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「イルカセンセ」 「イルカセンセイ、ごめんなさい」 「・・・ねぇ、先生」 「・・・ごめんなさい・・・」 必死で呼びかける、彼の背中。頑ななパジャマの背中からは 何の返事も返ってこない。きりりと結い上げられた黒髪が、彼の拒絶を代弁しているかのようだ。 もうどれくらい、こうしているだろう。イルカセンセイはオレに背を向けて、テレビの方へ向かって胡座をかいたまま。 テレビから流れる お昼のなんてことないバラエティ。その間を繋ぐ、これまた他愛のないCM。どうしてこんなにも愛の歌ばかり使われているんだろう。イライラする。甘ったるいラブソングは、今この状況に酷く似合わない。 そんなに画面に見入って。いっつもオレには「目が悪くなるから、1メートル以上はなれて見なさい」って小言を言うくせに、今のあんたは何?画面にかぶりつきじゃないか。そんなに見たい番組でもないだろうに。 ねぇ、先生、早く機嫌直してよ。 テレビの向こうへ回って先生の顔が見たいけれど、この狭い部屋の壁にぴったりくっつけられたテレビは、それすらも許してくれず。いつもの様に冗談めかしてその背中に飛びつきたいけれど、そんなことをすれば更にこの状況を悪化させてしまうことは目に見えている。下手すりゃ、これからずっと口すらきいて貰えなくなるかも、なのだ。 「ねぇ、先生・・・機嫌直してよ・・・」 オレは膝を抱えて小さくなったまま、部屋の隅でもじもじしてみせる。 彼の反応は無い。 ―――――事の発端は、こうだ。今日は滅多にない、オレ達二人の休日で、二人で仲良く「どこに遊びに行こうか」なんて、まるで遠足前の子供のようにうきうきしながら語り合っていたのだ。今朝までは。 朝飯の時、何気なく見ていたテレビに、やけに朝に似つかわしくない、むちむちとした女が映った。 同時にオレは男の生理そのままに「いい女だなぁ」と顔を顰めて言ったのだ。
それが、今のこの状況に繋がっている。イルカ先生は朝からずっとこのまんま。 そしてオレは、彼の背中にずっと謝り続けている。 「イルカセンセイ、ごめんなさい」 「イルカセンセイ・・・」 もう、いいでしょう? 気が済んだでしょう? さぁ、早くどっかへ出かけようよ。二人で。公園でも、商店街でもいい。最近出来た水族館でもいい。あんた、あんなに楽しみにしてただろう? オレ達に休みなんて、殆ど無い。まして、二人の休みが重なるなんて、奇跡に近い。 無理矢理もぎ取ったこの休日、あんたもオレも、本当に楽しみにしてたのに。 ね、先生。もうお昼だ。いつまでこうしてるつもり。もういいでしょう。オレが悪かったよ。悪かったんですよ。 イルカセンセ、早く。早く機嫌直して。 気だるい声のニュースキャスターが、天気予報をうだうだ流している。ほら、木の葉は快晴ですよ。長雨続きだったのに、こんな日、もう滅多にないよ。 どっかへ行こうよ。 ねぇ、先生。 オレたち、もう次はいつ会えるかわからないのに。 身動ぎすらしない、少し撫肩の背中。こんなときでもきっぱりと背筋を伸ばしているのが彼らしい。 ひとつに結われた黒いしっぽ。彼の背中に殆ど隠れている小さいテレビ。 もうどれくらいこの光景を見ているだろう。朝からずっと、オレは先生の顔を見てない。 そう。朝、テレビのあの女を見たとき、 あんたとはなんて違う生き物なんだろうと、オレは確かに眉を顰めたんだ。 潔くて、さらりとしていて、いっそ小気味いいくらい単純で そんな清廉なあんたとは。 イルカセンセイの、顔。シンプルで何の飾り気も無いけれど、不思議と人を惹き付ける その顔。 目。黒目がちで犬っぽいそれ、くるくると良く変わる、表情豊かな瞳。清潔な感じのする、強くひっ詰めた黒髪。潔くてオレは好きだけれど、髪を流した彼も好きだ。髪を下ろすと途端に色っぽくなる。けど、それは全然いやらしい感じではなくて。そう、イルカセンセの黒い瞳、黒い髪・・・
え? オレは目をぱちぱちさせる。膝を抱えたまま、物言わぬ彼の背をじっと見詰めた。透視でもするみたいに。 そう、彼の瞳は黒くてよく動く。彼の髪は真っ黒でちょっと固くてさらさらしてて・・・ ・・・他は? 彼の顔は、どんなだった? 殆ど毎日といっていいほど、彼とは顔を合わせる。受付に行く時は必ず彼のシフト時間を見計らって行くからだ。 そのとき、彼はどんな顔で笑ってた?どんな顔で怒鳴った?オレの大好きなイルカセンセイ。一本気で融通の利かないイルカセンセイ。その目は黒くて、髪は長くて。
思い出せない 彼の印象深い漆黒の瞳と、漆黒の髪が記憶の中で大きく自己主張していて、彼の顔が、わからない。 どんなだった?唇は?耳は?鼻は?ほくろはあったっけ?真ん中の傷は、どんな大きさだった? 思い出せない思い出せない。 オレの頭の中で、彼の瞳と髪だけがくっきりとその輪郭を描き出していて。肝心の彼の顔は、まるで靄がかかったようにおぼろげで捉えようが無かった。バカな。あんなに、こんなにはっきりした存在の彼。何度も愛した彼の顔を思い出せないなんて。バカな。そんなバカな。 「イルカセンセ・・・」 彼の背中越しに、穴があくほど彼の顔を見つめ続ける。白濁した記憶の中、彼はまるで、水に落とした墨のように 黒ばかりが強調された朧な輪郭でもってオレに笑いかける。 まるで、今朝見たテレビの女の顔のように。ぼんやりと。 このまま もしこのまま終わってしまったら。 明日の任務で、オレが死んだら。 じゃあ、彼の顔を思い出すことも出来ずに 逝くってわけ? 「いやだぁ・・・」 耐え切れずに零れた言葉は、我ながら情けなくなるような 弱々しい震えた声だった。 「いやだ・・・そんなの!イルカセンセイ!こっち見て先生・・・」 いやだよそんなの あんたの顔も思い出せずにいくなんて 変に声を詰まらせながら彼の肩に手を伸ばすと、イルカセンセイは顔だけでゆっくり振り向いた。 オレが触れたのと同時くらいに。 あぁイルカセンセイ。先生の顔だ。 もうずっと見てなかった気がするよ。 オレの好きな、顔。けどなんでそんなに滲んでるんだ。これじゃオレの頭ん中通りじゃないか。 「・・・ばか。そんな顔せんでくださいよ」 そういわれて目尻を親指できゅっと拭われて。オレは目をぱしぱし瞬かせた。膨張した熱い目蓋。オレ泣いてんの?みっともな・・・ 「いるかせんせ・・・」 何度か目をしばたたかせると、その度に映画のコマ送りのように 少しずつ鮮明になっていく彼の顔。 目も鼻も口もその傷も。全部オレの期待通りで、全部オレの想像以上の造詣でもって、オレだけの黄金比でそこに存在していた。 「カカシさん」 きっぱりした口調でオレを射る様に見詰めてくる。この目。好きだ。何よりも好きだ。 テレビを意固地に見詰めていたせいか、ちょっと赤くなった黒い瞳。 何を言われるのか、耳をそばだたせると 「俺も、興奮しますよ。テレビのおんな見て」 なんて真顔で言うもんだから、思わず呆気にとられてしまった。 「俺もエロビデオ見たりするし、そういう本だって読みます。男だから。だから一緒。 けどね、カカシさんが他の奴にそうするのは、嫌だなあって想像しちゃったんです。俺 了見狭い男だから」 「・・・・オレも嫌です・・・・」 思わずそう言うと、あははと声を出して笑われた。 「馬鹿。ワガママ野郎」 そうやってひとしきり意地悪く笑った後、彼はオレを見て困った顔になる。 「もう。そんな顔しないでくださいよ・・・癖になっちまう」 あぁ、そりゃさぞかしみっともない顔してるだろう今のオレ。 ぐしぐし泣きながら、あんたの顔を見逃すまいと必死で瞬きしてんだから。 テレビから3時の時報。 とりあえず今日は、どこへも行かずに一日イチャイチャすることに決定。
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