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その日の午後に訪れた慟哭を、どう例えたらよいだろう。 突然のことだった。 不意にすべての感情を攫った悲しみの渦は、容易に綱吉をのみこみ、身動きを取れなくさせた。のどかな日で、先の傘下ファミリー同士の大きな抗争を収めた直後の綱吉には、久々に舞い込んだ、奇跡の様な佳日だった。 書類の一つ一つに目を通しながら、うらうらと首筋を温める日差しに目を細める。そして防弾ガラスの向こうに舞う、優しい小鳥の姿を見たとき、その背中に広がる、どこまでも突き抜けるような青空を見たとき、綱吉の身体は楔に貫かれたように動きを止めた。腹の底からせりあがってくる、怪物のような大きさの悲しみが急に心臓をえぐり彼の声帯を破り、瞼の裏で爆発して綱吉をその場に縫いとめたのだった。 たとえようもない心細さと悲しみだった。すこし前まで何も知らない、弱虫でいじめられっ子の中学生だった自分。自分よりも人が傷つくことを極端に恐れるこどもだった。怪我をするのもさせるのも嫌で、血を見るのが怖かった。 それがどうだ。気がつけば自分は数万人規模のマフィアを率いる組織のボスだ。先の戦いを見たろう。何人殺した?自分が傷つかないために、何人のひとを犠牲にした?幾度かの命の駆け引きを経験し、そのたびに少しずつ死んでいた自分の感情に、それにたった今まで思いも至らなかったことに綱吉は気付き、暖かな部屋の中で静かに凍りついたのだった。 傍から見れば、彫像のように見えただろう。だが彼は柔らかな日差しの窓縁に立ちすくみ、まばたきを忘れた瞳から姿のない涙を流し、つぐんだ唇から声にならない金切り声をあげていた。音もなく叫び散らしながら、綱吉は壊れてゆく自分を頭の端で思った。 そんなとき、綱吉が縋ったのは、いつも影のように寄り添ってくれる右腕でも、快活な笑顔ですべて抱きとめてくれる親友でもなく、まだ年端もいかない小さな子供だった。いつものように、屋敷の中を悪戯をしながら駆け回る巻き毛の幼子に、ランボ、と声をかけ 何も知らず走り寄ってきた小さな体を、ぎゅう、と抱きしめた。 不意の抱擁に驚いたランボは、綱吉の腕の中で身体を捩る。バタバタと手足をはためかせ、なんだよツナ、くるしいくるしい、とめちゃくちゃに暴れまわった。 ばかツナあほツナ、ぼけかすうんこ!さてはママンにあいたいんだな?ランボさんにはぜんぶわかっちゃうんだもんね!ハナミズつけちゃうぞマンモーニ!子供らしい語彙の乏しさと残酷さでいつものように騒ぎ立て、自分の腹に巻きつく腕に思うさま歯を立ててひっかいて、それでもすこしも緩まらない綱吉の腕に、ランボはおや、とようやく足りない頭をかしげた。頭の上でうなだれる、自分より10ちかくも年の離れた少年が、声一つ洩らさずただひたすら涙しているのを知ったとき、ランボは「つな、」と小さくつぶやいて、それきり人形のように動きを止めた。 綱吉は、ただひたすら、胸の中のこどもを抱きしめた。鼻を押し付けたランボの首筋からは乳くさい甘い香りがし、それがさらに綱吉の胸をかきむしった。子供の肌のにおい。温かでふくふくと柔らかい、子供の体。髪の中に菓子を隠す癖があるので、黒い巻き毛からは朝食でふるまわれたマドレーヌのにおいがしている。ばかだな、と綱吉は唇をゆがめ、そんなおろかで幼い子供でさえも 守護者の名の元、血で血を洗うような世界へと引き込んでいる己を自覚して、また瞼を震わせた。 ―――どうしてオレなんかが、ひとの命を動かしてるんだろう? 腕の下でじっと動かないランボを、綱吉は何度も抱き締め直した。このきかん気の子供が身じろぎすらしない。幼いなりの精いっぱいの配慮に、軽い眩暈を覚えた。あぁ、光が背中からおちている。やわらかな光が幼子の巻き毛に、滑らかなしろい頬に、腕で抱き込んでしまえる小さなからだに絡まり、ランボのうすい皮膚をあたためていた。 マシマロのように甘く柔らかな身体は、ふにゃりと胸の中で容易にたわみ、さらに力を込めれば非力な自分にも押しつぶすことが出来るのではと思うくらいだ。鼻を埋めて思いきり吸い込んだ命のかおりに、目もくらむほどの酩酊を覚える。頬を涙が伝った。 ふと。歌声がふってきた。ふわりとやわらかく、低いおとこの声。まわりの甘やかな空気を抱き込んで、ぽたりぽたりと落ちるそれに、綱吉は降ろしていた重い瞼を上げる。しっている、このうた。小さいころ母が歌うのを聞き、とても好きだった古い、歌だ。日本のうただ。 しあわせはどこにある。さがしながら ゆこう。この道は長いけれど、石ころだらけだけれど。とものせなかをたたくとき、手と手をにぎるとき。この手のひらに勇気が わいてくる。 優しく痺れるような声に、久方ぶりの日本の歌に、綱吉はうっとりと身をゆだねた。甘いテノール。まるでマシマロみたいな。―――けれどこんな古い歌、ランボには教えてない。ここで知っている人間なんて、いるはずが。というか、この声。いったい誰が。思い至ったとき、その歌声が自分の押しつけた鼻先を震わせて響いてくることに気付き、綱吉は瞠目した。 顔を埋めていたはずの、甘い菓子の匂いのする身体はそこになく、かわりに仕立ての良いシャツの布地と、密度の濃い香水のかおりが広がっていた。背中をそっと往復する、あたたかい手のひらの感触。いつの間にか 大きなものに抱き込まれている感覚に、綱吉が視線を上げると、そこには漆黒の巻き毛を揺らした 美しい青年の顔があった。 「―――ラン、ボ・・お前・・・」 「お久しぶりです、若きボンゴレ」 ふ、と目元を緩め、薄い緑の瞳を陽に透かすようにして青年は笑った。しなやかな腕が綱吉の体をそっと抱き込み、肩を、背を、さすっている。 「やっぱり今日だった―――屋敷で待機していた甲斐が、ありました」 歌の続きのように言葉をくちびるにのせ、よかった、と大人になったランボは熱い溜息をついた。 ・・・おどろくでしょう。ばかな俺が、10年も覚えていたんですよ。この日のことを。 「俺、ずっと考えていました。10年間、泣きごとひとつ洩らさなかったあなたが俺なんかの胸で泣いた、あの日。あなたをなぐさめたくて、あなたを抱きしめたくて。けれど、俺の手はちっぽけすぎて、届かなかったんです。 ランボの硬く大きな手のひらが、綱吉の背中に熱を分け与えるように、ゆっくりと何度もシャツの上をすべる。あやすようなリズムに、おどろきでこわばった身体の筋肉が、またゆるゆると溶かされていった。 しあわせは、どこにある。果てのない旅だけど 笑いながら ゆこう。 ともとかなしみ かたるとき、あすのたのしさ かたるとき このくちびるに 勇気が。わいてくる ランボがまた、歌の一節を口にする。 「このうた、ね。あなたが俺に教えてくれたんですよ。俺が馬鹿やって打ちのめされていたときに、あなたが歌ってくれたんです」 そして、額にかぶさる綱吉の髪をそっとかきあげ、生えぎわにやわらかい口付けを落とした。 ―――このキスも、あなたが教えてくれた。優しい歌も、やさしい抱擁も、全部あなたが俺たちにくれた。 「だからね、今日はこの手で、あなたを抱きしめるために 戻ってきました」 やっと届いた、と敬愛を込めてランボは綱吉のスーツにしわを寄せ、すんなりとした腕の幅を狭くした。綱吉は言葉をなくし、ただ抱かれるランボの胸の温かさに、手のひらの優しさに溺れるように喘いだ。ランボはツナの頭に頬を寄せ、大切にひきよせる。 「みんなあなたの傍にいますよ、ボンゴレ。10年後のあなたもね、とってもかっこいいんだ」 そのふるい歌は、こう締められていた。ごらん、進みゆく道の すなぼこり。友の顔にも、僕の胸にも。 ―――けれど この靴音に勇気が、湧いてくる 子守唄のように歌い終えたランボは、きゅ、と綱吉を抱き締める腕を強くした。 腕の中で綱吉は、遠い10年後も変わらず、人の死に心を痛め、皆の幸せを願い続ける人間であろうと思った。たとえそれが己の立場に相応しくない、愚かな願いであろうとも。 ふわり、と空気がゆがむ音がした。微笑む気配と共に、自分を抱き締めていたランボの身体が陽炎のようにぶれる。ありがと、と呟いた綱吉は、一瞬後には腕の中に戻ってくるやさしい子供を、どうやって迎えてやろうかと考える。
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