついたら右手に握った小太刀に敵一人の首が刺さっていたから、あぁ、じゃあもういいや、と。 そこから先は、只ひたすら 任務という名の殺しに没頭した。 何も考えず、何も思わず。 普段なら厭う血飛沫も、飽きることなく身に浴びて。 ただ、身の奥を抉るように湧き上がる黒い感情に任せるまま、斬って、縊って、叩き付けた。 そうして、頭の中から何もかも追い出そうとした。 思い出しても腹が立つだけだったから。 肺の中に溜まった血臭をたっぷりと含んだ空気を細く吐いて、オレは帰路を辿る。 まだ、手に肉を切る感触が色濃く残っていた。兇暴な衝動もそのまま腹の奥で澱んでいる。 眠れないなこれは、と思ったところで、オレの脚が止まる。知らず知らずの内に又 舌打ちが出た。 ・・・換えの服がない。全部、彼の家に置いて来てしまっている。 久し振りに自宅に帰ろうかとも思ったが、あの無表情な白い空間を思い描いて気が萎えた。 あの空間は只管に薄ら寒い。そして何も無い。 血に汚れたまま、この行き場の無い感情を押さえ付けて一晩過ごすにはあまりにも何も無さ過ぎた。 花街へ行こうかとも思ったが、この姿では下手に騒ぎになりかねない。遊女をはじめ、街の人間たちは一様に血に塗れた忍びの姿を嫌悪している。 この世界が、一体誰のお陰で成り立っているのかも棚に上げて。そうして自らを慈しんで、飾り立て、綺麗に笑う。 ふと浮かんだその考えに、遊郭へ行く気も失せた。 取り敢えず、どう動くにしても着替えは必要だ。 「着替え・・・ね」 血糊の固まった頭をがりがりと掻いて小さくごちると、オレはうんざりしながらも踵を返した。 イルカセンセイの、家へ。 まるで闇に沈んでしまったかのような、ちっぽけな彼の寮。 ちりちりと甲高い音を響かせる表に面した蛍光灯はもう古く 黒くなっていて、本当に蛍一匹ほどの明るさしか無い。 昔は愛しくて仕様が無かったその質素さも 今では苛立ちを誘うだけ。 一足事に軋む階段を、敢えて気配を殺すことなく上がる。そんな配慮をすることすらどうでもよく思えて。 ただ、まぁきちんと玄関からくらいは入ってやろうと若干殊勝な考えで扉の方へ回る。 鍵を挿そうとして、手が、止まった。 ――――鍵が新しくなっていた。 あぁ、そうかそうか。オレが壊したんだっけ? そうでしたそうでした。馬鹿なオレですいませんね。 取り出された合鍵が、阿呆を絵に描いたようにオレの指と填まることも無い鍵穴の間で揺れていた。 腹が立った。 何いい人ぶってこんなことしてるんだかオレ。 自分の滑稽さに笑えて笑えて、仕方が無かった。 あははは そうでしたそうでした そうでしたよ。もうこんなもの要りませんね。 配慮なんて、ほんとにどうでも良かったんだ。 考えるより速く、笑いながら外窓の方へ回る。彼が始めの頃、口を酸っぱくしてオレに教え込んだ「窓から入らないでください」をあっさりと破る。 運良く窓は開け放してあったせいで、それは無残に割られることは無かった。 窓枠に足をかける。彼はいつもの様に窓のすぐ近くに寝ていたので、夜灯りが浮かび上がらせる彼の顔を、オレの影が覆った。 部屋の中は、眠り人の体温で少し暖かい。闇の一番濃い時間の蒼は、音も無く 小さなその部屋の隅から隅までを侵食していた。 イルカセンセイはその世界の真ん中で、青く青く染まっていた。 白い顔も、シーツをうねる長い漆黒の髪も。大方、骨の髄にまで染み込んだオレの気配になんて慣れ過ぎていて、目を覚ますことも無いんだろう。 寝顔だけはいつまでもきれいで、あの頃と何にも変わらなくて。整った眉や、少し彫りの深い眼窩や。白い頬があどけなく緩んで、穏やかな息が静かに吐き出されていた。 ほんの少し開かれた、柔らかな唇や、無防備に晒される白い首筋や。 きれいだった。 ――――今更。 皮肉に 自嘲気味に笑うと、眠る彼の向こうに自分の忍服を見つける。 邪魔してごめんねイルカセンセ。もう二度と来ないよ。 窓際の彼の上を乗り越えるように、その服に手を伸ばした とき 「・・・・カカシ さん・・?」 すぐ傍で、彼が身じろいだ。 酷くざわついた気分で億劫そうに彼の方を見遣る。 心臓が跳ねた。 彼が僅かに首を傾けて、こちらを見ていた。 まだ夢の続きのような、そんな茫洋とした雰囲気を纏って、ほんの少し掠れた声で。 その、彼の目。 オレを映す、彼の瞳。 まるで、オレに向けられるような目じゃなかった。 怒りも憎しみも跡形も無くて、あの、オレを無表情に睨んだ彼の目ではなくて。 初めての珍しいものを見るかのような、幼い子供のような。そんな真っ直ぐで邪気の無い黒い双眸が、静かにオレを映していた。 オレは思わず身震いした。 瞬間、自分がまるでこの世に居ない人間であるかのような錯覚に凍りつく。 彼の目が、オレを通してどこか遠いところを見ているのかと いつの間にか忘れられてしまい、彼の中に、オレなんてもう 欠片も残っていないのではないかと。 暖かな蒼い空気が、真綿のようにオレの首を締めた。息が出来なくなった。 彼の澄んだ目に射竦められ、音も無く時間が止まったように感じた。 不意に、彼が笑んだ。 夢の続きのような優しい顔をして。 「あぁ、良かった」と。 綻んだ口元から、小さく小さく、溜息が零れた。 褥の中から伸ばされた白い腕が、躊躇いも無くオレの頭を抱く。 そして、「夢だった、良かった・・・」と。 オレの首、オレの血塗れの首筋に、額を押し当てて。 「夢の中で・・・あなた、ずっと俺に『たすけてくれ』って。 ・・・おかしいでしょう?上忍のあなたが、俺にずっと『たすけてくれ』って手を伸ばして。 でも、俺の手はちいさくて、ちっぽけで・・・とどかなかった」 掠れた声でそう言って、もう、櫛も通さない血でごわごわのオレの髪を、ゆっくりゆっくり、梳いた。 「助けてやれなくて、ごめん な さ・・・」 ふい、と髪に差し込まれた手から力が抜けた。唐突に、彼はまた眠りの世界の住人となる。 体に掛かった、温かな彼の重み。 オレの髪を揺らす、規則正しい寝息。 動けなかった。 力が抜けて、床にへたり込んだ。 あぁ、どうしよう どうしよう、どうしよう イルカセンセイのさっきの顔。 あれは、まるで初めて出会った頃の二人。 思い出してしまった。 彼は、そう、あんな顔で笑う人だった。 あんな風に、全てを抱きとめてくれる人だった。 色々あった。眩暈がするほどに。気が遠くなるくらいに長い月日、オレ達は一緒に居て、恋をして。 そうして、初めて口付けて死ぬほど嬉しかった事や、自然に一緒に居るようになれて、まるで天国のようだ、と思ったこと。 「帰る家」ができたこと。この幸せがずっと続くように願ったこと。 思い出した。 あの頃のオレは彼に笑ってもらえるためなら、何だってした。 その笑顔を凍りつかせたのは、一体誰だ? いつから彼は笑わなくなった? 悪いのは、先に禁を犯したのは相手の方からだと互いに罪を擦り付け合って そうして汚れたフィルターをかけたまま彼を見続けて。 ・・・オレじゃないか。 オレが 奪ったんじゃないか。 涙が溢れた。 頬を濡らして赤く赤く染まった雫は、後から後から彼の顔へと落ちた。 乾いた血で、ばりばりだったのに。頭から爪先まで血糊に濡れて、服も口布も髪も、真っ黒なのに。 まるで小さな子供みたいに、オレは彼に縋って泣いた。 自分を責めて、途方に暮れて。 「イルカセンセイ・・・」 「センセイ、ごめん。ごめんなさい」 彼の呟いた「ごめんなさい」は、夢の中のオレへと向けられたものだったけれど。 ねぇ、もう一度やり直せないかなぁ? オレ達、あの頃のオレ達に戻れないかなぁ。 オレは、アナタがまたあんな風に笑ってくれるなら、きっとまた何だってするよ。 ごめんなさい。今更かなぁ?ごめんなさい。センセイ、ごめん。 オレはそんなアナタが、やっぱりとても好きなんです。 一晩、そうして泣き続けた。 腕に抱いた彼を見て、そのあまりの穏やかさに、久方振りに流れた涙は涸れることが無かった。
玄関の扉の鍵は、かけられていなかったんだ。
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