僕と「御主人様」が出会ったのは、酷い臭いのする下町の路地裏だった。
僕はこの界隈至る所にたむろするストリート・ボーイの一匹で、そのときは店の裏に積まれた残飯の中からソーセージのしっぽと、饐えた臭いを放つキャベツのガベッジに貪りついていた。
僕は別に、ロンドンに馬鹿げた夢を抱いて有り金はたいてやって来た 田舎者のなれの果てではなかったし、没落した名家の子供でもなかった。ただあるようにして、気がつくとここにいた。
多分どこかの歌い手か娼婦が孕み、持て余してここに捨てたんだろうと思うことにしている。
酒の臭いとコクニー訛りの酷い戯言が、そこら中の店から漏れ出している。
寒さを凌ぐために狭い路地裏に蹲っていると頭の上から漏れてくる、こういった客の喧騒や嬌声に混じって、やれどこの貴族様は借金まみれでとうとう執事が逃げ出しただの、海向こうの国では大恐慌が起こっているだの、噂話は山ほど降って来たので、僕は店から漏れ聞こえる声に言葉を学び、世の中を学んだ。
夜になると、居酒屋からは不規則に外したピアノの音が聞こえ、それに合わせて歌うシンガーの声や、鍵盤の音にからむように響くトランペット、コントラバスの弦を弾く重低音が子守唄がわりになった。
時折、店裏には奏者が何事か怒って叩き付けた楽譜が散乱していることがあった。食えないと判っていながら僕は気紛れにそれを集め、眺めたり、運が良い時は通りかかった物好きそうな客に幾許かの金で売ったりした。
ストリートにはもうキッズとは呼べない浮浪者(フローター)も沢山いたが、その中でも白髭の、右手の指が2本ない男もこの物好きな客の一人で、彼は明日食うパンくずも持っていないようなときでも、有り金はたいて僕の楽譜を買おうとした。
彼は昔はちょっと名の知れたジャズ奏者だったと言う。もちろん嘘か本当か誰にもわからないが。
けれども彼の日に焼けて黒ずみ、しわが深く刻まれた横顔は そこいらの居酒屋で下手なピアノを弾き、酔いどれて僕を犯そうとする下卑た奏者たちよりよっぽど美しかった。
だから彼にはただで楽譜を分けてやった。彼はお返しに、楽譜の読み方を教えてくれた。その彼も、去年の雪の降る夜に死んだ。
その日、僕は野良犬とハムのガベッジを取り合って 勢い余って犬を殺してしまった。
そこを店と契約しているダストマンに見つかり、僕は危うく殺されかけながら、狭い居酒屋の路地へと転がり込んだ。ダストマンにとっては僕も等しくダストに違いなく、ダストが店の前に余計な仕事を作ったことを怒ったのだろう。
だが僕は犬に強く爪を立てられ、噛み付かれていたし、ダストマンにモップで酷く打たれたせいで朦朧として、しばらく路地裏に蹲って震えながら、くすんだ空を見ていた。
夜が近づいて来て、腹が減るのを感じた。夜は酷く冷え込むので、腹に何か入れておかないとこのままでは死ぬ、と本能的に思い、這うように近くのダストボックスを漁ると、幸いそこには 店の客のよだれにまみれたソーセージの切れ端や、腐りかけのキャベツなんかが灰に混じって入っていたので、僕はダストマンがくる前に、と必死の思いでがっついた。
狭く切り取られた路地裏の空に、汚い月が出ていた。口の端が切れて、灰と鉄の味がした。僕はボックスに寄りかかって崩れ落ちながら、昔聞きながら眠りについた歌の幾つかを、ぼんやりと口ずさんだ。
ふと見ると、路地に、黒く長い影が伸びていた。
僕の足元にまで伸びたその影は、頭に古くさいシルクハットのような長い帽子をかぶっていた。
僕はそれを見てダストマンではないことを確認し、体のあまりの痛さに、そのまま蹲り続けることを選んだ。
その影はゆっくりと路地の中へと入ってきた。僕は長い野良生活の中で自然と身につけた野性の感覚で、得体の知れないそれに少し恐怖しながら、フローターがよくするように出来るだけ壁際で小さく丸まり、石畳の地面に生える雑草や小石の一部であるように自らを見せた。
大抵の人間は興味本位で遠巻きに僕らを観察したあと、何事もなかったかのように通り過ぎてゆくのが常だったが、その影の持ち主は違った。
影は金持ちにありがちな、靴を鳴らすゆったりとした足取りで蹲る僕の前にきて止まり、しばらく至近距離で僕を値踏みしている風だった。僕は石らしく、黙ってそれに耐えた。
「言葉は分かるか」
突然、頭上の影が声を発した。 それはひどく落ち着いた、心地良く低い声で、たくさんのやわらかな毛玉に耳を撫でられるのに似ていた。
僕はそれに幾分警戒を解いて、ようやっとというふうに目を上げる。
目の前の男は、陰になっていて良く見えなかったが、仕立ての良いスーツの匂いははっきりと判った。
それが確かに自分に向けられた問いであったということを認識して、僕はゆっくりと口を開いた。
「わかります」
「文字は書けるか」
「かけません」
「楽譜は読めるか」
「・・・すこしなら」
まるで謎掛け問答のような短い会話を繰り返し、僕はぼんやりと、この物好きはハスラーを見繕っているのか、と思った。それならばおかしな話だ。何もこんなぼろきれ同然の汚いキッドを選ぶこともなかろうに。
次に僕は、この変態はネクロフィリアか何かで、突っ込みながら首を掻き切ったり窒息させたりするのが趣味なのだろうか、と思った。それならばダスト同然の僕達は恰好の相手だろう。ここ最近ストリート・ボーイがよく消えるというような話は聞いたことがないが(実際彼らは常にどこかから入ってきては数を増やし、またどこかで行き倒れてはダストマンに唾棄されながら始末されるのが常だった)、薄暗い情報は金持ちの手にかかればなんとでも握りつぶせるのだろうし、街側にとってもダストのない通りというのは気持ち良いだろうから、そんなものは当てにならない。
男娼は得意ではないが、数え切れないほど経験はある。僕はぼんやりと、ここらで死んでもいいかな、と思った。
影からやおら長いステッキが伸び、僕の顎下に差し込まれた。僕はその冷たさに一つ身震いしたあと、大人しくステッキにされるがまま顔を上げた。
「よろしい」
影から柔らかな声が落とされる。
「私の屋敷に来なさい」
その声は柔らかながら絶対的な響きを持ち、ぼやけた頭で覚悟を決めていた僕にはもうYesと言う必要すらなかった。僕は影に促されるまま立ち上がり、意外と長身なその影について街を出た。
そして僕は、「御主人様」のものになった。
郊外の彼の屋敷に着いたとき、僕は初め、どこかの公園に迷い込んだのか、と思った。
広大な敷地には森のように鬱蒼と木々が生い茂り、真ん中にきれいに石の敷かれた道が一本通っていた。
森に入り込むと、首を巡らせた所で湿った空以外何も見えない。そのうち道の先から黒い艶のあるハイヤーが迎えに来たが、彼はひとつ手を振るとそれを断わり、そのまま歩き始めた。
森は広大だった。果てがないかのように思えた。
ガスの充満する下町しか知らなかった僕は、その空気の清涼さに息が詰まり、逆に激しく呼吸困難になった。
回りを包む闇が感覚を狂わせ、もう駄目だ、と思った辺りで森が開けた。
彼の屋敷は、下町がすっぽり入ってしまうかと思うほど大きかった。
至る所に高い娼婦がよく身につけている腕輪や首輪と同じ様な装飾が施されている。
石畳よりもっときめが細かくすべらかな階段を昇り、僕は彼について眩い玄関へと足を踏み入れた。
屋敷に着いて僕がまずされたことは、彼の使う数人の召使によって、身体中をきれいさっぱり洗われることだった。
僕はストリート・ボーイの中でも靴を持っているだけ優秀だったが、その靴も指先がほつけて口を開けていたし、底も所々磨り減って穴があいていた。一枚きりのシャツやズボンは、明るい照明の下ではもっと惨めな有様だった。
しかし召使は顔色一つ変えずに手際よく僕を剥いてしまうと、真っ白なバスタブに僕を沈め、いい匂いのする泡で身体中を包むと力を入れて洗いだした。しばらくテムズで水浴びをすること位しかなかった体は、煤と垢にまみれていて、流される湯は真っ黒に染まった。しかしそれもしつこく洗われているうちに、きれいさっぱりなくなった。
仕上げに召使たちは何度も僕に湯をかけると、伸び放題だった爪をきれいに切りそろえ、歯を磨かせ、真っ白なシーツを一枚羽織らせた。危惧していたように香水を振り掛けられることはなかった。
召使たちは一度も言葉を発さないのだった。僕は物言わぬ召使たちを見ながら、やはり金持ちは薄汚いやつとはやれないんだな、とぼんやり思っていた。
僕は幾つか階段を昇らされ、最上階に近い一室に通された。
そこはおかしな部屋だった。広い空間には、想像していたようなベッドも家具も何もない。
大きく切り取られた窓には豪奢なカーテンが翻っている。その美しい空間には、部屋の半分はあろうかという、大きな籠(ケイジ)が置かれていたのだった。相変わらずマスクを被ったように無表情な召使にその中へと通された僕は、物珍しい気持ちで内側からその籠を眺めた。
それは、華奢な枠がまるでドームを作るように頭上でひとつに合わさっており、中に入ると卵の中に居るような気分になった。燻した金色のその枠には、よく見ると細かな細工がしてあって、「檻」というよりは「籠」というほうがやはりしっくりくるような優美さだった。
枠の間から見える天井には青空と、そこに舞う鳥たちの絵がセピアがかった顔料で描かれている。
ぼんやりそれを見詰めていると、部屋の扉が開かれ、路地裏で会った"彼"がゆったりとした足取りで入ってきた。
「やぁ、見事なストロベリー・ブロンドだ」
僕と同じ籠に入ってきた彼は、汚れを落とされた僕の髪に指を絡めて嬉しそうにそう言うと、頬に一つ口付けを落とした。これから恐らくされるであろう行為を想像した僕は、ゆっくりと彼の着衣に手を掛け、仕立ての良いスーツ下を乱すと、彼自身を口で愛撫しようとした(大抵の男はこの行為を酷く喜び、相手の機嫌が良い時にはチップを弾んでくれることさえあった。そのため僕はこの行為を交渉における最高手段だと考えていた)。
すると、彼はやおら強い力で僕の髪を掴んで床へ引き摺り倒し、僕を酷く打った。
「いいか、二度と命令無しにそんなことをするんじゃない」
彼は僕の頬を激しく叩きながら言った。
「"鳥(バード)"はそんなことはしない」
後になって僕が彼との日々を振り返ったとき、彼に暴力をふるわれたのはこのときを含めてたった二度きりだ。
二度目は、僕が彼の屋敷に来てから何ヶ月かあと・・・確か餌の時間の後だった・・・僕が御主人様の膝にとまっている時だった。「好きな作家はいるか」と彼は僕に聞いた。僕はその頃、御主人様の ここいらの貴族には珍しく、やけに正確なクイーンズイングリッシュを話す所や、言葉に時折混じるフランスの単語、午睡や紅茶をあまり好まないような所から、彼は恐らく亡命貴族(エミグレ)の子孫なのだろうと見当をつけていた。そこで「シェイクスピア」と僕は答えた。
もちろん僕は戯曲なんて読んだことがない。それ以前にまず文字が読めない。エミグレは大概に於いてシェイクスピアを好み、その必要以上に飾り立てられた愛の言葉の数々に心酔して、酷い時には恋人を陥落させる時にまでこれらを用いようとする、というのは、下町で常々酒の肴にされている流言だったからだ。
彼はそれを聞くなり無言で僕を膝から突き落とし、なおも起き上がろうとする僕をステッキで殴り飛ばした。
「鳥風情が、知ったような口を利くんじゃない」
と彼は激しく僕を打ち据えた。このとき僕は右肩に深い裂傷を負ったのだが、彼は後々まで僕の身体に傷がついたことを深く惜しんで、これ以降は二度と僕に暴力をふるうことはなかった。
そう。彼は、僕を"鳥として"飼おうとしていたのだ。
そして、その状況は、一度死んだも同然な僕にとって何ら危惧するべきものではなかった。
僕はただ淡々と彼の言うことを受け入れ、その豪奢な籠の中で 彼の「バード」として飼われる事を受け入れた。
何故ならそのときもう僕は「彼」のものだったからだ。餌をくれる飼い主に逆らおうなんて鳥は、よっぽどの駄鳥か育ちの良すぎる鳥のどちらかに違いない。幸い僕はそのどちらでもなかった。僕にとってこの状況は寧ろ、殺されなかっただけ儲けものだった。もちろん、ダスト1つまみの重みなど、捨てて何ら惜しいものではなかったが。
まず、「彼」が僕に最初に教え込んだことは、自分を「御主人様」と呼ばせることだった。至極最もなその呼び名を、僕は何の苦もなく口にすることができた。次に僕は、その広い籠の中で、服を纏わず暮らす事を強要された。それも「バード」にとっては当然のことだったし、元々何を命令されようが拒むつもりなどなかった僕は、それもあっさりと受け入れた。眠るときだけは、寝床の代わりに布かれた柔らかなシーツに潜る事を許された。
「御主人様」は昼を過ぎるとどこかへとハイヤーで出かけ、夕刻になると屋敷へと戻ってきた。僕は彼の居ない時間は、その豪奢な籠の中で、ぼんやりと寝そべったり、天井に描かれた偽物の「空」を見つめたりして過ごすのだ。
「御主人様」は気が向くと僕の所へと会いに来ては、共に「籠」の中へと入り、僕を撫でたり、毛艶を確かめるかのように、腕や足を持ち上げたり、身体中を検分したりした。
そして時折、僕を抱いた。
僕は猫に捕らえられた鳥の如く、軽くもがくだけで後は大人しく「御主人様」にされるがままになった。くちばしや爪が彼の皮膚に傷をつけないよう、意識の端でぼんやりと気をつけながら。
そうかと思えば、時に「御主人様」は籠越しに、何をするでもなく寝そべっている僕や、籠にぶら下がっている僕をただ眺めていることもあった。
食餌は日に3度。召使が小さなバスタブにハーブや花の匂いの水を満たして運んでくる 水浴びは日に2回。食餌の時間になると、「御主人様」は僕を呼び、傍に来させた。部屋の前まで運んでこさせた穀物を中心に少量並べられたその食餌を、彼は自らの手で僕に与える事を好んだ。
「ほら、ここにとまるんだ」
彼はそう言い、自分の膝を指し示す。少しの躊躇いはあったが、僕は鳥らしく ちょこんとそこへとまる。そうすると彼はとても嬉しそうに笑い、「いい子だ」と言って 僕の巻き毛や頬を撫でるのだ。
「御主人様」が最も喜んだのは、僕がうたを歌うことだった。
水浴びを終えた後など、僕がぼんやりと空を見ながら、下町で聞きかじった歌を口ずさむと、彼は非常に嬉しそうに笑み、ケイジの中で僕の身体をいとおしそうに撫でた。そういうとき、彼はよく衝動的に僕を抱いた。行為の後にも彼はまた歌う事を所望し、僕は大人しくそれに従った。
僕は、「御主人様」が部屋に居るときはなるだけ、うたを歌うように心がけた。
僕は、昔聞きながら眠りについた下町の臭いのうたを片っ端から歌った。曲の題名はどれもわからなかったが、橙色の光や酒の臭いと共に記憶に溢れてくるシンガーの気だるい声や、彼らの得意とするフェイクのひと揺れ、突然の転調や音になりそうでならない、溜息のような音符のしっぽを、僕は寸分違わずなぞる事ができた。
ピアノやトランペットのアレンジが入った辺りでは、僕は耳の奥で未だ鳴り響くその音色に寄り添うように自分の声を絡め、コントラバスのソロが印象的だった曲では、まるでそれが僕の横で演奏されているかのように、その切ない音色の余韻が消えるまでぼんやりと待った。何も歌わず、ただ虚空を眺め、ぼんやりと。
そんなとき、
「お前は不思議な子だね」
と彼は言った。
「美しいバードだ」
とも。
僕の知っている曲にはよく月が出てきた。そして「御主人様」はとりわけその曲たちを好んだ。
彼は月が好きなのだ、と言った。変わらず永遠に美しいものが好きなのだ、と。もしそれを手に入れられるならどんな苦労も厭わないだろう、と彼は言った。僕はその芝居のような言葉に、これが戯曲というものか、と思ったが、今度はそれを言わずにおいた。
薄蒼い部屋の中で、開け放された窓から覗く透き通った月を見上げながら、僕が「月まで連れて行って」と狂おしい恋のうたを口ずさむときなど、「御主人様」は酷く興奮してめちゃめちゃに僕を抱いた。彼は何度もそれを所望し、僕は記憶の中から消えない、どこかのシンガーの霧のかかったような声で、吐息をつくように密やかに 何度でもそれを歌った。
繰り返す日々、僕は何度も彼に抱かれた。
「御主人様」は時折僕に楽譜を与えた。それは恐らく、下町などにはない、もっと高級なきちんとした店で買われたような楽譜で、美しい装丁の表紙に挟まれた真っ白なそれらを見たとき、僕は一瞬それがなんなのか判らなかったほどだ。真っ白な平原に規則正しく並べられる、鮮烈なコントラストの黒。それらは寸分の違いもなく同じ姿をしており、僕は巧い具合に文字を書けるやつが居るんだな、と驚いた。僕は、印刷された楽譜、というものを初めて見たのだった。
雪のような楽譜の白さは 僕に凍えて何度も死にかけた路地裏の冬を思い出させたが、この暖かな、何の変化もない美しい部屋の中に居ては、その感覚は次第に思い出すのが困難になっていた。
僕はその楽譜たちを気に入り、時を惜しんで眺めた。この紙の中に歌が閉じ込められている、という感覚は、僕の凍りがちな感情を酷く昂ぶらせた。
楽譜を読むことはできたので、僕はそれを声に出して歌った。だが、僕は字が読めなかったので、その美しい芸術品の其処彼処に記される "lent" "sostenuto" "andante"といった言葉が何を指すのか解らなかった。
また、当然音符の下に記された歌詞も読むことができなかった。
だから僕は、思ったとおりに、自由にそれらの曲を歌った。空を渡る風を思わせるフレーズは、大きな声で、好きなだけ高音域を擦れさせる。悲しいワルツはたっぷりと音符を伸ばして。歌詞には今まで聞いた事のある言葉の断片を繋ぎ合わせて当てた。「御主人様」が好むので、僕はしばしばそこに月を登場させた。彼は酷くそれを気に入り、次から次へと僕に楽譜を与えた。
僕は「御主人様」が出かけている昼の間、ケイジの床中に美しい楽譜を広げ、片っ端からそれらを歌った。やがて疲れると、楽譜を巣のようにかためて、その上で眠った。
僕は鳥だった。
「御主人様」は屋敷へと帰ってくるなり僕のケイジを訪ね、そんな僕をいとおしそうに撫でた。
そして、
「さぁ、歌っておくれ。私のハミングバード」
と、あの柔らかな声で言うのだ。
喉に良い、という理由で、僕の食餌には美しい果物を摂らせる事を、彼は好むようになった。僕には不満はなかった。
「御主人様」は真っ白な陶器の皿に乗って運ばれてくるそれらを、膝にとまらせた僕に少しずつ分け与えた。見たこともないような黄や橙や、うす桃色、純白の柔らかな果実が、彼の手から僕の唇へと触れ、透き通る果汁を滴らせながら僕の喉を滑り落ちる。美しい浄化の雫のはずなのに、僕はその宝石のような果物たちが身体に納まるたび、より自分の汚らしさが浮き彫りになるような気がした。何かが身体の中に舞い落ちて行く感覚は、僕に人間の身体や、翼になり得ない腕の存在を思い出させ、酷く悲しい気持ちにさせた。
けれども、果物しか摂らなくなった身体は見る間に羽根のように軽くなり、僕は「御主人様」の膝で彼に愛されながら、そのことに満足を覚えた。
そして、彼はまた「歌っておくれ、私のハミングバード」と僕を呼ぶ。
僕はまだ自分が「バード」として彼に認められていることに安堵し、満ち足りた気持ちで、月のうたを歌うのだ。
しばしば彼の気紛れで、僕はケイジの鉤を開けられ、部屋の中を自由に飛ぶ事を許されるようになった。ケイジの置かれている部屋は広く、開け放された大きな窓のすぐ傍で浴びる風は この部屋の匂いではない、外の世界の不思議な匂いがし、僕は喜んで部屋中を飛び回った。だが、何故だかしばらくするとすぐに心細くなってしまい、僕は自ら「籠」へと舞い戻るのだった。
僕は次第に言葉を忘れつつあった。「御主人様」は僕に歌以外の言葉を必要とする問い掛けをしなくなったし、僕もそれに意味を見出さなくなったからだ。
僕の喉は、いまや彼のために歌い、彼を「御主人様」と呼ぶためだけに存在した。そして、真新しい楽譜の曲に、今まで擦り切れるほど使った歌詞を何度も当て嵌めて、彼を喜ばせるためだけに歌った。
「御主人様」のいない昼間、僕は楽譜の巣で丸まりながら、じっと時が過ぎるのを待つ。
夜になり、月が出て、「彼」が帰ってきて僕を愛してくれるのを待つ。
開け放された大きな窓から入る優しい風で、時折僕の身体は吹き飛ばされそうになった。
僕は楽譜の中に顔をうめながら、じっと耐えた。そして歌った。
「お前が来る前、ここには美しい鴉(クロウ)がいたんだよ」
いつだったか、「御主人様」は僕を愛撫しながらそう言ったことがある。
「濡れ羽色の美しい髪のクロウだった。漆黒の長い髪に、漆黒の瞳。しなやかに白い、細くて柔らかな身体をしていてね。彼女は歌わなかったが、とても美しいバードだった。」
柔らかに低い、「御主人様」の声に、僕はちりりと焼け付くような気持ちを味わっていた。
「けれども、彼女は逃げてしまったんだよ。バードの癖に、恋をしてね。逃げる途中の森の中で、車に跳ねられてしまったんだ。」
僕には、そのクロウを跳ねた黒いハイヤーと、そこに乗る「御主人様」の顔をはっきりと思い浮かべることができた。
「馬鹿な子だったよ。ここにずっと居れば、幸せに暮らすことができたのに。
―――お前はそんなことはしないね?私のハミングバード」
おろかなことを、と僕は思った。そのクロウはなんとおろかだったのだろう。籠の中に留まっていれば、いつまでも「御主人様」の腕に抱きとめてもらうことができたのに。彼の優しく低い声で呼ばれ、愛してもらうことができたのに。
僕はぼんやりと、そのクロウを軽蔑した。恋だなんて、なんとおろかな。僕は恋をしたというその鳥をぼんやりと憎み、恋を憎んだ。
僕は決して、恋などしない。 彼の元を、離れたりはしない。
彼の温かな腕から、抜け出すようなことはしない。
いつまでも彼のバードであり続ける。
彼だけを呼び、この目には彼しか映さず、彼のためだけに歌う。
彼の居ない昼は寂しい。僕を呼ばわる声も、僕を愛する掌も、僕を殴りつける腕も見当たらないそのとき、僕は何者でもない。湯や食餌を運んでくる召使の誰もが僕を見ず、僕はそこには存在しない。僕は彼の「バード」に戻ろうと、声を嗄らして歌うだろう。
彼の来ない夜は寂しい。彼が僕を捨て、僕の部屋を訪れない夜、僕はその暗闇に怯え、窓から吹き込む風に怯える。僕にはもはやダストほどの重さもなく、僕はそこには存在しない。彼を呼ぶために僕は声を限りに歌うだろう。
いつの間にか、僕の世界は彼で完結していた。
言葉を忘れた僕の小さな頭の中に最後に残っていたのは、「御主人様」の声、「御主人様」の姿。
彼は僕の全てであり、僕をこの世に存在させてくれる、たった一人の絶対者だった。
僕は歌う。彼のために鳥となり、彼の好きな月のうたを、彼の好きだった声で・・・壊れたオルゴールのように、何度も、何度も。
僕の世界を満たす、優しく低い声の支配者に。
―――だが、それこそが 「恋」 でなくて何だったと言うのだろう。
「御主人様」は次第に、僕のケイジの部屋を訪ねなくなった。
それでも果物しか摂らない僕はどんどんやせ細り、そのうち、起き上がることができなくなった。
僕は、楽譜の巣の上で、ぼんやりと天井の作り物の空を見上げる。セピアがかったそこには無数の鳥たちが羽ばたき、さえずり、見えない風に身を委ねていた。
僕は少し幸せな気分になり、彼らに向かって手を伸ばす。彼らは優しく僕にささやきかけ、仲間にするように僕を受け入れてくれる。
僕はまた歌った。大きな声で、声がしわがれてゆくのも気に留めず。
彼の、「御主人様」の好きだった月のうたを。
月まで連れて行って
星の狭間で あそばせて
本当は 私の手をとって欲しいんです
キスして、抱き締めて
永遠に歌わせて
あなたがほしい
愛してる
歌って歌って 干乾びた喉に、窓から冷たい風が落ちてきて触れた。
ふらりと もう動かない首をめぐらせると、大きく開け放された美しい装飾の窓から、月が覗いていた。
完璧な、球形。満ち足りたかたちの、月だった。
ふと、僕は「御主人様」にあの月をあげたい、と思った。彼はきっと喜ぶ。彼は月が好きだから。
そうすればきっと、また。
僕の小さくなった頭は、窓の方へと向かって僕を立ち上がらせた。豪奢な細工の施される、金のケイジを掴んだ僕は、萎縮した足を引き摺るように身体を起こし、前へと這った。無数の楽譜が僕の裸の腹の下でよじれ、切ない悲鳴を上げる。
ケイジの入り口は開いていた。
僕ははじめて広い広いその部屋へと一人で抜け出し、柔らかな絨毯の上を 月をみつめながら這った。
天井に描かれるセピアの空は、窓の外にも無限に広がり、見渡す限り先まで続いていた。
その空にはきっと鳥たちが舞い、さえずっている。
僕は窓枠に手を掛けた。
完全な形をした美しい光が、瞬きを忘れた僕の瞳を射た。
刹那、僕は「御主人様」が嬉しそうに笑って抱き締めてくれたときの事を思い出した。
僕を抱き、"歌っておくれ"と何度も乞うた、優しい僕の支配者の声を。
僕はそのときこの美しい部屋の中で確かに空を飛べたし、彼の膝へふわりととまることもできた。
僕は少し微笑んだ。
その光に向かって手を伸ばし、僕は空へと窓を蹴った。
だが、窓の外へと投げ出された途端、僕は見る間に醜い人間の身体に戻り、羽根ほどしかないと思っていた体は浅ましいくらいの重みを取り戻して 凄まじい力で地上へと引き付けられた。意に反して視界がぐるりと反転し、美しい月はあっという間に遠ざかっていった。
空にセピアの鳥たちが踊るのが見えた。だが、彼らに向かって伸ばしたがりがりの僕の腕は、紛れもなく人間のものだった。
翼になり損ねた、哀れな骨だった。
そして僕は、自分がただの人間だった事を思い出した。ただのちっぽけな、汚いひとつまみのストリートキッズ。
鼻を掠める、汚物に塗れた下町の臭い。
「御主人様」と僕は呼んだ。その声は酷く引き攣って、鳥の声のようだった。