「――――"月"が同行する、だと?」


闇に沈んだ、深い森の中。
幾重にも層をなす木々の落とす影にひっそりと潜み、息をする者達が、
使いの鳥が運んで来たその文の内容に気配を揺らした。

暗闇に薄らと浮かび上がる 赤い隈取の施された、動物を模る素焼きの面。
その面は、彼らが一介の忍とは異なる 特殊な部隊に属することを意味する。
彼らは、木の葉の里暗殺戦術特殊部隊―――――通称「暗部」の忍達であった。


「・・・月、というと、あの"月"か?」
「他に何があるという。しかし、月が我らと行動を共にするとは・・・やり辛い」

ざわめくその場に、ふん、と鼻を鳴らす気配。
その気配に、文を開いた虎の面の男が苛立たしげに視線を遣る。
「何が可笑しい、"狐"」

その問い掛けに呼応するかの様に闇が歪み、音も無く一人の暗部が木肌から浮かび上がった。

不遜に腕を組み、大木に背を持たせかけるその男・・・いや、少年か。
顔を隠した狐面の下からは輝く豊かな銀髪が覗く。
吊り上った目に赤い隈取が施される、異様な風体の狐面に阻まれ その表情を知ることは叶わなかったが、他の暗部よりも一回り細く小さな体にはいっそ不似合いな程の不遜な態度がありありと見て取れた。

「別に何も?・・・ただ、なんだか笑えちゃって。
――――たかが"月"如きに ちょっとぴりぴりしすぎじゃないの?」

小馬鹿にしたような調子に周りの暗部たちが僅かに殺気を纏うが、狐面は全く意に介する様子も無く、木に凭れたまま飄々と幹へ頭を預けた。
その高慢な様に、静かな殺気を込めて彼を睨み付ける者、溜息とも罵りともつかない吐息をつく者。
苛立ちを隠せない様子の一人が、面越しに小さく唾棄する。

「全く本当に・・・やり辛い」


そんな周りの様子など目に入らぬ様に、狐面の少年は軽く首を鳴らして目を閉じる。
いつものことだ。そうした負け犬の遠吠えに 面越しに薄く笑みを浮かべるのも、いつものこと。
見上げると、折り重なる深い木の葉の隙間から、まだ薄蒼い空が見える。

じきに月が昇るだろう。





"月"とは、暗部に属する、更に規模の小さな小隊の俗称である。

火影の直属部隊であるという点で暗部と何ら変わりは無いのだが、"月"と呼ばれる小隊の任務は主に「火影の護衛」であった。
五大国一の領土と国勢を誇る火の国の元締めともなれば、昼夜問わずその身が危険に晒されてしまうのは当然のこと。 加えて、木の葉の里は年若い4代目・火影の計らいにより、その門扉を広く世間へと開け放している。
それは、一方で火の国に交戦意思が存在しないことを世に知らしめるためであり、その試みは確かに火の国にとって"当たり"であったのだが。
だが、同時に 味方で固められるべき自国の懐に敵を招き入れるのと同じ結果を招いた。
故に、火影は自らの直属部隊から数名を、身辺の護衛役として四六時中傍に置いているのである。

火影の御付の暗部・・・その素性は暗部以上に極秘事項であるため公にされることはなく、
暗部に属するものがその存在を知る程度。

里長に信頼を置かれ、特に高い能力を持つ、火影"付き"の精鋭部隊―――
―――彼らは、その立場と掛けて 通称"月"と呼ばれる。





普段なら火影の傍に付いて離れることなど無い その"月"の一人が、
火影直々の命によって自分たちの部隊に同行するというのだ。

それは、何故か。 狐面にも、恐らく他の暗部たちにも、その理由に凡その見当がついていた。
その原因が何であるかも。




――――この狐面の少年、名をカカシという。

僅か6歳にして中忍へと昇格し、幼い頃から数々の重要任務をこなしてきたその天性の能力は
他に類を見ないもの。
だが、火影にその能力を買われ、異例の若さで暗部へと配属された彼には、
性格面で決定的に欠落している部分があった。

幼少時から、彼は殆ど年齢を同じくする者と行動したことが無く、彼の周りを取り巻くのは、
いつも遥かに年の離れた大人達。
玩具の代わりにクナイを与えられ、物心ついたときには既に戦場に立っていた彼にとって学ぶべきことはただ一つ
―――"如何にして敵を倒して生き延びるか"
それだけだった。

戦場では年の差など関係が無い。早咲きの突出した才能が為、常に大人たちと同列に扱われてきた彼の強さは、犠牲にした幼少時の代償とも言えようか。
優秀な忍びの育成を目的とした木の葉の里に於いて、彼の生き方を否定できる者など居ない。
―――だが、カカシが暗部へと配属されて、彼の犠牲にしてきた部分が、大きな弊害となって
目に見える形で顕れ出した。

彼に決定的に欠落しているもの・・・"協調性"である。


火影の直属部隊として、一般の忍びたちには荷の重い難事を与えられる暗部。
必然的に、協力し合い一つの任務を成し遂げる機会が多くなる。
だが、カカシが暗部へ配属されて以来、その形態は大きく様変わりした。

カカシが、周囲を気にせず、スタンドプレイに走るのだ。
自分が生き残る為に、そして一人でも多くの敵を手際良く倒すために。
カカシにとっては周りの仲間ですら、足枷に他ならなかった。
事実、周りの忍びたちは自分に付いて来られていない。首尾よく任務をこなすなら、自分一人でやった方がよっぽど効率が良い。
わざわざ言葉にして伝える手間を省いても、自分の意志を汲み、それに沿うよう動いてくれるのが仲間ってモノだろう。
枷にしかならない存在なら、無い方がましだ―――そのような考えを持つカカシには、周りと協力することはおろか、仲間同士信頼し合おうという気がそもそも無いらしかった。

が、カカシが暗部に配属になって後、こなせなかった任務があるのかというと、そうではない。
彼の存在によって、今まで以上に任務の幅が広がった部分があることも否めない。
・・・しかし、全てを自分の独断で片付けようとする為、一つの任務に掛かる日数は遥かに延びるようになった。
意思の疎通の無い戦いで、負傷者が出るようになったのも彼が配属になってからである。
だが、そのような怪我の責任まで自分に押し付けられては堪ったもんじゃない、というのが
カカシの言い分であった。
自分の能力の無さを他人に擦り付けるのは如何なものか、と。

どのように意思の疎通を試みたところで 常に暖簾に腕押し状態のカカシに、暗部の人間達の鬱憤は溜まるばかり。
近頃、任務効率も目に見えて落ち込んできているのだ。


そこに、火影の付き人直々の介入。



カカシは理解していた。
今回の事態を招いたのは、ひとえに自分の存在が理由であること。

・・・果たして御咎めか、戒めか―――――

だが、自分の能力ゆえに、火影も自分を切り捨てることなど出来はしないということも、
この聡い少年は十分に承知していた。



誰に何と言われようと、今の自分のスタンスを変える気は無い。

(来るなら、来い――――)

恐らく手練れの忍びが寄越されるに違いない。
だが、カカシにとってはどのような強者が寄越されようと何ら気構えることはなかった。
幼い頃から、多くの屈強な忍び達と行動を共にしている。
どのような歴戦の忍びが送られて来ようとも、年若い無謀さも手伝ってか、それは カカシにとって歯牙に掛けるほどの存在でもなかった。

(――――そして、さっさと尻尾巻いて帰るがいいさ。)

自分は何者にも流されない。そうして生きてきたんだ。そして事実、自分は強い。
今更、負け犬達の戯言に付き合って何の得があるというのか。

カカシは冷えた夜気の中、鼻先で小さく笑った。








やがて、墨を流したかの様な漆黒に空が染められ、緑深い山の中に真の暗闇と静寂が訪れた頃。



――――暗部達の潜む駐屯地に、音も無く一人の忍びが現れた。

その名の通り、背に大きな月を背負って。
予め定めてあった山間の合流地点で"月"と対面した暗部達は、その姿に驚愕した。
月を背負い、蒼く陰になるその姿。暗部と同じ忍服にその身を包み、顔には素焼きの面がある。
伝説の鳥を模ったそれには、金の隈取が施してあった。
月影に居て猶、際立つ長い漆黒の髪が、一つに結い上げた組紐と共に夜風に揺れる。

だが、およそ夜には相応しくない、しなやかな手足に小さな体・・・。



(――――――子供・・・!?)



「火影様より御命を受け参上。残党殲滅の任務完了まで同行致す」
面の下から洩らされたのは、無駄を一切省いた簡潔な物言い。

発せられたその声に、カカシは僅かに身構え、面越しに鋭くその"月"を一瞥した。

(できる)

いっそ素っ気無いほどのそれであったが、面に籠った声は抑揚が無く、相手が恐らく「男」である、といったこと以外は全く情報を与えない話し方であった。
果たして、その年齢すらも。
他の暗部もこの未知の同行者の能力を肌で感じ取ったのか、場に異様な緊張感が立ち込める。
しかしそれを意に介する風も無く、"月"は少し視線を巡らせた。
ピン、と空気が張り詰める。
・・・そして確かに、"月"は面越しにカカシと視線を合わせた。

「――――加え、私は火影様の御命により"狐"に付く。他は各々作戦通り行動されたし」

その言葉に、カカシは眉を跳ね上げる。


(・・・直球で来たな。)

すぐに元の冷静な顔に戻ったカカシは、その"月"に冷ややかな視線を投げつけた。
(火影様も侮ったか。子供など寄越して、何が出来るという・・・)


・・・ま、
どこまで出来るか。見せて貰おうじゃない。



カカシは、月を背負うその少年を、敵意を込めて睨み付けた。




****


闇が森の中に天蓋を下ろす。
空気も凍りついたかのような暗闇の中、疾風の様に二つの影が 枝葉の隙間を縫って走り抜ける。
木々の途切れ目から洩れるのは、冴え冴えとした冷たい月の光。

「――――右に、三」
「次、左から四」

無表情な仮面の下から洩らされる、低く押し殺した、しかし明らかに自分に向けて発されていると思われる"月"の声に、カカシは苛立たしげに舌打ちした。

「ちょっと、何のつもり。うざいよ。それくらい分かってるから黙れ」

その言葉通り、間伐入れず左右の梢から降って来た敵を、投げたクナイで二人、返す刀で一人倒したかと思うと、息吐く間も無く跳躍して先の梢へと跳び移り、更に先へ先へと走る。
カカシの斬り損なった残りの四人は確認するまでも無い、同行している煩いこの"月"が瞬く間に斬り伏せてしまった。

カカシは内心更に舌打ちを重ねた。
幾千もの難易度の高い戦闘を潜り抜けて来たカカシには、スピードに対して絶対の自信がある。
体が軽い所為もあり、本気になって風に乗れば まず、カカシに追いついて来られる者は暗部には存在しない。
だが、徐々に速度を上げ振り払ってやろうとしているにも拘らず、"月"の少年はまるで縫い止められたかの様に自分のすぐ真横に付き、先程から寸分もその距離を違えようとしないのだ。

・・・いや、それどころか・・・

今まさに自分が手を掛けようとした梢を、それより早く横から伸びた"月"の手が掴むのを見て、カカシは瞠目した。
(こいつ・・・!)
カカシが牽制して後、"月"は言葉を発するのを止め、その代わり、カカシより僅かに先手を取るようになったのだ。
勿論言葉は無い為、自分より数歩先に動く彼がどのような行動に出るか全く判らない。
だが、先手を取る彼の動きは 自分がこれから為そうと思っていた行動そのものなのだ。
それを自分よりも僅かに早く 彼はやってのける。

(くそ・・・!)

自らの脚が幹を蹴る密やかな音しか聞こえない。耳の痛いほど大気の張り詰める夜だ。
草も揺らす事無く 疾風の如く駆け抜ける森の中、
研ぎ澄まされた感覚に左前方より敵の気配が引っ掛かる。
その敵に向かって走り抜きざまカカシがクナイを浴びせようとした、その僅かに一瞬前に 
敵はカカシの脇から放たれたクナイの雨によって枝から地面へと転がり落ちる。

!!
また・・・!

カカシは面越しにすぐ脇にある気配を睨み付けた。

畜生・・・自分より僅か先を取られるのが、こんなにも動き辛いなんて。
しかも、何の言葉も無い。それが、味方にこれほどまでに脚を取られる結果になるとは・・・

―――無論、カカシが仕留められなかったと言って何ら任務に支障が出ているわけではない。
仕留め損なった敵忍は言うまでもなく、横に付いた"月"が片端から地へと沈めているからだ。

それが輪を掛けて腹立たしく、カカシは苛立つ自分の感情を押さえられなかった。

今まで誰も自分の前には出たことがなかった。
自分が肩代わりこそすれ、まさか自分が遅れをとったことなど、ある筈がない。
それがカカシの若い自尊心に拍車を掛け、無意識ながらに他者全てを見下すような感覚に陥っていたのだ。

(くそ、くそ!!)

未だかつて感じたことの無い憤りと焦りに、カカシは仮面の下で歯噛みした。



相変わらず一言も発さず、常に自分の僅か先手を取り、自分には殆ど敵を残すことのない"月"。
今回の任務――――反乱軍の残党を、小部隊各々のルートで始末しながら合流地点へ向かう、という任務の性格上、仕方なく苛立たしいこの同行者と共に三晩を過ごしたが、その間、二人の間に会話は一切なかった。
黙々と戦い、敵の切れ目を見ては携帯食を食し、休息を取り、そして、眠る。
カカシは"月"の動向を逐一探った。が、一体何時眠っているのであろう、彼は殆ど休眠を取らないのだ。
カカシは苛立ちで常に彼の動きが気に掛かり、充分休息も取れぬ状態で、敵を斬る手応えも満足に感じられない日々を過ごした。

どれほどカカシが粘っても、喰らい付いても、"月"は一向に揺らがなかった。
常にほんの少し、ほんの僅かだけカカシの先を行く。
――――この「少し」の差が 堪らなかった。
実力の均衡した者の競り合いがここまで枷になるとは、今まで知り得ることも無かった事実だった。

何より、知らぬ内に焦りの出てきている自分が恨めしかった。
"月"より先へ出ようと胸中に焦りが渦巻く為に、無駄な動きで細い枝を踏んでしまい、その音によって敵忍に居場所を知られてしまうという、有るまじき失態までやらかしてしまったのだ。


―――解っている。
これは、警告だ。ある意味、火影様から直々の。
しかし、身をもって痛いほど理解しているにも拘らず、カカシには、素直に火影の意思を受け入れ、行動を改めることが出来なかった。
カカシの心に巣食った若い自尊心が、どうしてもその一線を超えることができない。
そして、わざわざ この"月"を寄越した火影の思惑を推し量ることは出来こそすれ、 
それをあっさりと受け入れることなど 自尊心のカタマリであるカカシに出来る筈もなかった。





任務は四日目に突入した。
この速度で行けば、恐らく今日で前以て予定してある合流地点へと到達することができる筈だ。

連日に渡る、今までに経験し得なかった戦闘で、カカシは無意識の内に極度の疲労と睡眠不足に陥っていた。
聡い彼は、火影がこの"月"をわざわざ自分の所へ寄越した理由など、この三日でもう充分過ぎるほどに理解していた。

(こいつは・・・こいつのやり方は、オレ、そのものだ―――)

しかし猶、それを認めて受け入れるだけの柔軟性を持たないカカシの中に燻るのはただ一つの感情。

(合流地点に到達する前に、何とかこいつを出し抜く・・・!)

ギッと隣の"月"を睨みつける。
"月"は連日の戦闘を物ともせず、相変わらず全く乱れの無いチャクラでぴたりと横に付いて来る。
普段は何の感慨も持たない、自分と同じその素焼きの面がいっそ不気味に思えた。

カカシは必死で彼を追っていた。
最早、同行者である"月"の方がカカシよりも少し前方を走るようになっている。
普段なら気に入らない相方に対しては冷徹とも言える態度を取り 仲間を捨て行くことを物ともしないカカシだったが、今回ばかりは勝手が違った。
今までに抱くことの無かった烈火のような感情そのままに、ひたと目標を見据えて森の中を走り抜く。


もう少しだ、もう 少し
もう少しで、こいつを・・・!

カカシの天性の能力が如何なく発揮され、彼は天才的な集中力でただひたすらに"月"の先手を取ることのみを考え走った。
他のことなど殆ど頭に残っていなかった、と言っていい。
思いもよらなかった 溢れんばかりに湧き上がる敵対心に、カカシは我を忘れて大地を蹴った。


休息らしい休息も取らず先を目指すカカシに、"月"は一言も発さず共に従った。

ほぼ丸一日走り、敵と剣を交えた(無論、その殆どは月が先手を取って倒してしまったのだが)為、
再び日が昇りかかる頃にはカカシの体力は限界に来ていた。


――――太陽が昇る、それと同時に恐らく合流地点だ。

普段なら、当然忍びの本分を全うする為、いくらカカシでもこのような無謀な策には出ない。
しかし、決してこいつにだけは負けられないといった制御できない感情が、彼を闇雲な行動に走らせていた。
周りのことなど全く目に入っていなかった。



(畜生!なんとしてもこいつより先に)

敵を・・・!


山際から薄暗がりの空に鋭い陽光が洩れる。朝が近い。
疲労で限界を超えそうな意識の中、それでも忍びとしての無意識か、
獣の様に鋭く尖らせた五感に、前方から迫る敵の気配。


これが、きっと最後だ。
こいつらだけは絶対に譲れない・・・!!


早く、早く!


身体中のばねを使い、渾身の力で手頃な木の幹へ飛び移る。



何としても、こいつより先に・・・!!!

敵を――――!!!!



全力で幹へと伸ばした自らの手の先には、しかし、いつものように横から伸ばされた手は無かった。





「――――――――!?」


思わず、自分の脇を顧みる。

(―――出し 抜いた・・・!?)



だが、視界の端に映った景色のどこにも 月の姿は存在しなかった。
その気配が随分と遠くにあることを、カカシは意識の隅で感じる。

その、刹那。
つい今しがたまで月の付いていた位置と逆側、自らのすぐ脇から飛び出してきた見慣れない額宛。
紛れも無い敵国の 忍。

「―――――!!!!」

巧妙に気配を隠していたのだろう、全く予想だにしていなかった所から現れた敵忍に、
カカシは反応しきることが出来なかった。
まるでスローモーションの様に、チャクラの制御が効かなくなり、無様にも驚きで体が傾ぐのを感じる。
自分をも欺けるほどの潜身術。
恐らく自分と同等か、
それ 以上。
目の前の「味方」を追うのだけに必死になり、その気配に気付く事さえも出来なかった。

しかし、意識の端で認識する"月"の気配は、離れた場所から微動だにしない。



その瞬間、カカシは理解した。


(―――――そうか、これが・・・)

わざわざ自分の行いを正すが為に寄越された、"月"。その真の目的とする所に。

自分の死角から勢いに乗って突き出された短刀は、真っ直ぐに急所を狙っている。
勢いに乗ったこの状態ならば、急所から僅かに外れたあたりに受けるだろう。
致命傷にはならない。だが、絶対に避けきれない。


こういう、ことか。

訓戒を与え、それでも自分が行いを正さない場合は、
"少々痛い目でも見せてやれ"、と。


――――そういう ことか・・・



思わず薄く笑みが浮かんだ。
潜伏した敵に気付いた上で自分の速度までを計算し、焦りを逆手に取って的確に自分を嵌めた、"月"。
その手際の鮮やかさに。


(―――――完敗・・・)


いっそ小気味良かった。心底満足だった。


強いわ、お前・・・




カカシは覚悟して目を閉じた。







どん、と


脇腹に受けた衝撃で、カカシの体は大きく弾き飛ばされる。
刃物で肉を抉られる感覚――――にしては、慣れたいつもの鋭い痛みではなく、鈍器で殴られたようなその感触の妙にカカシが薄らと目を開けたのが一瞬後。
その目に映ったのは、今し方自分の居た位置に割って入った"月"の姿と、その腹に深々と突き刺さった敵の小太刀。
自分を突き飛ばした、"月"の細い腕。

カカシは目を剥いた。
反射的に空中で体勢を立て直し、ほぼ無意識に懐から抜いた数本のクナイを真っ直ぐに
敵忍へ向けて投げる。
"月"の返し刀で攻撃を受けたか、敵は僅かにバランスを崩した。そこへ、まさかの方向からクナイの応酬。
流石に上忍クラスの敵なだけあり、クナイはほぼかわされたが、最初の不意打ちの一本は正確に敵の太腿の付け根に突き立った。

「チィ・・・!」

予想外の攻撃に傾ぐ体を、木の枝を掴む事で立て直そうと敵忍が伸ばした手は、
一瞬の内に視界の彼方へと消え去る。
「――――――!!!!」

閃く自分のものではない太刀筋。
目の前に現れたのは、先程弾き飛ばされた筈の ありえない姿。
空中で見交わした視線は、僅かに怒りの色を帯びていた。銀の鬣と、面から覗く燃える様な青灰の瞳が瞬く間に懐へと入り、的確に自分の首を跳ね飛ばす・・・その一連の動きを、敵の忍びは半ば放心しながら眺めた。

――――クナイを投げたと同時に カカシは間伐入れず背の刀を抜き、近くの幹を蹴って飛び迫ったのだ。

胴と切り離された残党の首が、血の弧を描きながら森の闇へと落下する。
それとは別に、幹から崩れ落ち 同じく森へと吸い込まれる細い肢体。

(何故・・・!?)

カカシは舌打ちをし、落下するその影に向かって跳んだ。






「・・・どういうつもり」

大木の生い茂る深い森、丁度先程の木の真下辺りに"月"を凭せ掛け、カカシは鋭い口調で問うた。
"月"は肩で忙しなく息をし、彼の腹からは絶え間なく鮮血が溢れ出している。
辺りに広がる血臭。幾重にも折り重なる厚い枝葉で、未だ森の中は薄暗い。
それでも彼がかなりの深手を負っていることは手に取るように判った。

「オレに少々痛い目見せようって魂胆だったんでしょ。」

カカシの言葉に、僅かに月が視線を揺らすのが感じられた。

「上手いことオレを嵌めて、大人しくさせようって。・・・なのに、何?
あのままだと確実に、オレはお前たちの思惑通り怪我を負ってたよ。上手いこと致命傷を避けた、最悪の"掠り傷"をね。
・・・けど、なんでお前がオレ庇ってそんな大怪我負ってんの」




「――――その・・・つもり、だった・・・」

痛みの所為か、少し痞える様に吐き出された声に、カカシは瞠目した。
まさか、返事が返ってくるとは思っていなかった。
抑制が外れたのか、面の下から聞こえる声は、今までに無く確かな実体を持って響く。
・・・少年の 声だ。

「最初は、そのつもりだった・・・多少、痛い目を見せても、道を正させる ・・・
それが俺の、任務 だったから・・・」

そのつもりだった。でも

「――――できな、かった・・・」



「―――――何故だ」
カカシが問うと、小さく面の下から笑い声が聞こえた。
「・・・何故・・・だろうな。ただ、こんなことをして良いのかと・・・
任務とはいえ、敵ならまだしも、仲間を傷付け・・・そんなことが、許されるのだろうか と・・・」

思い立った瞬間、体が動いた。
・・・ただ、夢中で敵とお前の間に割り入っていた――――


「何故、なんて そんなこと判るもんか・・・・・・
――――夢中だったんだ。ただ、お前を傷付けたくなかった・・・」
「だから、何故!」

苛立つカカシに、僅かに"月"が笑う気配がした。

「三日も・・・一緒にいたんだぞ。仕方ないだろ・・・」






その答えは、カカシの理解を遥かに超えたものだった。




「お前・・・訳が分からない」

カカシは困惑した。何故、一体何故。今まで自分の周りには、こんな馬鹿な人間はいなかった。
ただ、任務を達成し自分の命を守るのが最優先事項。それが、見返りすらない行動に出、自らが瀕死の傷を負うだと?
しかも、その理由が判らないと言う。
無意識に、とでも言うのか・・・?
訳の判らぬまま、"月"の勝手な行動に煮える腹の内。
それと同時に、無性に熱くなる目頭が、更にカカシを困惑させた。

何か言いかけ、"月"の少年は軽く咳き込む。
ひゅうひゅうと忙しなく聞こえるくぐもった息が、彼が生半可な理由で飛び入ったのではない事を示していた。
この出血量。このまま放って置けば、確実に彼は死ぬだろう。

不意に、カカシは彼の顔を見たくなった。
面で息がし辛いだろうというのは、後から付けた理由だ。
ただ、彼の顔が見てみたかった。
後先考えもせず、任務さえも反故にし、自分を庇って死にかけている、この訳の判らない奴を。


「面、取るぞ。・・・いいか」

返事はなかった。
脇へ跪くと、強い血臭が鼻を突く。ふ、ふ、と不規則に吐かれる吐息が荒い。
そろりと腕を伸ばしても別段逃げようともしないのを確認し、カカシは彼の面を剥いだ。



露になる"月"の顔。

僅かに汗ばみ、紅潮した頬が、朝の光に照らされる。
長い黒髪が幾筋か、頬の周りに纏わっていた。鼻梁を横切った大きな刀傷が目に入る。

―――少年。それも自分の思っていたよりずっと年若い
・・・そう、恐らくは自分とそう変わらない筈の、少年だった。

少し苦しげに細められていた彼の瞳が、静かに 見開く。その瞳にカカシは呑まれた。


何て、深い・・・


カカシをじ、と見据えた瞳は、今まで見たことも無い様な深い色をしていた。
その目が真っ直ぐ、自分を映していた。
それは漆黒の湖だ。

綺麗だ、と 素直にカカシはそう思った。

面を持ったままのカカシの指に、熱い息がかかる。僅かに少年が咳き込んだ。
「お前・・・ほんとに馬鹿だ・・・」
カカシは呆然と、その少年の顔を見て呟いた。


自分とさほど変わらない少年が、目の前で死にかけている。しかも、他人を訳の判らない理由で庇って。
その事実に心底呆れた。

呆れた、のだと思っていた。 自分は信じられないくらい呆然としていたから。



「・・・お前、オレがお前助けるとでも思ってんの?
オレをどんだけ不快にさせてきたか、自分でよく分かってるでしょ。・・・オレは助けないよ。残念だけど」

「・・・知ってる・・・」
カカシが驚いたのは、そのとき月が薄く微笑んだからだ。

「・・・けど・・・お前は無事だったから・・・・・・
怪我は無いよな・・・?あるわけないな。最後の一閃、見事だったもの・・・」

再び咳き込んだ口元からは、少し血が流れた。内蔵をやられたらしい。
"月"は、じっとカカシを見、そしてまた笑った。

「・・・何て顔してる」

そのとき、カカシは面越しに熱くなる目頭の訳を知った。
涙、だ。
知らぬ内に頬を濡らす熱いもの―――それに気付いたのか、"月"はカカシをじっと見詰めて、小さく言った。

「・・・だから、もういい・・・」


ほら、早く行けよ。


ふわり、と微笑む。

その目には、一片の曇りも無い。少年の本心だった。



カカシの背を、電流にも似たものが走った。
それが何であるのか、カカシには判らなかったが
こいつ・・・こいつは、本気で死ぬつもりだ。
本気で、何の見返りも無く、オレを―――――


そう思った途端、行動は早かった。



「動くな」

訝しそうな少年の視線を流し、一瞬の内に屈みこんだカカシは彼の腹の傷を確かめると、クナイで周囲の布を裂いた。
後ろ手にポーチから幾つかの小瓶を取り出す。

「――――止血する。じっとしてろ」


屈みこんだカカシを、月の少年は警戒するでもなくぼんやりと見詰めた。

「もう無理だ・・・携帯の道具で、何が出来る・・・」
「安心しろ。もう医療班が到着する」

―――判っていた。
自分は元から、この少年を助ける気でいたのだ。

彼が深手を負ったのに気付き、咄嗟に 医療班を呼ぶため忍犬を走らせた あの時から。

「・・・それは・・・仕事が早いな・・・」
「言ってろよ。――――知ってたくせに」

カカシの言葉に、"月"はまた僅かに微笑んだ。

全く。狸はどっちだよ。
カカシは不貞腐れてそっぽを向いた。



――――判っていたのだ。自分はとうに、この少年を受け入れていた。
この、理由も判らず不思議に暖かな気持ちにさせる少年を。そして、火影の思いも。

今まで反発していたものが、全て、すとんと胸の中に落ちる。


・・・認めてしまえば、それまでだった。



火影様がオレに見せたかったものは、"彼"だったのかもしれない、と カカシは頭の片隅で思った。





応急処置を済ませ、医療班の到着を待つ間、
カカシと少年は隣り合わせに座り、じっと空を見ていた。

藍から薄青、そしてクリーム色へ・・・次第に明るくなる 木々に切り取られた空を見ながら、
どちらとも無くぽつり、ぽつりと話し出す。
お互いについて。 それこそ、各々の素性を一切漏らさない暗部では有るまじき事だったが、
二人はまるで友達のように、静かに自分のことを語り合った。
静かに静かに、朝日の差し込む木々の間を見上げながら。
それは酷く安らいだ時間だった。

そして、それは恐らくカカシが生まれて初めての経験であった。
相手に対し、素直に『凄い』と言う言葉を使えたのも、恐らくこれが最初であったろう。
カカシは素直に、少年を「強い」と言った。

「―――"月"だもんな」

ぽつりと呟くと、少年は密かに眉を顰めて言った。

「凄くなんかない。俺は・・・違う。ただ、火影様には息子みたいに可愛がってもらってて、
その忠誠を買われただけだから・・・」

でも、多分これでもうクビだな、と少年は笑った。

「こんなだから、いつも火影様にお前は甘いって言われるんだ。・・・でも・・・」

「――――でも?」
それきり押し黙った少年に、カカシが探るように問い掛ける。
カカシの視線に気付き、少し自嘲気味に笑った少年は、ゆるりと空を振り仰いだ。

「・・・・・・でも、俺は本当は、"月"なんて呼ばれたくは無かった・・・」
「――――何故だ?"月"は力と信頼の象徴だろう。それを何故捨てたがる?」

心底判らない、といったカカシの問い掛けに、少年はまた少し押し黙る。


二人の間に、沈黙が満ちた。
どこか遠くで森の獣の息づく気配を聞く。
次第に朝日が深い森の中へと射し込んできている。

少年が未だ荒い息を整えるように、大気を吸い込んだ。朝の澄んだ、清涼な空気が穏やかに
肺に沁み込む。


・・・だって

「―――"月"は闇の中にしか存在しない。暗闇があるからこそ輝ける。
闇の無い世界に、月は必要ではないんだ・・・光溢れる世界には、"月"は要らない」

わかるか?

少年は、傍らのカカシをじっと見詰めた。

「・・・俺は、"月"よりも、太陽になりたかった・・・」





あぁ。
なるほど、と思った。




「―――――なれるよ、お前」



お前なら
きっと、なれる。

太陽。
それは酷く、この少年に似つかわしい場所であるような気がした。


「そうかな・・・?」
ふっと微笑んだ少年の笑顔は、朝靄の中で光に溶けそうに揺らめく。




す、と身動ぎする気配に 少年がカカシの方へと目を遣ると、彼は木から少し背中を浮かせ、
両の腕を頭の後ろへと回していた。

―――そして、カカシはゆっくりと面紐を解いた。


朝日の中、零れるように豊かな銀髪が光を弾いて煌く。少年が、小さく声を漏らすのが聞こえた。
現れた両の碧眼。まだ華奢な頬の輪郭に、整った鼻筋が通る。

カカシは、真っ直ぐに少年を見詰めて言った。


「オレも、行けるだろうか・・・」

―――今はまだ、オレは闇の住人だけれども
そっちの世界へ。お前の願う、その場所へ。
理由など判らない。ただ、急に この少年が夢見ている場所が見てみたいと、そう強く思った。



じっとカカシを見詰めていた少年は、ふっと温かな笑顔を浮かべた。



いけるさ、と
小さく少年が呟いた。






****


数年後。

再び二人は巡り合う。


それは、窓から明るく太陽の光が差し込む、アカデミーの渡り廊下で。


驚きはほんの一瞬。すぐに二人は、心からの笑顔でお互いの存在を確かめ合った。

「・・・どうも、こんにちは。ナルトたちを受け持っていました、うみのイルカと言います」
「――――どうも。7班担当になりました、はたけカカシです」


交わした言葉はそれだけ。確かめることも無く、それ以上の言葉も無く。
けれども、確かに二人はお互いを見つけた。

それは、眩い光の中で。




あのときの少年は太陽になった、と思った。
恐らく、どちらもが。






それは、太陽と反対側での物語。






太陽と反対方向にて