いつだってオレのことを困った笑顔で許してくれた人だから、

だから、最初のときもきっと、この人はそういう顔で微笑んでいたんだと思う。

 

 

祈りの言葉を呟くと、目の前で、線の細い背中がびくり、と震えるのが見えた。慌てて身体を離し、蒼褪めたその頬に触れる。

「大丈夫ですか、十代目・・」

「だ、いじょうぶ」

いいから続けて、と荒い息の中、濡れた色素の薄い瞳がこちらを見上げてくる。

美しい刺繍が飽きるほど織り込まれた臙脂色のカーテンと、重厚な造りの、飴色の執務机に遮られ、薄くなった午後の光が彼の粟立った肌を舐めていた。

マホガニーの大きな執務机は、代々ボンゴレの頭が受け継いできたもので、恐らくこれ一台で高級車数台に化けるはずだ。長年の傷を分厚い二スの中に呑みこみ、静かに佇む机は、主の身体を弾丸からでさえ守る。

柔らかで重い褐色の闇が頭の上にあった。洞窟のように、天蓋のように聳える机が、ふたりの罪を覆い隠している。

 

・・嘘ばっかり

 

毛足の長い絨毯にしがみ付く、血の気を失った拳を見て、獄寺は静かに唇を咬む。

 

辛くないわけが、ないのに

 

汗の浮く細い腰を抱き締め、静かにツナを揺さぶりながら 獄寺は白い首筋に口づける。呪いのように白い首筋。

ボンゴレの支配者は、決してその身を闇から白日の下に晒そうとしない。10年前のあの日からずっと。

彼が直接手を下すのは、必ず夜に紛れてだ。苦しみ抜いて己の運命を受け入れた細い背中は、自らに枷を科すように その姿を闇に溶かしてしまう。

もう彼の陽だまりのような髪の色を知る者も、数えるほどになってしまったのではないだろうか。普段は守護者を筆頭にファミリーを統率し動かす立場、滅多に人前に出る機会がないとはいえ、ツナは病的に光のあたる場所を嫌う。


この明るい、草原のような髪が太陽に輝くのが、オレはとても好きだった。


祈るように思いながら、獄寺は自分のボスの髪へ静かに鼻先を埋めた。僅かな汗と、あのころとは違う 彼の身体に巣食う冷えた夜の匂いが、ゆるゆると涙腺を決壊させてゆく。


好きだった、のに


どれだけ傷つけないように、大切に扱おうとしても、自分の中で膨れ上がった欲は彼の内側を傷つけてしまう。

痛まないように、快楽の波に溺れさせて、少しの間だけでも何も考えられないようしてやりたい。神様、この人にどうぞ束の間の幸せを。そう祈るのに、ツナは頑ななほど なかなか行為に慣れなかった。

静かに心を閉じながら、血を流して身体だけは無理矢理に開こうとする。その在りようが、堪らなかった。

彼が汚れないように、せめてもの配慮で身体の下に敷いた自分のワイシャツが、撚れて切ない皺を刻んでいる。

痛みを散らしてやろうと、そっと腕を回して彼の前を愛撫すれば、今度こそツナは掠れた悲鳴を上げた。

 


正直言って、最初に彼を抱いた時のことを、獄寺ははっきり思い出す事が出来ない。何か大波のような感情が、繰り返し押し寄せて自分を壊していた日であったように思う。

彼ら裏社会の者が「礼装」と呼ぶ漆黒のスーツに身を包み、見たこともないようなその仕立ての良い喪服が 何故だかしっくりと体に馴染むのに途方に暮れた日。

初めて人の命を奪う目的で揮った武器が、存外自分の性に合うことを知った日。

そして、散々自分で公言していた「マフィアの右腕」としての覚悟が、初めて仕事で奪った命の重さ、突きつけられた現実の前で、愚かにも崩れそうになった日。

獄寺は 同じく圧し掛かる重圧で哀れなほど痩せてしまったツナに縋った。達者な口は言葉を忘れ、何度も何度もすみません、ごめんなさいと繰り返しながら、紙のようにうすいその身体を穿った。

“ごめんね、獄寺くん”

未知の痛みに身体を戦慄かせ、それでも毅然とした声で彼は手を差し伸べて言った。

“まきこんで、ほんとうに、ごめん”

自分の下で、彼がどんな顔をしているのか恐ろしくて、獄寺は顔を上げることが出来なかった。ただ、柔らかく頭を抱き締めた、細い腕の温かさははっきりと覚えている。

 

 

ツナがまた悲鳴をもらす。人払いは先ほど済ませたから、恐らくしばらくは大丈夫だ。獄寺は思う。

机の暗がりの中、ふいに“under the rose”という言葉が頭を過ぎった。バラの下で。

美しく薫り高い花の下で行われる秘め事を、秘密と人は呼ぶ。

美しい花を見上げながら、その棘だらけの根元に身を隠して作戦を練ったのは、どこの軍だったか。意識の隅で思いながら、獄寺は身体を揺らす。

卑猥な行為に不慣れなツナは、受け入れる側の配慮も当然知らない。躊躇なくぐいぐいと締め付けられる繋がった部分から例えようもない快楽が押し寄せてきていて、下手をすれば全部持って行かれそうになる。

鎔けそうな頭で見上げた先には、バラではなく分厚い机の天板が見えた。


―――まっくらだ


背中をつめたい汗がつたう。


真っ暗だ、なんにもない


昔、自分の屋敷に飽きるほど植えつけられていたバラのことを獄寺は思い出す。美しい母はバラを好み、愛情のかけ方を間違えた父は、妾の母のために阿呆のようにその豪奢な花を贈り続けた。

とうの昔に捨てた記憶だったが、今はその暗闇にはない色彩が懐かしかった。

 

白い背筋が引き攣る。マホガニーの下の暗闇で、床に立てられたツナの指が無意識に絨毯を掻き毟っている。

 

あ、いけない

 

余裕を殆どなくしかけた頭の隅で、その蒼白な手を認め、獄寺は腕を伸ばした。

 

爪が、とぶ

 

咄嗟に彼の掌を握り込み、自分の手に爪を立てさせる。組み敷いた彼の方は、更に余裕がないのだろう、震える指の力をうまく抜くことが出来ないまま、がくがくと獄寺の手の甲に爪を食いこませた。

獄寺は、彼の上気し始めた頬にそっと唇を寄せる。闇の冷たさから、昔学校の帰り道、皆でじゃれ合っているときに感じた彼の肌の熱さに戻りつつあるのを意識の隅で感じる。

あの頃は全てに必死だった。毎日を過ごすことにも、一歩ずつ大人になってゆく自分たちにも。
神様、どうぞ彼に平穏を。息を荒げながら、祈るような気持ちで滑らかな頬に額を擦りつける。

 

「―――でら、 くん・・・」

喘ぎの中で、ツナがこちらを振り向いていた。飴色の帳の中、赤く濡れた瞳が獄寺をまっすぐに射竦めている。その頬に落ちた滴が自分のものだ、と気付くのにしばらくの間が要った。

不意に、ツナの掌から強張りが解けた。

その手がまるで、今まで熱に浮かされていたうすい身体すら 全部幻だったかのように、迷いのない動きで獄寺の頬に伸ばされる。彼の表情から必死さが消え、するりと冷えた、静かな闇がまた顔を覗かせる。

「ごめんね・・・」

自分の目尻を拭うその指の優しさに、はしばみ色の瞳の深さに、獄寺はまた息が詰まるような思いを抱く。



あぁ、

闇の中なのに、この人の声は、こんなときでさえ

なんて、優しい。

 

ごめんね、つらいね

 

なかないで、と涙を辿るツナの指をゆるゆると振りほどき、獄寺は何度も首を横に振る。

 

違うんです、じゅうだいめ

ちがうんです

オレはもう、あのときみたいに弱くない

 

初めてあなたを抱いた時、自分は確かにただのガキで

自分に課せられた使命の恐ろしさから あなたに救ってもらいたかったのだけれど

 

 

まるであの頃と同じ声色で、ゆっくり長い前髪を梳かれ、獄寺はちがう、と何度も唇に乗せる。頬に触れる肉のない手を握り込み、違うんですとくぐもった声で繰り返す。

 

 

今は、あなたのことがただ愛しくてたまらないのです

あなたを ただ救いたくて、まもりたくて それで涙が出るのです

 

きっとまたあなたは全部自分で受け止めて飲み込んでしまうのでしょう。馬鹿なオレたちの分も全部。

汚い、一番薄暗い所を全部引き受けて、なんでもないみたいに自分の内に溜め込んで。

 

けれど、その少しでもいい。どうぞオレに


分けて

 

思い切り突き上げると、白い背骨がぐっと撓った。柔らかな髪が汗を跳ね上げ、反った喉から悲鳴が上がる。

また痙攣に似た強張りを見せる指が、獄寺の手に赤い筋を刻む。

 

ごめんなさい


涙に濡れる視界の向こうで引き攣る背中を、抱き締めながらまた獄寺は祈り続ける。神様、どうぞこのひとときだけでいい。この美しい人に平穏を。あぁ、あなたを痛めつけるつもりはないのに。ごめんなさい、ごめんなさい。

体を折り曲げ、強く胸を押しつけるようにすると、数多の戦いでついた身体中の傷がひりひりと開く予感がした。

 

―――こんな、身体に刻まれる傷跡になんて何の価値もないんだ。一体どうしたら、この人の内の傷を分け合えるのだろう。
この人を傷つけずにまもるにはどうしたらよいのだろう。

 

解らないまま、また獄寺はツナを組み敷く。

彼らは祈りを口にしてよい人間からは程遠く、自分の祈りは神に届かないことも 彼はまた知っていた。